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2005年8月19日 (金)

京都御苑を歩く1

18日は午前中に所用をすませ、午後から委員会で京都駅の近くへ
その後、地下鉄で丸太町まで上がり京都御苑の南を歩いて京都市歴史資料館へ
周知のように、京都御苑の南には、平安京以来の通りに加えて、秀吉の手によるとされる南北の通りが短い間隔で並ぶ
烏丸から西へ車屋町・東洞院・間之町・高倉・堺町・柳馬場・富小路・麩屋町・御幸町そして寺町
左手に京都御苑、右手に町並みがつづく。京都を象徴する風景と言っても良い。
このうち丸太町側の京都御苑の入り口は3カ所あって、堺町御門(
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.02.91&lon=+135.45.47.40&fm=0)
と富小路口。もうひとつは間之町と東洞院の中間。丸太町の南にならぶ通りとは微妙にずれている。
実は、今でこそ京都御苑と呼ばれて京都御所を含む空間を石垣で囲む公園となっているが、ここは江戸時代には、禁裏御所(土御門東洞院殿跡)を囲む形で公家の屋敷が建ち並んでいた場所で、おおむね西半分は九条・鷹司・一条・近衛・二条といった摂家が広大な屋敷を構えていたが、仙洞御所を除く東半分は寺町まで中小の屋敷が密集し、現在の風景とはかなり違った雰囲気だった。
(現在の京都御所は永禄13年(1570)から作事が始められ、秀吉の時代に周辺に公家屋敷が集められ、その後宝永5年(1708)の京中大火で御所も類焼した後、烏丸東、丸太町北の民家が鴨川東に移転させられ、現在の規模の原型ができたと言われている)
話を戻せば、堺町御門はこういった公家屋敷空間の中で、直接御所に到達する道に設けられた門のひとつで、ほかにも北に今出川御門、御所のすぐ北西に乾御門、西に中立売御門、蛤御門、下立売御門、南が堺町御門のみ、東が寺町御門、清和院御門、石薬師御門のあったことが、江戸時代の絵図に見えている。ただし、これらの門と現在の門の場所は必ずしも一致しておらず、おそらくそれぞれの屋敷の入り口との関係で現在より御所側に入った位置にあったものが多い。
また富小路口の前身?となる通りは、御所へ通じないまま寺町へ抜けるものとなっていたようであり、堺町御門の西にある入り口は閑院宮の屋敷があり、存在していなかった。
現在の風景からは想像できない近世の京都の姿がそこにはあったことになる。江戸時代の京都は、政治の中心が東京に移ってしまったことにより、歴史の表舞台からは姿が見えにくくなるが、公家と文人を中心とした独自の文化を醸造していた。
迎賓館の調査でもさまざまな発見が報告されている。近世の京都御苑はその象徴と言える。
京都御苑を歩きながらを歩きながら、そんな歴史情報のわかりやすい提供ができたらと思いながら、携帯で写真を撮る。
その後、キャンパスプラザ京都でW先生とHさんとKさんと10月の研究会の打ち合わせをして、とある研究会の懇親会にちょっとだけ顔をだす。

歴史遺産名:鷹司邸跡
時代:江戸時代
位置1:京都御苑
位置2:http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.06.78&lon=+135.45.48.74&fm=0
五摂家。家祖は近衛兼平。家名は鷹司室町の邸宅による。一時とぎれるが天正7年(1579)に再興。維新後は公爵。
堺町御門を入ってすぐの正面に碑が建つが、幕末の内裏図によれば、堺町御門のは丸太町から少し奥に入った位置にあり、その西に九条殿、東に鷹司殿があった。鷹司殿の東築地はそのまま北へのびて御所へ続く道に面しているが、東築地は門を経ずして寺町へ続く小路に面していた。
画像:鷹司邸図?


○九条邸跡
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.05.63&lon=+135.45.43.95&fm=0
五摂家の一つ。明治維新に至るまで代々摂関、明治後には公爵。
鎮守神だった厳島神社と苑池が残る。重要文化財の石鳥居は、笠木が唐破風となっていることが有名。

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