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2005年9月

2005年9月29日 (木)

なごみの空

ついに4連戦が幕を開けた
実際は明日からだが
既に昨日からスタンバイに入って今日からは戦闘モード
これまで4連続で違うネタの話はしたことはあるが
4連続で違う企画をオペレートしたことは無い
初めての体験でさすがに愉快
ともかくプログラムをチェックし続けてバグの有無や
合理化のできそうな箇所をさがす
今出川へ向かうために田辺坂を降りかけて忘れ物に気づきもどる
頭の中でハードディスクのモーターが悲鳴をあげているのがわかる
いよいよターミネーターに近づいたと感じ始めながら第3へ行く
Mさんの顔をみたら阪神タイガースが今日優勝する話で人間にもどる
田辺坂を降りきったところで文情で一番のイケメンに会う
笑顔がこぼれている
ありがとう、人間に戻ったよ
おもわず「秋学期、あんまりがんばって無理するなよ」と言って笑って別れる
見上げるとなごみの空がまぶしい

2005年9月27日 (火)

異邦人

9月の最後の週が始まった
仙台では長袖に上着を着て丁度だったが
こちらはまだ半袖に上着を着て丁度くらい
700キロの距離の差は大きい

東北の友人たちは、鋤柄が陸上を帰ると知って
なぜ空を使わないかとしつこく聞いてきた
ひとつには、伊丹も関空も遠いので
降りてからがかえってめんどくさいからである

だが、どうもそれ以外にも理由がありそうな気がする
距離感のリアリティが空ではわからないことかもしれない
そうは言っても新幹線もとてつもなく早いので
必ずしも移動のリアリティが保持できているとは限らない
学生時代、10日間山を歩いたことがある。
下山後それ以上の距離を列車で1時間ほどで移動してめまいがしたことがあった
しかしそうは言っても、新幹線の移動では
人の姿が見える程度に頭の中の地図が動いて
風土の異なった地域を擬似的であっても理解しながら移動し
そして帰ることができる

空はそれがない
どこでもドアの様に、移動を感じさせることなく、人を別の世界へ移す

かつて、異なった地域から来た人が姿を現すことはとても大変なことだった
非日常を日常とする遠距離移動はとても大変なことで
それを成し得てきた自分たちと違う実態に対する畏怖がそこにはあった
そこで人々はさまざまな形でそれを相手に伝えた
拒絶する形もあったが
多くの場合、人は遠いところからやってきた異邦人に敬意を払い
その人を理解をしようとする努力をはらった
そこに異文化融合がうまれた

しかし、高速で移動する時代は、非日常でとても大変な移動(旅)に対する敬意を忘れさせてしまったような気がする
はるか遠方からやってきた異邦人が
自分たちとまったく違った風土に育ち、とてつもなく違った個性をもっていることを忘れ
お互いが相手を理解する努力を忘れ、自らがグローバルだと錯覚するようになってしまったような気がする

これは危ういことだと思う
異なった環境のうえに成立している個々の個性を尊重するところから
本当の意味の異文化コミュニケーションが生まれるのである
インターネットは確かに距離の壁を越えつつある
その意味でアナログとリアルだけではおさまらない時代であることは確か
けれどもデジタルとバーチャルだけではけっして正しい相互の理解はできないと思う

陸奥と江戸と上方と筑紫はそれぞれ数百キロ離れて
確実に異なった文化をもっている
そこが面白いところなのである

だから、それがリアルにわかるように
移動はやはりすこしくらいしんどい方が良いと思う
けっして飛行機をこわがっているわけではないのだ

2005年9月25日 (日)

瑞巌寺より愛をこめて

今回も
やはり、実際に行ってみることがどれほど重要か
という話

松島である
あの有名な日本三景のひとつの松島である
その瑞巌寺から鎌倉時代の陶磁器がたくさん見つかっているので見に行こうと、大分以前から福島のIさんに誘われており、ぜひ行きたいと思いながら5年以上経ってしまった

土曜日は9時から松島海岸駅に着いて(偶然青山学院のF先生と一緒になる)、瑞巌寺宝物館のNさんの案内で松島の霊場をめぐる。総勢40人ほど
五大堂の脇にある最古の板碑を見た後、瑞巌寺へ
中門を入ると、北側の岩盤に掘られた横穴の群集に圧倒される
やぐらである
現在見ることのできる風景は江戸時代以降のようだが、五輪塔が浮き彫りされていたり、まさに霊場そのものである
瑞巌寺はこの岩盤の尾根に北と南をはさまれてその中央におかれる
本堂を拝観し、宝物館へ
松尾芭蕉の有名な俳句で知られる松島と瑞巌寺であるが
中世は円福寺と呼ばれた鎌倉北条にかかわる寺
みつかった遺跡の標高が海抜1mほどであったため
本来は海に接した、もしかしたらそのまま舟が着いたかもしれない
いかにも海の好きな北条的な寺と言える
一遍聖絵にその風景がある

松島湾は、みごとに北と南からの陸地が知多半島と渥美半島のように湾を囲んだ東北の太平洋岸を代表する天然の良港である
松島は、その湾の中央で、北に高城川が流れる
瑞巌寺の前身の円福寺の前身に延福寺というのがあり、その推定地が高城川河口に近い松島の北に考えられているが、古代における湾と河口の関係からして妥当であろう
瑞巌寺の前身の円福寺が霊場となるのは、鎌倉時代からで、多くの板碑がその事実を物語る
板碑の分布は、現在の瑞巌寺から南へのび、有名な雄島がその最も集中したところ
雄島は院政期からの伝承を持ち
島のあちこちに板碑と岩盤をくりぬいた多くの横穴がある
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+38.21.52.46&lon=+141.03.45.80&fm=0

それでは、古代において普通の地域豪族の寺とその周辺であった松島がなぜ鎌倉時代になって霊場になったのだろうか
そのキーワードを探して
雄島から海に陸に視線をはしらせる
どこかでこの風景と似たものを見ただろうか
その時、もし、この松島の風景から木々をはずしたら奇岩がたちならぶことになるのではないかと気づいた
(頭の中でCGを作成するようになった?)
それならば、先年から縁のある三河の鳳来寺の風景と似ているんじゃないだろうか
神仙世界を思わせる風景である
(今日の報告で山形のYさんが立石寺について同様の印象を語っていた。賛成である)

鳳来寺が確実に霊場になるのは12世紀
時期は少しずれる
しかしこれが円福寺を霊場にさせた背景ではないかと思った

もうひとつ重要なキーワードがある
雄島へ行く途中に大看板の地図を見ていたら
雄島の北にうかぶ福浦島という名前に気がついた
実は雄島を歩きながらこの名前がずっと気になって
福浦・・・ふくうら・・・ふくら・・・吹浦
山形県塩飽郡遊佐町の吹浦じゃないか
鳥海山の山岳信仰にかかわる神社もある
東北日本海を代表する聖地のシンボル

これが松島を霊場にしたもうひとつの背景ではないだろうか
ただし、福浦島には板碑は無い
けれども熊野社(いつからあるかは不明)があると言う
山形の吹浦は鳥海山の修験道にかかわるモニュメントで、彼らは日本海側の情報と流通の担い手であった
それならば、松島の福浦が熊野の修験道に関わって、太平洋側の情報と流通の担い手のモニュメントになっても良いんじゃないだろうか

熊野のネットワークは常滑との関係が言われているが
鎌倉と熊野関係や熊野と円福寺の関係も調べないといけないが
名取の熊野三山のうちのひとつは最初羽黒山だったというから、松島の福浦の熊野社も、元は羽黒だったかも
それぞれのコンテンツの年代を整理する必要がある

ちなみにゼンリンの電子地図で検索できる福浦・福良・吹浦は次のとおり
関係を考えてみたい

・日本海ルート
青森県津軽郡中里町福浦(平安時代の大型集落の中里遺跡)
山形県飽海郡遊佐町吹浦
新潟県両津市福浦(佐渡の中心地)
石川県羽咋郡富来町福浦港(能登半島)
島根県八束郡美保関町福浦(みごとに境港)
山口県下関市彦島福浦町(下関の先端)
<日本海ルートの重要な中継地を繋いでいる。これはできすぎか>

・太平洋ルート
宮城県宮城郡松島町福浦島
神奈川県横浜市金沢区福浦(有名な六浦)
神奈川県足柄下郡湯河原町(有名な走湯山)
高知県須崎市浦ノ打福良(太平洋航路)
高知県宿毛市小筑紫町福良の湾奥
愛媛県南宇和郡西海町福浦
大分県南海郡鶴見町吹浦
大分県臼杵市福良(大分県大分市福良・大分県大野郡野津町福良木)
鹿児島県川内市中福良町(川内川奥)

・瀬戸内海
広島県呉市天応福浦町
兵庫県赤穂市福浦
兵庫県三原郡南淡町福良(淡路島の南端の湾奥)

・その他
宮城県古川市福浦(やや内陸)
福島県郡山市湖南町福良(おもいっきり内陸)
栃木県小山市福良(おもいっきり内陸)
熊本県球磨郡錦町中福良(人吉盆地)
宮崎県東臼杵郡椎葉村下福良(おもいっきり内陸)

ところで会場は東北歴史博物館である
あの多賀城は歩いて10分
台風の影響で小雨が降り出す中、埼玉県のAさんと久しぶりに多賀城碑へ
仙台市のTさんが東光寺の話をしていたが、まったく位置関係がわからなかったので、多賀城にたって
あらためて地図をみなおしイメージを再構築する
多賀城の政庁はよく知られているように高台にある
平安京や平城京しか知らないとイメージしづらいかもしれない
この丘陵が北西から南東にのび
東光寺は、この丘陵沿いに北西に行った七北田川のほとりにあるという。
背後の山に岩切城があって、東光寺から東の川沿いに中世の有名な山王遺跡がひろがる
典型的な中世前期地域拠点のモニュメント配置であろう

実は、多賀城は、この山王遺跡のすぐ東にある
なるほど古代の政治的な中心地が廃れると
川に引き寄せられて西へ拠点が動いたんだなあと思いながら
さらに東に目をやると
すぐ東となりが塩竃港
実は松島は塩竃の北隣で、塩竃は松島湾内南におかれた古代から有名な港なのである
あの源融が、あこがれて邸宅内にその風景をつくったという塩竃である(現在錦天満宮内に塩竃社がある)
つまり多賀城の外港が塩竃で、それで平安京の貴族もよく知っていたということになるのである

やれやれ
まったくこれまでなんの勉強をしていたのか

と、ここまで考えていて思ったのは
源融は塩竃のどんな風景を邸内につくったのだろうか
もしかしたら、塩竃と言いながら松島の風景ではなかったろうかと
10世紀の話である

おまけ

板碑の報告を聞いていて
これはGISに向いている資料だと思った
地位情報・年代・形式
その総合が研究の原点になっているので
とてもわかりやすい歴史地理情報分析のコンテンツになる
誰かやらないかなあ

おまけ2

どうしても塩竃神社に行きたくなってしまい
時間を無理矢理つくって塩竃神社へ走る
JR塩竃駅から北へ、緩やかに丘陵をのぼり
おおきく下る
下りきったところから東へ(海側へ)少し行ったところが塩竃神社の表参道
道から左への標識に促されて目を左に向けて驚く
なんと長い石段
塩竃神社は北の丘陵上に南向きでおかれ、東西方向に走る谷を見下ろしていた
海を見ていたとばかり思っていた

思えば中尊寺も平泉を見ているわけではない
やっぱり行ってみなくちゃ

耳に松任谷由実

北野隆亮2005「打田町歴史民俗資料館所蔵の滑石製宝塔」『紀伊考古学研究』8
北野隆亮2005「和歌山平野における瓦器の分類と変遷」『紀伊考古学研究』8
北野隆亮2005「考古遺物」『日置川町史』
伊藤太「天橋立と歴史都市」『日本三景』
DVD甦る都市平泉

2005年9月23日 (金)

窓を開く

明日とあさって、多賀城で中世の霊場をテーマにした研究会が開かれる。
メインとなるコンテンツは瑞巌寺である。これは行かなければならないと思い、午後に京都を出る。
仙台へは一日がかりと思っていたら、東京の10分乗り換えで4時間である
早くなったものだ
先週同様、3連休ということで、コンコースはものすごい人だかり。
これだけたくさんの人が京都へ観光にやってくる。
これまでは、それだけの感想だったが、歴史遺産活用を言うようになってから
具体的な歴史研究の成果を、これだけの人に満足してもらうような仕組みを考えながら見るようになった
京都を観光に訪れるみなさん、清水寺も良いけれど、ぜひ京都どまんなかの上京へ

昨日は、わが文化情報の学生くんたちにとって初めての成績発表の日
諸般の事情で会えていない
どうやろうかと気になりつつ
その後に控えている研修合宿の準備もどうやろうかと気になりつつ
30日からの4連戦の準備のために窓を開く

けしてほめられたことではないが
高性能なマシンのおかげで
名古屋イベントのムービーナレーションと
京都府研究会の事務局関係と
上京webのコンテンツが立ち上がる
耳にはミスチル

東京駅の乗り換えは10分、久しぶりなのでどうかとおもったが、余裕で「はやて」に
そうか八戸まで行くようになったんだった
秋田へ行く「こまち」と一緒になっている
全車指定席で自由席は無いそうである
乗り遅れたら次の自由席でいいやと思っていたので驚く
もうひとつ、危機管理が徹底していて、列車の中のゴミ箱が使えなくなっていて驚く

17時半すぎに楽天の街に着く
前に来たときは仙台城の石垣の解体修理の調査をしていた
上ノ国の勝山館の研究会の後だから石井先生も網野先生もおられた
1999年の9月24日だった
台風が関西に迫っていて、飛行機が飛ぶかどうかぎりぎりだった
あれからちょうど6年
たくさんの事が変わった

夜になりネットを介して
AさんTくんKくんKくんと
上京webのミーティングやら合宿の調整やら
耳にはサザン

2005年9月22日 (木)

武衛と二条城

京都という街は、ただ歩いているだけでも歴史を実感することができるすごい街である
午前中に上京区でふたつの打ち合わせをおこなって後
丸太町のとある現場を見学して、印刷屋さんに寄って今出川にもどる
ふと思いついて室町を歩くことにする
昨日のデータ整理で気になった斯波氏の武衛の位置を確かめたかったことがひとつの理由
竹屋町室町から北へむかうとすぐ丸太町通り。手前の西に書家望月玉泉の石碑がある

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.01.75&lon=+135.45.28.74&fm=0

そのまま道を渡りたかったが信号と横断歩道があるのはその一筋西の衣棚町通
平安時代は重要な道だったのに、今残っているのは秀吉の京都改造か、と思うのは歴史オタクだけか
一筋北へ上がると 東に京都御苑の入り口が見える
通り名がわからないので烏丸まで出る。きょろきょろとまわりを見回し、
通りの東をみると「椹木町通」の標識が目に入る。
おおこれがあの有名な「武衛」の南限の通りかと感動

烏丸ではなく、室町にこの標識がほしいなあと思いながらもどって北へ
平安女学院が近づき、右手の駐輪場のフェンスの一角に「武衛」の石碑をみつける
あわせて、足利義輝邸の文字も
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.08.73&lon=+135.45.28.69&fm=0

平安女学院の横を通り下立売通に出る
たしかこのあたりが信長の二条城ではと思っていたら、室町下立売の南西角に石碑をみつける
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.11.87&lon=+135.45.29.39&fm=0
信長の二条城は、彼が室町最後の将軍の義昭のためにつくった館
管領斯波義将の邸宅であった武衛の陣の跡をリフォームした義輝の館が、永禄8年(1565)に焼けてのち
信長が同じ場所に新築したと言う
フロイスの日本史には2・3年かかるものを70日でつくったと驚きが書いてある。永禄12年のことであった。
堀は二重で、烏丸線の工事でその一部(石垣)がみつかっているからその東は烏丸までひろがっていたことになる。さらに南北は出水から丸太町まであったことも、その堀でわかった。南北約300m。府庁の本館の北面から丸太町通りまでの距離である。ほぼ現在の(徳川の)二条城の南北と同じ。
大きい。
石垣の裏ごめに、たくさんの石塔などが使われたというから、周辺の墓地が取り壊されたのだろう。
信長である。
その後、よく知られているように義昭は信長と不和になって、天正元年(1573)に信長に挑むが負けてに京都を出る。
天正5年、信長はここに入る。夢にまで見た京都だった。
しかし7年には改築して正親町天皇の皇子に献上し、ここは二条新御所と呼ばれるようになる。
とはいえ天正10年の本能寺の変では、信長の長男の信忠がここで自刃して、ここが焼けているので、まったく信長と縁が切れたものではなかったようである。
二条城と言えば、徳川の二条城のことばかりだが、実はこの二条城の方が歴史のダイナミズムを感じさせるモニュメントである

実は、信長の二条城がなぜここなのか、本を読んで字面ではわかっていたが
なるほどその前代の義輝の館と重なっていたんだ、と歩いて歴史を実感することができた
ちなみに、この石碑の場所は、二条城のちょうど中心地である

さらに北上する
出水をすぎると近衛町に入る
新町キャンパスはその別邸なので、近衛家には近親感がある。目印は和気清麻呂とイノシシの護王神社
さらにその北西は鷹司邸

清和院町に入る。東は京都ガーデンパレスホテルで、その東が蛤御門である
土御門烏丸殿跡で、発掘もおこなわれている

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.22.15&lon=+135.45.29.23&fm=0

上京中学を越えると室町通りが東へずれている。ここが一条大路である
平安時代は、ここから南が京内、ここから北は田舎だった
だからここから北の室町通りは、平安京の室町大路とはちがうことになる
それで通りの軸がずれているのかとおもったが、今出川から北の室町通りは
再び、西へもどっているので、どうやらそうでもないようである


途中に富岡鉄斎の邸宅跡がある
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.32.57&lon=+135.45.27.78&fm=0

ここから洛中洛外図の世界に入る
一見するだけではあまりよくわからないが、斜行する武者小路通りを覗き込むと
室町時代に迷い込みそうな感じがする
目立たないが福長神社がその角に建つ
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.40.04&lon=+135.45.28.34&fm=0

今日は春学期の成績発表の日、今出川も大混雑
さぞかし京田辺もにぎやかだろう
文情のみんなの様子も気に掛かるが
明日は仙台
たくさん新幹線に乗るので、たくさん仕事ができそうだ

・江戸のモノづくり 文部科学省科学研究費補助金特定領域研究
 第7回 国際シンポジウムin長野
 総括事務局は 国立科学博物館内
 だそうだが(案内が来た)何時どこでなにがあるのかよくわからない案内だった

・小穴芳実「中世末安曇郡における郷町の発達」『信濃』57-9

2005年9月20日 (火)

続・歴史オタクの試行錯誤

上京webを作成中である
文化情報のAさんのデザインは絶好調である。T君も果敢に攻める。
工学研究科のOくんのシステムは最高である。
文と人環の先輩たちの史料整理も入力も順調である。
文化情報のK君が入力を進めている
ところが肝心の歴史オタクが少し試行錯誤中

夢中で綴ってみたものの、しかし読み返した時なにかしっくりこない
なにが足りないのか
なにが違和感なのか

そんな時は原点にもどる
なにを言いたかったのか
なにを伝えたいのか

頭の中で上京をまわる
普通の街角をふりかえると聚楽第の屋根が見える
向こうから誰かが来る
あれは・・・

そうか
この通りの角に住んでいた人の話が知りたかったはず
今の風景の向こうに見えるのは、武家屋敷や公家屋敷や官衙かもしれないが
語られるべきはそこにいた人間の物語

洛中洛外図に描かれた細川殿
どんな建物だったのかも大切だが
その時、そこにいた細川晴元が何を見て何を感じて何を話したか
歴史はそこに始まる
上立売小川の交差点ではそれが見えないといけない
小川公園の向こうから小川のせせらぎが聞こえてくる
ふと左をふりかえると新町の学生会館が近衛邸に変わっている
リアルと交錯するバーチャルを現地で体験する

データは揃っている
さあ
歴史を書こうじゃないか

2005年9月19日 (月)

中秋の名月と歴史オタク

こんなに大きく写したらあまり風情が無いかも

日本貿易陶磁研究会2005『貿易陶磁研究』25(朝鮮半島における初期青磁研究の現状)
福島県河沼郡会津坂下町教育委員会2004『文化財シンポジウム「会津地方の平安時代」報告書』
『日本中世における貿易陶磁の生産と需要の構造的解明』
DVD『平泉の文化遺産を世界遺産へ』

PI3000の実験を開始した

中秋の名月を感じながら上京webのコンテンツ制作に励む
上京webでは、京都の歴史の最も濃いところが充満している上京を
平安・鎌倉・室町・江戸の時代の地図に分けて
そのそれぞれに、それぞれの時代の邸宅や寺院やさまざまな歴史遺産を
今の場所と対応するように置いて
それを臨場感あふれる表現で説明しようというもの
学生君たちと共同で作業をすすめているが
つい、調べ始めると熱中してしまって
どんどんいろいろなことを書き綴ってしまう
我ながら歴史オタクだとあらためて実感
京都にいて京都のことを深く知る
これもまた風流かな

そんな話もいいかなあと
9月30日におこなう名古屋のオープンキャンパスに向けて思う
「同志社大学学びフェスタin名古屋開催」
PDFのポスターはこちら
http://www.doshisha.ac.jp/top/manabi_fes.pdf

昔の人は良いことを言ったもので
たくさん失敗をした人ほど大きくなれると
おもいおこせば青春時代というのはそんなことばかりだった
そんな話もしてみましょう
がんばれ知的好奇心
これがその時の話のテーマです
ちょっと良いと思いませんか


綿貫友子2005「中世水運史研究の可能性-遠江国の事例から-」『交通史研究

綿貫友子2004「戦争と海の流通」『ものからみる日本史』青木書店
綿貫友子2005「札狩と札」『東北中世史の研究』高志書院
綿貫友子2004「中世前期和泉国の海運をめぐって」『中世の地域と宗教』吉川弘文館

2005年9月18日 (日)

アビーロードの街

昨日の夜は、東京は今回が初めてという3回生のTお君を連れ、やたら人の多い渋谷の街を逃れて、タイミング良く連絡がついた卒業生のOさんと一緒に、表参道の近くにあるトレンドのジンギスカン屋へ入り、岩塩の炙り焼きと少々のビールを

去年の1月に山陰を強行踏査して、そのときに考えたことをつい数ヶ月前に本にした。
その中で益田市の三宅土居跡とその周辺の風景について、これまでの研究成果をふまえた新しい知見を提示したが、今日の報告でそれを強く裏付ける可能性のある遺跡が紹介された。
益田市の沖手遺跡という
益田市教育委員会の木原木光さんの報告である
遺跡は有名な三宅土居跡のある位置からずっと川を下った河口に近いで、史料に伝えられている専福寺の推定地にあたる。
みつかった遺構は、東西および南北にはしる溝と、その溝に囲まれた中に無数に分布する柱穴と井戸および墓である。遺物も13世紀を中心とした時期の中国製品が多量に出土している。
溝は平行して二本走っているもので、道路および側溝との見方もある。
面白いことに、その溝を境に柱穴の分布が大きく減少する。
典型的な中世前期の連続する区画溝で囲まれた屋敷地群である。
これがいったいどんな意味をもつのかということで、一緒に載せられていた周辺の詳細地図を見比べてみた
そうすると、どうやら区画溝のそれぞれが、現在の里道や田んぼの地割りと一致しそう
そこで木原さんにそれを確認すると、基本的にそうなるという
実は専福寺推定地とされる「専福地」名は、これらの溝やそれに続く現在の地割りで復原できる大区画の南の一部にあたっているのである。
つまり、今回みつかった遺構群は、史料に伝わっていた専福寺の周囲に設けられた関連する施設ではないかと思われるのである。
すでに先行研究で知られているように、中世前半の益田は、河口付近に築かれた5つの寺院を特徴とする。中世前半の宗教勢力が経済活動に大きな役割を果たしていたことはあらためて繰り返さない。
最近出した本では、それをポイントにして、河口付近における中世前半データに期待していたが、今回見つかった遺構群は、それを裏付け、そういった中世前半の益田の特質を具体的に物語るものだと思う。
細川涼一さんが言っているような、実朝の妻が京都へ帰ってきて後に住んだ寺院とその周辺の風景に近いイメージが描かれるかもしれない。

菊川市の横地氏の遺跡は、鎌倉型のヤト景観をもちながら一乗谷のような町屋もひろがりそうな中世前半の遺跡群だった

大津市坂本遺跡では15世紀後半のみごとな短冊形地割りの町並みが紹介された

姫路市の古網干遺跡は難しい遺跡で、にわかには説明ができない。約50mの間隔で平行する二条溝とそれに直交する柵列からどんな風景が復原できるのか。中世の貝塚というものはなにか。現地へ行かないとイメージが浮かばない。楽しい課題ができた。
久しぶりに懐かしい友人にたくさん会うことができた。感謝
続きはTお君のレポートに譲ろう。

今日は十五夜との家の者からの連絡で、帰りに東急で月見団子を買ったら、ススキが付いてきた。品川からのぞみに乗って窓際にススキを置き、あわい夕焼けにうかぶ富士を見る。

やや風情を感じるかも
本日のタイトルは、かなり難解かも

2005年9月17日 (土)

渋谷と陣が峯城跡

貿易陶磁研究会のために東京へ向かう
京都駅に着いたら、やたらに人が多くてびっくり
家の者に聞くと、今日から三連休だとか
なるほどなるほどと頷きながらのぞみの700系に乗り込む
車内はさずが家族連れが多い
天気も良いし、最高の行楽日和である
例によってパナソニックを開く
やはり新幹線は列車の中で一番落ち着いて仕事ができる
しかし今日は前の座席の坊やが興味津々で見ている
メールをみると、中国で調査中のU先生から原稿受け取りの返事が入っている
青山で待っているTくんに周辺の情報を送ろうとしたがさすがにこのモバイルではしんどそう
電子辞書を参考にしながら
Iさんにつくっていただいた京都御苑の原稿に追加の事項を加える
かすかに富士が見える

青山学院大学の正門でT君と会う
「福島県陣が峯城跡出土の土器・陶磁器」吉田博行・五十嵐和博
城跡の陶磁器となると戦国期というのが一般的な印象だが、なんと12世紀代で、しかも袋物もめだつという、驚きの遺跡
場所は会津坂下町、阿賀野川の支流と越後へ向かう街道に面している
今回は、一括資料がテーマになっているため、研究会では珍しく、遺跡とその周辺の説明や、出土状況の説明がしっかりされた、重要な報告である。
立地は会津盆地の西北の山麓で、山を越えれば新潟に入る。遺跡はその山麓からちょうど良い具合に飛び出た丘陵先端を利用してつくられた単郭の館である。館から東南に会津の盆地がひろがり、背後の山には前期の前方後円墳と渥美を出土した雷神山経塚がある。
典型的な平安時代の開発領主の館の立地と言って良いだろう。
しかし一見すると戦国の館にしか見えない。でも、13世紀以降の遺物は出ていないというので、平安時代終わりの館としか言いようがない。
この場所は平安時代の摂関家領蜷河荘で、政所の地名も残っている場所があると言う。盆地には12世紀の浄土寺院で庭のみつかった薬王寺もあるという。九条兼実の「玉葉」には養和元年(1181)に「藍津の城」という記事があり、それではないかとの意見もある。
最初に問題となるのは、12世紀を中心としている時期に、二重に巡らされた大きな堀をもっていること。
これはいわゆる館の源流にかかわる問題である。
これまで何度も言ってきているが、中世後半に一般化する館の源流については、基本的には京都の邸宅であろうが、平安時代後半に北東北で注目される環濠館(高屋敷館など)も、その源流になった可能性を考えている。あまり知られていないが、浪岡城からも12世紀の土器が見つかっており、最近の柳御所の見直しで、清衡時代の施設もあったとされているため、その点で、12世紀にこれだけ立派な館が会津でつくられて、さらにそこから見つかった資料が、平泉と同様な、畿内を意識したものであるということは、館の源流としての北からの影響を真剣に考えてみるきっかけになるかもしれない。
次に注目されるのは中国陶磁器の多さ、なかでも白磁の袋物が目立つことである。柳御所より少ないと言われるが、白磁の四耳壺と水注で5体も出ていれば十分すぎる。12世紀前半の常滑の大甕、渥美と須恵器系の壺および柱状高台(疑似高台)皿といった特殊すぎる遺物構成でもある。また錘や漆器の製作工具や硯も出ているそうである。
中身も外見も地域の盟主の屋敷といって間違いない。
では、誰がここに住んでいたのだろうか。
発見された遺物は焼けたものがあり、鉄鏃や堀からは飛礫がみつかっているという
12世紀のおわりに攻められ、廃絶した事件がおきた館となる
しかも、この館を攻めた側は、ここを獲るのが目的ではなく、その後ここと別の場所に権力の拠点をおいたことになる。
ということは、ここを攻めた人物は、この地域に対して、ここに拠点をおいていた人物と別の再生産構造または価値観をもっていたということになる。
仮にこの屋敷の人物の価値観が典型的な開発領主的なものだったとするならば、それを攻め落として、さらにここと違うところにこの地域の拠点をおいた人物は、開発領主的な地域支配とはちがった論理をもっていたことになる
さらに、交通の要衝であるこの場所をおさえる必要がなかった人物とも言える
一方それではこの屋敷の人物はどこから来たのだろうか
理想的なのは、地域権力が強くなる10世紀代にこの館が築かれていれば、比較的話はしやすい
しかし、現状で一番古い時期を12世紀初めとするならば、この館の人物は、誰になるのか

「十三湊遺跡の一括資料と基準資料」榊原滋高
「史跡 聖寿寺館跡」永井治
「秋田県男鹿市脇本城跡」工藤直子
「新潟県上越市至徳寺遺跡出土の貿易陶磁」鶴巻康志
「祇園城遺跡」秋山隆雄
「菊川市横地氏館遺跡出土の貿易陶磁」塚本和弘
「益田市沖手遺跡と出土陶磁器」木原光
「大津市坂本遺跡出土の陶磁器」吉水真彦
「古網干遺跡の調査成果」中川猛
「大分県大分市中世大友府内町遺跡」吉田寛
「蔵と沈没船」川口洋平

2005年9月15日 (木)

ライ麦畑でつかまえて

思いこみが強いとよく言われるまったくの個人的な印象にすぎないが
現在のMKには
サリンジャーの時代の様な
あるいは
イージーライダーの時代のような
日本で言えば
大森一樹のオレンジロードエクスプレスの時代の様な
そんな
ドキドキ感と期待感と不安感と
そんなさまざまな感覚がないまぜになったような雰囲気が流れているのではないかと思っている
思いこみが強いとよく言われるまったく個人的な印象にすぎないが
不思議な高揚感と緊張感が全体を覆う
1970年代の多くの人たちが感じていたような・・・
今となってはとても懐かしい、そんな感覚が日々を彩っている、ように思う
あくまで個人的な思いこみにすぎないが
秋学期までちょうど2週間

9月30日におこなわれる大名古屋イベントの準備で今出川の情報メディアに御世話になっている
隣には、発掘調査事務所以来のムービークリエイト監督のSくん
テーマは大学の学び、同志社大学で学び楽しさ
その話をダイナミックに演出するためのムービーを制作中
絵コンテの打ち合わせは済んでいたが、思いの外コンテンツの準備に時間がかかり
限られた時間と狭められる条件に少々追いつめられ気味
そうは言いながら
コンテンツを選びつつ面白いアイデアの創りあげには妥協を許さず
しかし最終形状をイメージしながら、その制作のための残り時間を素早く計算する
さすがである

思えば
これまでのプロジェクトも、今やっているプロジェクトも
みな、社会に対する意識の中で一緒になって「答え」を出してきた
そして彼らは、ひとつ作品の創りあげる度に
その反応に模索し、鍛えられ、たくましく大きくなってきた

今の大学が担うべきたくさんの役割の中で
ひとつの形が、それではないかと思う
狭い殻に閉じこもらず
目に見える形で、社会に対して答えを出す勇気と強さをつくること
今、S君がつくっているムービーと演出は、まさにそのひとつだと
そんな話を名古屋ではしようと思っている

2005年9月14日 (水)

坂本竜馬

らしい
3回生のMさんが「日本歴史占い」なるものを紹介していて
Mさんはまさにぴったりだと思うが
坂本竜馬かあ
一番有名な出来事は敵対関係にあった「薩長同盟」のプロデュース
「文理融合」という言葉が頭をよぎる
しかしその後がなあ・・・・
なるべく三条界隈は出歩かないように心がけよう
ちなみに我が家にはほかに「卑弥呼」と「阿仏尼」がいるそうだ

昨日は
1回のK君が声をかけて文化情報の10月合宿の打ち合わせもおこなわれた
いつもひょうきんなK君ではあるが、必要なタイミングにアクションをおこすのはさすがである
裏方にまわって全体のデータを調整しているもう一人のK君が中心になって
途中からS先生も加わって、各日程の学生世話役や注意事項、準備の段取りなどを打ち合わせる
楽しく有意義な企画が期待できそう

上京歴史探訪館のweb制作が第2段階に進んでいる
webデザインを精力的にすすめている1回のAさんと細部のつめもおこなう
良い感じの仕上がりで、公開が楽しみである
途中からT君も加わりweb化の分担と段取りを打ち合わせる
どちらのプロジェクトもそうであるが
なにより各自が自分の役割と全体との関係を理解して調和の中で動いている
それがなにげなく出来てきたように思う

上京歴史探訪館のプロジェクトでは
3回と院生チームの準備もすすみ、時代毎のコンテンツの整理と編集の状況がメールで入ってくる
上京の歴史遺産活用をテーマに
文理の壁を越えたさまざまな分野の人間が集まって
それぞれの得意な部分と関心の高まりを融合させたものになるのが目標である
・・・坂本竜馬かあ・・・嬉しいような哀しいような・・・

ちなみに今日はその北小松リトリートセンターで学際科目の授業をおこなう
学部生時代、ここの裏山にある古墳群の測量調査とわずかな発掘調査をほとんど学生だけでおこなった
同志社のキャンパスと遺跡とは密接な関係にあるようだ
熱い時代、そしておおらかな時代だった
始めて報告書なるものをつくったのは、この時だったから、たくさん勉強になった
今、もしこの古墳群(北小松古墳群)を学生が調査するとしたら
どんな問題意識で、どんな方法でおこなうだろうか

2005年9月13日 (火)

にわかの勉強会

いよいよ本格的に学びに挑み始めたT君が知的好奇心を高めている
春学期の終わりから
そんな3回生のT君に対して、すべきことをしようと心がけている
とは言いながら、実際はそれほど時間をとれてこれなかった
そんな中、今日はそこそこ充実できたと思う

対象は今出川キャンパスの調査で発見された資料群
今出川キャンパスの位置が、左京の一条以北にある関係で
発見される遺跡は室町時代以降が多く
さらにその後の土地利用が激しかったため
最も多い遺物は安土桃山時代以降の近世を中心としたものとなっている
(その点で、中世後半以降村落化した京大の遺跡群が平安時代後期から鎌倉時代を中心としているのと対照的な関係になっている)
その中にあって、去年の夏に調査した「北志寮」地点は
大半の遺物が近世以降ではあったが
一条京極付近であったことから、平安時代から鎌倉時代の遺物も比較的多くみつかっていた
(ただし井戸とか溝とかといった遺構から見つかるものは少なく、整地層が多い)
休憩時間を利用して1回生も呼んで、にわかの勉強会
11世紀の緑釉陶器、素焼きの皿、黒色土器碗
 素焼きのお皿の起源を飛鳥時代から説明する
 T君には、手書きでお皿の形の変化を説明する
12世紀の素焼きの皿、中国製白磁碗、魚住窯の擂鉢
 鎌倉時代に京都で一番使われていた擂鉢は須恵器のような焼きで擂り目も無い
 今はあまり見かけないが、その昔は日本で最もポピュラーが調理具だったとか
 1回生のHさんは家にあって使っているそうだ
13世紀の素焼きの皿、中国製青磁碗、天目茶碗、魚住窯の擂鉢、瀬戸の手つき壺?や山茶碗や山皿、瓦質に焼かれた鍋もあった
 ここの資料だけで12世紀から15世紀までの素焼きの皿の移り変わりがわかり
 魚住の擂り鉢の移り変わりもわかる
 瓦質に焼かれた素焼きの鍋は、確かに外の面に煤が付いていて火にかけられていたようだが、中はそれほど使ったようには見えないがなぜだろうとか
 岡山県の亀山窯の甕が目立つ中、大学院時代から大阪時代に力を入れた魚住窯の甕もあったので、和泉・河内型の甕との違いについても説明する
 けれども中には、どこのものかわからないものもある
 そんな時は、蛍光X線分析などの自然科学分析も話もする
 なにしろMKにはそれがあるから
 
一所懸命メモをとっているT君が、これらのイメージを自分のものにしたら
次はその特徴を数量化することの考え方と方法についての説明もしよう

ところで、蛍光X線分析の機械は基本的に数ミリ以下の範囲を照射してその元素を調べる
これに対して一般的におこなわれている人間的な個体識別は、対象物の全体を把握しておこなう
だから蛍光X線分析をした結果を、ストレートにこれまでの個体識別の知識の蓄積と連動させるわけにはいかない
非破壊分析の難しさは、この、その測定箇所がその全体を表現しているという仮定に依っているところにある
もっともその意味では、3次元体の一部分しか数量化していない現状の実測図法も同様ではあるが
高機能な分析機は一定の面積に対して測定を連続することでこの問題を克服し始めている
しかし十分ではない
やはりリアル資料に対して適切な評価がどれだけできるかが、文化財解析をする上で最も重要な前提となっている
そう思って、先週の土曜日の備前の研究会へ行ったときに、駅前の窯元で陶丸を買ってきた
ひとつ300円でご飯を炊くときに入れると味が良くなるそうだ
MKでは、これを蛍光X線の発射口に載せて、無数の箇所で備前焼の胎土分析をしてみようと思う

2005年9月11日 (日)

高輪

きっかけは「高輪」が高台の端を語源にしていると聞いたときだったと思う

東京タワーと言えばゴジラかウルトラマンか荒井由実だと思うが
実はその足下の芝公園には、縄文時代の貝塚と5世紀の古墳がある
JR山手線の浜松町を国際貿易センタービルの正面から出て西へまっすぐ歩いていくと
立て続けに蕎麦屋が目に入る
ああそうかここは東京なんだと思いながら道の正面を見ると、増上寺の門が目に飛び込んでくる
増上寺と言えばこれまで映画でしか見たことがなかったが大名刹である
創建は明徳年間にさかのぼると言うから14世紀の終わりで南北朝の合一がなされたころ
江戸はやはり江戸時代というくらいで中世についてはあまり知られていない
しかし早稲田大学の地下には中世の館があって、浅草寺も中世にさかのぼる
江戸時代ほどには地域の拠点としての役割は果たしていなかったかもしれないが
けっして見過ごしてはならないテーマである
(江戸東京博の展示や過去にもいくつかの博物館で企画展がおこなわれている)

古墳は「芝丸山古墳」と呼ばれる全長100m余りの前方後円墳(都内最大級)
明治31年に坪井正五郎が調査をしているが、既に主体部は無く、周辺に埴輪があったのみという
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.39.17.51&lon=+139.44.52.77&fm=0
都教育委員会は形と立地から5世紀としているが、確かにその特徴は頷ける
とくに行ってみるとよくわかるが、丸山と呼ばれる丘陵の頂部にあって
その丸山が意外と高い(荷物を持っていたので石段がたいへんだった)
とくに南の三田方面から来ると、この丘の端がまるで断崖のようにも見える
説明板にもあるように、丸山から増上寺にかけての一帯は北からのびてきた尾根であり
(最初に行った増上寺の本堂が高いところにあっておどろいたが)
この古墳は、その先端で、ここから南の平地が一望できるのである
だから南にひろがる平地一帯を支配した盟主の墓として
(畿内ならばまるで前期の古墳立地だが)中期の古墳の立地にふさわしいと言えるのだろう
東京のど真ん中で、こんなわかりやすい古墳の立地を確認することができるとは驚いた
関東の古墳というと埼玉とか群馬が目を引くが、東京も見逃せない
なお、地元の人はここの緑の中で昆虫採集をしたり家族で散策をしている
良い風景だった
山頂に「瓢形大古墳」と、彫られた石と伊能忠敬の記念碑がある

そしてここから南の田町から品川へかけての一帯はもっともっと面白い
地形に注目すれば、品川に高輪と御殿山という地名があるが
高輪はやはり高い土地の先端を示す意味と言われ
実際、高輪プリンスホテルは品川駅からさくら坂を登った上にある
ちなみに今日はそのサクラタワーでUbiquitous Computingの研究会があり
その分科会で携帯電話による歴史遺産活用を報告した
世界各地からの研究者に混じって京都と大阪の実践例を英語で報告したが
またひとつ触れられたくない過去をつくってしまったかも

閑話休題
品川駅の南西に御殿山がある
うっそうとした森の緑がめだつ良い山である
おそらくこれも北から延びてきた丘陵の先端であろう
JR線と平行して走っているその南麓の道をはさんで京急の線路を越えたらすぐ南が旧の東海道(ここが品川宿)
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.37.20.07&lon=+139.44.23.35&fm=0
そこから南にけっこうな坂があって、そこをおりれば、もうそこは屋形船の浮く品川の海である
[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.37.19.47&lon=+139.44.29.47&fm=0
(旧東海道は、海を見下ろす段丘の縁を走っていたようだ:ちなみにこの風景は府中の街道も同じ)
だからマクロ的に見ると
浜松町や田町のあたりでは、まだ丘陵と海の間隔は徒歩15分くらいだったものが
高輪のあたりから急激に山が海に近づき
品川宿はもう山を背にした海の宿だったというイメージになる
高輪の木戸が江戸の別れで、なぜ品川に宿がおかれたか、わかるような気がする

田町の駅のすぐ北は、勝海舟と西郷隆盛が江戸開城をめぐって会見した薩摩藩邸で
薩摩藩邸の下屋敷は品川駅前のパシフィックホテルの場所にもあったそうだ
(今日の報告では今出川キャンパスの薩摩藩邸の話をしたが、ここまで話をもってはこれなかった。残念)
また高輪から北へ東海道沿いに少し行けば赤穂浪士の墓で有名な泉岳寺がある
ちなみにモースの大森貝塚で有名な品川歴史館は4年ほど前に行った
浮世絵のコレクションでも有名な良い博物館である

2005年9月10日 (土)

もっと踏み込む時は今

中世六古窯を代表する備前焼の故郷、伊部で「備前焼研究最前線Ⅱ」という研究会があった
場所は岡山から東へ30分ほど列車で行ったところ(ちなみに伊部は北の山裾にある忌部神社が語源か)
江戸時代には、擂鉢と言えば備前焼と言われるくらいひろく日本列島で知られたこの窯の製品である
西日本を代表する中世の陶器として有名で、西日本で埋蔵文化財に従事している人間にとってなじみのある製品である
学部の時に窯めぐりをしたが、最初に行った窯でもある
しかし
まだまだわからないことも多い
今回、伊藤晃さんが丹念に各地を訪れて集めた調査資料を元にした報告と研究がおこなわれた
その後の普及が著しいために、この窯の製品が古くから西日本でメジャーだったとの印象が強いが
研究の当初からそうではないことが知られており、とくにⅠ・Ⅱ期とされる12世紀後半から13世紀終わりくらいまでは
あくまで備前を中心とした地域窯であった
それがⅢ期とされている13世紀終わりから14世紀終わりになると西日本一帯で見つかるようになり
Ⅳ期とされる14世紀終わりくらいから一気にその量を増し、やはり西日本一帯から遠く琉球までみつかる地域が広がるとされている
さらに生産地の様子もみると、Ⅲ期までは伊部の山手で小さな窯が群集してみられたが、Ⅳ期になると伊部の海岸近くに大きな窯が作られ、いわゆる集約と大量生産がみられたとされる。
どうやら、14世紀の後半のある時期を境に、備前焼の生産と流通にかかわった世界が大きく変わったようなのである
ちょうど中世前半と後半の転換期である
問題はここである
簡単に考えると、14世紀の後半のある時期に、備前焼が儲かると思った人物が、備前焼の陶工たちを集めて大きな工場をつくって、さらにそれを舟を使って瀬戸内海沿岸を中心とした各地へ売り廻ったということになる
それは誰で、いったいなにがあったのか
すでに何度も言ってきているが、中世前半の窯業生産をプロデュースした人々は、神人・寄人に代表される宗教勢力だと考えている
しかし中世後半になると彼らは戦国大名の経済構造の中に取り込まれて姿が見えなくなる
それでは14世紀後半という南北朝期後半にこの地に登場した西遷御家人(がいたか)などに代表される権力者が仕掛け人だったのだろうか
しかし地域の権力者がそれぞれの領国を越えた交易をなしえたのか
鈴木康之さんによれば、草戸千軒町遺跡は15世紀以降、国人領主の渡邊氏の拠点だったという研究がある
従前の考え方ではそれはむずかしい
そうすると、領国のバリアを越える新たな商人の登場があったのだろうか

ところがこの解釈はまだ不十分で
先ほどみた14世紀後半における生産の転換に対して、この製品が見つかっている場所の地図をみてみると
転換以前のⅢ期と転換以後のⅣ期は、見つかる量は著しく異なるものの、見つかる場所はあまり変わらないのである
ということは、生産の構造は大きく変わったとしても、それを流通させる仕組みは、転換期の前からすでに転換期の後と同じものがあったということになるのだろうか
もしそうであるならば、生産と流通のプロデューサーは違っていて
もっと細かく言うと
(誰かが)備前焼の流通を地域形から広域形に転換させた時期は13世紀終わりで、それを大量生産のシステムに転換させた時期は14世紀終わりということになる
そうすると、備前焼を最初に転換させた仕掛け人は13世紀終わりに瀬戸内の流通を支配していた人物の中から探せば良いことになる

この話題になると、必ず登場するのが京都の権力者たち
しかし、大阪と京都を発掘してきた身にとってみれば、あくまでイメージであるが
備前焼きは大阪ではたくさんみられるが、京都はそうでもない
とくに安土桃山期の京都は、丹波と信楽の擂鉢が備前より多くみられ、これは大阪と明らかに違う
そうなると
備前をメジャーにさせたプロデューサは京都とは直接関係ない人物とみたほうが良いように思う

その点で今回の報告の中で森村健一さんが堺商人の活躍にスポットをあてているが魅力的な試案だとは思う
ただし、堺商人と備前焼の関係は15世紀終わり以降だと言うので
今問題にしている14世紀を中心とした転換期の説明にはならない

もちろん13世紀おわりに備前焼きを各地へ売り歩いた人物と
14世紀おわりに備前焼を大量生産させて人物と
15世紀おわりに備前焼を「全国ブランドに引き上げた」人物が
みな違う場合もある

誰がいて、なにがあったのか

そう思いながら何気なくグーグルマップを見ていたら
なんと北の山の名は「医王山」
医王山と言えば富山と石川の県境にそびえる山で宇野隆夫さんが調査している
白山系の山岳信仰があったような

北海道上ノ国の勝山館のモニュメントも夷王山
備前の窯のひとつに不老山があって、伊部から海につながる川は不老川

まいったなあ
誰か先行研究をしているだろうか

思い起こせば14世紀代をめぐる大転換は卒論以来のテーマである
あれから四半世紀
考古学は考古学だけではすまなくなっている
あらゆるデータを総合化してさまざまなシミュレーションをおこない
もっと踏み込む時は今

17時10分の岡山行きに乗って東京へ向かう

2005年9月 9日 (金)

その中間にあってできることを考え続ける

例によって昼前に京田辺を出て今出川へむかう
各駅停車に乗り、新田辺と大久保の間にジョアミのパンを食す
丸太町で降り、4番出口を登って竹屋町通りを西へ歩く
風は少し涼しい気もするが日差しは例によってきつい
先週から上京のマップをトレースしているおかげで
烏丸から西へむかって通り名をたどる平安京の中の自分の位置がGPSできていて楽しい
西洞院を越え、小川を越え、油小路を越えたあたりで立ち止まる
確かこのあたりだということだが
桓武天皇の皇子賀陽親王の邸宅で藤原頼通が壮麗な邸宅に改造したと「栄華物語」が伝える場所

南北100mを越える池があったらしい
今出川キャンパスの調査で室町殿の推定地を掘っていたときに
花御所にあった一町の水面をもった池とはどんなものかと金閣寺を見に行ったが
ビルの建ち並ぶ丸太町油小路でそれを想像すると
やはりその大きさに驚く
平安時代の人と文化を考えるためには思考をかなり切り替えないといけないと

京都市歴史資料館で上京webの相談をしてから今出川キャンパスへ
寺町を上がる途中、法成寺跡を通過して去年の夏に掘っていた北志寮の手前で廬山寺を見つける(これまでも見ていたはず)
廬山寺も洛中洛外図にあったが、場所は宝鏡寺の北だった
上京webの紹介写真でこの映像が使えるだろうかと考えながら今出川を西へ
同志社女子中高の建物を北にみながら
「そう言えば、たしか去年の冬にエレベータの設置工事に伴う試掘をしたなあ」

北志寮の跡は順調に工事がすすめられおり、女子中高の建物にはきれいなエレベーターが出来ていた
北志寮の南は平安京の一条京極の角で、その北東に一条道場があった
消えていくものと生み出されるもの
その中間にあってできることを考え続ける

広報課でNさんと待ち合わせ
Sくんと大名古屋イベントの打ち合わせも
イケメンカフェでアマークド・スイート・カプチーノを飲む
明日は備前

2005年9月 8日 (木)

夢告館の出番

3次元レーザースキャナのVIVID910の実験をおこなった
対象は○○形○○
高さは約70㎝、幅は約40㎝
埋蔵文化財を含む3次元歴史遺産の調査と研究への実用化のための本格的な実験である
みつかったところは、西の山塊がとぎれて緩やかな段丘平坦面が東へ延びたその先端部にある古墳
貴重な資料なので先方の担当の方に手伝ってもらいながら慎重に作業をすすめる

カメラとパソコンのセッティングは前回試験ずみなので問題なく進む
最初は広角レンズで撮影
10秒ほどでスキャンが終わり画像が現れる。ここまでは問題ないようである
しかし、この資料は表面に○の描かれていることに大きな意味があるので
その○が表現されていないとこの方法は実用にならない
残念ながら広角レンズではそのデータが記録されない
そこで次に標準レンズで撮影
かろじて○の一部が情報化されるものの、データとして活用できるのは
この資料の表面に明らかな凹凸で表現してある装飾程度
レンズを近接に切り替えて資料に近づく
モニターに生々しい○の映像が現れる
しかしスキャンがエラーをおこす
どうやら最短ピント距離は50㎝で、その内側になっていたらしい
資料との距離を50㎝にしてスキャンをおこなう
表面の刷毛調整の痕跡も情報化されている
これならまずまず実用にはなるだろう
やはり詳細データの取得のためには、近接撮影レンズで限度一杯まで近づいて撮ることである
またより周辺の歪みを減らすために、近接レンズで遠くから撮るのがいいが
今回はカメラを数メートル離したところスキャンエラーがおきた
これは研究室に戻って再実験をしないといけない

この機械は、それほど新しいものではなく、これまでもいくつかの研究機関に納入され実験がおこなわれてきた
しかし、その結果が研究の成果として示されたことは、知らない
おそらくその理由は、これまでこういった歴史情報の取得に対する考え方が十分固まっていなかったこと
(かく言う鋤柄も、10数年前までは手書き実測と職人的なロットリングとインレタの無邪気な信奉者だった)
もうひとつは、歴史情報が簡単にデジタルで取得できたとしても、その形はいわゆる理系の情報屋のそれであって
そういったことに不慣れな遺跡や歴史を研究する多くの人間にとってまったく理解できない形であったこと
(どうやって見たら、使ったら、自分の欲しいデータがそこから得られるかがわからない)
であると思う
しかし多くの歴史家も遺跡研究者もこの方法を熱望しているのである
この10数年、この方法が多くの遺跡や歴史家から求められながら実用化されなかったのは
その両者(異なった言語を繋ぐ)をつなぐ役割の存在が無かったからなのである
実は文化財解析に求められている大きな役割のひとつはここにもある
(それぞれの言語を分析して、両者が理解できるような仕組みをつくあげる)
歴史家と情報家の両方を見て、その間をつなぐ役割
これが解決すれば、これによる研究は一気に進む

今回の実験も、一番重要な点はここで
取得したデータを多くの遺跡研究者が普通に使える形にするためにはどうしたらいいのか
さあ、夢告館の出番です

2005年9月 6日 (火)

台風接近-覚悟という言葉-

非常に大型の台風が各地に被害を及ぼしている。自然の脅威というものをあらためて実感する。
人間と自然との関係、そして人間と歴史との関係を。

駅前できわめて有名な政治家の演説を聴いた。その人は「覚悟」というキーワードを使っていた。多くの人に向かって自分の意見を明確に主張し、説得をする。圧巻であった。明治の政治家もかくんありなんという雰囲気があった。
積極的に社会と接し、具体的にその成果を実践していくために多くの人の前で自らの立場を明確にする。
勇気がいることだし、それこそ「覚悟」が必要で、なかなかできるものではない。

研究成果を積極的に社会に還元し、それを実践していくという姿勢は、これからの歴史研究にとって最も重要なテーマである。現在、それを先駆的におこなってきた森先生を継ぐ形で、さまざまな模索を展開しているが、その度にこれまでの経験を越えたいろいろな分野の人と考え方に出会い、多くの学びを体験している。
自分の主張と説得もするが、その同じエネルギーをつかって相手のステージに立ちその話を聴く。

言い古された言葉だが、やはりコミュニケーションの本質は相手の存在を言葉以外で感じる状況だと。
しみじみと工学部のO先生が語っていたことをある政治家の演説を聴きながら思い出した。

上京webのコンテンツ制作のために、洛中洛外図の整理をおこなっている。
上杉本と歴博甲本と、中世後半の京都を考える時に、必ず登場するこの2つの洛中洛外図である
それぞれこれまでも長い研究の蓄積があって多くのことが明らかにされてきている
上杉本は山形県米沢市の上杉博物館にあり
歴博甲本は千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館にある
これまで何度か両者が一緒に並んだことはあった(京都府総合資料館・京都国立博物館・上杉博物館など)
両者を比較してみることで、中世後半の京都についてわかることがたくさん見つかる
寒梅館のデジタル展示ではこれまでの研究に学びながらその一部の試みをおこなっている

できれば上京webでは、京都研究を見直す覚悟でこの両者にとりくんでみたい
なにしろ京都が題材になっているのだから

2005年9月 5日 (月)

雨の夢告館

台風が近づいている影響で、京田辺キャンパスは雨と雲に覆われている。
夢告館の5階は見晴らしがよく、三山木の方向から木津川の堤防を見渡すことができる。
雲の断片がこの景色にまとわりついてなんとも言えない雰囲気を醸し出す。
室町時代にこの丘陵を利用して館を築いた人たちも、こんな日を体験したのだろうかとあらぬ妄想にひたる。

高橋慎一朗 2005『武家の古都、鎌倉』山川出版社
 歴史を語るということは人をかたることかあるいは地域を語ることであるが、本書は地域を語る中で大いに人を語っている。これまでの研究をふまえ、文献の研究者の目から遺跡の解釈もおこなっている。関東の中世考古学が結局関西の中世考古学よりも歴史学として面白みのあるのはこういった研究姿勢の層の厚さによる。この本を片手に鎌倉を歩いてみたいと思う。

田原本町教育委員会 2005『笹鉾山古墳群』
奈良盆地の中でも、こんなところに古墳があるのかと思ってしまうような場所の古墳。近鉄田原本の駅の真北で、鏡作神社遺跡の南西だから、いわゆる盆地の埋没古墳群となる。ただし1号墳は現在高さ4.5mの墳丘があって、墳頂に稲荷神社が建てられている。入れ墨のある人物埴輪と馬形埴輪が発見されている。2号墳は削平されて水田と水路になっていた古墳。全長26m。時期は5世紀後半から6世紀頃という。
この時期は、河内で巨大古墳群がつくられていた時代、奈良盆地の巨大古墳群は、大和・佐紀・馬見・葛城に分けられてきたが、この古墳をつくった人々はこれらの地域とどのような関係になるのだろうか。

全国シンポジウム 中世窯業の諸相 2005年9月3・4日 文部科学省特定領域研究『中世考古学の総合的研究』特定領域計画研究『中世土器・陶器の生産技術及び全国編年研究と流通様相の年代的解明』
非常に大きなテーマの研究会が開催された。大きなテーマではあるが、中世土器と陶磁器の研究においては常にこれがセットで意識され続けてきた。1980年代の後半にあったその研究のたかまりから約20年。各地で熱心におこなわれてきた調査と研究の成果が凝縮されている。昨日も書いたが、考古学はこの地域に根ざした熱心さを大切にしないといけないことを再確認した。

2005年9月 4日 (日)

各地の活発な活動

和歌山のDさんから
紀伊考古学研究会 第8回大会の案内がとどいた
テーマは 弥生時代の和歌山-変化するムラと墓
地域毎に報告が予定されている
日時:平成17年9月18日(日)
午後1時~4時40分
会場:和歌山市立博物館 2階講義室

森先生が考古学は町人の学問だと言っているように
地域毎の地道な調査と研究が要である
各地の活発な活動に注目していきたい

藤原定家京極邸[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.50.83&lon=+135.46.02.16&fm=0

革堂[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.58.60&lon=+135.46.02.07&fm=0

下御霊神社[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.00.59.77&lon=+135.46.02.75&fm=0

横井小楠殉節地
[GPS情報URL]http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.01.69&lon=+135.46.01.58&fm=0

2005年9月 3日 (土)

何事も勉強になる日

とある研究会のエクスカーションの案内を頼まれて寒梅館へ行った後、N先生と上京webのブリーフィング。
実はN先生とは10年以上前ににちょっとした縁があった。佐倉の歴博の共同研究で一緒だった。それ以来になる。その時のメインテーマは「中世食文化の基礎的研究」でN先生は「酒飯論絵巻」についての報告をされた。当時、鋤柄は大阪文化財センターに勤務していたが、フィールドが同じ京都であったため、継続する研究を約束したまま、そのままだった。その後ずっと気になっており、なにか機会があればと思っていた。
今回縁あって再会することができ、ご教示をいただくことができることになった。感謝
上京webの取材で下御霊神社へ。この企画の大元であるIさんからさまざまなお話をうかがう。
実は下御霊神社とは20年以上前にちょっとした縁があった。学部の一時期この近くに住んでいたことがある。京都へ来て最初に住んだのは西賀茂車庫の近くで、卒業の時に住んでいたのは大徳寺の近くだったので、ほとんど洛中とは無関係の生活を過ごしていたが、京都特有の「上がる下がる」の地名にあこがれ、一時期だけ洛中に住んだことがあった。下御霊神社の東裏のすぐ近くに住んだのも、その頃である。すぐ北は京都御苑。東は鴨川。いかにも京都であった。その頃が少しだけ思い出された。
上京webの関係で京都市歴史資料館へ行く。Uさんからご教示をいただく。ひとりで考え込んでいたステレオタイプな発想から解放されイメージがひろがる。またまた流されすぎていてコンセプトを見失っていたことを痛感。キーワードはタイムスリップまたは現代版洛中洛外図で。
歩いて、見て回り、人に会うと、必ず新しい発見がある。ありがたいことである。
来週末は岡山と東京、再来週末は東京、その次の週は宮城で研究会。たくさん歩いて見て回り、人と話をして感性を高めよう。

文化情報の学生君たちは夏休みを満喫しているだろうか
夏休みこそ自分を磨く時期
本を読むも良し、旅をするも良し、いろいろな形で自分の器を大きくしてほしい
という訳で今日は研究会に行く時間が無くなっていた。残念。

2005年9月 2日 (金)

旬のもの

京都府埋蔵文化財研究集会の準備と大名古屋イベントの打ち合わせの後、上京知恵袋の第2回会合を開く。
今回はボランティアひまわりがもっている京都・どまんなかのさまざまな文化をまとめていくためのあらすじをかためるもの。
会場は今出川小川を下がった上京のどまんなか。
メンバーはボランティアひまわりから4名、大学チームは4名(Iくん、Nくん、KENおよび鋤柄)。
最もコアな京文化が現在も生きている上京の身近なさまざまを残し、伝えることが目的で、いわゆる貴族文化研究とは異なること、それから上京に所在するメジャーな寺院や神社の儀式研究とも異なることを確認。
フリーディスカッションから開始ということにして、ボランティアひまわりのみなさんのお話を聞く。
話題は正月から始まる。元旦には刃物を使わないそうで、はさみも使えないので困った経験があるとか、元旦は着るもののすべてを新しいものにするとか、骨正月という言葉があるとか、次々と話題がでてくる。
夏の話題も豊富だ。送り火の正しい見方や。地蔵盆の時に2階からフゴで景品が降りてくるとか、蒸し暑い京の夏の過ごし方に古代・中世の日本の生活文化を感じる。
そういえば、以前にここで書いたように、森先生は食文化の調査を自らおこなった。今回のプロジェクトでも、上京のひとが食す旬のものというテーマができそう。最近コンビニが生活の中心になっている学生くんたちに新たな刺激になるだろう。
(ということで、本日のオチは「文化情報は旬のもの」)
全体のテーマを「上京の四季・京の四季」にして、構成は「年越しと年明け・夏を過ごす・ぼた餅と彼岸・桃と端午・お火焚・七夕」として、コラムで「冠婚葬祭」とすることに決定。
9月を目標に「夏を過ごす」をまとめることにしてお開き。データは順次上京webでも公開していきます。
帰宅して上京webの携帯電話ガイドブックのコンテンツマップを作成する。
現地を思い出しながらイラストレーターで地図く。今日は平安宮エリア。一般に知られているのは、「山中油店」の通りを西へ行って、千本通りに出る手前にある「内裏内郭回廊跡」の表示と、千本丸太町の交差点の北西にある「大極殿跡」の石碑。
(平安時代と平安京を研究する人は、この「大極殿跡」の碑を見てはじめて研究にとりかかったことになる)
けれども重要なのはこの「内裏内郭回廊跡」の表示と「山中油店」の間に内裏があったということ。現地を歩くと路がややこしくていつも迷ってしまうが、地図をトレースして得心。なんでもやってみるものだ。地図を書かせるということは「文化財解析」の基礎としたい。
京都アスニーにある模型をイメージしながら、「内裏」「朝堂院」「豊楽院」の表示ポイントを決め、時代は異なるが「聚楽第の堀跡」ポイントも加える。
現地を歩いて、地図を書いて確認して、資料を調べて、また現地を歩く。京都の歴史がどんどん体の中に入ってくる。

2005年9月 1日 (木)

中世陶磁器の勉強会

というほどのものではないが、平安時代以降の土器と陶磁器について興味のあるTくんに対して、鋤柄が卒論と修論でおもにやってきた分野のレクチャーを例によってゆっくりペースで始めた。
資料は、今出川キャンパスを調査したときにみつかった膨大な量の陶磁器。自分で掘ったものもあるので臨場感がある。
いつもほかの校務に押されて十分な時間がとれないままで、この日もそうなってしまったが、一応、数年前にキャンパス京都でおこなった学際科目の講義ノートによる話をすることと、それから今出川キャンパスの調査でみつかった土器・陶磁器について、ひとつひとつその見方と解釈を説明することを柱にしようと、考えた。
この日は午後から今出川へ行く日とわかっていながら別の校務におされて、Tくんのところへ行ったのは11時すぎ。
さてさてどうしようと言いながら、とりあえず遺物にむかう。
今出川キャンパスからみつかった土器と陶磁器は、上京の中世文化を説明する重要な資料なので、調査の中で陶磁器の生産地を代表する愛知県と佐賀県から専門にお願いして個々の資料の評価をいただいた。東海の陶磁器については藤澤良祐さん、北部九州と東アジアの陶磁器については、大橋康二さんである。
その内容についてはすでに報告書で公にしているが、個々の陶磁器についての評価の得られている資料が目の前にあるという環境を活かさないてはないので、それらについてひとつずつ見ていきながら、製作技法や意匠や器種などについて観察していく。また編年表とも照らし合わせる。のを目標とする。
周知のように、今出川キャンパスは、平安時代までは一条より北の洛外だったため、その頃の歴史情報はほとんど無い。けれども、寺町の寮の調査も含めれば、鎌倉時代から江戸時代までを通しで見ていくことができる資料が揃っている。
鎌倉時代~南北朝:北志寮・臨光館の溝・渓水館の溝・寒梅館の井戸・寒梅館の溝
室町時代:臨光館の井戸のような土坑
安土桃山時代:寒梅館の大土坑ほか
江戸時代:無数
文化財解析的には、これらの資料の元素分析もできるし、3Dアーカイブもお手のもの。スペクトル分析や画像解析もやらないといけないだろう。リアル資料にこだわりさらにその先の歴史研究へ。思いは高まる。

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