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2005年3月

2005年3月25日 (金)

京都タワー

今日は夢告館の研究室の引っ越しが一段落したので
ちょうどメキシコ一人旅から帰った2回生のNくんが戻ってきたこともあり、発掘調査整理室の学生君達を呼んでちょっとだけお披露目(というほどでもないが)
夢告館は7階建ての東西に長い建物で、その真ん中を廊下がはしり、廊下の南と北に部屋が並んでいる
廊下の南の部屋は各教員の研究室で(絵日記を見てください)、大抵本と書類が詰まっている。今はまだ整頓されているが、これが一瞬の風景にすぎないことは多くの歴史が証明している
廊下の北の部屋は共同研究室(実験・実習室)になっていて、各種機材や教材と一緒に、学生君達が勉強やそのほかの様々なことで時間を過ごす空間になっている
今はまだ殺風景
その部屋で学生君達と話をしていたら、一番先輩のNくんが「京都タワーが見えます」と言い出した。
(画像左端の白く細いもの)
驚いて北側の窓に駆け寄ると、窓からやや東方向の遠くに、それらしいものが微かに見える。しかし、遠いし、方向が違うのではないかと思いながら、デジタルマップを開いて調べてみたら
この建物は、実は軸がやや東に向いているため、東と思っていた方向が真北に近かったことがわかり、一同ほおー
やはり一番先輩のIくんが「右手の山の稜線に見える突起が伏見城ですよ」と指さす
(画像右端の突起)
なんと!文化情報学部の夢告館は「京都タワー=京都が見える建物」だったのだ(こりゃすごい)
二人とも歴史地理を専攻して大学院に進むことが決まっている。さすがに良い見方をしている。
森先生が紹介しているように、足利健亮先生が平安京の南北軸について、船岡山と京田辺の神南備山を結んだ線という見解を出され、授業などで船岡山へ行くたびに、いつも遙か南の神南備山を探しているけれど、まさか夢告館からその検証ができるとは思わなかった。
その神南備山は京田辺キャンパスのすぐ北西にあたる山で、そのすぐ西は河内
やはり京田辺キャンパスのある普賢寺谷は南山城でも最も注目すべき場所だった
それを実感させてくれた彼らに感謝、脱帽
4月になったら、彼らの後輩達がこの部屋でどんな発見をしてくれるのだろうか。彼らと共にワイワイと過ごしていきたい。
帰る途中、松任谷由実の「手のひらの東京タワー」を想い出す
(夢告館5階の共同研究室から)

2005年3月23日 (水)

名和長年

日本の歴史にとって非常に大きな転換期となった南北朝時代。その時代の扉を開いたのが後醍醐天皇。彼は嵯峨の大覚寺を本拠とした亀山院の一統で、これに対抗したのが同志社大学新町キャンパスの北に置かれた後深草院や伏見天皇に代表される持明院の一統。
彼は鎌倉幕府を倒そうと様々な計画をたてるが、元弘の乱による笠置の陥落で捕らえられ、隠岐に流される。しかし元寇と蝦夷の反乱などを原因とする反幕府勢力の高まりの中、元弘3年(1333)閏2月24日に島後の国分寺を脱出し、月末には伯耆大坂浜に上陸、大山の北峰にあたる赤碕町の船上山を拠点として朝敵追討の宣旨を諸国に発する。
これを受け、足利高氏らが六波羅と鎌倉をおとし、鎌倉時代が幕を閉じる。南北朝時代の開幕である。
このとき伯耆にあって全国に号令を発する後醍醐を護り新しい時代の扉を開いたのが、この公園に祀られている名和長年である。彼が後醍醐について京に入り、建武政権の要職を務めるも、足利の攻撃によってその生涯を終えた場所との伝説をもつ。
一条大宮を下がった静かな住宅街に紛れてあまり目立たないが、実は歴史を変えた立役者に関係する重要な場所なのである。
彼の詳細はよくわかっていない。大山とも関係をもち多くの家来を従えていた国人または在地領主といった見方が一般的だが、それと同時に彼の旗印が帆掛け船であったことから、海上交通を利用した商業行為にも秀でていたとの見方がある。去年山陰を回ったとき、平地の少ない風景を見ながら、そのイメージが強く実感された。その時、旗印の実物を探したが見つけることができなかった。
まさかここでそのモニュメントに出会えるとは思っておらず、雨が激しく降っていたが、ためらうことなく(水に弱い)デジカメを取り出した。
名和町には長年にちなむ様々な遺跡が残されているという。去年は予定がつかずに通っただけだったが、次はゆっくりまわってみたい。

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.31.67&lon=+135.44.56.41&fm=0

2005年3月22日 (火)

3月って・・あるいは雨の玉造口

2日が大阪城天守閣、3日が奈文研、4日が京都市歴史資料館、5日がローム記念館プロジェクトの最終報告会、6日が教育開発センターのFDフォーラム、8日に沖縄県の比嘉さんが来て、9日がエックス線作業主任者の試験、10日が学内の委員会、11日が現代GPの歴史部会研究会、12日が飛鳥京の説明会でついでに葛城へ行って雪に降られ、13日が兵庫県立考古博物館の福原をめぐるシンポジウム、14日が現代GPの定例会議、16日が上京区の委員会とリエゾンのけいはんな交流会、17日がローム記念館大賞式のリハーサル、18日がローム記念館プロジェクトの大賞表彰式、19~21日が研究室の引っ越しの図書整理、22日が大阪城公園のデジタルガイドブックの実験と清文堂との打ち合わせ、23日が豊楽殿の3D撮影と名和長年の石碑の撮影、24日が現代GPのフォーラム、25日が学内の会議、27日がO先生のお祝い、28日が笠置山?、29日が寒梅館のリエゾンとN先生とPの打ち合わせとMさんと打ち合わせと整理室のさよならパーティー、30日が上京区の委員会、31日がフレッシュマンキャンプの打ち合わせとロームプロジェクトの会議

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+34.41.03.43&lon=+135.31.45.09&fm=0

2005年3月17日 (木)

新時代開幕

明日は、同志社ローム記念館プロジェクト大賞の表彰式。1年余にわたりおこなわれてきた、文系理系を越えた学生くんたちの自由な発想と努力と社会経験の結晶が表彰されます。初年度のプロジェクトだったので皆初体験のことばかり。苦労も沢山したけれど、得たものも多かったと思います。次年度はこの経験と成果をふまえて一層元気なプロジェクトが生まれてくることを期待します。そしてそんなプロジェクトの裏方でがんばってきたローム記念館コアチームのみんなもご苦労様でした。明日の表彰式はそのひとつの区切りであり勲章です。大いに楽しみましょう。
そして同じ日に香柏館から文化情報学部の夢告館への引っ越しが完了します。ここで、やはり文系理系を越えた新時代を担う学生君達の入学準備を本格化します。
今日のニュースによれば、2007年度に早稲田大学も第1・第2文学部を文学部と文化構想学部(仮称)に改変し、工学部も3つに分けてそのうちのひとつの名称が創造理工学部だそうです。上智大学も2005年度から総合人間科学部を開設するそうです。
文化情報学部の開設をきっかけしたように、従来の枠組みを超えた新しい価値観の創造が始まっています。文化情報学部の学生君達は、そんな大きな動きの一番先頭にいます。初体験のことが多いから苦労もあるとは思いますが、その分だけ得るものも大きいです。
皆さんの入学をわくわくしながら待っています。では。

2005年3月13日 (日)

葛城

その帰りに葛城に寄る。岡寺から石舞台を過ぎ、高松塚の脇から国道に出て高取まで南下してから進路を西にとる。
蘇我川を渡ると正面に葛城の山塊が飛び込んでくる。
ひたすら圧巻である。
葛城川によって形成された段丘が緩やかな山麓を形成し、その中腹には浸食によってつくりだされた無数の細い稜線がのびる。
一瞬、郷里の伊那谷の風景が交錯する。
「ああ、ここなら大きな勢力が拠点にする」と実感
松原市に推定されている5世紀の反正天皇の丹比柴籬宮に続く国道309号線を一気に中腹まで上がり南に曲がる。
思えば大阪時代はこの国道309号線沿いで沢山発掘をした。
国道309号線が阪和道と交差する場所が5世紀の黒姫山古墳で、12世紀の河内鋳物師の本拠地。太井遺跡では7世紀の新羅土器の出た集落を掘った。南へ下れば7世紀の謎の大集落の平尾遺跡。狭山の丘陵を越えて富田林に入れば新家と錦織の遺跡がならぶ。
国道309号線もまた歴史の道である。
5世紀の壕で囲まれた大型建物がみつかった極楽寺ヒビキ遺跡は、この国道309号線を奈良側へ下りた中腹を南へ約2キロいったあたりにある。
さらに南へいけば役小角に由来する高鴨。
その山側には高天彦神社。すっかり神話の世界に紛れ込んだ気分
遺跡は、葛城山塊の南を鎮める金剛山の山頂を軸にして、先の高天彦神社-極楽寺-住吉神社(ここに住吉神社があるのがまた面白い)を経て国道24号線に達する線上にあたる。さらにこの線を下ると宮山古墳がある。
宮山古墳はともかく、拠点を示す遺跡がでないはずのない場所である。あの南郷遺跡はこの遺跡のすぐ下という。
弥生時代の地域の中心と思われる遺跡は沢山みつかっている。(邪馬台国以外)
けれども古墳時代の地域の中心と思われる遺跡は実はよくわかっていない。
7世紀以降の地域の中心と言われる遺跡のモデルは宮都研究に押されて見えない。
8世紀以降は官衙形式で標準化されているのだろうと皆思っている。
鎌倉時代の地域の中心と言われる遺跡の研究も遅れている。
前後の時代を無視はできないが、前後の時代の形の先入観にとらわれず、実態とその周辺にもっと目と気を配る必要がある。それが遺跡学の原点のはず。

極楽寺ヒビキ遺跡の説明会に行けなかったのがとても残念。けれども森先生の遺跡の見方はこんな風にして鍛えることができる。

[葛城住吉神社のGPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+34.25.32.58&lon=+135.42.45.80&fm=0

2005年3月12日 (土)

飛鳥京

今日は飛鳥京の遺跡の説明会。翌日の準備に時間がとられてすっかり遅くなってから見学に行く。
八木の街を東に回避して明日香村に入る頃から雪。
村内の細い道は苦手なので、飛鳥資料館から石舞台へ入るルートを進む。地図を見ながら、このあたりで降りて・・・と思っていたら「万葉博物館」の標識と大きな入り口。
これがあの時の・・・と複雑な思いで中に入り車を停め、飛鳥京へ向かう。
授業では良く言うけれども、遺跡は必ず地面の下にあるわけではない。飛鳥京の遺跡はまさにその通りに近く、わずか数十センチで7世紀の石敷きの面に達する。つい昨日まで使っていたような生々しい石敷きである。すごい。
飛鳥池遺跡もそうだったが、7世紀の人たちは、とても石が好きだった、というか、あたかもコンクリートに覆われ、定規で引いたような線が交錯する風景が、さらに言い換えれば、緑と木々に囲まれたいわゆる日本的な風景とは違った風景がとても好きだったと思った。
もちろんその源流は海の向こう。

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