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2005年7月10日 (日)

蟷螂山町

例によって最初のアプローチは平凡社の歴史地名大系

この町は、左京四条二坊十三町と三坊四町にあたる
平安京提要によれば
二坊十三町の東南部で12世紀後半の土地売券が残っており、仁安2年(1167)に、所有者の治部少輔藤原某は、雑色里影に譲渡している
鎌倉時代は権中納言の藤原親能の邸宅と丹波前司の邸宅があったという
昭和63年に立会調査がおこなわれ、平安時代の土坑がみつかっている
三坊四町には、九条家本「延喜式」付図により、関白太政大臣藤原頼忠(924‐989(延長2‐永延3.6.26))や大納言藤原公任(966~1041(康保3~長久2))の邸宅のあったことが(四条宮)知られるが、「拾芥抄」はその位置について混乱があると言う
また仁和寺所蔵古図によれば、この町に権現堂があったとも伝える

この町の北には、あの本能寺があり、その東は南蛮寺で有名な姥柳町
西へ折れると、堀川へ出る手前に空也堂がおかれている

この町が鎌倉時代終わりころから大きな注目を集める
それは・・・

蟷螂山町は、西洞院をはさんだ両側町で、北は錦小路、南は四条通り
応仁の乱前に記された「祇園社記」の中の「祇園会山ほこの次第」には、「一、かまきり山 四条西洞院錦小路間」と登場また、同じ「祇園社記」に収められている「材木屋在所」によれば、材木屋を営む次郎という人物がいたこともわかる
この町の名称は、寛永18年以前平安城町並図以降記録をみると、「外良ノ町」という表記がある。その由来は、元の官人だった礼部員陳外郎氏の子孫がこの町におり、薬屋をいとなみ「透頂香」を売り出したことによるという
なお、江戸時代には、この町の西に筑前久留米有馬氏の藩邸が、東に肥前平戸松浦氏の藩邸があった。

蟷螂山は祇園会山鉾のひとつでで、かつては6月7日におこなわれた前の祭りに巡行したという。
起源は先の記録により応仁の乱をさかのぼることがわかり、明応9年(1500)に巡行が復興された時には、「錦小路西洞院と四条の間也」として「三番、いほしり山」の記載がみられる。
その後、安政4年(1857)に故障の記録があり、元治元年(1864)の大火で焼亡。昭和55年に復旧して現在にいたっている。
宝暦7年の「祇園会細記」によれば、その姿は「蟷螂が斧をもって降車に向かうがごとしの古事也。蟷螂作知らず。胎内に一物あり、神体と言う。是を知るものなし」とある。現在みることのできる、御所車の屋根に緑の大蟷螂がかぶさり、羽をばたばた動かすからくりの姿がそこにある。
ちなみに同書による江戸時代の意匠は
蟷螂(萌葱色にて張屋台の上にのせ、手羽車屋台の内より使う)
屋台(花色錦 桐に鳳凰の模様。四方に小簾(すだれ)。簾の縁は紅羅紗。葵楓(あおいかつら)と総角(あげまき)がつく。前簾の上には花色の数珠で雲に雲に鶴の刺繍がある。簾の巻き上の下には紺のびろうど。竜立脇金糸の唐縫い。その上に几帳のような真紅の飾りがある)
轅(ながえ)は茶色の朝鮮錦にて貼る。けまん真紅の綱などがある。
出し詣(白ねり)
車(黒数珠。えよう白数珠。矢櫂黒塗金もの)
山之縁(浪に千鳥金鍍金彫り透かし)
水引(織物模様夕顔)
幔幕(五色羅紗)
見送(地紺びろうど虎渓の図。人形鹿から松土橋などあり。唐縫紅羅紗金糸竜の縫)
なお同書によれば
「六日午の刻初めて引く(余町は五日に引き初め)妙典寺町を綾小路まで引、双方礼あり。当町には有馬氏の別館があるにつけい、この者に釘抜きの紋を付ける」という古例がひかれている

やはり平凡社の歴史地名大系に学ぶ」
中国の元朝に仕えた医師の陳外郎の子孫が、薬舗虎屋を開いて住んだ
位置は蟷螂山町内の西洞院大路の西側
陳は元が滅び、明になったのを嫌い日本に帰化
博多に医師として開業 子孫は代々外郎を名乗る
応永年間(1394~1428)の初めに上洛
家伝の透頂香を独占販売し、各地に店舗をひろげる
「殿中年中行事」の12月27日に外郎が透頂香を5袋もってきた記事がある
陳家は医者・薬舗だけでな、砥明の相談にものり、自らも明に使者として行った
その後、北条氏綱の御用商人となって小田原に下向。宇野氏を称する
近世は小田原が本拠
「和漢三才図絵」には、外郎餅が羊羹の属で、外郎は相州小田原の人名で、透頂丸を製造し売る、とある

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