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2005年6月19日 (日)

三川合流

嵯峨天皇の皇后に壇林皇后と呼ばれた、橘嘉智子がいる。天皇が亡くなったあと、現在の野々宮から天竜寺におよぶ一帯に、壇林寺という寺を営んだと言うが、現在その面影はほとんどない。彼女の父は橘清友という橘諸兄の孫で、母は枚方にあった田口氏の娘と伝えられる。諸兄は光明皇后の異父兄で、栗隈王の子孫を称する美努王の子。藤原仲麻呂との勢力争いに敗れるが、聖武天皇のもとで左大臣として政界を主導した人物。本拠の伝承地は、木津川を挟んだ京田辺キャンパスの対岸の井手町にある。なお栗隈王は現在の城陽を中心とした一帯との関係が知られている。南山城にゆかりある人物と言える。清友は、この井手町で一時の勢力を失った橘氏を維持していたと思われる。
田口氏は大和国高市郡田口を出自とするとも言われ、その後現在の枚方に本拠を移す。その理由はわからないが、7世紀を中心とする時期に、大和の多くの氏族が競って南山城の各地に移動しているので、その一環であろうか。当時清友と田口との間には巨椋池があった。清友は巨椋池の東岸をおさえ、田口氏はその西をおさえる位置にあった。当然接触はあっただろう。橘嘉智子は、そんな巨椋池の覇者達が生んだ人物であった。嵯峨天皇は巨椋池の覇者を親戚にもっていたことになる。
よく知られているように、嵯峨天皇の父である桓武天皇もまた巨椋池に縁がある。正確に言うと、巨椋池の西側地域である。彼の母は渡来系の高野新笠で、枚方にあった百済王(くだらのこにきし)氏を自らの外戚として優遇した。彼は巨椋池を取り込むかたちで長岡京をつくった。嵯峨天皇が枚方にあった田口の娘と出会うのになんの不思議も無い。
平安京を開き、平安京を固めた親子は、共に巨椋池の西地区に大きなこだわりがあったと言える。
山崎は、古代以来、交通の要衝であったと、人は言う。
行基は神亀2年(725)に橋を架けたとされ、天平3年(731)には、その管理のために四十九院のひとつとして山崎院をおいたと言われる。また延暦3年(784)には長岡京造営にともなって架橋工事が行われたとも伝わる。桂・宇治・木津川が合流して淀川となる地点であり、かつ山陽道が隣接する水陸交通の要衝であるゆえと説明されている。


山崎橋[GPS情報URL]
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宝積寺
[GPS情報URL]
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