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2005年8月 2日 (火)

蝉しぐれ

アイpodに蝉の音を入れて最大音量でオンにしたかと思ったくらいの蝉時雨の間を抜けて駅に向かう。
今日は今出川でのオープンキャンパスの二日目、パワーアップした文化情報学部の1期生達が、今出川キャンパスを駆け回る。たくましい、そして頼もしい。
ただひとつ残念だったことは、終わり際に始まった○○課の会議が長引いて、打ち上げに間に合わなかったこと。イケメンと乾杯をして帰る。

ついに今年の祇園祭が終わってしまったが、引き続き脇田先生の書をもとに、祇園祭にこだわる。来年はしっかりアーカイブをしたい。

助正とは、「町の人々の要望をくみ上げて、町の人々の先頭に立ち、率先して居宅を寄付して、神主職におさまった人」と脇田晴子先生は言う。稲荷の御旅所も同様であるが、町(ちょう)の自治的な共同体(ある種の町内会のような)の中で、なんらかの規範によって(年功か商業か)形成された有力者達(町の長者)の代表が、私領を権門に寄進して収益を確保するように、祇園社に居宅を寄進したという。彼らはそれによって、御旅所に入る賽銭・神楽や託宣などの収益と馬上役という祇園祭の頭役が出す費用300文の半分を収入とすることができた。
その御旅所が中世の祇園会を復原する。現在の御旅所は秀吉がまとめた四条京極だけだが、かつては冷泉東洞院に少将井御旅所があった。婆梨采女の御旅所である。その起源は不明であるが、すでに12世紀初めには炎上の記録がみられるため、平安時代後期には存在した。少将井の名称起源は複数あるが、そこに名水があったことは事実のようで、河原正彦さんは、婆梨采女が南海の竜の娘とされていることから、疫病と水というキーワードがこの御旅所の成立に関わったとも考えている。さらに面白いのは、この少将井御旅所の神輿は、内裏や院御所の多い二条・三条などを渡り、神泉苑の近くをまわって祇園へもどるコースをとることである。このコースは、少将井御旅所が、明らかに下京を中心とした人々とは違った支持者によって成立していたことを示しており、場所の関係で公卿の日記に載ることが多く、平安時代では祇園御霊会といえば主として少将井神輿を指すと思えるほどだと言う。しかしこの少将井の神輿を支えた二条や上京の大舎人などの山鉾は、応仁の乱以降廃絶する。さらに近世以降、御旅所も四条京極に集約され、山鉾巡行が女人禁制の祭りになっていく。
少将井は平安時代の、そして中世の祇園会が現在のそれとはまた違った色合いをもっていたことを示している。祇園を起点として、少将井と神泉苑を歩くことで、この物語がよりリアルに甦る。発掘をせずとも、存在する遺跡をつなぐことで歴史の臨場感を体験することは可能である。

<森先生の考古学がなぜ面白いか。それは文献史研究のスタイルを見るとわかる。たとえば脇田晴子先生の章の中に「永長の大田楽」という文がある。永長元年(1096)の6月12日の日付が入った中御門藤原宗忠の記録である。6月に入って、青侍や下部たちに代表される京都の庶民たちが、祇園御霊会を口実に田楽を遊興してうるさくて仕方がない、という記録を詳しく解説している。そこには、時間があり(歴史叙述なので当たり前だが)、人がいて、場所があって、なによりも相互に関係のあるストーリーがある。単に真実と思われる事実が書き並べられているだけではない。森先生の考古学が面白いのは、主要なコンテンツがモノ資料であるにもかかわらず、すぐれた文献史研究の叙述と同じ「歴史」のストーリーが見えるからである>

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