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2005年8月10日 (水)

頼山陽

四万十川では、気温39度を記録したそうである。南海道はいかに。

10時過ぎに京阪丸太町で降りる。丸太町の北側の歩道を通って、鴨川を渡り河原町に出る手前にひとつの石碑がある。「頼山陽書斎山紫水明処」とあり、さらにこの北右側にありとの場所を示す道標である。
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.02.55&lon=+135.46.12.76&fm=0

頼山陽は、教科書にも載っている有名な江戸時代後期(1780から1832)の儒学者でありかつ詩人。源平から徳川までの武家の興亡の歴史を、尊皇思想にのっとった情熱的な文章で著し、幕末の若者に大きな影響を与えた「日本外史」(1827年頃成立)の著者であると言えば、多くの人がうなずく。

生まれたのは江戸堀川に面した大阪市西区江戸堀一丁目。大坂へ遊学していた父春水の私塾「青山社」(その居宅が「春水南軒」)という。母は大坂の医師の娘で静子。父が広島藩の儒学者に登用されて一家は移住。父が江戸勤務の間、母と叔父に教育を受けその才能を伸ばす。18歳の時に江戸に学び、帰郷して結婚。しかし脱藩して京都へはしったことで、連れ戻され幽閉・廃嫡・離縁。26歳までの5年間におよぶ幽閉と謹慎生活の中で、しかし読書と執筆に専念、このとき「日本外史」の初稿ができたと言われている。今風に言うとはじけた青春とのめり込むような研究生活の時間を過ごしたようである。結果的にこの期間が彼の学問への情熱を高め、固めたようで、謹慎が解かれると、さまざまな人を頼って江戸・大坂・京都などでの研究を希望し、家族や友人と揉めながらも32歳で京都へ入り塾を開く。

京都に落ち着いた山陽は、数年を経て父とも和解、再婚し、広島の母も訪ね、著作も増え始める。山紫水明処は、そんな落ち着いた山陽が、終のすみ処と定めた東三本木丸太町の水西荘内に設けた書斎。文政5年(1822)であった。
幕末の志士が熱烈に求めた「日本外史」は文政9年(1826)の47歳で完成しているので、この京阪丸太町の駅から歩いて5分ほどの場所で書かれたことになる。
あと数週間で山陽が「日本外史」を完成させた歳と同じ歳になる。今日、この石碑にこだわったのもなにかの縁(えにし)か。
近いうちに東山の長楽寺におかれた山陽の墓をお参りしようと思う。

京都市歴史資料館で打ち合わせの後、寒梅館へ入る。昨日の上京プロジェクト全体会議の資料をまとめておきたかったので、京都府や京都市との打ち合わせの前に会議室で無線LANにつなぐ。
ひととおりメールをチェックした後で、掲示板に入ると、あっくんが法然の誕生寺を訪れたらしい。有名な漆間時国の館跡と言う。平安時代末期の開発領主の館周辺の風景がどんなものか。ぜひ詳しい話が聞きたい。

ディスカバリーが無事帰還した。よかった。けれども、懸念されていたさまざまな問題は解決されたのだろうか。最先端の科学技術の粋を集めたプロジェクトであるにも関わらず、合理的な説明や解説がされてきたような印象があまりない。文系の杞憂であればいいが。

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