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2005年7月29日 (金)

「追いやらうもの」から「護るもの」へ

27日は京都と豊中を往還した
豊中の街の地図を見ながら不思議な感覚を覚えて、これが何によるものかずっと考えていて、夜になって関東の風景が頭に浮かんできた
その話も書きたいけれどそれはまた後日

さて、祇園祭の続き・・・・
平安時代後期の院政期、この祇園御霊会に大きな意識の変化が現れる。
それが神輿渡御と御旅所の成立と言われる。
現在、巡行が終わった後におこなわれているこの儀式は、神の乗った神輿が洛中の御旅所へやってきて、洛中の人々の芸能などの手向けを受けて帰って行くパフォーマンスである。
正確な表現に従えば、祇園社で初めて御霊会がおこなわれたのは天禄3年(972)の記録になるというが
神輿迎えを6月7日にして、14日にもどる御霊会がおこなわれるのは永長元年(1096)の記事にみられる
ただし、長保元年(999)に芸能民の无骨法師(頼信または仁安)が大嘗会の標山(しめやま)に似たものを社頭に渡し、藤原道長がこの法師を捕縛しようとしたが逃げられたというエピソードがある
また長和2年(1013)の「小右記」によれば、「今日祇園御霊会神輿の後に散楽空車有り」とみえ
散楽空車という屋根の無い車の上に芸能民が乗ってパフォーマンスするという現在の山の起源とも言える表現がある

祇園社は元々疫病信仰なので、疫病を乗せる神輿をつくって、その前で神を喜ばせるさまざまな儀式をおこなって、神が満足したと見るとどこかの水辺か、船岡山のように難波の海に流すのが本来であった
ところが御旅所をつくるということは、神をそこにとどめて自分たちを護ってもらうということになるので
そこには祇園社をめぐる大きな意識の変化があったものと、脇田先生は言う
本来は「追いやらうもの」として、河東へ追いやっていた疫病と、市中に安置したいという一般的な信仰心の妥結点が、1年に1度おこなわれるこの儀式だと言うのである
こういったことを起こす際、必ずそれを動かしたプロデューサーが存在する
意識の変化になるのか、あるいは意識の変改を促すしかけなのか
少なくとも11世紀後半の洛中の人々にとってその中に祇園の御旅所をつくることは、作らないより自分たちにとって得な行為だったのである
それはなにか
それを創り出した人々が「助正」と呼ばれる地域の有力者であったという。

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