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2005年7月19日 (火)

夏祭

先週の金曜日は珍しく19時に田辺を出てきた。ああまだ明るいなあと思って列車に乗り、しかし30分ほどで帰着駅に着いた時は真っ暗になっていた。夏至からもう一月になる。これから夏がやってくるけれども、日は確実に短くなっている。ちょっと寂しい。
巡行をSAで見る。13時現在で24万人。

祇園祭は八坂神社の神輿渡御と山鉾の巡行というふたつのイベントから構成されている。
祇園祭(祇園御霊会)は、平安京が都市として発展してきた結果生まれた疫病流行の退散を目的とした、いくつかある御霊会のひとつである。出雲路・船岡・紫野・衣笠・花園・東寺・西寺など京の周縁にあって、そこで災いの神を慰撫して遠くへ行ってもらうことを祈った。今宮神社のやすらい祭りが今その祭りを伝える。
キーワードは「水」で、船岡山の儀式は難波の海へ送られたとされ、祇園会の「神泉苑」も同じ意味を持つと言う。それ以上に興味深いのは、八坂神社の地下に池が会ったという伝え。確かめてみたいものだが。
そして八坂神社もまた鳥辺野に近い周縁の地であり、そこには遠い異国の地からやってきた、後に牛頭天王と呼ばれる神がおかれていた。
そして平安時代の人々は、厄災が鎮まることを願い、この神を祀り、祈った。神輿渡御は、その神が年に一度鴨川を越えて町を訪れるもの。山鉾はそれを祀る儀式、と言われている。

それが南北朝期以降のある時期以降、祀りより儀式が力を持つようになる。神輿渡御は中止になっても、山鉾の巡行がおこなわれることがおこる。
八坂神社の境内地であった当時の下京には、商工業にたずさわる人々が多かった。堀川材木座は、元慶3年(879)に神人となったと伝えられ、神輿渡御の際には浮橋を設けた。綿本座は保延年間(1135~1141)の成立といわれ、祭礼の際には神供米を献じた。三条の新町西には釜座があり、全国の鋳物細工の拠点となっていた。
そんな下京の人々は通りをはさんだ仲間で「町」をつくり、その両側町の単位で、都市をおそう厄災に立ち向かった。
神輿渡御が中止になってもおこなわれた山鉾巡行は、そういった町衆(ちょうしゅう)と呼ばれる彼らのめざましい自主自立の成長とその結果培われた力強さの象徴だと脇田晴子先生は言う。
現在の中京の町名のほとんどは、この単位を踏襲したものになっており、地図を見ると、通りをはさんできれいな菱形の町境界が並んでいることに気づく。
蟷螂山ももちろん同じで、西洞院通りをはさみ、北が錦、南が四条である。

巡行をSAで見るために、船鉾がゆっくりと方向を変えている四条から新町を上がる。
南観音山・北観音山・八幡山が現れる。あらためて新町通りの繁栄を感じる。
巡行をSAで見たかったのは、中世にパワーアップした祇園祭の臨場感を追体験したかったから。
軒先すれすれで通り過ぎる鉾、群衆をかき分けて進む山。
軒先をからくもかすめる鉾あやつりの一挙手一動足に拍手がおこる。
観光化された祇園祭とは全く違った中世の祇園祭の姿が一瞬見えた気がした。

日本列島の夏は、祭りの夏でもある。
博多の山笠、土佐のよさこい、徳島の阿波踊り、青森のねぶた。そして大阪の天神祭り
夏休みの期待感と試験の緊張感の中で、故郷を感じる人、伝統文化を感じる人、順調に遅れていく仕事への焦りとあきらめ、様々な思いが夢告館を駆けめぐっている。

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