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2005年8月18日 (木)

加川良の手紙

K先生メールありがとうございました。
おたずねの飛鳥井家とは、系図的には、藤原道長の子の頼道の子の師実に16人の子がおり、その一人である忠教の曾孫の飛鳥井雅経(1170から1221)が祖とされています。鎌倉時代を起源とする、和歌と蹴鞠の二道に秀でた貴族です。
岩波の日本史辞典によれば、彼は祖父の頼輔から和歌と蹴鞠を学んだとも言われ、父が配流された後、関東へ下って源頼朝・頼家に厚遇され、大江広元の娘と結婚します。しかしその後蹴鞠によって後鳥羽院(1180から1239)に招かれ上洛して近臣となり、院歌壇の形成とともに歌人として成長し、新古今和歌集撰者の一人ともなります。
藤原定家らの京都歌壇と源実朝らの関東を結んだ特異な人物だったと言えます。
また飛鳥井家の公家の格は、摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)、太政大臣を極官とする青華家(三条・徳大寺・西園寺・今出川・花山院・大炊御門・久我)、大臣家((正親町三条(嵯峨)・三条西・中院)に次ぎ、大納言を極官とする羽林家とされています。ただし、鎌倉・室町幕府と良好な関係にあったようですから、権力側に対しては、一般的な公家の格では語られない影響力を持っていた可能性があります。
さて、現在の白峰神社の位置との関係ですが、室町時代後半(16世紀)の風景を描いた「洛中洛外図」に、その屋敷が描かれています。また応仁の乱頃の姿を描いたとされる「中昔京師地図」(江戸時代)には北大路の小川と堀川の間に「飛鳥井殿」が描かれており、室町時代からこの場所に飛鳥井家の邸宅があったことは確かでしょう。
ただし、平凡社の「京都市の地名」によれば、飛鳥井家の「別邸」となっており、北村季吟の「菟芸泥赴(ツギフネ)」(江戸時代)によれば、「今出川小川の西、(小川に架かる)羅漢橋の詰なるを飛鳥井町という。飛鳥井殿の家ある故なり、ここを飛鳥井というにあらず」とあって、飛鳥井の井泉は万里小路二条(柳馬場二条)にあるとしています。
それでは飛鳥井家の本拠はどこにあったのかというと、江戸時代の飛鳥井殿屋敷は御所のすぐ北東で有栖川殿に隣接してあったことが知られていますが、中世の屋敷についてはよくわからず、新町キャンパスも近衛家の別邸で、おそらくその起源は15世紀と考えられますから、応仁の乱に際して一時京を離れた貴族達が、再び京に戻ってきた時、足利幕府の権力が集中していた上立売小川から室町の周辺にそれを支える人々の屋敷が整備されていき、飛鳥井家も、幕府に近い公家としてこの場所を確保したのではないでしょうか。

と言うことでweb用のレイアウトキーワードとしては・・・・

歴史遺産名:飛鳥井家別邸
位置情報:今出川小川西入る
位置情報2:北緯 東経
時代:室町時代・安土桃山時代・江戸時代
人物名:飛鳥井雅経・飛鳥井雅親・北村季吟
関連史料:洛中洛外図・菟芸泥赴
関連遺跡:羅漢橋・飛鳥井
バス停:堀川今出川
画像:洛中洛外図

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