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2005年2月

2005年2月26日 (土)

出雲路

現在は賀茂川の西で、北区と上京区の境一帯にあたるという。しかし「和名抄」によれば、愛宕(おたぎ)郡出雲郷は賀茂川の両岸にあったとされ、ここが奈良時代に遡り、出雲から移住してきた人々によってつくられた中心地だったことが知られている。京都市内で平安時代を遡る数少ない歴史の場所である。
その後出雲路は鞍馬街道(丹波街道)にとっての京都の入り口とされ、平安時代後半には、現在の上御霊神社あたりにあったと思われる出雲寺で京内でおこった疫病の御霊会がなされている。今宮神社が北の異界の地との境界線であったのと同じ役割だろう。
話が前後するが、出雲の人々がこの地を中心地とした理由のひとつが、そういったこの地の交通との関係だったとも思われ、その意味で今昔物語にでてくる「上津出雲寺」の「上津」という表現も、賀茂川の水運を示唆する可能性があって興味深い。
京都の市街が一条を越え、賀茂川を東遷する鎌倉時代以降は、京の北東の境界領域として見なされていたようで、戦場にもなり、幸神も祀られ、内蔵寮と御厨子所の率分関がおかれることになる。
今のイメージではあまりよくわからないけれども、さまざまな人々が行き来した、由緒正しい京の北の玄関口であったのだ。
そんな出雲路の橋を東に渡ってほどないところに、郷里の美味しいお酒とやさしい料理をだしてくれる店がある。
20年以上前に、店の暖簾にあった「信州」の名前にひかれて入った。とてもくつろげる不思議な空間で何度か楽しい時間をすごした。その後、仕事の関係でまったく離れてしまっていたが、今日久しぶりにO先生に連れられて暖簾をくぐった。変わらない顔と空間がそこにあり、なんの空隙も感じることなく、また楽しい時間をすごすことができた。「桐生」という名前である。
20年というものが長いのか短いのかわからなくなった
激しく流れていくものと、まったく変わらないものの共存
当たり前だけれども
やはり歴史の主人公は人間で、それが一番の魅力なのかと

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.02.21.39&lon=+135.46.12.22&fm=0

2005年2月22日 (火)

堺筋本町

おおざっぱに言うと、大阪は、今の大阪城から天王寺にのびる南北の尾根(上町台地)を中心に東西に広がっている。
もっとも、その昔、東側は池や川が多かったため、町の中心は尾根の西で、大坂は上町台地を背後においた西向きの港町だったことになる。神戸を西向きにして、六甲山を上町台地にしたイメージである。
そして神戸と同様に、大阪も上町台地と平行して幹道が走り、町をつくっている。
その一番高いところを走っている道が上町筋で、四天王寺の北から府警本部の交差点まで続く。両側に寺が多い。これは秀吉による。
上町筋から一段西に下がったところを走るのが谷町筋である。熊野街道がその一部を兼ねていたとも言われる由緒ある道である。
上町筋から谷町筋へは、下りると言う表現がぴったりの斜面であり、さらに谷町筋から西も同様な斜面で下る。それがだんだん平らになってきたと思ったら目の前に南北の道と川と高速道路が見える。これが松屋町筋と東横堀川と阪神高速道路である。松屋町筋は北へ行くと大阪天満宮の横を通って、あの有名な天神橋筋商店街につながる。東横堀川は秀吉の頃には惣構の西の境だっと言われる。
東横堀川を西へ渡ってまもなくの所を南北に走っているのが堺筋である。このあたりはすっかり平で、西の御堂筋の喧噪も近い。御堂筋は古代の海岸線だったとされるから、さしずめ堺筋あたりはその裏の砂丘か。
上町筋から御堂筋がおよそ等間隔にならんで大阪の骨格を形成していると考えもらって良いと思う。
この堺筋本町(地下鉄の駅の約100m北)の別の名称が「船場」である。江戸時代初めからの大阪の商業の中心地で、繊維業を代表するさまざまな業種の会社が建ち並ぶ。平らな空間にきれいな正方形街区がつくられ、あたかも平安京の街並みを思い浮かべ、近親感の湧くところである。しかしもちろんその起源は古代に遡るものではない。けれどもそのきっかけは秀吉にあったとされているからやはり由緒は深いものがある。彼は生涯さまざまな土木工事をおこなってきたが、この都市計画は、彼の最晩年の事業にあたる。
その数年前におきた慶長伏見の大地震をふまえた事業とも言われているが、その思想は京都の天正地割りに通じるものがあるとも思う。
難波京と長岡京と平安京、渡辺津と淀と伏見、大坂本願寺と山科本願寺と天竜寺と醍醐寺、大坂城と聚楽第。
4月から京田辺キャンパスでこのふたつの町の比較をテーマにしよう。

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+34.40.52.23&lon=+135.30.19.66&fm=0

2005年2月18日 (金)

学園橋

京田辺キャンパスへは坂を登って行く。近鉄線からもJR線からもあの有名な田辺坂を登ってキャンパスに行くことになる。これは、京田辺キャンパスが小高い丘の上にあることによる。キャンパスの中に起伏が多いのも、それが理由である。
なおこの丘は、西へいくと河内との境を区切る山地につながる。正確に言うと、河内と大和を区切る山地につながる。イメージしにくいけれども、京田辺キャンパスの西の山は、京都と大阪と奈良の三つの府県の境界が合わさったところなのである。
その山地帯を源流として、木津川に流れ込んでいる川が普賢寺川と呼ばれる川で、南門を出てさらに南に降りたところにその川を渡る「学園橋」が架けられている。
三山木方面へ帰る人以外ほとんど知られることの無い橋と川であるが、弥生時代以来、この川は南山城の中で最もたくさんの歴史を見てきた川である。とくに室町時代には、右手に見える京田辺キャンパスのサークルボックス周辺からTC-3にかけての斜面に多くの館が建ちならび、多くの人々が行き交っていた。
そんなことを思いながら学園橋に立って西を見ると、校舎と室町時代の館群がダブって見えて仕方がない。
その脇を柔道サークルの学生くん達が怪訝な顔をしながら走りすぎていった。

2005年2月16日 (水)

笠置

国道24号線を京都から奈良へ向かって走ると、いつも右側に見えるのが木津川である。古代・中世どころか明治まで南山城の交通の大動脈であった。
その木津川を、奈良に入る手前で渡る橋が泉大橋。日本書紀によれば「いどみ川」を語源と伝える。
笠置へはこの泉大橋の北で東へ曲がり、伊賀へ向かう道をいく。
温泉があって、夏には河原のキャンプでにぎわう。
車で行くイメージが強いが、JR線で行くと、大和路線快速の基点である加茂から一駅。ワンマンカーで本数は少ないが、けっして不便ではない。
後醍醐天皇で有名な笠置山は、その笠置駅からすぐに東の道をのぼる。あまり知られていないが、笠置山のフォトスポットのひつとがこの笠置駅である。
「今昔物語」によれば、笠置寺の創建は大友皇子に関わり、あの良弁も東大寺の造営にあたり、この山に籠もって秘宝をおこなったとされるため、確実に奈良時代には遡る。
平安時代には弥勒信仰の霊場として吉野金峯山と並ぶ名を馳せ、鎌倉時代には興福寺の学僧貞慶が隠遁して弥勒信仰の中心道場としての地位を確立する。
東大寺の再興をプロデュースしたあの重源もここを訪れている。
後醍醐が東大寺別当聖尋を頼んでこの地に遷幸したのは鎌倉時代の終わりで、その後の合戦についてはよく知られている通りである。
しかし笠置寺の歴史はそれだけでは終わらない。その天然の要害としての立地ゆえ、足利義晴の時代(寒梅館に室町殿を再建した16世紀前半)には、「笠置城」として要塞化している(山城守護代木沢長政方の城?)。
春になったらGPSとデジカメを持って、今も残る歴史を求めて山を歩こう。

2005年2月13日 (日)

将軍塚

東山三十六峰のひとつである華頂山の頂にある。
桓武が平安遷都に際して王城守護のために八尺の土人形に鉄の甲冑を着せ、弓矢を持たせて埋めたと伝える。天下の事変に際して鳴動したと言われるため、鳥海山の伝説にも似て、鎌倉のまわりの山の伝説とも似る。
華頂山には多くの古墳があったとも言われ、現在の大日堂にある2号墳は竪穴式石室と言われる。
京都盆地の古墳は西岡ばかり注目されているが、東山にももっと目を向けなければならない。
経塚もみられるようであり、平安京の葬送の地として、難波京の葬送の地であった生駒の西麓に通じる景観かもしれない。
その稜線上をすこし南にいったところに、京都市内を眺望できる展望台がある。デートスポットだと言う。
絶景である。
梅田の高層ビル群もみえる。嵯峨野も見える。わずかに船岡山も見える・と思う。
京都の勉強にうってつけだから、文化情報の遠足にしたいと思っています。

2005年2月11日 (金)

春のきざし

京田辺キャンパスから田辺坂を下りて、JR線をまたぐ橋の上は、南山城の盆地が一望できる一等地。
風の冷たい冬の間は、体を丸めて通り過ぎることが多いが、気候の良い時は、通り過ぎるのがもったいないくらいに気持ちが豊かになる場所である。
村や町で、神社やお寺が、その町を見下ろす小高い場所に建っている場合がある。参拝の帰りに石段の上から町を見渡すと、心が静まり豊かな気持ちが広がる。
地図を見ること。広い空間に身をおくこと。自分を相対化させてニュートラルな感性を活性化させる効能があるような。
この日は少し寒さが和らぎ、春のきざし。小学生の男の子は半袖だった。元気だ。
春は近い。
がんばれ受験生。

HC-20

7日から11日まで、日文研で考古学・歴史学・地理学・都市計画の研究者によるGISの国際研究集会がおこなわれた。
諸般の事情であまり参加できなかったが、後からその論文集を見て、参加できなかったことをとても残念に思うほどの興味深い内容の研究会だった。
共感する発表が多い中で、いくつか記憶に残った言葉があった。
「GISは異なった学問を結びつける強力な役割がある」
「目に見えるものだけでなく、目に見えないものもGISすることを考えよう」
全く新しい学問体系が生まれる予感を感じた。
文化情報学部がめざすものと共通するところが多いだろう。
11日のエクスカーションでこの研究集会の代表である宇野先生と昔話になったときに
京大の調査で見たHC-20による遺物の取り上げの情景を思い出した。
もう20年以上前だと思うが、当時の最新鋭であったエプソンのハンドヘルドコンピュータを使って、縄文時代の遺物を取り上げるシステムを京大が作り出して、現地説明会で公開していた。
ものすごい衝撃だった。
今思えば、あのときの衝撃が今の自分の原動力になったいるのかもしれない。
今回のGISの国際研究集会が次の時代の原動力になるように4月からがんばろう。

2005年2月 9日 (水)

古山陰道

京田辺キャンパスの田辺坂を下りて、JR同志社前に着く直前に、2つの信号機がある。
1つの信号機は府道木津八幡線にある信号機で、南西の角にコンビニエンスストアがある。
もう一つの信号機は、そのコンビニエンスストアのさらに西にあって、田辺坂と交差する南北の細い道に付けられている。
府道に比べたら通過する車の数はとても少ない。どうしてここに信号機が付けられたのだろうかと思ってしまうような道である。
しかし、ここはその昔、今で言うならば国道1号線のような道だったとしたらどうだろう。
平安遷都以前、奈良を起点として北へのびる道は、歌姫越から山城に入り、木津川左岸沿いに老ノ坂をめざしたと言う。木津川右岸の山背道に対して丹波道とも言われた。
実は、このコンビニエンスストアの西の小道は、この古代の幹道にあたると考えられているのである。
当然その後も重視され、その実績の結果、現在そのなごりが信号機となって存在をアピールしている。
現代のサインにも歴史を甦らせるヒントがある。
重要なのはそういったサインを読み取る力である。

2005年2月 8日 (火)

阿弖利為(あてるい)

数多い京都の歴史遺産の中で、最も好きな寺院のひとつが清水寺である。いや、清水である。清水の坂を登るあたりから、ゆっくり歩みを進めると、修学旅行でこの場所へ来た時の自分にタイムスリップし、なにかとても懐かしい気持ちになる。京都以外を故郷とするある年代以上の人間がもつ、京都の原体験がここを特殊な土地にさせているのだろうか。
しかしそんなとても有名な清水寺の歴史は実はあまりよくわかっていない。夢告によって導かれた賢心と坂上田村麻呂の助力によるとされているが、起源の詳細は伝承に守られており、平安京の成立前に遡る可能性の高いきわめて古い寺院であるということ以外わからないことが多い。
あらためて調べてみたい。
その清水の舞台を過ぎ、音羽滝からもどる途中に「阿弖利為」の碑が建てられている。平安時代初期の東北を代表する英雄である。
やはりあまり注目されることのない、平安時代初期の東北拡大政策によって、坂上田村麻呂と阿弖利為が交錯し、ここにその碑が建てられた。
長岡と平安の二つの都をつくり、さらに東北への大規模な遠征をおこなった。桓武の時代は激動の時代だった。桓武は休む暇もなく動き回っていたことになる。
いったい彼はなにをしたかったのだろう。
清水寺はそんな桓武のもう一つの貌を考えさせてくれる。

2005年2月 7日 (月)

二条城

二条城と聞くと、御池通りと堀川通りの北西にあるあの二条城が思い浮かぶ。障壁画のデザインが地下鉄を飾るほどの有名な歴史遺産である。
しかし京都にはもうひとつ二条城がある。信長が義昭のためにつくったと言われている館がそれで、現在の烏丸丸太町の北西にあったと言われており、地下鉄烏丸線の建設に伴う発掘調査でその石垣が見つかったとされている。
今、その地下鉄を徳川の二条城が飾る。石垣は。
京都は貴族の都市であり、雅なイメージが先行している。
徳川の二条城もそのイメージをそこなうことなく、京都に溶け込んでいる。
しかしそれはあくまで二の丸だけであったことに初めて気づいた。
本丸の外観は見事な城であった。
その空間はまったく京都と異なった、全国各地に見られる武家の空間だった。
しかし周りを二の丸の空間に囲まれ、京都の世界からは直接見ることができない。
家康はこの空間を作ることで自らのアイデンティティーを確保したのだろうか。

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