« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »

2005年4月

2005年4月30日 (土)

四条道場

中世の京都には七条道場金光寺、六条道場歓喜交寺、市屋道場金光寺、霊山道場正法寺などの時宗道場があったが、四条大路北の東京極大路東にも金蓮寺という道場があった
現在の中之町南東と御旅町北にあたる
1309年に時宗第二祖の他阿真教の弟子の浄阿真観がとどまった四条京極の祇陀林寺で後伏見上皇の皇后の安産を祈り、無事光厳天皇が産まれたことで1311年に金蓮寺と称して道場を建立
ここでも北朝系
義満も保護し、七条道場と対立しながら繁栄
義輝はここで祇園会を見物、洛中洛外図にも描かれる
天明8年の大火で類焼した後次第に縮小し、明治になって繁華街となり、大正15年に北区鷹峯に移転
一遍上人絵伝をもつ
写真の四条新京極西にある染殿地蔵はもと、四条道場金蓮寺内にあったという
本尊として安置されている裸形の地蔵は弘法大師の作と伝える
修学旅行生はぜひ見て感じてほしいところ
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.11.60&lon=+135.46.01.44&fm=1

2005年4月29日 (金)

迷子道しるべ

誓願寺門前に建つ石碑
解説によれば
「賢問子行状記」
後深草院に仕える院の武士の遺志をつぎ
その妻が、父親の孝養のために
やむなく仁和寺街道に1本の卒塔婆を建てて子を捨てる
子は比叡山の大徳に拾われ僧となり
父母に会いたい気持ちに耐えかね誓願寺に参詣し
母の歌が縁で再会できたという
正面に「迷子みちしるべ」、右に「教し由る方」、左に「さがす方」とある
明治10年に建立され、当時は落とし物、迷子などの時
落とした人は「さがす方」へひろった人は「教える方」へ
紙に書いて張り出しと言う

2005年4月28日 (木)

誓願寺

といえば、上杉本洛中洛外図に描かれている上京小川の有名な寺院
洛中洛外図では北小路小川の北西あたりで、1209年には行願寺と共に火災にあっているので、平安時代末から1550年頃までは今の白峯神社の東となりあたりにあったことになる
また1474年には、新町キャンパスの南東あたりにあった白雲構で誓願寺の梵鐘が鋳られた記事も有名
縁起によれば開創は天智四年の奈良で、平安遷都に際して相楽郡を経て深草、そして上京に移ったと伝える
醍醐天皇、清少納言、和泉式部が参詣し、「元亨釈書」にも載る。法然も一遍も参詣し、後亀山の皇子がこの寺で出家、室町将軍も重要視
天正19年に秀吉によって現在の六角新京極に移転
洛中洛外図のイメージがつよく、平安時代以来どころか奈良時代に起源をもつ寺院とは知らなかった。不覚
であるならば、洛中洛外図の小川の風景は鎌倉時代まで遡るのであろうか
鎌倉時代の京都はわからないことが多すぎる
なお、あまり知られていないがとても重要な宝篋印塔が和泉式部の墓と伝えられている誠心院は、かつて誓願寺の塔頭だったとも言われている。

http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.26.51&lon=+135.46.01.98&fm=0

2005年4月24日 (日)

誕生寺

伏見区久我に道元の誕生寺がある。
鳥羽離宮のすぐ西である。
鳥羽離宮の南殿のすぐ南を伏見から向日へ抜ける東西の道が走っているが
その道を鳥羽離宮から西へ行くと、すぐ鴨川を渡る細い橋があるが(この鴨川の流路は江戸時代以降なので、鳥羽離宮の時代はこの橋は無かったことになる)、その橋を渡るとすぐに桂川。この桂川を渡る橋が久我橋で、この橋を渡ると有名な久我荘。道元の誕生寺はこの久我橋を渡ったすぐのところにある。
授業では鳥羽離宮を京の港町として強調して話をしており、鳥羽離宮も歩いているが、ここまでは足をのばしていなかった。
鳥羽離宮と桂川(鴨川合流点)と久我荘のあまりの近さにおどろく迂闊さ。
草津湊があってあたりまえの環境、鳥羽離宮が京の港町であってあたりまえの環境である。そして道元が生まれるにふさわしい場所
そこに旧道がはしり、国内で最も古い様式と言われる宝篋印塔があって、そして道元が生まれた。バラバラに見ていたらわからない歴史が、現地を見て歩くことでひとつにつながる。
久我東遺跡という区画溝をもった集落が以前に調査されている。7月に出る本でその重要性を指摘しておいたが、予感があったのだろうか。
またひとつ学ぶことができた。先生ありがとうございました。
+34.56.41.90&lon=+135.44.02.25&fm=0

2005年4月23日 (土)

大都会

烏丸五条の西にある尚徳中学校の跡地でおこなわれた発掘調査の一般公開に行ってきました
埋甕の抜き取り穴が大量に見つかったそうで
10時から始まっていたけれど、着いたのは10時半くらい
金曜日に1回生の何人かに紹介をしておいたら
先輩二人をさそって4人が初めての説明会を満喫中
エライ!
遺物は魚住捏鉢(13世紀前半)、常滑甕と備前甕(14世紀)、瀬戸美濃(17世紀初め)および鋳型・坩堝(江戸時代)
遺構は楊梅(やまもも)小路と町尻小路と、楊梅小路に面して並ぶ埋甕の抜き取り穴群。その数200以上。実に壮観
記録によれば、この場所の近くに酒屋があったそうで
同様な遺構は一乗谷や宇治や敏満寺や大坂城下町や根来寺や太子町で知っているけれど
さすが大都会 ケタが違う
鎌倉時代、京都の南の中心は七条周辺でした
南北朝以降、六条以南に墓地群ができるので
このあたりは京の南端
この状態を3Dデータにして、常滑や備前の甕のVRを組み合わせたらもっと壮観だろうなあと思いつつ
全ての遺構に位置情報と時間情報を付けたデータベースを作成して、甕の付着物も分析して遺跡GISにかければ、ダイナミックな中世京都の実態がわかるだろうなあと思いつつ
七条のMドへ
1回生のみんな、どうでしたか?

2005年4月22日 (金)

東福寺

もちろん紅葉の名所であるが、歴史遺産的には
博多の承天寺との関係や韓国の新安沖の沈船や「太平御覧」などが重要
東司で埋甕の見られることも注目
それから石臼と水車の描かれた「大宋諸山図」も
石臼の起源は7世紀前半の曇徴の碾磑(てんがい)にさかのぼり、大宰府には8世紀以前とされる巨大な石臼がある(ただしこれは工業用?)。あまり知られてないが唐招提寺にもある。が、これらは極めてまれな例で、遺跡から普通に石臼がみつかるのは、室町時代後半になってから。
また梶原氏を出自とする無住が東福寺2世となったとき、「雑談集」の中で「夏は麦飯粥なとにて命をつきはべり。愚老病体万事不階の中に、老子の言える禍いの中福にて、麦飯と粥を愛し侍る故、分の果報なり」と粥と麦飯を好んだことを強調している。
原田信男1999「中世村落における食生活の様相」『日本の食文化』2(雄山閣)
あまり情報の無い鎌倉時代の京都を知る上できわめて重要

2005年4月19日 (火)

舟橋

堀川の氾濫の時に船を繋いだところからこの名前が付いたと言われている

2005年4月10日 (日)

京都御所と室町殿

最高のお花見日和となった9日、観光客と桜が満開の京都御所一般公開の遠足を文化情報学部の1回生を中心に実施しました。13時に今出川キャンパスの正門に集合して、平安京と京都御所の簡単なレクチャーをした後、いよいよ御所へ。今出川御門から近衛邸の跡を抜け、京都御所の宜秋門へ。新御車寄から月華門をすぎて建礼門から紫宸殿を見ると、あまりに抽象的だけれども「京都」っていうものに対するなんともいえない感情がわき上がってくる。
紫宸殿も前に立つ。これまで何度が来たけれど、階の近くまで寄れたのは初めてかも。高御座を感慨深く見る。
10世紀頃までは梅だっと言われている左近の桜、右近の橘を眺めながら、教科書にも登場する小御所と御学問所と御常御殿をまわる。
今年、実は一番見てみたかったのがこの御内庭と御池庭の風景。
室町殿跡の寒梅館の発掘をしていて、室町殿の敷地構造について考えていく中、足利義政が義教の代の儀式を元に描いた図から類推できるイメージが現在の京都御所の建物配置に重なっていて、室町殿の再現に参考にならないものかと。
中村利則さんの復元図も頭の中に浮かび上がらせながら、この辺に会所を設けて、ここに景石を置いてなどなどと思いを馳せる。
これまで金閣を前提に大学会館の調査で課題に残した土坑170という大きな穴と池の関係をずっと考えていたけれど、多様な池の見方を知らないままきていたので、この池がモデルになるのならば、設計図面はあるから、現実性の高いVRでシミュレーションができるかも・・と
人波に押されながら考える
いつも見慣れているものが全く違ったものに見える瞬間の
ドキドキ感
これが歴史家の醍醐味だろうか

« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »