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2005年8月

2005年8月31日 (水)

古代国家形成過程について思う

古代学研究170が届いた。林日佐子さんが「公立博物館の将来」として、展示や活用についての意識改革を促している。賛成である。
韓国から帰ってきた坂靖さんが「韓国の前方後円墳と埴輪」を書いている。最初に書いているように、「問題の立て方」が非常に難しいテーマである。その点で坂さんは冷静である。従来より繰り返されている議論へ行かないための困難な道を意識している。
「古墳とはなにかという宿命的な課題に取り組み」「古墳の検討はもとより、遺跡や集落、居館などの遺構とそれぞれから出土した遺物の総合的な検討が必要」だということ。
寺沢薫さんが「古墳時代開始期の暦年代と伝世鏡論」を書いている。7年ほど前に年輪年代による弥生時代の実年代への問題提起があり、数年前に従来と異なった放射性炭素年代測定法(AMS)による縄文時代から古墳時代にかけての実年代への問題提起があった。なぜかその後あまりその結果をふまえた歴史説明を聞かないが、寺沢さんは、この問題提起に対して考古学の立場から正面切って立ち向かい続けている。
鋤柄の専門時代ではこの問題提起とまともにぶつかる機会が少ないめ、これまで発言をおこなうことが無かったが、見習わなければいけない姿勢と発言だと思っている。
「しかるに昨今の斯界の状況には、こうした実践的試練をかいくぐることなく、机上で他者の土器や鏡の編年研究の図表化された結論部分だけを安易に繋ぎ合わせて組み立てることに早急で、あたかもオリジナルな編年案と暦年代観の保持に立って考古学的な事象を東アジア的に位置づけたかのような議論が横行すると感じるのは私だけであろうか。」
同感である。リアル資料にこだわり、そこからの歴史情報の取得法を見直すところから始めて、歴史的な見方を模索し、鍛える。また寺沢さんも書いているように、自然科学的な方法との問題は関わり方である。これも鋤柄が「文化財解析」の中で最も重視している点である。
寺沢さんの鏡についての表記は、考古学的な表現法の手本である。国家形成過程の説明の全てに賛同はできないが、業界人なら皆知っている寺沢節とあわせて必読のお薦め。なお同号に大槻瓊士さんの「電気技術者から見た放射性炭素年代測定法の問題点」がある。

羽曳野市で全長50メートルの前方後方墳が発見され、「庭鳥塚古墳」と名付けられた。時期は古墳時代前期(およそ3世紀後半から4世紀)で場所は古市古墳群の南約2キロ。現地説明会は土曜日。大阪で埋蔵文化財行政に携わっていた者として興味深い。
なぜか。大阪の古墳時代は中期(およそ5世紀)以降の話題が多く、あまり前期古墳については語られてこなかった。
さっそく森先生の「大阪府史」をひらく。茨木市将軍山古墳、枚方市万年山古墳、茨木市紫金山古墳、和泉市和泉黄金塚古墳、岸和田市摩湯山古墳、久米田古墳群、池田市娯三堂古墳、池田茶臼山古墳、豊中市待兼山古墳、弁天山古墳群、枚方市藤田山古墳、交野市妙見山古墳、八尾市西ノ山古墳、柏原市玉手山古墳群、松岳山、羽曳野市御旅山古墳(22面の銅鏡)、富田林市真名井古墳、河内長野市大師山古墳など。データは豊富にあるが、やはり古市と百舌鳥の巨大古墳が有名すぎたからなのであろうか。

1999年の公開講座で川をテーマに話をしたときに、これらの古墳と大阪府下の主要河川との関係を説明したことがあり、その後府下のある高校で話をしたときに、地域を限定して古墳時代を調べなおしたとき、大阪の前期古墳ももっと調べてまとめ直せば、奈良県だけで語られがちな古代国家形成過程についても見直しができる気がした。ちなみに和泉黄金塚は、池上・曽根遺跡周辺の弥生集落との関係で見る必要がある。考古学のレポートというものが、あくまで限られた情報によって作られているということの確認と、大阪の古墳時代前期研究の進化を期待したい。
なお、言うまでもなく森先生は和泉黄金塚古墳を発掘して古墳時代前期の社会の研究と三角縁神獣鏡についても問題点を明らかにした。考古学者の履歴は遺跡の発掘調査によって語られるという典型である。

2005年8月30日 (火)

夏バテを吹き飛ばす薬

たいていの人と同じように、鋤柄も複数の研究を同時にすすめて、その結果としての論文を書いてきた。もちろん最初からそうだった訳ではなく、学部の時は卒論が一番だったし、修士の時は修論が一番だった。
大阪に就職してからもだいたい同じような感じで、毎年作成した報告書があって、それ以外は研究会の雑誌に短いレポートを書くくらいだったので、研究が重複することはなかった。ペースはだいたい年間2本くらいで、1本を仕上げると数ヶ月は思考が止まった。

31歳で歴博の共同研究に参加してから少し状況が変わった。
これまでにない大きなものを書くことにしたので、数ヶ月ではすまない研究期間が必要だった。けれどもその間も、別のテーマでの依頼が寄せられ、ひとつのことに専念することが物理的にできなくなっていった。
その結果、1本のレポートを仕上げてからの休みが無くなり、延々とレポートを書き続けるようになった。あたかも同時に複数の思考をおこなっているかに見えた。

そんな頃、よく後輩から、どうしてそんなことができるのかと聞かれた。
「もちろんそんなことは出来ないよ。どちらかというと、断続する複数の思考を連続的におこなっているのかなあ。一瞬一瞬は別のことを考えて、時間をおいてそれをつなげるのかなあ」と言っていた。
だから思いついたことを書くメモ帳は必携だった。(昔はよく電車の中で草稿を書いて、それを夜帰ってから原稿にして、翌日の電車の中でそれを推敲するのかパターンだった)
結果として、違ったテーマのレポートが複数できあがっていった。
さらに、複数のテーマ・視点・材料・時代・地域が同時に頭の中に存在することになったので、それらを融合させる発想もまたうまれることがあった。

その中でやはり一番たくさんのテーマを森先生からもらった。そして執筆の場と発表の場をもらった。広い地域と分野に目を配り、総合的に考えるスタイルは、ここで鍛えられたと思う。

もうひとつ、発掘調査という仕事を、事前調整からレポートの作成と展示までの全ての工程でおこなってきたこと(それも20年近く365日通じて)も、異なったジャンルの仕事(ある時期までは、その中のひとつひとつは一見するとバラバラでなにをやっているかまったくわからないこともあるので、周囲がとまどうこともあったが)を同時に走らせて最終的に仕上げる訓練になったと思う。

非常にスローペースではあるが、森浩一研究をすすめている。
森先生のこれまで蓄積されてきた考古学と歴史遺産の情報は、戦後の古代史を学ぶ上でとてつもなく重要なものばかりである。いや古代史に限らず、考古学と歴史学を学ぶために必要な考え方も充満されている。もちろんキーワードは地域学と遺跡学である。

この膨大な森先生の歴史遺産情報を、地域の見方、遺跡の見方としてデータベースすることが、鋤柄が文化情報学部でおこなう大きなテーマだと考えている。
そのために、春日井シンポジウムで作成された森先生の著作目録から整理をはじめている。それぞれの年齢をあわせてみると、あらためて森先生の仕事量の多さにおどろく。かつてはYさんと40歳で100本を目標に競い合ったものだ。それは達成したが、森先生は47歳で250本を越えている
夏バテを吹き飛ばす薬
大きな励みになる

2005年8月29日 (月)

ひとあし早いコロキアム

10時半に寒梅館の学生支援センターで10月1日におこなう京都府埋蔵文化財研究会の舞台打ち合わせをする。11時から今出川の広報課で大名古屋イベントの打ち合わせをおこなう。S君の絵コンテをもとに、必要なコンテンツの手配についてセクションを越えて協力体制が組まれる。大学で学ぶ魅力、京都で学ぶ魅力、同志社で学ぶ魅力を精一杯伝えるために。

13時から寒梅館でデジタルガイドブックのコンテンツの打ち合わせをIさんとおこなう。とにかく上京の歴史について詳しいひとで、今回は京都御苑のさまざまなコンテンツで、デジタルガイドブックにのせる項目や内容についていろいろ教えていただく。二条城の御殿についてや橿原神宮の建物についてなどの逸話もいっぱい。いずれ携帯電話で詳しく。そのまま上京区役所で2日の確認をして、再び広報へ。15時半頃田辺に着く。

16時から上京プロジェクトの全体会議。工学部のK先生のチームと合同で、これまでの計画の整理と、これからの進め方についてを話し合う。鋤柄チームは、プロジェクトのコンセプトとコンテンツの整理、および10月はじめのオープンに向けての中間形状について提案を協議。
K先生のチームはデータベースのシステムとサーバー運営について状況を報告。
課題を整理して個別会議へ移行。
大きな課題は2つ。ひとつめはプレゼンする歴史情報コンテンツの分類。コンテンツを提供する目的を確認しながら、webを見る人の興味も配慮した分類について3回生と院生で議論百出。ふたつめは歴史情報コンテンツの時代区分。
やはり具体的なテーマがあって、それを形にしていくための議論は生産性があって良いなあと思いながら傍聴。

実はこのふたつは、歴史資料をテーマにしたときに、いつもぶつかる古典的なテーマ。これまで多くの先学がこれに挑み、結局のところ誰もこの壁を乗り越えたものはいない。
どこかで折り合いをつけないとおさまらないテーマであるが、Mさんを中心とした3回生がさまざまなケースをあげていき、院生が解決の方法を提案する。絵に描いたような理想的な進行がみられる。みんなたくましくなったなあと思いながら傍聴。
問題点の把握とそれを解決していくための論理と方法の整理の生きた勉強
1回生にとっては実践型のひとあし早いコロキアム
1回生をふくめたwebデザインとページレイアウトおよびスケジュールと役割分担の確認を終えたら8時をまわっていた。会議のまとめを1回生のNさんに頼んで外へ出ると風が涼しい。
田辺坂を下りる。
田んぼの稲がすっかり大きくなっているのをNさんが発見。
気がつけばもう9月はもうすぐそばまで来ている。

2005年8月27日 (土)

なにわのことは夢のまた夢

大阪歴史博物館でおこなわれている、特別展「東アジア中世海道 ―海商・港・沈没船―」を見に行く。
例によって移動時間を使って10月のネオカデンのレジュメを作成。のつもり。
谷町四丁目を登るとまぶしい青空がひろがる。今日の企画は3回生のたにおくんが陶磁器に興味をもったことでそのレクチャーを兼ねたもの。
博物館の床下のガラス越しに見える難波宮時代の建物の柱穴に、このすぐそば発掘していた大阪時代を思い出す。
集まった学生くんたちに聞くと、意外にもこの博物館が初めてのものが半数。前にも書いたが、京都に居ると、それだけでいっぱいいっぱいで、すぐ近くにたくさんの勉強の種があることに気づかない。京都も良いけれども、大阪も奈良も神戸も全部相手にする気がこれからの同志社の歴史遺産活用研究には必須。
それはともかく、久しぶりにゆっくり陶磁器をみることができて、ひさしぶりにK博の○さんやT市の○さんにも会い、とても有意義な時間を過ごすことができた。
最初は紀淡海峡の青磁碗群。水の子岩と共に西日本の沈没船資料の代表。かつて青磁碗の編年の基礎がこれらの資料群からつくられた記念碑的な展示。それから奄美大島の海底遺跡資料。東アジアの中世海道を象徴する資料群におもわずうなる。
次は中世につくられた地図の展示。それを創りあげても検証することができなかった時代に、製作者の熱意に感動を覚える。
新安・莞島・道里浦・飛雁島の沈没船資料がならぶ。ついで対馬の海神神社。
記憶違いがなければ、80年代のはじめに京大の洛友会館で新安の報告会がおこなわれ、行った。90年代の前半には木浦と対馬を訪ねた。青い海が思い出された。
目立たないが、知っている人は知っている結桶の起源と言われる博多の12世紀の井戸枠や中国の銭を日本で鋳造した鋳型のオールスターキャストも並べてあり、光っていた。
博多と一乗谷は展示施設があるが、鎌倉と堺はこれらの資料の常設の展示が十分ではない。なんとも惜しいことである。
90分間堪能した後、難波宮跡の公園を見たことが無いとのことで、南へ出て5世紀後半とされる大形倉庫復原の脇を、その理由の説明をしながら通り、中央大通りの歩道橋にあがる。ここから東と西をみると、上町台地の地形が一番実感できるからである。
森ノ宮へ降りる途中、細川邸の井戸跡(越中井)に出会う。
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+34.40.47.59&lon=+135.31.36.24&fm=0
そういえば、大阪時代、秀吉の大坂城下町の大名屋敷の配置で、本では見てきたモニュメントである。もっともっと見て回らないといけないなあと思いつつ森ノ宮の地下へ降りる。

○本日の参考データ
大阪の史跡案内には大阪市道路公社のサイトが便利
http://www.road.osaka-city.or.jp/orc/rekishi/index.htm

2005年8月26日 (金)

地域へのこだわりと地域からの視点

鋤柄の歴史遺産活用の原点が森先生の「考古学は地域に勇気を与える」であることは、これまでも何度か言ってきたことであるが、昨日来た「観光考古学2」もぜひそれをふまえてもらえたらと思う。遺跡公園の活用も全国を普遍化したものではなく、地域ごとの個性や特徴を活かしたものであるべきで、先ほどまで見ていた東京系のテレビ番組は、関東を襲っている台風のすさまじい状況を写していたが、今日の関西はみごとな好天。
現代社会のような情報環境がなければ、とても関東の様子は信じられない。生活文化とは、基本的に自分の見ていること、自分の経験したことからつくられるものであって、そのもっとも典型的なものが風土や地域性といったもの。リアリティというものもここから生まれる。
よく例にあげるが、平安時代の文化を考える時、注意しないといけないのは、その原点が京都にあること。平安時代の文化を物語る史料はほとんどが京都にいて書かれたものばかり。それはあくまで京都の風景と京都の気候と風土を前提にして再現されるべきもの。
高校時代まで長野県で生活をしていた。その間、わずかではあるが、平安時代の文化を学んで一番違和感のあったのが季節感だった。なにしろ長野県は南の伊那谷でも5月の連休まで山に雪がある。里の人々は谷に残ったその雪の形を見て苗代をつくる時期を知ると言われている。香炉峰の雪どころではない。
その後京都で学生時代をすごし、関西で生活をするようになって、ようやく平安時代だけでなく、畿内を中心としたさまざまな時代のさまざまな人々の歴史になんとなくなじんできたような気がしてきている。同時に畿内以外の地域についても、より臨場感のある叙述が意識できるようになった。いろいろなところへ行って、たくさん見て、たくさん吸収した結果だと思っている。良く言われることではあるが、歴史学は蓄積の学問である。現在進めている仮想時空間クリエーターの背景には、そういった蓄積があって、デジタルもVRも、あくまでそういった蓄積があってこそ意味をもってくることを何度でも言わないといけないと思っている。
文化情報の学生君たちも、夏休みを利用して、たくさんの出会いや見聞をひろげ、自分の引き出しをたくさんつくってほしいと思う。

今日はそんなVRを象徴するコニカミノルタの非接触3次元デジタイザVIVID910の実験をした。
http://konicaminolta.jp/products/industrial/instrument/3d/vivid910/
専用の三脚(テレビカメラの乗るようなりっぱなもの)を組み立て、その上に本体を設置。マニュアルはわかりやすく。手順通りにセットをすすめる。正面の上下に2つの穴があり、下の穴からレーザーが発射され、それを上の穴(レンズ)で受け止める。レンズはマクロと標準と広角があり、最初は標準で挑戦。大分前に西安で買ってきた兵馬俑をモデルにして、スイッチオン。しばらく内部で初期調整の動作音がなる。裏面のモニターにセットアップのメニュー画面が出たら、オートフォーカススイッチを押してピントを合わせ、レーザーを照射する。
次にパソコンをスカジーで接続して専用のソフトからリモート。これもいたってわかりやすい仕上がりのソフトで、インポートコマンドでVIVIDとつなぐと対象の映像画面が表示され、パソコン上でピントをあわせ、スキャンボタンを押すとレーザーが照射される。スキャンがおわると、モニターにカメラ映像とデータ映像が現れる。これを確認後、コンバートボタンを押すと、4方向からの姿に分けられたソフトのウィンドに3次元表示された兵馬俑が姿をみせる。ワイヤーフレームや写真を貼り付けたものなど、ひとおりの表現が可能。角度を変えて撮って、合成もできるそうだが、今日はここまで。
撮影の背景はまったく無視されるので、とくにスタジオなどは必要ないようで、今回の場合は、標準よりマクロの方が、同じ大きさでも精度の高いデータ取得になるようだった。

隣の部屋では上京webのデザイン画を持ってきてくれたAさんがKくんと10月合宿の調整をしている。お疲れ。
さあ、これを持って9月は東へ西へ。

2005年8月25日 (木)

大阪の地下鉄にはジャズが似合う

10時からネオカデンフォーラムの打ち合わせに対応。その後11時半前に、上京webのURLの相談でシステムに滑り込む。結論は明日ということで田辺をあとにして久しぶりにイケメンカフェでランチ。
今日は珍しく客が少なく、イケメン店長も夏休みだという。久しぶりに少しゆっくり食事をしならメールチェック。0930大名古屋イベントのキャッチをHさんへ送る。それでも10分足らず。食事を終えて学生支援センターへ10月1日の京都府埋蔵文化財研究会の会場の準備をお願いに。
13時40分、広報でONE PURPOSEについての簡単な打ち合わせをしながらSくんを待つ。
14時過ぎ、Sくんと一緒に再びイケメンカフェにもどって打ち合わせをする。Sくん(別名カントク)に0930のプレゼンの演出とムービーの制作を頼む。あまり似合わないが、アイスコーヒーを飲みながら一緒にプレゼンテーションを考える。対象を明確にしてコンセプトを整理していく。
テーマはふたつ。大学で学ぶ楽しさと同志社大学の魅力。資料を前において、会議中や電車の中で書き込んでいたキーワードを説明する。京都は伝統とチャレンジャーのコラボが風土。発掘調査事務所のような、社会と直結したプロジェクト型の教育に注目とか。田辺でも上京でもおなじみの形。「そういえば今、この状態がそうやなあ」と思わずつぶやく。
キーワードを線で結んだり離したり。その度に相互のイメージが交錯して形ができあがっていく。大体の流れを共有したところで15時。Sくんは、週末をつかって、コンセプトを効果的にアピールするコンテンツをイメージアップする段取りで、月曜日の打ち合わせの予約をして別れる。
15時半、アポの時間より早いけれども府庁前を下がったS印刷で京都府埋蔵文化財研究会の資料集の打ち合わせ。業界印刷に慣れているので話が早い。打ち合わせを終えてそのまま新町を下がる。途中でなにか歴史遺産のネタは無いかときょろきょろしながら歩くが、めずらしくなにも出会わないまま御池へ。
やはりめずらしく時間がはやいので、思いついて九条のZへカットの予約を入れる。やれやれ。
地下鉄に降りながら、突然「大阪の地下鉄にはジャズが似合うかなあ」と思う。それじゃあ京都の地下鉄にはなにが似合うのだろうか。
さあ、明日はいよいよレーザーの実験をしよう。

○本日の情報

12月3・4日 第17回 関西近世考古学研究会「石から見た近世文化」(羽衣国際大学)
10月1日 東京の津田ホール会議室で「観光考古学2」が開かれるそうである。考古学にこだわる必要はないと思うが、歴史遺産活用は重要なテーマなので成果に期待したい

2005年8月24日 (水)

整理整頓

大学というところは、夏休みや春休みをつかって大きな整備工事をおこなう。京田辺キャンパスでは今、図書館が大きなテントに囲まれている。これまでフル稼働してきた図書館もしばらくは整理整頓の期間。
このところ秋学期にむけてさまざまな整理整頓をしているが、日頃の怠慢がたたってなかなかおさまりがつかない。
めずらしく原稿が無い(と思う)ことが(1つあったかも)幸いしているが
主体的におこなっていることと、流されていることと、整理をしないといけいないと思いつつの日々
・京都府埋蔵文化財研究会では遺跡GISと遺跡情報の公開に挑戦している全国の埋蔵文化財センターの紹介
・KプロジェクトwebはKの深い歴史のもっと濃い、もっとわかりやすい紹介
・Kプロジェクト携帯は、古代・中世・近世のタイムトラベルへの挑戦
・Kシンポジウムは、ものづくりの原点が充満したKの魅力の紹介
・上京知恵袋は生きた上京の文化と現在との調和と伝達
・けいはんなプロジェクトは携帯電話による歴史遺産活用
・名古屋イベントは京都と同志社で学ぶ面白さと可能性
・O企画はデジタルとアナログのコラボレーション
・S市でのレーザーによる歴史遺産アーカイブの実験
・Y市の調査はこれからの埋蔵文化財と考古学調査の実践的な提案
・K町委員会
これ以外に、設定調整の必要な機器環境と継続する一般校務はともかく、同志社大学遺跡情報公開システムのデータ更新や寒梅館展示システムデータの更新もしないといけないなあと思いつつ

○本日の気になるレポート
牛山佳幸2005「信濃温泉史についての雑考」『信濃』57-8
倉澤正幸2005「小県郡における信濃国府推定地に関する考察」『信濃』57-8
土屋長久2005「碓氷峠熊野神社蔵「今熊野」の再検討」『信濃』57-8
飯沼賢司2004『環境歴史学とはなにか』山川出版社

2005年8月23日 (火)

ようやく少しずつ復調

8月の初めにあった出来事のおかげで結局中旬までほとんどなにも手につかなったかったが、なんとか復調の兆しが見えてきている
なにごとも体が資本とは良く言ったもので、いつのまにかそんなことを言う歳になったのかと、しかしそれもまた自然の流れと言うことで、もうしばらくは動きが鈍いとは思う
さて
先日Tさんとweb話をしていたら
「先生のブログは長いですね」と言われたので
「それは、みんながこれからたくさん書かなければならないレポートの手本になるつもりでも書いているから」と答えておいた
いろいろなブログの形があって良いと思うが
せっかく文化情報学部なので普通のブログではなく
データの蓄積がそのままなにかのデータベースになれば面白いのではないかと
思って書いている
できれば、なんでもいいから、毎日のテーマにしなくもいいので
そんな視点ももってもらえたらいいかなとも思う
台風が近いようで前線の影響で田辺は雨空だった
一斉休暇が明けて、まだ夏休みは前半の途中だが
キャンパスに学生くんたちの姿がけっこう見える
一昔前の夏の田辺はひたすら静かだったが
ローム館ができて夢告館ができて
けっこう良い感じのキャンパスになってきていると思う
夕方から今出川
こっちはいたって普通の街中、いつもと変わらない風景がある
ケンブリッジからロンドン大学に移動した感じって言うと大げさかな
同志社は今出川だけでもなく京田辺だけでもない
両方あっての同志社だと思った
けっこう良い感じのキャンパスになってきたと思う
文化情報の学生君たちには、その両方を堪能してもらおう

2005年8月22日 (月)

大原への道「若狭街道」

若狭湾の中央に、ちょうど伊勢湾の知多半島と渥美半島をさかさにしたような半島がある。西が大島半島で、その先端に有名な大飯原子力発電所がある。東は内外海半島と呼ばれ、先端に近い外海側に奇岩で有名な蘇洞門(そとも=この名称は、かつて日本海側が対外交流の正面だったことをしめすと言われる)がある。この蟹のはさみのような半島に囲まれたその内海は、絵に描いたような良港である。若狭を代表する港町、小浜はこんな環境にある。
古代以来、この小浜から京へ多くの産物や情報が京に運ばれてきた。
多くの産物や情報は、この小浜から北川沿いに滋賀県境の山へ向かう。一般に県境は峠におかれる場合が多いが、北川は若狭から最も深く内陸に入っている川のため、琵琶湖に注ぐ石田川との間を区切る水坂峠を越えるのは、すっかり滋賀県側に入った後になっている。そのまま道を下れば、鴨稲荷山古墳に象徴される湖北の一大拠点の今津町から高島町へつづく平地。水の道を選べば、京へはここから琵琶湖を一気に南下する。
一方水坂峠を下りてぶつかる石田川は、途中で二つに分かれさらに南にその支流をのばす。この支流をさかのぼると、檜峠という低い峠を越え、南へむかう別の川に出会う。これが北近江を代表する安曇川の上流であり、さらに上流をさかのぼると葛川となる比良山塊麓の水道である。比良山の東の渓谷をほぼ一直線に南下するこの道は、足利義晴や義輝が京の戦乱を逃れた朽木氏の朽木谷としても有名で、多くの歴史遺産が残されている。近世の「若狭街道」である。ちなみに「鯖街道」は小浜から根来峠を通って鞍馬へ出る道。
実は、大原はこの道を南下して、花折峠で葛川と別れて、途中峠で近江と別れ、京に入った最初の集落である。言い方を換えると、若狭から京へ入る重要ルートの入り口にあたっていたことになる。
ただし朽木には奈良時代の杣の記録もあるというから、このルートの中核は、本来は安曇川に沿ったネットワークが中心で、あくまで琵琶湖に向いていたものと思う。
平安時代から鎌倉時代は洛外の遁世の地。室町時代以降は京と日本海をつなぐ道の京側の玄関口か。

2005年8月21日 (日)

新島旧邸

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.08.17&lon=+135.46.02.57&fm=0

2005年8月20日 (土)

10月合宿の携帯ガイドコンテンツ

我が文化情報学部では、10月に3回に分けて滋賀県にあるリトリートセンターで研修合宿を予定している。
その参加日程の調整を学生プロジェクトチームがおこなっているが、その担当がKくん。心優しいミュージシャンだが、きっちりした仕事をしてくれて、3回におよぶ参加の人数割が決まった。おつかれい
ということで、合宿の二日目に予定している大原と鞍馬について
せっかくなので少し案内コンテンツを(以前に少ししたものに加えて)

今回は観光ガイドバージョンとして、自宅の図書整理で出てきた古い少々古い某ガイドブックを参考に

・鞍馬
 叡電の駅を降りて左手直ぐに仁王門が見える。ここから本殿まで約1キロと言うが、歩いて登る以外にケーブルカーも。
奥の院へは本殿からさらに800m。その途中に義経が天狗から剣を習った木の根道があり、背比べ石や息継ぎ水など。
奥の院魔王尊は、650万年前に金星から舞い降りたと伝える。
 由岐神社の拝殿は1610年に豊臣秀頼が再建した重文。建物中央を石段が貫くのが見所。
(グルメ)多聞堂の牛若餅。杉々堂の山椒餅。鞍馬飲料水の京のしずく。雍州路の精進料理。渡辺木の芽煮本舗の佃煮。くらま辻井の佃煮。江戸時代の炭問屋で重文の匠齋庵の湯豆腐。油屋食堂の山菜そば。くら満荘の京料理。

・大原
 最澄が比叡山東塔の梨の木の下に仮堂を建て、坂本の梶井に里坊をおいたのが始まり。船岡山から移転。「梶井門跡」と。本堂内陣の舟底天井が有名。
(グルメほか)志野のドレッシング。土井志ば漬本舗。富しばのジャム。芹生の京料理。魚山園の京料理。呂川茶屋の炭火焼きだんご。工房・藍の館。志ば久の漬け物。味噌庵の味噌。大原茶屋の竹細工。泉仙の京料理。池谷茶屋のタケノコ漬け物。

以上は後日、携帯サイトに再編集の予定

ところで、とある京都の保存版ガイドブックをみていたら
目次の順番は次のようでした
 嵐山・嵯峨野
 高尾
 太秦
 河原町
 新京極
 木屋町・先斗町
 四条通り
 祇園
 清水寺
 岡崎・南禅寺
○御所・下鴨
(虎屋菓寮、梨木神社、イーサン、わびすけ、ギルドハウス京菓子、きよす、出町ふたば、童夢、カーサビアンカ、クーシン、エトランジェール、Meple tree、カフェはなごぼう、リュ・エルコ、The King and 1)
 銀閣寺・哲学の道
 白川通り
 修学院・宝ヶ池
 北山通り
 大原
 鞍馬・貴船
 大徳寺・鷹峯
 金閣寺・竜安寺
○西陣
(北野天満宮、田丸弥堀川店、近為、鶴屋吉信、西陣織会館、清明神社、一条戻り橋、ととや、釘抜き地蔵、西陣鳥岩楼、五辻の昆布、千本釈迦堂、たわらや、三平餅、長五郎餅本舗、老松、ワンダーカフェ、萬春、スケロク、ぱんぷるむうす、豆富百選、この花、天き)
 二条城周辺
 壬生・島原
 京都駅
 東福寺・泉涌寺
 伏見
 宇治
 松尾・桂
 大原野・長岡京

・ちょっとよりみち
 保津峡
 三条通り
 百万遍
 北大路
 上賀茂
 八瀬・比叡山
 花脊
 梅小路
 山科・醍醐

さて上京は微妙か

2005年8月19日 (金)

京都御苑を歩く1

18日は午前中に所用をすませ、午後から委員会で京都駅の近くへ
その後、地下鉄で丸太町まで上がり京都御苑の南を歩いて京都市歴史資料館へ
周知のように、京都御苑の南には、平安京以来の通りに加えて、秀吉の手によるとされる南北の通りが短い間隔で並ぶ
烏丸から西へ車屋町・東洞院・間之町・高倉・堺町・柳馬場・富小路・麩屋町・御幸町そして寺町
左手に京都御苑、右手に町並みがつづく。京都を象徴する風景と言っても良い。
このうち丸太町側の京都御苑の入り口は3カ所あって、堺町御門(
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.02.91&lon=+135.45.47.40&fm=0)
と富小路口。もうひとつは間之町と東洞院の中間。丸太町の南にならぶ通りとは微妙にずれている。
実は、今でこそ京都御苑と呼ばれて京都御所を含む空間を石垣で囲む公園となっているが、ここは江戸時代には、禁裏御所(土御門東洞院殿跡)を囲む形で公家の屋敷が建ち並んでいた場所で、おおむね西半分は九条・鷹司・一条・近衛・二条といった摂家が広大な屋敷を構えていたが、仙洞御所を除く東半分は寺町まで中小の屋敷が密集し、現在の風景とはかなり違った雰囲気だった。
(現在の京都御所は永禄13年(1570)から作事が始められ、秀吉の時代に周辺に公家屋敷が集められ、その後宝永5年(1708)の京中大火で御所も類焼した後、烏丸東、丸太町北の民家が鴨川東に移転させられ、現在の規模の原型ができたと言われている)
話を戻せば、堺町御門はこういった公家屋敷空間の中で、直接御所に到達する道に設けられた門のひとつで、ほかにも北に今出川御門、御所のすぐ北西に乾御門、西に中立売御門、蛤御門、下立売御門、南が堺町御門のみ、東が寺町御門、清和院御門、石薬師御門のあったことが、江戸時代の絵図に見えている。ただし、これらの門と現在の門の場所は必ずしも一致しておらず、おそらくそれぞれの屋敷の入り口との関係で現在より御所側に入った位置にあったものが多い。
また富小路口の前身?となる通りは、御所へ通じないまま寺町へ抜けるものとなっていたようであり、堺町御門の西にある入り口は閑院宮の屋敷があり、存在していなかった。
現在の風景からは想像できない近世の京都の姿がそこにはあったことになる。江戸時代の京都は、政治の中心が東京に移ってしまったことにより、歴史の表舞台からは姿が見えにくくなるが、公家と文人を中心とした独自の文化を醸造していた。
迎賓館の調査でもさまざまな発見が報告されている。近世の京都御苑はその象徴と言える。
京都御苑を歩きながらを歩きながら、そんな歴史情報のわかりやすい提供ができたらと思いながら、携帯で写真を撮る。
その後、キャンパスプラザ京都でW先生とHさんとKさんと10月の研究会の打ち合わせをして、とある研究会の懇親会にちょっとだけ顔をだす。

歴史遺産名:鷹司邸跡
時代:江戸時代
位置1:京都御苑
位置2:http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.06.78&lon=+135.45.48.74&fm=0
五摂家。家祖は近衛兼平。家名は鷹司室町の邸宅による。一時とぎれるが天正7年(1579)に再興。維新後は公爵。
堺町御門を入ってすぐの正面に碑が建つが、幕末の内裏図によれば、堺町御門のは丸太町から少し奥に入った位置にあり、その西に九条殿、東に鷹司殿があった。鷹司殿の東築地はそのまま北へのびて御所へ続く道に面しているが、東築地は門を経ずして寺町へ続く小路に面していた。
画像:鷹司邸図?


○九条邸跡
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.05.63&lon=+135.45.43.95&fm=0
五摂家の一つ。明治維新に至るまで代々摂関、明治後には公爵。
鎮守神だった厳島神社と苑池が残る。重要文化財の石鳥居は、笠木が唐破風となっていることが有名。

2005年8月18日 (木)

加川良の手紙

K先生メールありがとうございました。
おたずねの飛鳥井家とは、系図的には、藤原道長の子の頼道の子の師実に16人の子がおり、その一人である忠教の曾孫の飛鳥井雅経(1170から1221)が祖とされています。鎌倉時代を起源とする、和歌と蹴鞠の二道に秀でた貴族です。
岩波の日本史辞典によれば、彼は祖父の頼輔から和歌と蹴鞠を学んだとも言われ、父が配流された後、関東へ下って源頼朝・頼家に厚遇され、大江広元の娘と結婚します。しかしその後蹴鞠によって後鳥羽院(1180から1239)に招かれ上洛して近臣となり、院歌壇の形成とともに歌人として成長し、新古今和歌集撰者の一人ともなります。
藤原定家らの京都歌壇と源実朝らの関東を結んだ特異な人物だったと言えます。
また飛鳥井家の公家の格は、摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)、太政大臣を極官とする青華家(三条・徳大寺・西園寺・今出川・花山院・大炊御門・久我)、大臣家((正親町三条(嵯峨)・三条西・中院)に次ぎ、大納言を極官とする羽林家とされています。ただし、鎌倉・室町幕府と良好な関係にあったようですから、権力側に対しては、一般的な公家の格では語られない影響力を持っていた可能性があります。
さて、現在の白峰神社の位置との関係ですが、室町時代後半(16世紀)の風景を描いた「洛中洛外図」に、その屋敷が描かれています。また応仁の乱頃の姿を描いたとされる「中昔京師地図」(江戸時代)には北大路の小川と堀川の間に「飛鳥井殿」が描かれており、室町時代からこの場所に飛鳥井家の邸宅があったことは確かでしょう。
ただし、平凡社の「京都市の地名」によれば、飛鳥井家の「別邸」となっており、北村季吟の「菟芸泥赴(ツギフネ)」(江戸時代)によれば、「今出川小川の西、(小川に架かる)羅漢橋の詰なるを飛鳥井町という。飛鳥井殿の家ある故なり、ここを飛鳥井というにあらず」とあって、飛鳥井の井泉は万里小路二条(柳馬場二条)にあるとしています。
それでは飛鳥井家の本拠はどこにあったのかというと、江戸時代の飛鳥井殿屋敷は御所のすぐ北東で有栖川殿に隣接してあったことが知られていますが、中世の屋敷についてはよくわからず、新町キャンパスも近衛家の別邸で、おそらくその起源は15世紀と考えられますから、応仁の乱に際して一時京を離れた貴族達が、再び京に戻ってきた時、足利幕府の権力が集中していた上立売小川から室町の周辺にそれを支える人々の屋敷が整備されていき、飛鳥井家も、幕府に近い公家としてこの場所を確保したのではないでしょうか。

と言うことでweb用のレイアウトキーワードとしては・・・・

歴史遺産名:飛鳥井家別邸
位置情報:今出川小川西入る
位置情報2:北緯 東経
時代:室町時代・安土桃山時代・江戸時代
人物名:飛鳥井雅経・飛鳥井雅親・北村季吟
関連史料:洛中洛外図・菟芸泥赴
関連遺跡:羅漢橋・飛鳥井
バス停:堀川今出川
画像:洛中洛外図

2005年8月17日 (水)

岬めぐり

山本コータローの「岬めぐり」を聞くと能登半島をイメージすると言ったら
家のものは太平洋側のどこかでは、と言う
「戦争を知らない子供たち」を聞くと、ついくちずさんでしまう
つい、懐かしのメロディーを最後まで見てしまった・・・

休養を兼ねて自宅の部屋の大掃除をおこなった
今年の初め頃から、色々な場所に本を移してばかりいて
4月からは、日々の生活に追われてまったく整理できなかったので
すっかり自宅の部屋が機能不全になっていた

この仕事は家もまた仕事場なのでちょっとこれでは困ると
書棚を端からあらため、クローゼットの中にもぐる
懐かしい資料がたくさん出てきて、その度に手が止まるのは皆同じ
クローゼットの奥には図面ケースの束が納められていた
そこから方眼紙やトレーシングペーパーや
なんと、インスタントレタリングやスクリーントーンも出てきた
懐かしい

そして
こまかな実測図とそれを縮小してレイアウトしたものとトレース図も出てきた
そう言えば、昔は、実測やトレースにこだわったものだ
実測もレイアウトもトレースも自慢だった
たくさんの時間と労力を費やして実測をしてトレースをして
スクリーントーンを貼って
できあがったときは感動ものだった

けれども、増加するデータ数と分析(シミュレーション)過程に対応するために
1987年頃、画像対応のカード型データベースを使うようになった
今日、それで作成した大阪府下の平安時代土器を集成したカードもでてきた
確か、O社のハンディスキャナで画像を取り込んだ もちろん白黒
懐かしかった

今や実測以外はスキャナとイラストレーターでだれでも簡単にできる
実測もさまざまなスキャナでおこなうことが可能になってきている
これまで以上にしっかり遺跡を見ることに時間を費やすことのできる環境が整ってきた
「考古学は地域に勇気を与える」(森浩一)を実践して新しい研究をすすめ
考古学が歴史学として、本格的に多くの提案を社会にする時代は近い

もうひとつ

書架をテーマと地域別に整理していると
たくさんの論文の中から、これまでさまざまな意見を交わしてきた友人や先輩、先生がたの顔が浮かんでくる
歴史学の論文は、科学としての客観性も必要だが、個々の歴史観が反映されていないと意味が無い
歴史学の講演は、その人の歴史観を見て聞くことができるから面白いのである
ゆえ、これから歴史を学ぼうとする人は、論文の字面を追うのではなく、それを書いた人を見て、話を聞いて、その人を思い浮かべながら、その人が何を意図してこれを書いているのかを考えながら読むのが良い

9月と10月は研究会の季節でもある
これから歴史を学ぼうとする人は、自分がこれはと思った先学の参加する研究会に臆せず行こう、めぐろう

2005年8月16日 (火)

宮城地震と大文字送り火

宮城を中心に震度6弱の地震がおこる
関東でおこった地震の記憶も新しい
被害の報道が痛ましい
神戸大学のT先生によれば、平安時代の史料にもさまざまな災害の記録がみえると言う
1000年後の歴史家は膨大なブログを分析するのだろうか

今日は京都の五山の送り火である
(けっして大文字焼きではない)
三上隆三さんの「渡来銭の社会史」(中公新書)が非常に面白い

おおむね室町時代に始まったとされるが、起源は不明という
相国寺の横川和尚が足利義政のために考え出したとも言われるが
室町時代という文化がこれを庶民のための宗教行事に転化させたと
お盆で俗世に滞在していたご先祖様があの世に帰る見送りの火である
この行事は明治5年(1872)12月の太陽暦採用まで太陰暦の中でおこなわれていた
太陰暦は月の満ち欠けの動きを一ヶ月の長さにあてたもので、十五夜が一番大きく、日没と同時に東の空に月が顔を出す
しかるに月の出は、それから毎日1時間ほどずれておくれるようになり
それが十七夜(立ち待ち)、十八夜(居待ち)、十九夜(臥し待ち)、二十夜(更け待ち)になったと言う
ゆえ、十六夜には日が沈んでから月が出るまで1時間、空に明かりの無い時間が生まれる
五山の送り火は、この完全な暗闇の中で点灯され燃え、その中でおショライさん(先祖の精霊)はあの世をめざす
そして送り火が燃えつくした頃、東の山から月が明るく顔を出す

京都五山の送り火は、そんな自然と一体化した行事だったという
人間と自然との関わり方をもっと真剣に考えなければならないと思う

例によってメールと掲示板とメーリングリストとファイルサーバーで仕事をしながら久しぶりにベランダの掃除
なお、江戸時代の風景画には、現在の送り火以外のオブジェが描かれている

☆さまざまな情報

○「いもの研究」14より
9月16日(金)博多鴻臚館跡の梵鐘鋳造遺跡見学会
10月1日(土)鋳造遺跡研究会2005「日本古代の鋳物生産」

○考古学フォーラムの案内より
9月3日(土)安城市文化センターで「地域づくりと埋文担当職員の任務」
今的な良いテーマだと思う
8月20日(土)豊川市:三河国府跡確認調査現地説明会

2005年8月15日 (月)

確かなことや本質的なことへのこだわり

同志社大学では、毎年8月のうちの1週間が全学休校になる。
今年はそれが今週である。
生協も含めて休みになるので、校内はほとんど人がいなくなる
とは言え
なにかかにやで出てくる人もいないわけではなく
今日、ちょっとした用事で行ってみたら、いきなり文化情報の学生に会った
サークルだそうだ

工学部のK先生と上京区のプロジェクトの件で短い打ち合わせをする
技術面のスペシャリストから、webにとって最も必要で大切なことは
コンテンツとコンセプトだと言われて
あらためて、それが本業の立場にあることの重要性を実感する

どうもこの数年、成果の見えやすい多くのプロジェクトを一度に走らせるため
確かなことや本質的なことへのこだわりを脇においてきたきらいがないではない
とは言え
今年はしかたがないのではとも思いながら
MKにもどり
確かなことや本質的なことへのこだわりが形になったものたちを目の前にして
時間がかかっても色あせない仕事の大切さを実感する
大学と言うところは常に学びの場である

今日は涼しかった
秋は近いか

2005年8月12日 (金)

東山道へ

今出川地点の発掘調査を一緒にやってきて、今年からK都大学の院へ行っているIくんが卒論のテーマにした、古代の官道である。長野県へは南西の端から入り、北東の端から出て行ったことになっている。
長野県だけを走っているわけではないが、有名なふたつの峠(神坂峠と入山峠)が信濃にかかわり、共に有名な遺跡で、また伝承も多いためか、東山道と言えば信濃のイメージが強い。
ちなみに信濃を通る東山道の南西は現在の中央自動車道と重なり、北東はかつて長野県の中枢である長野市と東京を結んだ国鉄信越線の最大の難所、碓氷峠と重なっている。今も昔も人間の考えることは変わらない。
去年の夏に、ある調査でこの東山道の信濃側の南西端(の一部)を見て歩いた。その時、雨にたたれてゆっくり見て回れなかったので、今年再挑戦をした。
月見堂を通り
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.27.33.15&lon=+137.39.58.21&fm=0
義経伝説のある「駒つなぎの桜」の脇を通り
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.27.38.54&lon=+137.39.34.40&fm=0
神坂神社へあと少し
【GPS情報】
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.27.44.17&lon=+137.39.26.82&fm=0
しかし、残念ながらここで再び雨
見えぬ峠をあおいで再び断念
行きたいところや行かなければならないところがどんどん増える
また来ましょう
何度来ても、その度に新しい発見ができるように自分を鍛えながら

2005年8月11日 (木)

名古屋の風景を読む

12時すぎに名鉄バスセンターを出る。最近は特急を選べば名駅からすぐに高速に乗り、そのまま中央自動車道まで20分足らずで行ってしまう快適な路線となったが、かつては名古屋市内の渋滞を抜け、大曽根から旧の19号線沿いに春日井の鳥居松を経由して、やっとの思いで春日井インターへ入るのにゆうに1時間以上の時間がかかっていた。それが名古屋から出る方はまだましで、名古屋に入る時は、春日井の勝川の西で名古屋との境界をなす庄内川の橋がネックとなり、予定の時間に名古屋駅に着くことはまず無かったと言って良いだろう。
けれども、飯田・下伊那の人間が東海へ出るためには、それまでは知る人ぞ知るマニア好みの飯田線以外に選択肢がなかったわけで、中央自動車道の恵那山トンネルの開通と、それを利用したバス路線の便利さは、名古屋市内の渋滞などとるにたらないものにしていた。
このバスは、最初は確か天竜船下りの音頭が流れ、帰省する身には、いかにも郷里へ帰ってきた感じがしたものである。当時最長のトンネルだった恵那山トンネルの開設アナウンスもあった。途中の恵那峡サービスエリアでは小休止があって、運転手さんと郷里の話もした。名古屋で乗って恵那峡サービスエリアに着くと、いよいよ信濃へ入るという気になり、飯田で乗って恵那峡サービスエリアに着くと、郷里を離れて仕事モードに意識が変わった。中世の窯業産地である、瑞浪・土岐の地名を見ながら名古屋に近づいて行き、時には途中で降りて博物館をまわり、大曽根で降りて瀬戸へも行った。
しかし、19号線のバイパス工事が進み、運行時間の短縮がはかられ、ビジネス路線としての性格が強まる中で、天竜船下りの音頭は消え、名古屋の都市高速が整備されるに従い、途中の小休止もなくなった。たまには音頭も聞きたいとは思うが、それはそれで良いことなのだろう。
ところで名古屋高速の路線に乗り高い位置から市内を見るという、これまでと違う名古屋の風景に接し、あらためて東海の歴史的な環境に興味を覚えるようになっている。
よく知られているように、かつての名古屋周辺には木曽・長良・揖斐川の3大河川と庄内川が流入しているため、低地は陸より水の方が多い環境で、東海道はこれらの川を順番に渡る手間を避け、一気に海を渡った。現在は有数の稲作生産を誇るが、中世以前は、低地での農耕が不安定なため、段丘上での畑作が主力で、古代より織物を収める国として有名であった。鎌倉時代の経済史を語るときに必ず登場する布と貨幣の関係についての代表的な研究も、この東海の荘園が舞台だったと聞く。
数年前に東海の中世遺跡のフォーラムで話をしたときにそのことをテーマに考えたが、名古屋駅から都市高速に乗って中心部を北へ縦断していくと、そのことがよくわかる。業界では有名だが、名古屋城はかろうじて段丘の先端にあり(熱田大社や断夫山古墳も同じりくつ)、その北を大きく蛇行しながら庄内川がめぐる。ひたすら広い低地と河川。この庄内川を遡ると瀬戸の窯業地帯へいく。東名阪を越えるとまもなく右手にかつての名古屋空港と小牧山城が見える。ひろい低地の中に飛び出た独立山塊を利用しているので、よく目立つ。畿内とは異質な空間構成をもっている。小牧で名神にのり、江南市を左に見ながら中央道へむかう。山の近づいてくる様子がよくわかる。

2005年8月10日 (水)

頼山陽

四万十川では、気温39度を記録したそうである。南海道はいかに。

10時過ぎに京阪丸太町で降りる。丸太町の北側の歩道を通って、鴨川を渡り河原町に出る手前にひとつの石碑がある。「頼山陽書斎山紫水明処」とあり、さらにこの北右側にありとの場所を示す道標である。
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.02.55&lon=+135.46.12.76&fm=0

頼山陽は、教科書にも載っている有名な江戸時代後期(1780から1832)の儒学者でありかつ詩人。源平から徳川までの武家の興亡の歴史を、尊皇思想にのっとった情熱的な文章で著し、幕末の若者に大きな影響を与えた「日本外史」(1827年頃成立)の著者であると言えば、多くの人がうなずく。

生まれたのは江戸堀川に面した大阪市西区江戸堀一丁目。大坂へ遊学していた父春水の私塾「青山社」(その居宅が「春水南軒」)という。母は大坂の医師の娘で静子。父が広島藩の儒学者に登用されて一家は移住。父が江戸勤務の間、母と叔父に教育を受けその才能を伸ばす。18歳の時に江戸に学び、帰郷して結婚。しかし脱藩して京都へはしったことで、連れ戻され幽閉・廃嫡・離縁。26歳までの5年間におよぶ幽閉と謹慎生活の中で、しかし読書と執筆に専念、このとき「日本外史」の初稿ができたと言われている。今風に言うとはじけた青春とのめり込むような研究生活の時間を過ごしたようである。結果的にこの期間が彼の学問への情熱を高め、固めたようで、謹慎が解かれると、さまざまな人を頼って江戸・大坂・京都などでの研究を希望し、家族や友人と揉めながらも32歳で京都へ入り塾を開く。

京都に落ち着いた山陽は、数年を経て父とも和解、再婚し、広島の母も訪ね、著作も増え始める。山紫水明処は、そんな落ち着いた山陽が、終のすみ処と定めた東三本木丸太町の水西荘内に設けた書斎。文政5年(1822)であった。
幕末の志士が熱烈に求めた「日本外史」は文政9年(1826)の47歳で完成しているので、この京阪丸太町の駅から歩いて5分ほどの場所で書かれたことになる。
あと数週間で山陽が「日本外史」を完成させた歳と同じ歳になる。今日、この石碑にこだわったのもなにかの縁(えにし)か。
近いうちに東山の長楽寺におかれた山陽の墓をお参りしようと思う。

京都市歴史資料館で打ち合わせの後、寒梅館へ入る。昨日の上京プロジェクト全体会議の資料をまとめておきたかったので、京都府や京都市との打ち合わせの前に会議室で無線LANにつなぐ。
ひととおりメールをチェックした後で、掲示板に入ると、あっくんが法然の誕生寺を訪れたらしい。有名な漆間時国の館跡と言う。平安時代末期の開発領主の館周辺の風景がどんなものか。ぜひ詳しい話が聞きたい。

ディスカバリーが無事帰還した。よかった。けれども、懸念されていたさまざまな問題は解決されたのだろうか。最先端の科学技術の粋を集めたプロジェクトであるにも関わらず、合理的な説明や解説がされてきたような印象があまりない。文系の杞憂であればいいが。

2005年8月 8日 (月)

笑顔同封

夏休みが1週間を過ぎ、京田辺キャンパスには静かな時間が訪れる
文化情報の1期生達も、初めての京都の夏を少し確かめた後
それぞれの故郷へ帰っていく
もちろん初めての京都の夏を堪能すべく、しっかり居着いて
アルバイトに励む者もいる
みな、それぞれの夏休みに入ったようだ
ただし、さすが文化情報学部の1期生だけあって
リアル空間は離れていても、サイバースペースで
しっかりコミュニケートしているらしい
中には携帯電話を使って疑似ライブをブログするつわものも

新しい形のコミュニケーションに学びながら
新しい形の試行錯誤とプレゼンテーションをめざす
きっとこんな形で、文化情報学がひろがり、大きくなっていくんじゃないだろうか
と、思いながら
遅々として進まない仕事の窓を閉じてブログを巡る

きっとこんな形で、夏休みも終わっていくのだろうか
と、思いながら
「まっ たまには そんな年があってもいいか」と外を眺める

と言うことで
まだ、大分先だと思っている人がほとんどかもしれないが
あっという間に夏は行ってしまうもの
だから
今日の一曲は「晩夏(ひとりの季節)」

2005年8月 7日 (日)

小野小町双紙洗水遺跡

工学部のK先生のチームと合同で上京を歩く。
洛中洛外図を頼りに寒梅館を出発して西へ歩いた後、小川を下る。一条まで下がった後に堀川へ向かう途中で見つけた石碑


京都市歴史資料館のデータベースに解説がある
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka086.html#top

永遠が見える日

今年の8月7日は立秋。一見するととてもそんな雰囲気ではないが
今日、一緒に上京を歩いた後、ヒロ君が「日差しはきついですが、風がさわやかで、思ったより暑くなかったですね」となにげなく言っていたから、やはり季節は動いているのだろう
本日は上京区のプロジェクトのための現地踏査
参加者は工学部のK先生のチーム5名と文情のN吉さんとアックンとひろくん
おそらく上京の歴史遺産を歩くのは初めてと思われるので
集合場所の寒梅館の洛中洛外図展示コーナーで簡単に京都の歴史をレクチャー

通過ポイントは次の通り
1、室町殿(室町時代)
2、室町上立売(室町時代)
3、持明院殿跡(鎌倉時代)
4、寺ノ内通り(安土桃山時代)
5、尾形光琳墓所・妙顕寺(安土桃山時代~)
6、不審庵(安土桃山時代~)
7、今日庵(安土桃山時代~)
8、百々橋(室町時代)
9、小川通り(室町時代)
10、近衛殿別邸(室町時代)
11、大正の小川橋欄干
12、元誓願寺町(室町時代)
13、元革堂町(室町時代)
14、元百万遍(室町時代)
15、小野小町双紙洗水遺跡
16、一条戻り橋
17、清明神社(利休聚楽屋敷)
18、如水町(安土桃山時代~)
19、一条大宮(平安時代)
20、名和長年碑(南北朝時代)
21、聚楽第碑(安土桃山時代~)
22、須浜町(安土桃山時代~)
23、承明門跡(平安時代)
24、内裏内郭回廊跡(平安時代)
25、大極殿跡碑(平安時代)
26、京都アスニー(平安時代)

地図を片手に各ポイントで説明をしながら約2時間
平安時代から江戸時代まで、京都の歴史と文化の一番濃いところばかり
みなさん堪能してもらえたでしょうか?
すっかり京都の文化と同化したN吉さんは、送り火に関わる洛中のこまかな儀式についてのエピソードを語ってくれた
臨場感にまさる研究は無いと思う
当たり前の生活の風景の中に、教科書に出てくるメジャーなポイントとエピソードがいっぱい
これが京都というところです
今回は3回分の講義を1回でまわったので情報量が多すぎて、全ては整理できないと思いますが
細かなことはともかく、実際に歩いた場所のイメージは必ず記憶され、流した汗と思い出と一緒にその後の研究に活かされます(ちょっとベタかな)


6日は大和郡山の花火大会、7日は淀川の花火大会だったそうで
今日の一曲は「永遠が見える日」

2005年8月 6日 (土)

個人的な体験

過日の朝方、急激に右脇腹に痛みが走り、七転八倒。たまらず病院へ行くと、レントゲン写真を見た医師は、ペンで白く写ったモノを指して、「原因はこの石ですねえ」と一言。原因はわかったけれども、どうしようかと今後の予定を思い浮かべていると、「内視鏡で手術ができますが。明日退院できますよ」と。おそらくそれが最も合理的だろうと思いお願いする。お昼をまわって、看護士さんの丁寧でこまかなinformed concentがはじまる。オペ室へ入ると、テレビで良くみかける無影灯が目の前にある。麻酔がうたれると、すぐに腰から下が熱くなる。
この後の出来事は、近年の科学技術の進歩を実感することばかり。非常に高精細な内視鏡カメラ(1ミリ管と2ミリ管)で、想像できないほどの鮮明な画像がモニターに映し出される。石もすぐに見つかり、超音波?で破砕される。オペは小一時間で終了。そのうちこの内視鏡カメラを文化財解析で使いたいものだと記憶して病室へ。あの鮮明な動画を録画しなかったことがひたすら悔やまれる。下半身の麻酔が徐々にとけてくるのを感じながら、自分の足が動かなかった時の感覚もしっかり記憶。夕方家族が翌日の仕事の支度を持ってくる。
翌日の昼前に品川で降りる。一昨年おみやげに買っていたロンドンのカフェのサンドイッチ屋が無くなっていた。そういえば長いこと東京に来ていない。山手線に乗り換えると、ドアの上にふたつの液晶モニターが付いていてさまざまな情報を提供していた。利用者が多いといろいろな試みができるものだと記憶。池袋に降りる。
i池袋の由来は、「池谷戸」という呼ばれ方や「往古夥しき池ありしに因るなり」(『遊歴雑記』文化11(1814)年)にあるような、谷地形で湧き水と池が多かったことによると言われている。コンクリートの建築物に囲まれた中でその雰囲気を感じることは難しく、確かに南には「雑司ケ谷」という地名もあるが、どこがどのように窪んでいるのかにわかには見当がつかない。とくに西日本で生活をしていて、条里地割の原則が現代にまで引き継がれている空間に慣れ親しんでいる身にとって、現在の東京の風景から近世以前を読み解くのは至難の業に近い。ただし、お茶の水界隈の、なかでも湯島天神にかけての一帯は起伏が大きく、神田川の風景をあわせれば、そこに近世の江戸を見つけ出すのは比較的容易である。いずれ都内をしつこく巡って、地形と地名と遺跡から、中世の風景を描きだす手がかりを見つけたい。文化財解析の研究テーマはここにもある。ともかく、土曜日の池袋は背広を着て歩く所ではないことを強く記憶しながらサンシャインビルへ。
帰りに有楽町線に乗る。ドアの上で国立科学博物館の「縄文VS弥生」という企画展の広告を見つける。ポスターをドアのすぐ上に掲示し、さらにネーミングにも工夫を凝らす。利用者の多い博物館の真剣な取り組みを感じる。

2005年8月 3日 (水)

盛夏~満を侍して~

文化情報の1期生にとって初めて迎える大学の試験
どれほどの緊張があっただろう
だから、それが終わると、待ってましたとばかり、さまざまなプロジェクトチームが発動
オープンキャンパスでの活躍、ONE PURPOSEも編集を終了
そして満を侍してwebチームがコンテンツ整理とデザインの改良に取り組む
今日も盛夏の中、東海道のTさんと南海道のTさんがMKで作品を制作
週末にカツオのたたきを食べに帰るまでに仕上げると言う
さて
こちらもいろいろなことを仕舞いにしたり、始めたりしなくては

<脇田晴子先生に学びながら祇園祭にこだわる(小結)>
平安時代後期から鎌倉時代の祇園社を支えた人々については、堀川神人に代表される人々が有名で、これはこれで別の機会にゆっくり勉強しなければならない。とくに材木をあつかった堀川神人が力をもっていたということは、水上交通路としての堀川の役割を示すものとして注目したい。
ここでは現在の山鉾巡行の原型を求めて、南北朝から中世後半の世界へ跳ぶ。

脇田先生によれば、山鉾巡行とは、元々神輿渡御の賑やかしとして奉納され、それに随行した鉾や山が独立して独自の領域を廻りだしたものという。従って神輿渡御に随行する馬上十三鉾と、町毎に出す山鉾とは性格が違う。
そして現在の祇園祭を象徴する山鉾巡行は、戦乱の中で自衛しなければならなかった町人達が、結束力を高め、町毎に共同体をつくり、その象徴として、南北朝期にはじめたとされる。
康永四年(1345)の記録には、「今日祇園神輿迎えなり、定鉾例のごとし」とあり、「山以下作物」は翌日に出ている。
以後、神輿の御旅所渡御を歓迎して「下辺経営の鉾」と呼ばれる下京の風流の作山が拡大していく。
結果、応安二年(1369)の山門の神輿振りによって南禅寺の新造の楼門が破却されると、その修理もままならないなか、「下辺の鉾並びに造物山、先々のごとくこれを渡す」状態にまで主客が逆転し、義満も四条東洞院に桟敷をもうけて巡行を見物するにぎわいをみせている。当時の下京の繁栄を物語る象徴と言えよう。

ただし、南北朝期と応仁の乱以降では、山鉾を支えた人々の背景に少し変化があったようで、南北朝期は山崎の油座を背景にもつ「定鉾」や、西陣の源流とも言える土御門大路・壬生小路に居住していた(下京が中心ではない)大舎人の機手を背景とする鉾など、職能の単位が山鉾を支えたグループにもあったという。しかし応仁の乱以降は、下京の町を単位とする巡行が一般的となり、祇園会がより現在の形に近づいていったと考えられている。
そんな南北朝から中世後半の下京の人々が、その紐帯を象徴してアピールした山鉾とはどのようなものだったのだろうか。

応仁の乱以前の山鉾を並べてみよう。
長刀鉾・孟宗山・鈴鹿山・牛若弁慶・役行者・天神山・大鋸引山(おがひきやま)・かまきり山・八幡山・れうもんの滝山・住吉山・岩戸山・函谷鉾・こきやこはやし物・ふだらく山・鷹つかい山・花ぬす人山・花見の中将山・山伏鉾・太子鉾・留水(菊水)鉾・庭鳥(鶏)鉾・放下鉾・かつら男鉾(月)・だるま鉾・地きう鉾・浄妙坊山・小督のたい松山・神宮皇后の舟・かんだかうぶぎぬ山・孟宗山・韋駄天山・弁慶衣川山・小判持ち山・うかい舟山・氷室山・芦刈山・すて物鉾・だいし鉾・弓矢鉾・甲鉾・養由山・ふすま僧山・那須の与一山・泉の小二郎山・朝比奈もん山・柳の六しやく山・かさ鉾・くけつのかい山・西行山・自然居士山・天鼓山・柴かり山・小原木の山・はねつるべ山

これらのオブジェクトが示す中世京都のメッセージをどのように読み取るかは興味深い研究になるが、脇田先生にによれば、最も多い能楽が、故事来歴や和歌の歌枕や漢詩などをわかりやすく大衆化する効果を持っていたので、それが題材にされたのではないか。とされ、さらに次のような分類で当時の人々の山鉾に対する思いを整理している。
1:神が降臨する武器として長刀・弓矢・甲。
2:仏教信仰を背景とした観音・地蔵・布袋・韋駄天・白楽天?など。
3:中国の故事をひいた(孝行:孟宗・郭巨)、(友情:函谷・伯牙)、(吉祥:鶏・鯉・月)。
4:記紀神話や信仰による岩戸山・八幡山・鈴鹿山・太子山・神功皇后(安産)・菅原道真(防火)・役行者と山伏(病気平癒)・小判持ちは当時の富貴を尊ぶ風潮。
5:日本古典のエピソードに求めた花ぬす人(和泉式部のために花を盗んだ藤原保昌)、平家物語にみる小督のたい松山。
6:能狂言を由来とする芦刈・菊水・木賊・黒主・橋弁慶・天鼓・自然居士・那須の与一・朝比奈もん・小原木など、西行山も能楽、養由山は中国の弓の名人を伝えた能、柴かりも。

祭りが持っている「信仰」という要素と「にぎわい」という要素に彩られたみごとな行列である。あるいはパレードと言っても良いのだろうか。あるいは走馬燈の様に動く映像か。
下京の一帯はこの二つの要素が重なり合うことで荘厳な異空間が創り出され、それを見る人々に非日常の興奮を呼び起こしたのではないだろうか。

さて、そんな山鉾の中で今年はある山のお世話になった。ほかの山鉾もさまざまなエピソードを持っているであろうが、その山も非常に興味深いエピソードに包まれている。それに関わった人物は、グローバルで、しかし地域的なこだわりと現代につづくアイテムをもっている。南北朝から江戸時代まで個性的な人物が絡み合い、国内では九州から関東までがその舞台となっている。かまきりのからくりで有名な蟷螂山。中世には大鋸引山も一緒に出したことのある町のストーリーは、しっかり時間をとって考えていきたい。

2005年8月 2日 (火)

蝉しぐれ

アイpodに蝉の音を入れて最大音量でオンにしたかと思ったくらいの蝉時雨の間を抜けて駅に向かう。
今日は今出川でのオープンキャンパスの二日目、パワーアップした文化情報学部の1期生達が、今出川キャンパスを駆け回る。たくましい、そして頼もしい。
ただひとつ残念だったことは、終わり際に始まった○○課の会議が長引いて、打ち上げに間に合わなかったこと。イケメンと乾杯をして帰る。

ついに今年の祇園祭が終わってしまったが、引き続き脇田先生の書をもとに、祇園祭にこだわる。来年はしっかりアーカイブをしたい。

助正とは、「町の人々の要望をくみ上げて、町の人々の先頭に立ち、率先して居宅を寄付して、神主職におさまった人」と脇田晴子先生は言う。稲荷の御旅所も同様であるが、町(ちょう)の自治的な共同体(ある種の町内会のような)の中で、なんらかの規範によって(年功か商業か)形成された有力者達(町の長者)の代表が、私領を権門に寄進して収益を確保するように、祇園社に居宅を寄進したという。彼らはそれによって、御旅所に入る賽銭・神楽や託宣などの収益と馬上役という祇園祭の頭役が出す費用300文の半分を収入とすることができた。
その御旅所が中世の祇園会を復原する。現在の御旅所は秀吉がまとめた四条京極だけだが、かつては冷泉東洞院に少将井御旅所があった。婆梨采女の御旅所である。その起源は不明であるが、すでに12世紀初めには炎上の記録がみられるため、平安時代後期には存在した。少将井の名称起源は複数あるが、そこに名水があったことは事実のようで、河原正彦さんは、婆梨采女が南海の竜の娘とされていることから、疫病と水というキーワードがこの御旅所の成立に関わったとも考えている。さらに面白いのは、この少将井御旅所の神輿は、内裏や院御所の多い二条・三条などを渡り、神泉苑の近くをまわって祇園へもどるコースをとることである。このコースは、少将井御旅所が、明らかに下京を中心とした人々とは違った支持者によって成立していたことを示しており、場所の関係で公卿の日記に載ることが多く、平安時代では祇園御霊会といえば主として少将井神輿を指すと思えるほどだと言う。しかしこの少将井の神輿を支えた二条や上京の大舎人などの山鉾は、応仁の乱以降廃絶する。さらに近世以降、御旅所も四条京極に集約され、山鉾巡行が女人禁制の祭りになっていく。
少将井は平安時代の、そして中世の祇園会が現在のそれとはまた違った色合いをもっていたことを示している。祇園を起点として、少将井と神泉苑を歩くことで、この物語がよりリアルに甦る。発掘をせずとも、存在する遺跡をつなぐことで歴史の臨場感を体験することは可能である。

<森先生の考古学がなぜ面白いか。それは文献史研究のスタイルを見るとわかる。たとえば脇田晴子先生の章の中に「永長の大田楽」という文がある。永長元年(1096)の6月12日の日付が入った中御門藤原宗忠の記録である。6月に入って、青侍や下部たちに代表される京都の庶民たちが、祇園御霊会を口実に田楽を遊興してうるさくて仕方がない、という記録を詳しく解説している。そこには、時間があり(歴史叙述なので当たり前だが)、人がいて、場所があって、なによりも相互に関係のあるストーリーがある。単に真実と思われる事実が書き並べられているだけではない。森先生の考古学が面白いのは、主要なコンテンツがモノ資料であるにもかかわらず、すぐれた文献史研究の叙述と同じ「歴史」のストーリーが見えるからである>

2005年8月 1日 (月)

夏休み

が、始まった
しかし
我が文化情報学部では、1期生のプロジェクトチームによるオープンキャンパスが今出川で行われている
先週のオープンキャンパスは、工学部と文化情報学部が本拠地の京田辺キャンパスでおこなわれたため、みなのびのびと高校生に学部の紹介をおこなっていた
しかし今出川キャンパスでは、神学部をはじめとする伝統ある文系学部が、それぞれの工夫を凝らしたアピールとプレゼンテーションをおこない、文化情報学部はやや押され気味

午前中、豊中で御寄贈いただく200箱の蔵書の詰め込み作業を終えて、お昼過ぎに今出川に入る
結構きていたので、イケメンでゆっくりしたかったが
キャンパスをまわって、会場をチェックする
明徳館の前でT2さんにつかまる
「学部の看板を作り直したいのですが、作業のできる場所はありますか?」
至誠館1階ではH君たちが学部紹介のアナウンスに一所懸命
至誠館3階では学部説明のチームが待機中
TさんとKくんとM21で法学部が終わったわずかな時間にムービーの試験
CDからではMPG2が見えないので、急遽マシンを直結した放映に変更
その後、T2さんと某所へ、急遽ポスターも作りたいと言うので、手持ちのコンテンツを渡して学部紹介のM21へ戻る
13時20分からの学部紹介ムービーを放映後、14時10分から模擬プロジェクト授業の支援
新しいポスターがもうできている、なんと・・・

情報によれば、今年の訪問者数は昨年同様らしい
15時すぎから明日へ向けての戦略会議を開く
「学部のアナウンスをする時には、学部名だけではなく、内容も言った方が良いです」とHくん
えらい、チラシ配りの基本だ
「オープンキャンパスが終わってからでも、興味を持った高校生が知りたい情報を得られるようなwebコンテンツをつくりたいです」とTさん
なにごとも勉強
なかでも、現場でさまざまな問題にぶつかって、それを克服するためには
どのようにしたらいいのか試行錯誤すること
それが自分に関係していればいるほど、リアリティーがあって
その時は大変だけど、とても勉強になる
自分がしなければいけないことや自分のしたいことが
納得できる形になって見えてくる

つい、ややこしそうなことは避けて通ってしまいがちだが
少々のしんどさを我慢してなんとか乗り切れば得られるものは大きい
これが現場の力、机の上の勉強だけでは学べない宝がここにもあった
たくさんの種類と数の現場を経験して
各々のスタイルにあった未来を見つけてほしい

オープンキャンパスが終われば、本格的な夏休み
ゆっくり休んで、しっかり遊んで、それから

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