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2005年7月

2005年7月31日 (日)

食った記録

森浩一先生の喜寿にあわせて新刊が出た。
『森浩一 食った記録』という 森先生らしい愉快なタイトルである(編集グループ[SURE])
タイトルは痛快であるが、内容は日本の文化を彩っている食について独自の視点で読み直しに挑んだ刺激的なもの
しかも実体験の記録を元にしてその歴史と文化についてのエピソードが繰り広げられているため臨場感が強い
やはりめざす姿がここにある
かつて森先生と食事を一緒にした人は皆知っているが、先生は21年間にわたり毎日の食材を記録にとっていた
それは研究会の後の酒宴の場でも例外ではなく、そんなときはしばしば割り箸の袋にメモをされていた
講演会における巧みな話術や、はっとさせる発想や視点からは、想像しがたい徹底した情報取得である
何度もその様子を見ながら、何度もそれに挑戦しようと思いながらいつも挫折している
この本には、その集成データが収録されている、それだけとってみても、勘の鋭い人はこの本の持つ意味がわかるだろう
いつも豊かな創造力と斬新な発想を促しながら、その背景に厳密な情報整理を求めた徹底したデータ主義である
文化情報の学生はこれを見てどんな思考を巡らせるだろうか。来年の授業で課題にしたい

名誉教授になって後、事務所を訪問すると、いつもなにかの調べ物をしており、いつも新しい発見を教えていただいている
これまで数多く発表されていた森先生のストーリーに説得力と臨場感があるのは、この徹底したデータ主義によるのである
ゆえ、森先生のこれまでの著作は、歴史遺産に関する実に膨大なデータベースになっており
それをたどれば、戦後の(学史を含めれば戦前からの)考古学と古代史を深く広く学ぶことができることになる
文化情報学部における考古学・歴史情報系のテーマとして早急に取り組まなければならない研究である
もちろん位置情報は必須

同書に、森先生が同志社大学の名誉教授になって以降の著作リストが載せられている。
自らをふりかえり焦る焦る

1999年10月『食の体験文化史』(中公文庫)、文庫化
2000年5月「仁徳陵から大山古墳へ-私の考古学人生と陵墓」『日本の古墳と天皇陵』(同生社)に所収
2000年8月『巨大古墳-治水王と天皇陵』(講談社学術文庫)[巨大古墳の世紀]を改題
2000年9月『続 食の体験文化史』(中公文庫)、文庫化
2000年10月『僕が歩いた古代史の道』(角川ソフィア文庫)、随筆集をまとめた。
2000年12月『記紀の考古学』(朝日新聞社)
2001年1月「三輪と和泉」『大美和』創刊100号記念特集号に所収。
2001年4月『関東学をひらく』(朝日新聞社)
2001年6月『語っておきたい古代史』(新潮文庫)[倭人・クマソ・天皇]を改題
2001年7月「唐古・鍵遺跡の考古学-研究の歩みと展望」『唐古・鍵遺跡の考古学』(学生社)に所収、
2001年11月「東海学の創造をめざして」第8回春日井シンポジウム『東海学の創造をめざして』(五月書房)に所収。
2002年7月『地域学のすすめ-考古学からの提言』(岩波新書)
2002年8月『僕と歩こう考古学の旅』(小学館)
2002年10月『わが青春の考古学』[僕は考古学に鍛えられた]を改題(新潮文庫)[『僕は考古学に鍛えられた』を改題して文庫化
2002年11月「東海学の整理と今後の展望」第9回春日井シンポジウム『東海学が歴史を変える』(五月書房)に所収
2003年2月『僕の古代史発掘』(角川選書)
2003年3月「失われた時を求めて-百舌鳥大塚山古墳の調査を回顧して」『堺市博物館館報』第22号に所収
2003年11月『魂の考古学-時のすぎゆくままに』(五月書房)
2004年2月『山野河海の列島史』(朝日選書)
2004年3月「百舌鳥城ノ山古墳の調査」『堺市博物館館報』第23号に所収
2004年9月『改題 日本人の考古学』佐原真さんとの対談(学生社)
2004年9月「なぜ、いま日本の古代か」大林太良、司馬遼太郎さんとの対談。『日本人の原型を探る』(中公文庫)に所収。
2004年10月『京都学ことはじめ 森浩一12のお勉強』寒川旭・中川要之助・寺川眞知夫・門田誠一・森博達・浅見和彦・竹居明男・高野昌司・小泉武夫・石野博信・山田慶兒・池内紀さんらと(編集グループSURE)
2004年10月「日本文化の源流に挑む」金達寿・司馬遼太郎・岡本太郎さんとの対談『対談集 岡本太郎 発言!』(二玄社)に所収
2004年11月「地域学と司馬遼太郎の『街道をゆく』第11回春日井シンポジウム『地域学から歴史を読む』(大巧社)に所収
2004年12月『海から知る考古学入門-古代人との対話』(角川oneテーマ21)
2005年2月『記紀の考古学』(朝日文庫)文庫化
2005年3月『ぼくの考古古代学』(NHK出版)
2005年4月『森浩一の語る日本の古代』ビデオ・DVD全12巻(ユーキャン出版局)
2005年5月『この国のすがたと歴史』網野善彦さんとの対談(朝日選書)[『この国のすがたに歴史を読む』を改題]

2005年7月29日 (金)

「追いやらうもの」から「護るもの」へ

27日は京都と豊中を往還した
豊中の街の地図を見ながら不思議な感覚を覚えて、これが何によるものかずっと考えていて、夜になって関東の風景が頭に浮かんできた
その話も書きたいけれどそれはまた後日

さて、祇園祭の続き・・・・
平安時代後期の院政期、この祇園御霊会に大きな意識の変化が現れる。
それが神輿渡御と御旅所の成立と言われる。
現在、巡行が終わった後におこなわれているこの儀式は、神の乗った神輿が洛中の御旅所へやってきて、洛中の人々の芸能などの手向けを受けて帰って行くパフォーマンスである。
正確な表現に従えば、祇園社で初めて御霊会がおこなわれたのは天禄3年(972)の記録になるというが
神輿迎えを6月7日にして、14日にもどる御霊会がおこなわれるのは永長元年(1096)の記事にみられる
ただし、長保元年(999)に芸能民の无骨法師(頼信または仁安)が大嘗会の標山(しめやま)に似たものを社頭に渡し、藤原道長がこの法師を捕縛しようとしたが逃げられたというエピソードがある
また長和2年(1013)の「小右記」によれば、「今日祇園御霊会神輿の後に散楽空車有り」とみえ
散楽空車という屋根の無い車の上に芸能民が乗ってパフォーマンスするという現在の山の起源とも言える表現がある

祇園社は元々疫病信仰なので、疫病を乗せる神輿をつくって、その前で神を喜ばせるさまざまな儀式をおこなって、神が満足したと見るとどこかの水辺か、船岡山のように難波の海に流すのが本来であった
ところが御旅所をつくるということは、神をそこにとどめて自分たちを護ってもらうということになるので
そこには祇園社をめぐる大きな意識の変化があったものと、脇田先生は言う
本来は「追いやらうもの」として、河東へ追いやっていた疫病と、市中に安置したいという一般的な信仰心の妥結点が、1年に1度おこなわれるこの儀式だと言うのである
こういったことを起こす際、必ずそれを動かしたプロデューサーが存在する
意識の変化になるのか、あるいは意識の変改を促すしかけなのか
少なくとも11世紀後半の洛中の人々にとってその中に祇園の御旅所をつくることは、作らないより自分たちにとって得な行為だったのである
それはなにか
それを創り出した人々が「助正」と呼ばれる地域の有力者であったという。

2005年7月27日 (水)

祇園祭りにこだわる

まもなく今年の祇園祭りが幕を閉じる
久しぶりに御輿洗いから山建て、巡行と見て、この祭りについて多くを学んだ
わかっていたつもりのことでも、実際に見て歩いてみると、いかに本に書いてあることだけじゃない歴史が多いかがわかり、またいかに本を読み込んでいないかも思い知らされる。けれどもこれが生きた歴史の研究・勉強というもの。
そこでしばらくは脇田晴子先生の中世京都と祇園祭に導かれながら、この祭りにこだわってみたいと思う。

最初に「祇園」の由来であるが、八坂神社は、藤原基経(836~891)が天神の霊威を感じて居宅を寄進して観慶寺(かんぎょうじ)を建てたことに始まるとされるが、これがインドで須達(しゅだつ)長者が、釈迦に対して祇園精舎を寄進した行為と類似していることによると言われている。
創建は、「二十二社註式」という神道書にひく承平5年(935)の太政官符によれば、観慶寺(祇園寺)を定額寺とする記録で、山城国愛宕郡八坂郷の一町に檜皮葺の三間堂と三間礼堂および五間の神殿と五間の礼堂があって、円如が貞観年間に建立したまたは、貞観18年(876)に円如が八坂に移してきたものを、その後、藤原基経が再築したといわれ、別に「東大寺雑集録」によれば、承平4年(934)に興福寺の円如が春日水屋を移して建立したとも伝わっている。その後天延2年(974)には観慶寺感心院が天台の別院として延暦寺末となるので、それまでは興福寺末であったこともうなづける。

御霊会との関係であるが、貞観5年(863)に、藤原基経が率先して御霊会をおこなっているが、延喜20年(920)閏6月23日には「咳病を除かんために、弊帛・走馬を祇園に奉るべきの状」「貞信公記」として祇園が登場し、延長4年(926)6月26日には「祇園天神堂を供養す、修行僧建立す」「日本紀略」となる。そして長保元年(999)に无骨(むこつ)法師が大嘗会の標山(しめやま)のようなものを引いている。
なお、観慶寺に置かれていたのは薬師像と観音像で、神殿には天神・婆利女・八王子が祀られていた。
祇園社に関係する事由として面白いのはその地理的な変遷である。同志社大学京田辺キャンパスの位置する普賢寺谷の西奥は天王と呼ばれており、祇園社との関係をもつ。また、清盛が遷都を企画した神戸の福原にも天王川があり、やはり祇園社との関係を伝えている。戦国時代の「二十二社註式」では最初に明石浦に垂迹して、広峰から北白川の東光寺を経て元慶年間(877~885)に現在の地に移ったと記しており、その真偽はともかく、移動の好きな神様だったと言える。
いずれにしても9世紀に遡る起源をもち、そこに「とつくに」(外国)から入ってくる咳病の神として存在していたということになる。

村山修一氏によれば、もとインドの土俗信仰の対象だった牛頭天王が、陰陽道と結びつき、宿曜道の星宿神として南部系密教の間に伝わり、新しい疫神の装いをもって洛東な進出した
特定の冤罪者と結びつかない新しい方式の御霊神
朝鮮半島に牛頭天王と蘇民将来説話があって、インドには牛頭山やそれに関係する起源説、ラマ教の畏怖させる像が牛頭で、インドのプリではラタ ヤートラーという山車の巡行があると言う。

2005年7月26日 (火)

京都どまんなか 未来へ伝える上京知恵袋プロジェクト

平成17年度大学地域連携モデル創成支援事業として
「京都どまんなか-未来へ伝える上京知恵袋プロジェクト」が
京都市から認定されました。

1000年を超える都、平安京と平安時代の文化によって日本の歴史と文化のふるさとと呼ばれている古都、京都
しかし多くの人が訪れる京都の文化遺産の中で、金閣・銀閣は室町時代の建立であり、二条城は江戸時代、下鴨神社や上賀茂神社や清水寺は、逆に平安遷都以前にさかのぼるモニュメントの範疇に入る
実は、平安京と平安文化に代表される古都、京都で そのモニュメントに触れるのは至難の業なのである

それでは、本来の古都・京都の顔である平安時代・平安京の京都はどこにあるのかというと
京都御苑の南の通り(丸太町通り)を西へ行って、堀川通りを過ぎ、少し屈曲しながら行った先に出会う千本通りとの交差点付近が、その中心だったと言われている
現在、その交差点の西北に政治の中心建物であった「大極殿跡」の石碑が建っており、北東へ歩くと天皇が居住した内裏内郭回廊跡の掲示板がみつかる。
だから平安京と平安時代の京都を知るためには、まず最初にこの上京の一角を訪れなければならないのである。

しかるに上京の歴史遺産はこればかりではない
この「平安宮」も鎌倉時代には衰退し、天皇は貴族の邸宅を転々とし、政治の中心は院の御所へ移る。そのひとつの拠点とされた場所は、現在の新町上立売あたり、ちょうど同志社大学の新町校地の北あたりになる。
室町時代についてはあらためて言うまでもなく、足利将軍邸「室町殿」が同志社大学寒梅館にあったことはよく知られている。
さらに安土桃山時代には、信長の二条城が烏丸丸太町の北西に築かれ、秀吉の聚楽第が内裏とほぼ重なる場所に造営された。
そして江戸時代には現在の御所を中心に公家屋敷が建ち並び、政治の中心は離れても、華やかな京文化が熟成された。
ちなみに現在の京都府庁の場所は京都守護職屋敷跡である
また、日本の近世から近代への大きな転換点である薩長同盟が結ばれたのは、今出川キャンパスにあった薩摩藩邸だったと言われている。

平安京の成立以降近代までの京都の歴史の全ての重要な歴史遺産は上京にあったのである
まさに「京都どまんなか」であろう

その上京で今年度、歴史遺産活用のプロジェクトが発動する
禁門の変でも焼けることの無かった上京で
知恵袋満載のボランティアひまわりの皆さんと共に
(ということは、良く言われるように、先の戦災が応仁の乱・・・)
この夏から
同志社大学の学生が本物の歴史の真っ直中に飛び込んでいく

2005年7月25日 (月)

メッセージ

大学というところは、いつも学生達のメッセージでキラキラしていた
学生たちは、自由と責任のバランスをとりながら自分たちの思いをさまざまな形で社会に発信していた
そのころの最も一般的なメディアはガリ版というものだった
密なヤスリの板の上にロウ紙をおいて、その上から鉄筆で字を書くと、その部分が削れてインクが下に通る仕組みになっていた
ロウ紙には5ミリ方眼の線がひいてあり、さまざまな文書が、この上で創作された
印刷はこのロウ紙を木枠に貼られた薄いアミの裏に貼り、その上からインクを付けたローラーを転がした
1枚刷って、藁半紙をはずし、また1枚刷って藁半紙をはずした
たまに風でその紙が飛んで、まだ乾かないインクが服についたら悲惨なことになった
読みやすい字、整然としたレイアウト、ムラのないインクの塗り方と印刷
どれをとっても職人技で、その意味で昔の学校には(小学生から)職人がたくさんいた
印刷が、輪転機と呼ばれる半自動機械になったとき、少し職人技から解放された
その次は登場したのは青焼きと呼ばれる簡易印刷技術だった
文字を書くのはロウ紙ではなく、トレーシングペーパーに代わった
また筆記具も鉛筆やペンに変わった結果、書きやすさが飛躍的にアップした
印刷は、アンモニアのにおいの強い溶液を使う青焼きという機械でおこなった
感光紙を原稿にあててローラーを通すと
トレーシングペーパーの字の書かれていないところが光を通して白くなり
逆に字の部分が青黒く浮き出る仕組み、だと思う
その数年後、トレーシングペーパーが普通紙に変わり透明液という魔法のスプレーが普通紙を透明にした
みんなで透明人間になる遊びをしたが、もちろんそんなことはなかった
1枚ずつ青焼きを出して、その度にアンモニアのにおいにまいった
肩こりになるガリ版刷りの手間から解放された若者達は、この青い紙にさまざまなメッセージを載せた
その次に一瞬はやりかけたのが日本語タイプライター
このとき、本屋で売っている印刷物を自分たちで作れることに大きな感慨を覚えた
そして1983年の前後からワープロが普及した。
メッセージはデザインとレイアウトにもおよんだ。新しい職人技が生まれた
そして1993年の前後からwebサイトが普及し、2004年アメリカで誕生したブログがひとつの時代を創り出しつつある
大学というところは、メディアの姿形が変わっても、いつも学生達のメッセージでキラキラしている

24日に京田辺でオープンキャンパスがひらかれた
これまで2回の学部説明会を経て、それぞれの関心で文化情報学と関わってきた1期生たちが
自分たちにとってこれから必要なことや考えるべきことについてのイメージを固めつつ
各自の職人技を駆使してメッセージを発信していた
まもなく初めての試験期間が終了する
夏休みの間も、そして秋学期には一層、彼らのメッセージがたくましくなることは間違いない

25日 JR福知山線列車脱線事故、磐越道バス横転事故 追悼記念礼拝

2005年7月23日 (土)

限界を超えて昇る登山者

ある「調査」によれば、
鋤柄のイメージは・・・らしい

ちょっと驚いた
字面通りに受け取るわけではないが
高校時代に山岳班(出身高校では部ではなく班と言っていた)に入っていた
食事が早いのはその頃の習慣をひく
一応、北アルプスの槍ヶ岳や穂高岳を歩き
南アルプスの北半分にあたる塩見岳から北岳を歩いた
とは言っても、著しく非力であかんたれだったため
多くの仲間に迷惑をかけた、やっとこさの山行だった
けれどもその時とことん実感したことがある
非常に簡単なことである
あまりにも単純なことではあるが
「歩かないと進まないが、どんなに少しずつでも歩いていれば必ずたどり着ける」と
ムッとする緑の熱気の中を我慢して登り続け、森林限界を超えるとガレ場に出る
天気が良ければブルースカイを切り取る稜線が目に飛び込んでくる
夏山の最高の醍醐味である
「休みながらでも良いから、少しずつでも歩き続ける」
この体験が今も大きな糧になっている

明日は試験期間ど真ん中でのオープンキャンパス
いつもどおりでいきましょう
十分立派で大丈夫だから

関連して好きな言葉を2つ
・大江健三郎「持続する志」
・大江健三郎「厳粛な綱渡り」

2005年7月21日 (木)

ひたむきな夏

試験期間真っ直中である
文化情報の1期生達は、初めての大学の試験に果敢に立ち向かっている。
みんないっぱいいっぱいになりながら、とにかくがんばっている。
直接の先輩がいない中、代わりを務められるわけでもないが、気休めにでもなればとなるべく近くにいてやりたいと思いつつ、この夏から始めるプロジェクトの仕掛けで今日も明日も今出川と田辺を往復。
そんな中、夢告館の各所で仲間同士での試験対策の自主学習が自然発生的にはじまっているようだ
1期生としての責任感がそうさせたのだろうか
たいしたものだと思う

夕方から、ある科目の試験監督を手伝う
試験開始からしばらくすると、それまで教室内にわずかに残っていた不安定な雰囲気が消え
教室中が均質で透明な緊張感に包まれる
その時の彼らに見えるのが崇高なひたむきさである
真剣にものごとに取り組んでいる正しさがそこには確実に存在している
ひたむきさとか真剣とか
少し気を許すとすぐに忘れてしまいそうな毎日だけれど本当はとても大切にしたいこと
試験というのは大変やけれど
そんな貴重な体験をさせてくれる瞬間をもっている
試験問題を解くことも大切ではあるが
そんな瞬間の体験を経験として積み重ねる実感をぜひ覚えておいてほしいと思う
かならず後に生きてくる
みんな、「試験は集中力と気合いと腕力だ」とあの時の先輩達が伝えてくれと言っていたぞ
今日の京都の気温は35.5度だ
ガンバレ

ということで
今日の1曲は、中学生の頃聞いた、井上陽水の「東へ西へ」

2005年7月19日 (火)

夏祭

先週の金曜日は珍しく19時に田辺を出てきた。ああまだ明るいなあと思って列車に乗り、しかし30分ほどで帰着駅に着いた時は真っ暗になっていた。夏至からもう一月になる。これから夏がやってくるけれども、日は確実に短くなっている。ちょっと寂しい。
巡行をSAで見る。13時現在で24万人。

祇園祭は八坂神社の神輿渡御と山鉾の巡行というふたつのイベントから構成されている。
祇園祭(祇園御霊会)は、平安京が都市として発展してきた結果生まれた疫病流行の退散を目的とした、いくつかある御霊会のひとつである。出雲路・船岡・紫野・衣笠・花園・東寺・西寺など京の周縁にあって、そこで災いの神を慰撫して遠くへ行ってもらうことを祈った。今宮神社のやすらい祭りが今その祭りを伝える。
キーワードは「水」で、船岡山の儀式は難波の海へ送られたとされ、祇園会の「神泉苑」も同じ意味を持つと言う。それ以上に興味深いのは、八坂神社の地下に池が会ったという伝え。確かめてみたいものだが。
そして八坂神社もまた鳥辺野に近い周縁の地であり、そこには遠い異国の地からやってきた、後に牛頭天王と呼ばれる神がおかれていた。
そして平安時代の人々は、厄災が鎮まることを願い、この神を祀り、祈った。神輿渡御は、その神が年に一度鴨川を越えて町を訪れるもの。山鉾はそれを祀る儀式、と言われている。

それが南北朝期以降のある時期以降、祀りより儀式が力を持つようになる。神輿渡御は中止になっても、山鉾の巡行がおこなわれることがおこる。
八坂神社の境内地であった当時の下京には、商工業にたずさわる人々が多かった。堀川材木座は、元慶3年(879)に神人となったと伝えられ、神輿渡御の際には浮橋を設けた。綿本座は保延年間(1135~1141)の成立といわれ、祭礼の際には神供米を献じた。三条の新町西には釜座があり、全国の鋳物細工の拠点となっていた。
そんな下京の人々は通りをはさんだ仲間で「町」をつくり、その両側町の単位で、都市をおそう厄災に立ち向かった。
神輿渡御が中止になってもおこなわれた山鉾巡行は、そういった町衆(ちょうしゅう)と呼ばれる彼らのめざましい自主自立の成長とその結果培われた力強さの象徴だと脇田晴子先生は言う。
現在の中京の町名のほとんどは、この単位を踏襲したものになっており、地図を見ると、通りをはさんできれいな菱形の町境界が並んでいることに気づく。
蟷螂山ももちろん同じで、西洞院通りをはさみ、北が錦、南が四条である。

巡行をSAで見るために、船鉾がゆっくりと方向を変えている四条から新町を上がる。
南観音山・北観音山・八幡山が現れる。あらためて新町通りの繁栄を感じる。
巡行をSAで見たかったのは、中世にパワーアップした祇園祭の臨場感を追体験したかったから。
軒先すれすれで通り過ぎる鉾、群衆をかき分けて進む山。
軒先をからくもかすめる鉾あやつりの一挙手一動足に拍手がおこる。
観光化された祇園祭とは全く違った中世の祇園祭の姿が一瞬見えた気がした。

日本列島の夏は、祭りの夏でもある。
博多の山笠、土佐のよさこい、徳島の阿波踊り、青森のねぶた。そして大阪の天神祭り
夏休みの期待感と試験の緊張感の中で、故郷を感じる人、伝統文化を感じる人、順調に遅れていく仕事への焦りとあきらめ、様々な思いが夢告館を駆けめぐっている。

2005年7月18日 (月)

新明神社

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.09.01&lon=+135.45.40.15&fm=0

川崎家住宅

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.30.64&lon=+135.45.22.16&fm=0

茶屋四朗次郎邸跡

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.21.91&lon=+135.45.24.01&fm=0

高松殿跡

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.35.85&lon=+135.45.20.96&fm=0

三条釜座

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.31.08&lon=+135.45.20.49&fm=0

2005年7月17日 (日)

梅雨明け宣言

山鉾と共に夏がやってきた

2005年7月12日 (火)

蟷螂山町(2)

この町は、左京四条二坊十三町と三坊四町にあたる
平安京提要によれば
二坊十三町の東南部で12世紀後半の土地売券が残っており、仁安2年(1167)に、所有者の治部少輔藤原某は、雑色里影に譲渡している
鎌倉時代は権中納言の藤原親能の邸宅と丹波前司の邸宅があったという
昭和63年に立会調査がおこなわれ、平安時代の土坑がみつかっている
三坊四町には、九条家本「延喜式」付図により、関白太政大臣藤原頼忠(924‐989(延長2‐永延3.6.26))や大納言藤原公任(966~1041(康保3~長久2))の邸宅のあったことが(四条宮)知られるが、「拾芥抄」はその位置について混乱があると言う
また仁和寺所蔵古図によれば、この町に権現堂があったとも伝える

この町の北には、あの本能寺があり、その東は南蛮寺で有名な姥柳町
西へ折れると、堀川へ出る手前に空也堂がおかれている

この町が鎌倉時代終わりころから大きな注目を集める
それは

陳外郎(ちん ういろう)という人物

やはり平凡社の歴史地名大系に学ぶ」
中国の元朝に仕えた医師の陳外郎の子孫が、薬舗虎屋を開いて住んだ
位置は蟷螂山町内の西洞院大路の西側
陳は元が滅び、明になったのを嫌い日本に帰化
博多に医師として開業 子孫は代々外郎を名乗る
応永年間(1394~1428)の初めに上洛
家伝の透頂香を独占販売し、各地に店舗をひろげる
「殿中年中行事」の12月27日に外郎が透頂香を5袋もってきた記事がある
陳家は医者・薬舗だけでな、砥明の相談にものり、自らも明に使者として行った
その後、北条氏綱の御用商人となって小田原に下向。宇野氏を称する
近世は小田原が本拠
「和漢三才図絵」には、外郎餅が羊羹の属で、外郎は相州小田原の人名で、透頂丸を製造し売る、とある

蟷螂山町

例によって最初のアプローチは平凡社の歴史地名大系
蟷螂山町は、西洞院をはさんだ両側町で、北は錦小路、南は四条通り
応仁の乱前に記された「祇園社記」の中の「祇園会山ほこの次第」には、「一、かまきり山 四条西洞院錦小路間」と登場また、同じ「祇園社記」に収められている「材木屋在所」によれば、材木屋を営む次郎という人物がいたこともわかる
この町の名称は、寛永18年以前平安城町並図以降記録をみると、「外良ノ町」という表記がある。その由来は、元の官人だった礼部員陳外郎氏の子孫がこの町におり、薬屋をいとなみ「透頂香」を売り出したことによるという
なお、江戸時代には、この町の西に筑前久留米有馬氏の藩邸が、東に肥前平戸松浦氏の藩邸があった。

蟷螂山は祇園会山鉾のひとつでで、かつては6月7日におこなわれた前の祭りに巡行したという。
起源は先の記録により応仁の乱をさかのぼることがわかり、明応9年(1500)に巡行が復興された時には、「錦小路西洞院と四条の間也」として「三番、いほしり山」の記載がみられる。
その後、安政4年(1857)に故障の記録があり、元治元年(1864)の大火で焼亡。昭和55年に復旧して現在にいたっている。
宝暦7年の「祇園会細記」によれば、その姿は「蟷螂が斧をもって降車に向かうがごとしの古事也。蟷螂作知らず。胎内に一物あり、神体と言う。是を知るものなし」とある。現在みることのできる、御所車の屋根に緑の大蟷螂がかぶさり、羽をばたばた動かすからくりの姿がそこにある。
ちなみに同書による江戸時代の意匠は
蟷螂(萌葱色にて張屋台の上にのせ、手羽車屋台の内より使う)
屋台(花色錦 桐に鳳凰の模様。四方に小簾(すだれ)。簾の縁は紅羅紗。葵楓(あおいかつら)と総角(あげまき)がつく。前簾の上には花色の数珠で雲に雲に鶴の刺繍がある。簾の巻き上の下には紺のびろうど。竜立脇金糸の唐縫い。その上に几帳のような真紅の飾りがある)
轅(ながえ)は茶色の朝鮮錦にて貼る。けまん真紅の綱などがある。
出し詣(白ねり)
車(黒数珠。えよう白数珠。矢櫂黒塗金もの)
山之縁(浪に千鳥金鍍金彫り透かし)
水引(織物模様夕顔)
幔幕(五色羅紗)
見送(地紺びろうど虎渓の図。人形鹿から松土橋などあり。唐縫紅羅紗金糸竜の縫)
なお同書によれば
「六日午の刻初めて引く(余町は五日に引き初め)妙典寺町を綾小路まで引、双方礼あり。当町には有馬氏の別館があるにつけい、この者に釘抜きの紋を付ける」という古例がひかれている

[GPS情報URL]
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神輿洗

10日、鉾立がはじまる。
しかし今年はT先生の紹介である山を訪れる。ご案内はNさん。
祇園祭最中の多忙な中、保存会の会長さまにお時間をいただく。
これまで祇園祭といえば、平安時代中期に起源をもつ八坂神社の祭りとして紹介してきた。
しかしそれはそれとして正しいのであるが、京都と歴史のそんな言葉ですませられるようなものではない
こちらの山は、平安時代とおなじくらい京都が最も華やかだった室町時代を背景として
さらに、東アジア的な世界のなかでつくられ、維持されてきた。
祇園祭と京文化の厚みというものをあらためて実感させてくれる歴史遺産である
森浩一先生も常々言われていたが、とにかく京都というところは一筋縄ではいかない
帰りに京都市の施設として公開されている町家に入る
片側が土間と通り庭で奥へつづき、片側に居室がならぶ
土間には井戸・竈・炊事場、そしてその奥には五右衛門風呂まである
もっとこういった施設を活用して京都と日本の文化を知ってもらう方法を考えたい
今日は祇園祭の中で巡行に先立ち区切りとなる神輿洗のおこなわれる日でもある
確か学部の1年か2年の時に見たような気がするが定かではない
午後6時に四条大橋の上に立つ
思わず時間を忘れて京都を楽しむことのできる一瞬に感謝
先斗町の床に灯が入り、南から祇園囃子の音が聞こえ始める
午後7時、迎え囃子が西からやってくる 祇園祭り音頭も通り過ぎる
うかつにもこの音頭は初めて聞く
しばし後、東の交差点で警笛が鳴り響き、西の交通が停められる
威勢の良い掛け声と共に長さ10m近い松明が大勢の男達の手で運ばれてくる
橋の中央やや西でそれを立て、ゆっくりと回す 火の粉が舞う
勝手に思いこんでいた京都イメージを吹き飛ばす勇壮な儀式にしばし呆然
ハードディスクビデオを持つ手に力が入る
男達が八坂神社へ向かった後 午後8時前 神輿がやっていくる
松明の男達に負けない勇壮な男達が神輿を担いでいる 掛け声が鴨川に響き渡る
雨が少し強くなる 四条大橋の北の歩道は
何でも知っている観客達と、何も知らない通行人で身動きができない状態になる
男達の動きがとまり 人波の向こうで儀式がおこなわれている
あちこちから清めの水しぶきを求める声があがる
午後8時すぎ、神輿と男達が八坂神社へ向かい 人波がくずれはじめる
大規模な交通規制をするわけでもなく
日常の中にあるとてつもない儀式と祭りと歴史空間
この京都のすごさをもっともっと知ってもらいたい

2005年7月10日 (日)

蟷螂山町

例によって最初のアプローチは平凡社の歴史地名大系

この町は、左京四条二坊十三町と三坊四町にあたる
平安京提要によれば
二坊十三町の東南部で12世紀後半の土地売券が残っており、仁安2年(1167)に、所有者の治部少輔藤原某は、雑色里影に譲渡している
鎌倉時代は権中納言の藤原親能の邸宅と丹波前司の邸宅があったという
昭和63年に立会調査がおこなわれ、平安時代の土坑がみつかっている
三坊四町には、九条家本「延喜式」付図により、関白太政大臣藤原頼忠(924‐989(延長2‐永延3.6.26))や大納言藤原公任(966~1041(康保3~長久2))の邸宅のあったことが(四条宮)知られるが、「拾芥抄」はその位置について混乱があると言う
また仁和寺所蔵古図によれば、この町に権現堂があったとも伝える

この町の北には、あの本能寺があり、その東は南蛮寺で有名な姥柳町
西へ折れると、堀川へ出る手前に空也堂がおかれている

この町が鎌倉時代終わりころから大きな注目を集める
それは・・・

蟷螂山町は、西洞院をはさんだ両側町で、北は錦小路、南は四条通り
応仁の乱前に記された「祇園社記」の中の「祇園会山ほこの次第」には、「一、かまきり山 四条西洞院錦小路間」と登場また、同じ「祇園社記」に収められている「材木屋在所」によれば、材木屋を営む次郎という人物がいたこともわかる
この町の名称は、寛永18年以前平安城町並図以降記録をみると、「外良ノ町」という表記がある。その由来は、元の官人だった礼部員陳外郎氏の子孫がこの町におり、薬屋をいとなみ「透頂香」を売り出したことによるという
なお、江戸時代には、この町の西に筑前久留米有馬氏の藩邸が、東に肥前平戸松浦氏の藩邸があった。

蟷螂山は祇園会山鉾のひとつでで、かつては6月7日におこなわれた前の祭りに巡行したという。
起源は先の記録により応仁の乱をさかのぼることがわかり、明応9年(1500)に巡行が復興された時には、「錦小路西洞院と四条の間也」として「三番、いほしり山」の記載がみられる。
その後、安政4年(1857)に故障の記録があり、元治元年(1864)の大火で焼亡。昭和55年に復旧して現在にいたっている。
宝暦7年の「祇園会細記」によれば、その姿は「蟷螂が斧をもって降車に向かうがごとしの古事也。蟷螂作知らず。胎内に一物あり、神体と言う。是を知るものなし」とある。現在みることのできる、御所車の屋根に緑の大蟷螂がかぶさり、羽をばたばた動かすからくりの姿がそこにある。
ちなみに同書による江戸時代の意匠は
蟷螂(萌葱色にて張屋台の上にのせ、手羽車屋台の内より使う)
屋台(花色錦 桐に鳳凰の模様。四方に小簾(すだれ)。簾の縁は紅羅紗。葵楓(あおいかつら)と総角(あげまき)がつく。前簾の上には花色の数珠で雲に雲に鶴の刺繍がある。簾の巻き上の下には紺のびろうど。竜立脇金糸の唐縫い。その上に几帳のような真紅の飾りがある)
轅(ながえ)は茶色の朝鮮錦にて貼る。けまん真紅の綱などがある。
出し詣(白ねり)
車(黒数珠。えよう白数珠。矢櫂黒塗金もの)
山之縁(浪に千鳥金鍍金彫り透かし)
水引(織物模様夕顔)
幔幕(五色羅紗)
見送(地紺びろうど虎渓の図。人形鹿から松土橋などあり。唐縫紅羅紗金糸竜の縫)
なお同書によれば
「六日午の刻初めて引く(余町は五日に引き初め)妙典寺町を綾小路まで引、双方礼あり。当町には有馬氏の別館があるにつけい、この者に釘抜きの紋を付ける」という古例がひかれている

やはり平凡社の歴史地名大系に学ぶ」
中国の元朝に仕えた医師の陳外郎の子孫が、薬舗虎屋を開いて住んだ
位置は蟷螂山町内の西洞院大路の西側
陳は元が滅び、明になったのを嫌い日本に帰化
博多に医師として開業 子孫は代々外郎を名乗る
応永年間(1394~1428)の初めに上洛
家伝の透頂香を独占販売し、各地に店舗をひろげる
「殿中年中行事」の12月27日に外郎が透頂香を5袋もってきた記事がある
陳家は医者・薬舗だけでな、砥明の相談にものり、自らも明に使者として行った
その後、北条氏綱の御用商人となって小田原に下向。宇野氏を称する
近世は小田原が本拠
「和漢三才図絵」には、外郎餅が羊羹の属で、外郎は相州小田原の人名で、透頂丸を製造し売る、とある

2005年7月 7日 (木)

千日前

阪神タイガースの優勝に関係して話題になることの多い道頓堀川であるが
実は大阪の歴史を語る上で欠かせないモニュメントでもある
できたのはそれほど古くない
慶長17年(1612)の開削開始なので、夏の陣の前ではあるが江戸時代
秀吉がその死の直前に、三の丸築造と船場の開発を指示し
秀頼の時代になって現在につながる大阪の原型がつくられる
秀吉の時代の大阪は上町筋を中心とした南北を軸とした町だった
これに対し、秀頼の時代以降の大阪は本町通りを中心とした東西を軸とした町になる
この道頓堀川は、その東西軸の南の幹線を構成する要素である
道頓堀川の東は、東横堀川につながっている
西の木津川から道頓堀川を遡り、東横堀川を下れば北浜で大川に出る
船場をおおきく囲む交通路である
かつてはその中を長堀や西横堀が流れていた 水の都である
現在東横堀川の上を阪神高速が通る 過去に学ぶ今の姿のひとつ
完成は大坂の陣で中断されながら1615年
関係者は安井道頓・治兵衛・九兵衛、平野藤次、あるいは成安道頓
このうち道頓がその名を残す
とはいえ周辺の開発が進むのは、江戸幕府が大坂を直轄領とした元和5年以降と言われる

千日前へ出る
千日前とは千日墓所への道をさす言葉
京都にも千本通りという道があるが 同様にその先に葬送の地があった
大阪の場合、通り名のもとになったのは法善寺で
17世紀終わりころには千日寺とも呼ばれていたそうである
千日墓所は、大坂三郷最大の墓所で
大坂の陣がおわり復興がすすむ元和6年、三郷を拡張整備する際に
市中にあった墓所をまとめたと伝える
その中心的なモニュメントである法善寺は、本尊が阿弥陀如来
慶長年間に伏見で開基したと言われており
当地には、寛永14年または慶安4年(1651)に移ったと伝える
千日寺の名は、開基より千日毎に念仏法要を重ねたことにより
寛永年間から多くの参詣者を集めていた
18世紀後半から開帳にあわせ見世物小屋や相撲の一日興行がおこなわれ
それが19世紀から常設となる
かつてより有名な繁華街であった
網野義彦的な表現ができるとするならば
船場という大坂の典型的な都市の周縁だったと言えるかもしれない


法善寺 GPS情報URL]
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晴れたらいいね

今週は、いろいろな業務が重なり、3日間ほど田辺に行けない
田辺の様子も気になるが、みんなしっかりしてきたからと
メールの回線だけ常時オープンにして まかせる
その間、大阪や今出川でいろいろな人と会う
現場時代の仲間達とも会う
田辺のメンバーとも田辺以外で会う
これから後、彼らのためにできることに思いを馳せる

所用で夕方からミナミへ
寒梅館の高速無線LANで矢継ぎ早に(考えてみるとすごい表現)メール仕事をしていたら
あっというまに約束の時間
京都駅で再びネットにリンクして新快速の中でキーボードと会話(オタクか)
何時来ても大阪は暑いなあと思いながら御堂筋線へ
思えば、学生時代の6年間で大阪へ行ったのは数えるほどだった
今は当たり前に三都をめぐる(去年は四都を巡っていた)
京都も大事だが、関西は四都の文化で語らないといけないと思う
学生時代の行動範囲が(視野が)いかに狭かったかを悔やむ
ゆえ、学生君達をどんどん四都に連れ出そうと思う
大丸で降りる ロンドンのデパートを思わせるような重厚さが良い
心斎橋筋から宗右衛門町をまわり道頓堀川を渡る
このベタな雰囲気がなんともいえない
阪神タイガースの優勝に関係して話題になることの多い道頓堀川であるが
実は大阪の歴史を語る上で欠かせないモニュメントでもある
できたのはそれほど古くない
慶長17年(1612)の開削開始なので、夏の陣の前ではあるが江戸時代
秀吉がその死の直前に、三の丸築造と船場の開発を指示し
秀頼の時代になって現在につながる大阪の原型がつくられる
秀吉の時代の大阪は上町筋を中心とした南北を軸とした町だった
これに対し、秀頼の時代以降の大阪は本町通りを中心とした東西を軸とした町になる
この道頓堀川は、その東西軸の南の幹線を構成する要素である
道頓堀川の東は、東横堀川につながっている
西の木津川から道頓堀川を遡り、東横堀川を下れば北浜で大川に出る
船場をおおきく囲む交通路である
かつてはその中を長堀や西横堀が流れていた 水の都である
現在東横堀川の上を阪神高速が通る 過去に学ぶ今の姿のひとつ
完成は大坂の陣で中断されながら1615年
関係者は安井道頓・治兵衛・九兵衛、平野藤次、あるいは成安道頓
このうち道頓がその名を残す
とはいえ周辺の開発が進むのは、江戸幕府が大坂を直轄領とした元和5年以降と言われる

千日前へ出る
千日前とは千日墓所への道をさす言葉
京都にも千本通りという道があるが 同様にその先に葬送の地があった
大阪の場合、通り名のもとになったのは法善寺で
17世紀終わりころには千日寺とも呼ばれていたそうである
千日墓所は、大坂三郷最大の墓所で
大坂の陣がおわり復興がすすむ元和6年、三郷を拡張整備する際に
市中にあった墓所をまとめたと伝える
その中心的なモニュメントである法善寺は、本尊が阿弥陀如来
慶長年間に伏見で開基したと言われており
当地には、寛永14年または慶安4年(1651)に移ったと伝える
千日寺の名は、開基より千日毎に念仏法要を重ねたことにより
寛永年間から多くの参詣者を集めていた
18世紀後半から開帳にあわせ見世物小屋や相撲の一日興行がおこなわれ
それが19世紀から常設となる
かつてより有名な繁華街であった
網野義彦的な表現ができるとするならば
船場という大坂の典型的な都市の周縁だったと言えるかもしれない

クリエイティブな話をするには最高の場所だと思う

今日は七夕で、晴れたらいいねというフレーズをやたらに目にする
一瞬 意味のわからなかった自分にショックを受け 哀しくなった
確かに、10月ではまだ京都の山は紅くなってはいない
なんということだろう もっと感性を研ぎ澄まさなければいけない
また、彼らに教えられた
けれども それがとてもうれしい

2005年7月 5日 (火)

洛中洛外図の世界

小川通り
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室町上立売
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上立売の鏡工房
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予習

文化情報学では10月に研修合宿を予定している
そのための準備をすすめている学生プロジェクトチームのひとりであるTさんからメールが来た
「ポスターをつくっているんですが、行き先の紹介テキストが至急ほしいんですが」
ポスターデザインを一手に引き受けてくれているショップのAさんとレイターのTさんのがんばりに応えるためにすぐに予習をする
参考書は 平凡社の歴史地名大系

大原
比叡山の北西麓にあたり、平安時代のはじめから、三千院をはじめとする延暦寺に所縁の深い多くの寺院が築かれた
その一方で天徳元年(957)の記録には朝廷の牛馬を飼育する牧として登場し、また炭や薪の生産地としても知られる近郊農村でもあり、それらを頭に載せて売り歩く「大原女」は、平安・鎌倉時代の京の風物詩として、藤原定家の歌にも詠まれるほどであった
平安時代後期以降は、鴨長明など多くの著名人が隠棲した地としても有名で、建礼門院の住む寂光院の様子は「平家物語」にも描かれている

鞍馬
鞍馬川と貴船川にはさまれた標高569mの全山に老杉巨檜が茂る。春は平安時代から雲珠桜が、秋は紅葉で知られ、足利義満も観桜に訪れている。
鞍馬寺の本尊は毘沙門天。縁起は延暦15年(796)の造東寺長官藤原伊勢人とも、宝亀元年(770)鑑真の弟子の鑑禎とも。共に白馬にちなむ伝説をもつ。平安時代終わりに延暦寺末に。京都北方の守護神として坂上田村麿・白河法皇・源頼朝などの著名人の信仰をあつめる。現在6月20日におこなわれる竹伐り会は、長さ4mほどの孟宗竹を大蛇にみたて、山城座と近江座に分かれた里人がその年の豊凶を占うもの。現在10月22日におこなわれる火祭りは仁王門の北にある由岐神社の例祭で、天慶3年(940)に御所内にあった由岐明神を夜に遷座したことにちなむ。共に京都を代表する伝統行事として有名

由岐神社については、以前に調べたことがあったが、今更ながら京都という場所のすごさを実感する
今年の竹伐り会はすぎてしまったが、火祭りはこれから
残念ながら研修合宿とはタイミングが合わないが
広隆寺の牛祭りか鞍馬の火祭か
久しぶりに行ってみたい気がする

2005年7月 3日 (日)

ほまち雨・地雨・糠雨・袖笠雨・遣らずの雨

田辺を出るときは、ほまち雨かと思っていたら、京都に着いた時には地雨となっていた。寒梅館で用事を済ませた後、糠雨と袖笠雨の間を縫って明徳館へ
今出川は遣らずの雨に霞んでいた
辞書によれば、八坂神社の祭礼で祇園御霊会とよばれる祇園祭は、はじまりが貞観11年(869)に遡ると言う。その年、疫病が流行したため、(国の数の)66本の矛を立て、疫病の神である牛頭天王を祀って神泉苑へ送ったことに由来すると言う。
ただし史料の初見は970年であり、11世紀以後華麗な祭礼として京中の御霊会を代表するものとなっていく。すでに平安時代末期には、三条室町を中心として祭礼見物のための桟敷が設けられ、室町時代に入ると将軍家との関係も強まり、下京が主役ではあるが、京都全体をひとつにした祭りとなっていった。
まさに平安京と京都を代表する祭りのひとつである。
今年もまた、その季節が来た。先週、京都アスニーで打ち合わせをした後、15番のバスに乗って帰る途中、二条城のひとつ手前の停留所で神泉苑を見た。学生時代に自転車を駈って巡幸を見て回ったことを思い出した。
田辺の学部へ移籍したはずだが、なんのことはないほぼ毎日今出川へ行っているので
それなら今年は久しぶりにじっくりと祇園さんをアーカイブできるかと思っていたら
もう2日
よく知られているように、祇園祭りは巡幸と宵山だけが祭りではない
1日から29日までさまざまな行事がおこなわれて、その全体が祇園祭である
1日から始まった吉符入は5日までと言うが、1日の長刀鉾町のお千度もくじ取式も山鉾町社参も逃してしまった
7日は綾傘鉾稚児社参だというが、会議が入っている
10日は鉾立が始まり、弊切・神事用水清祓・お迎提灯・御輿洗と大きな儀式が続く。
この日は日曜なのでビデオ片手に行ってみようか。
12日から山建 13日に稚児社参 15日が宵宮祭 これは行っていないので見たいが会議かも
そして16日の宵山。鷺舞があって田楽があって石見神楽があって日和神楽があって。ちなみに今年の宵山は土曜日なので90万人の人手が予想されている。さてどうするか。
17日は山鉾巡幸が注目されているが、神幸祭と御輿渡御の出発式もおこなわれ、3基の神輿が四条京極の御旅所へ移る。
そして24日の還幸祭 午後9時から神霊が神輿から本社に還る。真っ暗な中でおこなわれる荘厳な儀式である。そして28日の神事用水清祓と神輿洗がおこなわれ、29日の神事済奉告祭で祇園祭が幕を閉じる。
24日は京田辺キャンパスのオープンキャンパス。30日は春学期試験の最終日。
祇園祭が終わると、文化情報学部1期生にとって初めての夏休みがはじまる。

2005年7月 2日 (土)

あじさい寺

急に梅雨に入った
大和郡山市には、別名「あじさい寺」とも呼ばれる矢田山金剛山寺(通称矢田寺)がある。天武天皇の勅願寺として有名で、立派な伽藍と坊舎が、矢田丘陵に立ち並ぶ。5年くらい前に、山形の人に頼まれて訪ねていったことがあったが
良い塩梅に降ってくれたらいいのだけれど
今年度は、学際科目で「現代社会に生きる情報環境」と「発動する京都」をやっている。
共にリレー式の講義ではあるが、コーディネータであることもあって毎回聴講をしている。
毎回非常に大きな知的刺激を受けて、大学にいる充実感を味わっている。ありがたいことだと思う
「現代社会に生きる情報環境」は今出川と京田辺のテレビ講義で、京田辺は例年150人ほど、今出川は100人足らずだったが、今年はなぜか今出川で300人以上が登録したので、教室を明徳館の大教室に変更して授業をおこなっている。
今週は工学部のK先生の授業
京都をテーマに様々な文化イベント情報を共有化するシステムの話をされた
ちょうどこれからすすめようとしているプロジェクトにぴったり
おもわず今出川からマイクで呼びかける
「発動する京都」は今出川のみの授業 やはり300人ほどが受講している
古代から近代まで3人ずつで一気に京都を語る
個々の話題は専門性が高いが、同時に「京都」全体も見渡せるような
「京都」をマクロとミクロで同時に探検するような企画を考えた
そしてもうひとつのキーワードとして、人物をお願いした
これまで登場した人物は、道長・後白河・頼道・実朝の妻・義満・秀吉・義輝・・・寺町三条の菊屋・北垣府知事・・・
先週は、「京都をキャプチャする」をテーマに美学のO先生とK先生と鼎談し、今週は近代史のT先生の話をお聞きして、「東京遷都」ではないことを知り、近代の京都が工業都市を目指していたことを琵琶湖疎水工事のエピソードから知った。
これなどは安土桃山~江戸時代の上京が職人の町だったこととつながり、非常に面白かった
専門が分化すると、隣の時代がなにをやっているか、うっかり見過ごしてしまうこともよくある
別の機会に、古代・中世・近世の研究者に集まってもらった会を開いたことがある
それをまとめることはとてもむずかしいが
歴史のダイナミズムは、実はこういった「マクロな視野」と「総合化」で本格化すると実感した
(もちろん個々に根っこをもっていないといけないが)
これは歴史研究だけにとどまらない
知らなかったことを新たに知るということはとても面白いことなのである
だから 大学というところは、それだけで十分面白いところのはず
森先生もそうだったが、なんであっても
無垢な誠意とどん欲な知的好奇心をもって対処すれば
あらゆる出会いも、あらゆる出来事も
かならず、得られるものがある
たとえそれがその時はわずかであっても、その「得られるもの」を次の自分を拡大するためのエネルギーにする気持ちが重要

けれども、そんなエネルギーのヒントがおもしろいからといって
一気にたくさん走らせすぎると、えらいことになる
そんなときはどうするか
まず、深呼吸して、心にゆとりをつくって
それから、ひとつずつ形をつくっていくのです

今日は鳩山先生特別講義のポスターができた、掲示が楽しみです
AさんTさんお疲れさまでした
テガキーズやオープンキャンパスや0企画やいろいろあるけど
来週は編集局とビデオかな

2005年7月 1日 (金)

離宮八幡宮

離宮八幡宮

JR山崎駅を降りると、すぐ南に東門があり、「従是西八幡宮御神領守護不入之所」の石碑がたつ。祭神は酒解大神・応神天皇・田心姫命である。
「油の神様」として有名なこの社の由来は、この地域の住民が対岸の石清水八幡宮の神人として、とくに油座を結成して活躍したことによる。
当地と石清水八幡宮および「油」との関係は、貞観元年(859)に行教が宇佐から勧請した上洛の際に、「山崎離宮之辺」に寄宿したことを起源とされており、「信貴山縁起絵巻」を初めとして、「明月記」の正治2年(1200)の条にも「山崎油売小屋」とみえ、貞応元年(1222)には美濃国司と六波羅探題が「八幡宮寺大山崎神人」の関銭免除を認めているので、すくなくとも平安時代の終わりには、当地が石清水八幡宮に関わって、荏胡麻油の生産と販売に大きな力をもっていたことは確かであろう。
なお、応長元年(1321)の伏見上皇院宣には、淀・河尻(尼崎)・渡辺(大阪)・兵庫での津料の免除を認めている。
ただし、こういった油神人の活躍は、あくまで「石清水八幡宮大山崎神人」としての活躍であって、平安時代からこの地に離宮八幡の社殿があったかどうかは不明ともされている。ちなみに「離宮神前」という記録がみえるのは室町時代の細川勝元書状とされており、その点で、平安時代終わりから中世前半における大山崎神人の活躍と離宮八幡宮の関係は、分けて考えたほうが良いのかもしれない。
とは言え、室町時代後半以後は、本社を中心とした大きな勢力があったことは確実で、秀吉も山崎合戦の直後に「油之座之儀」として篤い保護を与えている。江戸時代に入ると幕府の助成を受け、神領はおよそ950石で、宝積寺や観音寺もその中に入っていた広大なものだった。現在の離宮八幡は、神仏分離と東海道線の開通で狭められているが、境内の南におかれた塔心礎とされる巨石が当時の繁栄を物語っている。

離宮八幡
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