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2005年7月27日 (水)

祇園祭りにこだわる

まもなく今年の祇園祭りが幕を閉じる
久しぶりに御輿洗いから山建て、巡行と見て、この祭りについて多くを学んだ
わかっていたつもりのことでも、実際に見て歩いてみると、いかに本に書いてあることだけじゃない歴史が多いかがわかり、またいかに本を読み込んでいないかも思い知らされる。けれどもこれが生きた歴史の研究・勉強というもの。
そこでしばらくは脇田晴子先生の中世京都と祇園祭に導かれながら、この祭りにこだわってみたいと思う。

最初に「祇園」の由来であるが、八坂神社は、藤原基経(836~891)が天神の霊威を感じて居宅を寄進して観慶寺(かんぎょうじ)を建てたことに始まるとされるが、これがインドで須達(しゅだつ)長者が、釈迦に対して祇園精舎を寄進した行為と類似していることによると言われている。
創建は、「二十二社註式」という神道書にひく承平5年(935)の太政官符によれば、観慶寺(祇園寺)を定額寺とする記録で、山城国愛宕郡八坂郷の一町に檜皮葺の三間堂と三間礼堂および五間の神殿と五間の礼堂があって、円如が貞観年間に建立したまたは、貞観18年(876)に円如が八坂に移してきたものを、その後、藤原基経が再築したといわれ、別に「東大寺雑集録」によれば、承平4年(934)に興福寺の円如が春日水屋を移して建立したとも伝わっている。その後天延2年(974)には観慶寺感心院が天台の別院として延暦寺末となるので、それまでは興福寺末であったこともうなづける。

御霊会との関係であるが、貞観5年(863)に、藤原基経が率先して御霊会をおこなっているが、延喜20年(920)閏6月23日には「咳病を除かんために、弊帛・走馬を祇園に奉るべきの状」「貞信公記」として祇園が登場し、延長4年(926)6月26日には「祇園天神堂を供養す、修行僧建立す」「日本紀略」となる。そして長保元年(999)に无骨(むこつ)法師が大嘗会の標山(しめやま)のようなものを引いている。
なお、観慶寺に置かれていたのは薬師像と観音像で、神殿には天神・婆利女・八王子が祀られていた。
祇園社に関係する事由として面白いのはその地理的な変遷である。同志社大学京田辺キャンパスの位置する普賢寺谷の西奥は天王と呼ばれており、祇園社との関係をもつ。また、清盛が遷都を企画した神戸の福原にも天王川があり、やはり祇園社との関係を伝えている。戦国時代の「二十二社註式」では最初に明石浦に垂迹して、広峰から北白川の東光寺を経て元慶年間(877~885)に現在の地に移ったと記しており、その真偽はともかく、移動の好きな神様だったと言える。
いずれにしても9世紀に遡る起源をもち、そこに「とつくに」(外国)から入ってくる咳病の神として存在していたということになる。

村山修一氏によれば、もとインドの土俗信仰の対象だった牛頭天王が、陰陽道と結びつき、宿曜道の星宿神として南部系密教の間に伝わり、新しい疫神の装いをもって洛東な進出した
特定の冤罪者と結びつかない新しい方式の御霊神
朝鮮半島に牛頭天王と蘇民将来説話があって、インドには牛頭山やそれに関係する起源説、ラマ教の畏怖させる像が牛頭で、インドのプリではラタ ヤートラーという山車の巡行があると言う。

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