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2005年10月

2005年10月31日 (月)

本を読む

西村さとみ2005「平安京の空間と文学」吉川弘文館
井上和人2004「古代都城制条里制の実証的研究」学生社
北野信彦2005「近世出土漆器の研究」吉川弘文館
黒田正子2005「それは京都ではじまった」光村推古書院
三浦勝男2005「鎌倉の地名由来辞典」東京堂出版
大橋康二2005「海を渡った陶磁器」吉川弘文館
飯沼賢司2004「環境歴史学とはなにか」(日本史リブレット23)山川出版社
石田孝喜2005「京都 高瀬川」思文閣出版

飯沼さんが出雲大社の立地について書いている
視点は違うが参考になる
石田さんの高瀬川は臨場感があって実際に高瀬川を歩いてみたくなる本

2005年10月30日 (日)

宇多津をあるく 

帰りの岡山行きの列車を待っているときにたにおくんが「津と湊の違いは何でしょう」と聞いてきので
三津七湊の例を引いて津がより重要な関係ではないかと応えたが
宇多津とは宇多の津だそうである
ということは宇多郡の津ということになるので
今で言うなら長野県ならば松本空港?
とにかくその地域を代表するターミナルだという意味で良いと思う
ターミナルといえば、大森一樹さんの講演のポスターを難波駅と京都駅に掲示した
これは言うまでもなく「ステーション」ではなく「ターミナル」を意識した歴史家のリアル対応である
ただし、それだけではもちろんプレゼン効果というものは不十分
社会学的なロジックがそこに求められることは自明
その融合が文化情報であることは平城高校で言ってきた

閑話休題
宇多津を二日間歩いてきた
今回は地域の方の参加があったことがより刺激的であった
宇多津とは今はそれほど知られていないかもしれないが
国鉄で言うと坂井でのひとつ西の駅にあたる
琴平参りの正面玄関だったところで
江戸時代は有数の塩田開発でも有名だったとことである
坂出に対する相対的な地名起源ももっているそうであるがその話はまた別の機会に
今回もじっくり見て回って感じたことだが
落ち着いた町並みの中に華やかさと気品がある
とにかく歴史的に見て放ってはおけない魅力のある町だということがポイントになっている

それがなにかというと
近世は塩田開発だそうであるが
中世以前は海上交通を利用した交易の拠点だったということになる
それが具体的にどこでどんな様子だったのか
それが今回の研究会のテーマである

見事に女王の威力で雨のあがった土曜日の午後と、さらにその威力ですっかり晴れ上がった日曜日の午前中を使って
宇多津の町を歩き回る
案内は町民でもある県の博物館のSさん
土曜は大束川の左岸を日曜は右岸とさらに南へ
町並みを見てまわり、寺社を訪ね、路地に入り込んでこまかな地面の起伏を確認する
円通寺の裏山に頼之の館の堀があるのではないかとなればそこで議論がはじまり
坂下の町並みの裏に小さな五輪塔があればその年代を巡って議論がおこる
自分のいる場所とまわりの景色とどこかにのこされた歴史情報を組み合わせるつもりの
得たいのしれない集団がやたらきょろきょろしながらあっちをうろうろこっちをうろうろ
地元の案内人がいなければ、怪しい集団で通報されていたかもしれない楽しい二日間だった

宇多津という中世後半に繁栄した「兵庫北関入船納帳」という有名な記録で知られる瀬戸内海南岸の港湾都市を甦らせるために
地形を復原し、歴史コンテンツの意味を考える
情報を集積してまとめあげる仕事に終わりは無いが
いくつかのポイントに絞って考えてみると見えてきたこともたくさんあった
1、古墳時代から古代にかけての歴史的なポテンシャルは右岸に多い
2、左岸先端にあるうぶしな神社のある場所は古墳時代にさかのぼる磐倉信仰の可能性がある
3、港湾都市の南に条里の残る広い平安面がある
4、海を見下ろす形で多くの寺院が配置されているが、中世前半と後半で様子の異なる可能性がある
5、大束川をはさんで東に聖通寺山と聖通寺(奈良時代にさかのぼる伝承)、西に円通寺(前身寺院はその西の雛壇型の斜面にあったかも)と青の山が相対している

これらのを前提に次のことを考えてみる
兵庫北関入船納帳に登場する宇多津の港湾都市の成立は、なぜそして何時だろうか
西を丸亀、東を坂井でに囲まれたこの場所に港湾としてが成立したのは、両者より秀でた付加価値があったからになる
その最も大きな可能性はやはりうぶしな神社がおかれる岬状の磐倉であろう
瀬戸内海交通のポイントとしてこの地が注目されたのは古墳時代にさかのぼる磐倉信仰との関係の検討が必要だと思う
しかも祭神は大物主命、これはなぜか
うぶすな神社が元は津の郷にあったという伝承とあわせて、タケとナベの課題にしよう
さて、そのような契機によって瀬戸内交通の中で一定のステイタスをもった宇多津を、平安時代後期以降
具体的にプロデュースしたのは誰だったのか
中世前半の宇多津を復原するためには、このプロデューサーに対する意識が必要
現在の宇多津に残されている歴史遺産は、そのプロデューサの意図の遺跡になる
中世の瀬戸内交通に介入した人々は京都を中心に多数ある
それと宇多津のどの寺院が関係をしていたか
鋤柄は聖通寺と円通寺がキーワードになると思うが、これについては女王に聞いてみたい
そして中世後半の宇多津については、尾道との比較を前提にした、もちろんたにおくん
ここに細川頼之がかかわってくるかも
もうひとつ、戦国期の宇多津は仙石が入ってきて聖通寺山に城が築かれる
そのとき東海岸の地域はどのように支配され、姿を変えたのか、戦国城下町との関係も考える必要があるだろう

景観復原には旧地形の見直しが大前提であるが、そればかりにとらわれてしまうと本質を見失う危険がある
知りたいのなぜそこで、だれがなんのために、どんなことをしていたのか
たくさんの知的好奇心を活性化させることができた
やはり生は良い
なんと言っても臨場感が得られるのは生以上に無いから
けれどもこの生の臨場感に仮想時空間をのせられたらさらに良いともつくづく思った
重複する時間のレイヤーをわかりやすく説明するために

次回は室戸だそうだが
はてどうやって行ったらいいのだろうか
四国のみなさん、よろしくお願いします

2005年10月29日 (土)

四国へ

朝から雨である
本日は、水と埃と衝撃に弱い現代社会に生きる情報環境をザックに腹一杯詰めて香川の遺跡へ
香川県の埋蔵文化財センターのKさんとSさんが声をかけてはじまった研究会で
かれこれもう4年か5年になる
とは言っても、みな仕事を持つ身なので年に1回か2回程度
遺跡に対するハードボイルドな思いと、大人のおおらかさできわめて愉快に続いている

肩肘をはらず、形式主義でもなく、抽象的なことも言わない
いろいろな分野と関心のある人間が互いにわかるような議論をする
目の前に実物があるのだから抽象論で逃げることはできない
ごまかしや飾りのできない環境でしかも登場する資料はそのとき突然初めて出現するものもある
レトリックではなく本当に力のあるロジックがないと生き残れない
怖いけれども鍛えられるし面白い

おそらく石井先生や網野先生たちが各地をまわって研究を創り上げていたときもそんな感じだったのではないだろうか
それがどうして学会というものになると空虚に見えてきてしまうのだろうか
もちろん全てではない
これまでいろいろな学会のようなものをオペレートしてきた人間が言ってはいけないのだろうが
あるいは鋤柄の見方が間違っているのだろうか
いわゆるプレゼンテーション型のものはネットで済ませば良いと思うのだが
とにかく鋤柄的には今回や東北の研究会のネットワークの集積の方が実際的で肌に合っている

閑話休題
それではこの研究会がどんなことをしているかと言うと
いわゆる四国の古代・中世の歴史の研究であるが
遺跡をベースにしながら、文献や民俗の資料もあわせ
さらにとにかく現地を実際にみてまわることに重点をおいている
かつてより抽象的な学際研究の限界を言ってきたときに
遺跡と現地を前提とした議論の場の提案をしてきたが
まさにそれを地でいっている研究会である
だからとにかく良く歩く
町をめぐり遺跡をまわって景観を復原する

天気予報によれば
昼から劇的に天気が良くなると言う
昼は讃岐うどんだ

ところで携帯電話とマップとの連携が進んでいる
大阪の地下鉄の広告を見ていたら
大阪の市バスは携帯でどこを走っているかわかるそうである
携帯のグーグルマップはすでに紹介したが
最近ヤフーが携帯のマップを開始した
これがGPSと連動したもので非常に使いやすい
きっと今回のような研究会にはうってつけだろう

2005年10月28日 (金)

模擬授業に学ぶ

奈良県の平城高校へ模擬授業に行く
この数年、高校での進路指導の一環として大学の授業の体験学習をおこなうところが増えている
先方の高校へ行ってする場合もあればキャンパス見学の中でそれをおこなう場合もある
今年は、兵庫・大阪・島根・奈良の高校へ行き、11月に2つ予定がある
どこの高校も、この企画に対し積極的に取り組んでおり
多いところでは20を越える大学の教員が集まり
さまざまな分野の模擬授業がその高校でおこなうこともある
さながらヴァーチャル大学のごとくである
実際ある高校で高名な歴史学者とお会いすることもできた
実はすごい企画なのである

大学で学ぶことの具体的な意味を実感して
その効果により進路や勉強への集中力が高まることになれば
高校にとっても大学にとってもとても良いことであり
これからも試行錯誤を続けながら良い形で発展していくことを期待したい

2000年に大阪で初めてこれをおこなったときは
いつもの大講義室と違った普通の高校の教室という状況にとまどってしまったが
最近では高校の生徒さんたちと机をひとつはさんで話をするシチュエーションをけっこう楽しんでいる
話の根幹は同じだが、行き先と時間をを見て、毎回まくらやアプローチをアレンジしている

先週行ってきたMH高校の生徒さん達から感想のレポートが送られてきた
90分という、高校生にとっては長い時間がだったと思うが
例によって地元の出雲の歴史にまつわるまくらから始めて
知識を意味のある形でまとめる知恵の話を
歴史研究と文化財解析におきかえて説明した
送られてきたレポートは、そういったポイントがちゃんとおさえて書かれており
優れた内容のものだった
担当された先生がご理解のある方で、その連携が良かったこともあったかと思う


文化情報学という新しい学問を育てていくのは
こういったたくさんの人との関係の日々の積み重ねである
キーワードはデジタルだけど、探求するのは(抽象的ではない)あくまで生身の人間
そんなテーマで11月5日(土)午後
映画監督の大森一樹さんが学部の開設記念講演をされます
一般来聴大歓迎です
ぜひ

2005年10月27日 (木)

古墳を見に行く

どうしていつも早歩きなんだろうと思いながら阪急梅田のエスカレーターを降りる
頭の中で第3ビルへの行き方を探しながら動く歩道を行く
あくまで個人的な問題であるが、頭の中にバドパウエルの「クレオパトラの夢」が流れる

思い違いのある雰囲気を感じるが
考古学の底流にあるのはあくまで歴史学である
ゆえ、誰か個人の歴史物語(それが有名人である必要な無い)を語る努力をはらわないと考古学を学んでいることにはならない
いくら遺跡をこまかく分類して分析しても
それらの個々の知識を歴史学の語りでまとめることができなければ、それはなんでもないあくまで事実の羅列にすぎない

とはいえ考古学の業界は長い間これがタブーであったことも事実
けれども今やそれは研究の初段階の内のひとつに位置づけられなければならない時代になっている

昼前に文化情報学会の委員会で、学部設立初の雑誌の創刊について打ち合わせをおこなう
午後に、かつてより連絡のあったY市の古墳を見に行く
家から持ってきた自転車で田辺の山を降り、北へ向かう
古山陰道を北上し古い町並みを抜け山崎橋へむかう道を行くと
木津川に形成された平坦面が前面にひろがる
男山丘陵の東斜面の古墳たちは、この平坦面を見下ろすよう点在する
このあたりに多い横穴ももちろん同様

古墳は墳丘と埋葬施設と副葬品と立地から構成される歴史遺産である
今回訪れた古墳は、多くの古墳と同様にその全ての要素を残しているわけではないが
旧街道から坂道を登り切ったまさにその場所にある姿は
その時代に生きていた人の意思を強く感じさせる
浜田清陵の筆によるとされる石碑がそばに建つ
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+34.50.50.58&lon=+135.43.07.21&fm=0

山を降りて大学に向かう途中に大住車塚がある
ちょうど草刈りが終わったところのようで
きれいに整備された墳丘が姿を現している
古墳時代中期と呼ばれる西暦5世紀の築造と言われる
一見すると平地であるが、やはり男山丘陵からのびた尾根の先端に位置する
古墳から見渡すことの出来る木津川までの平野に、どれほど多くの人々が住んでいたのだろうか
古墳時代は古墳だけを見ているだけではだめだという典型
とはいえ古墳時代は古墳をみなければならない
それじゃあ古墳とはどのように見るのか
これがけっこう難しい
墳丘と言っても元の姿をとどめているものはまず無い
石室もどのような基準でどのように見たらいいのか
副葬品は納められ方と同時に全てが残っているわけでないことを念頭におかなければならない
唯一信頼できるのは立地
けれども景観は大きく変わっている
これらの条件をすべて含みながら古墳を見ていって初めて正しい古墳の見方ができる
なんでもそうであるが、歴史遺産はそのオブジェにかかわった人間の意図をくみ取る準備の上でアプローチすることが必要で
シルエットとアウトラインをなぞるだけでは正しい歴史の見方は出来ない
構造を知るという言い方でも良い

南山城の古墳時代研究は非常に古い時期の調査が多く
現時点で検証の必要な課題が山積み
森先生はその中でも積極的にそれらをまとめ歴史を紡いだ
今、新しい形でそれを継ぐ仕事が目下の目標である

そんなことを考えながら来年度からはじまる「プロジェクト」の授業の準備を進める

大学へ戻りすぐに今出川へ
来年度の上京区のプロジェクトの打ち合わせをおこなう
上京区に集中する和菓子屋のGISをやれたらとも思う
18時すぎに今出川を出て四条烏丸から阪急に乗る
11月5日の学部開設記念講演の打ち合わせで大阪へ
どうしていつも早歩きなんだろうと思いながら阪急梅田のエスカレーターを降りる

2005年10月26日 (水)

普通の一日

本日の文化史特論は「平城離脱」
桓武天皇が平安京を開く前に、最初に平城を離脱した先は長岡だった
ゆえ、桓武にとっての長岡を明らかにしなければ、平安京が開かれた本当の意味は見えてこない

例によって、天神さんと11月5日の京都御苑の案内のまくらに話が長引いて最後があわただしくなったので
続きはまた来週

予定を変更して久しぶりに四条にあるとある事務所へ寄ってから京田辺に戻る
京田辺に着くと、まず整理室に顔を出す
さすがに長い付き合いで手際の良い仕事に「よろしく」のみ

MKの1階で長い会議が終わったら17時半
やれやれと思って5階へ上がってくると、アポをとっていたNさんが501から顔を出す
「やあやあ遅くなってすまない」と言いながら大学紹介ビデオのシナリオの修正をする
さすが秋学期になると、同じイメージを共有することができるの手際が良く仕事が進む

次にTさんが顔を出したので
遅れていた鳩山先生への手紙の仕上げをする
ふと気がつくとTさんとNさんが同じ様なジャケット着ていたので
「お揃いか」と言うと
「全然違うじゃないですか」とTくんがクレーム
「いやあ 鋤柄の認識精度はこんなもんだよ」というと
Nさんが
「先生は考古学だからそんなことはないでしょう」と
おもわず
「ははは ちげえねえ」と紅の豚の声色

廊下に出るとWくんが文化情報1期生のアーカイブについてKくんと話をしている
コロキアムでスチルを撮ってムービー演出をすればみんなの登場するコンテンツができそう
さすが秋学期になると、同じイメージを共有することができるので話が進む

11月5日におこなわれる学部開設記念講演会のポスターもチラシもできた
ひととおり大きなイベントも終わったので
来週あたり、学生プロジェクトチームのミーティングを復活しようかと思う

それにしても阪神は残念でした
まあ目標ができたということで

2005年10月25日 (火)

縁日へ行こう(北野の天神さん編)

北野という地名がハイソな雰囲気を創り出すのはなにも神戸だけではない。
上京区の北西にあたる北野白梅町周辺も粋で(本来「粋」という表現は江戸のイメージだろうか)、おしゃれな雰囲気の味わえる町である。
「北野白梅町」とは、今出川通りと西大路通りの交差点の名前だが
そのすぐ東に位置する北野天神に有名な梅林があってそれにちなんだ名前であろうが
こんなところにも京都の「雅」さが見て取れるところに田舎者はすごいと感じてしまう
光ヶ丘とか桜ヶ丘とかはどこにでもあるが
日本国中のどこを探しても、「北野白梅町」という名前を付けられるところは無い
203系統で北野白梅町のバス停を降りると、すぐ西に「北野廃寺跡」の石碑がある。
「そうやった、平安京が出来る前の時代がここにあったんだ。そう言えば嵯峨野の広隆寺の前身寺院はこの北の平野神社の南あたりだと言うが。ということは、ここは平安京ができる前はこの地域の中心地ということか」

北野天神へ向かう。今日は25日で天神さんの縁日。すでにこのあたりからいつもより人が多い
北野橋と書かれた欄干がある紙屋川を渡る。
意識して見てほしいポイントだが、この川の底は、幅対してかなり深い。この景観がいつまで遡るかはわからないが、1592年にはこの川の東手に秀吉のお土居もあったことになる。
おしゃれな和風パスタの店があり、表でおやきを売っている。洛中洛外図に描かれた見世棚の風景を思い浮かべる。
狭い通りを渡ると、角に豆腐で有名なFの店がある。今日は天神さんの縁日ということで、1000円のお楽しみ袋が出ている。買おうか買うまいか3分間迷う。
天神さんの鳥居に着く。大変な人波である。

北野とは、天皇の遊猟地であり、かつ遣唐使の無事を祈念したり、雷神を祀るなどの特別な場でもあった平安京北西の一帯を言う。直接の発展は、菅原道真の霊を鎮めるために北野天満宮が築かれてのちと言われているが、北野廃寺にみられるように、ここは平安京以前の中心地でもあり、鎌倉時代にはその東に「五辻殿」と呼ばれる後鳥羽上皇の御所がおかれ、室町時代には連歌や各種芸能の場として栄える中(「西陣のはなれ」として有名な上七軒の起源は、室町時代に北野天神の改築の余った木材で七軒の休憩所が建てられて事によると言われているが)、天正15年(1587)10月1日に有名な秀吉の北野大茶湯がおこなわれた。

北野がもっている華やかさと雅さは、こんな風流な歴史がその底流にあるからではないだろうか。
なお、千利休・津田宗及・今井宗久という当代一流の茶人を動員しておこなわれた秀吉の北野大茶会とは、全ての茶会プロデューサーを秀吉の管理下におくことを目的としたとも言われているイベントで、境内には800か所以上の茶点所が設けられたと言う。
秀吉にかかわるキーワードとして「天下一」という言葉があるが、秀吉のおこなった全国統一という意識がもっている本質あるいはもうひとつの姿をうかがうエピソードかもしれない。
ちなみに、国宝の北野天神縁起絵巻の研究については、わが同志社大学の竹居先生が代表。

北野天満宮は菅原道真にかかわるエピソードで有名だが、起源は天徳3年(942)にさかのぼり、天神の託宣をうけた多治比奇子が自宅に叢祠を構え祀ったことを機縁として、現在の場所に移ったのは天暦元年(947)で、堂舎は藤原師輔によって天徳3年(959)に整備されたという。
繰り返しになるが、平安京成立以前から平安時代・鎌倉時代・室町時代そして現在まで歴史の息づいている町と言える。

そんな北野天満宮の毎月25日が縁日で、大変なにぎわいをみせる。
今日は観光シーズンのおだやかな一日とあって、平日にもかかわらず
世界中からの観光客ともちろん地元の人もたくさんあつまって、今出川の鳥居の前からたいへんな人だかりである
おなじみの食べ物屋さんにはじまるさまざまな露店が参道にならんでいるが
ここのお楽しみには、それだけではない
参道の一筋東にある上七軒側の通りにも露店が出ているのであるが、ここがアンティークのてんこ盛りなのである
古着・レコード・陶磁器・ガラス・各種飾りものなどなど
ありとあらゆるアンティークのバザールがひろがっている

実は、文化財解析の教材になるものがあればと思って来たのだが
いかにも鎌倉時代の関東の焼き物らしいものがあったり
いかにも・・・・な青銅器があったり
思わず見入ってしまい値段を聞いたものの
駆け引きをする余裕がなかったので結局本日の試合はドローということで終了
関心のないふりをしながらしっかりモノを見るという修練をもっとしないといけない
(買いたいと思ったもので妥当な価格のものがひとつだけあったが、それはまたの機会に)
楽しみにながらモノを見る良い勉強の場である

大学へ戻ろうと、天神の東鳥居までもどって、ゆっくり南へカーブする東の参道を歩いていくと、「今出川七本松」という標識が目に入る。
「そうか鎌倉時代の中心地で有名な五辻通りはもう一筋北だったか」と思って、思わず目を疑う。
「今出川って?え?これが今出川通りの旧道なのか?」
歩くと必ずなにかが見つかる

2005年10月24日 (月)

狩野元信邸を訪ねる

かのうもとのぶ は、文明8年(1476)から永禄2年(1559)に生きた人物で、室町時代後期を代表する絵師。
狩野派の基礎を確立した人物と言われる。
漢画・やまと絵・障壁画・絵馬・扇画などのさまざまなジャンルの絵画で合理的な工房制作をおこない、室町幕府から町衆までのひろい階層に受け入れられた。
その意味でクリエイターであったと同時に、室町時代の日本を代表するプロデューサー的な人物であったと言えよう。
鋤柄が学生時代、今出川を新町下がった東に体育館があって、一部のサークルのボックスもそこにあった。
現在その場所にはペアーレ京都という公共の施設がある。レストランや会議室や小ホールもあって、京都市考古資料館の講座もここでおこなわれる。そのペアーレ京都から新町通りを西へ渡ったところに細い路地があり、狩野元信の邸宅跡はその民家に囲まれた一角にあった。
GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.01.43.09&lon=+135.45.17.65&fm=0
彼の生きていた時代の後半は、ちょうど歴博甲本洛中洛外図と上杉本洛中洛外図の時代にあたる。足利義晴の将軍邸は寺之内小川から室町上立売に移り、その周辺には室町将軍を支えた細川系の人々が居住していた。
元信の家もその一角にあり、室町殿まで歩いて5分ほどでいける。父の正信は義政の肖像画を画など将軍家との関係が深かったが、この場所に立つと、狩野家と将軍家との関係の深さを、体で感じることができると思う。

2005年10月22日 (土)

考古学と文化財解析とプロジェクト授業

長野県の桐原健さんが「信濃における横穴式石室の鏡石」という論文を『信濃』57巻第10号に発表された。
確か大学院の1年の時に、長野県出土の中世の擂鉢をテーマにレポートをまとめる準備で、長野県史編纂室を訪ねたときに御世話になり、たしかその時の話から、長野県考古学会誌で中世集落のレポートを書かせていただく機会がうまれたように記憶している。
大先輩に当たる先学研究者である。
わかりやすい文章と、堅実なデータ集成と考察で、歴史学としての考古学を学ぼうとする学生にも、意味のある文化財解析を学ぼうとする学生にもうってつけの論文である。
・鏡石のある石室データ
・石室規模の定量データ
・副葬品や石室形態の定性データ
・位置情報
・個々の古墳の詳細情報
・文献を含めた解釈
プロジェクトのテキストに使わせていただこうかとも思っている。

もうひとつ興味深い論文が同じ『信濃』にある
鈴木将典さんの「近世初期村落の形成過程」である
戦国期の検知と太閤検地を比較した従来の階級闘争史観ではなく
村落構成員の変化に目を配った社会構造論である
個々の貫高や屋敷石高を書き出した細かな数量表も嬉しい
けれども一番重要なのは、やはりそれらをふまえた歴史的な解釈を示してくれていること
学ぶべきところが多い

宮澤和穂さんが国書刊行会から『天武・持統天皇と信濃の古代史』を出されている
持統の東海巡検は森浩一先生が数年前の春日井シンポジウムでテーマにし、鋤柄が鳳来町で話をしたときも、それをベースの視点にした
今年の春日井シンポジウムのメインテーマが「伝説に歴史を読む」である
覚えておきたい

ふと思いついて調べてみたら
昨日は10キロほど歩いていた
元気やなあ

2005年10月21日 (金)

旧名明町の坪田で名和会長に出会ったあ

8時41分に松江を出る。2両編成のワンマンカーで米子まで約30分
米子からは倉吉行き1両編成のワンマンカーに乗り換える
発車直前に1人のご婦人が行き先を尋ねながら乗ってくる
どうやら初めての山陰線だが大事な用事のようで、おもわずデジタルマップを立ち上げて調べてしまう
くだんの駅は倉吉の手前の駅のようで、こちらは地形を見たいので車窓が気になるのだが、一安心したご婦人としばし歓談の旅

名和駅の手前は伯耆大山で、その手前が淀江
この2つの駅が有名な妻木晩田遺跡の最寄り駅
なにげなく車窓を見て驚く
広い扇状地とその先にあるなだらかな丘陵
なるほど弥生の集落があっても不思議ではない
名和町は台地が海にせまった地形の印象があっただけに
そのすぐ隣町でまったく違った風景が広がっていることに驚く
やはり行って(しかもその気になって)見ないとわからない

ご婦人に別れを告げて名和駅で降りる
名和町は今年の合併で大山町に名前が変わったが
まだ昔の癖で名和町と言う
名和町の基本的な地形は、海までせまった段丘緩斜面がひろい範囲を占める台地と山
ゆえ、古い町並みは海岸沿いの狭い平坦面に集約され
そのエリアに海岸から山へ向かって、旧街道・国道・JR山陰線がならぶ
JR山陰線は、段丘縁辺を等高線と平行して走っているが、海岸線沿いの集落と街道にじゃまにならない位置に敷かれた、しごく合理的な関係

名和駅を出ると正面に「名和公」関係の遺跡をしめす看板がある
北に後醍醐帝の上陸地、南に名和公関係の遺跡があるという
鋤柄にはどうもいけない先入観がある
曰く「線路は南北に走っており、北は高い」
なんとか頭の中でデジタルマップを広げて、北が海で、線路は東西、南が大山というイメージをつくる
駅の入り口に小さなよろずやがあって、おじいさんが店番をやっている
念のために名和公の遺跡の方向を尋ねると、歩いていくのは大変と心配してくれる

地図によれば、名和駅から名和公館跡まで南へ約1.2キロという
十分歩ける距離なのでゆっくり南へむかって段丘の坂を登る
段丘を登り切ってほどなく「名和神社」が見える
ここには大きな観光地図の看板があり、あらためて位置関係を把握
本殿に、うわさの帆掛け船を染め抜いた幕が掛かっており嬉しくなる

名和神社を過ぎたところに交差点があり、名和公遺跡の方角を示す標識がありまたまた安心
次の交差点が坪田で、ここを左へ折れると御来屋へ行くはず
名和公館跡はここを右へ折れ段丘の坂を下った先にある
ここで初めて気がついたのであるが
名和長年の館は段丘上の平坦面にあったのではなく
段丘を浸食して形成された谷の奥に築かれていたのである

どちらかと言うと
武蔵野台地上に展開する関東武士の館の風景をイメージしていたのであるが
そうではなく
むしろオーソドックスなヤト田の開発領主型の館立地と言えることになる
交差点から段丘を西へ降りると、それなりの広さをもった谷底平野があり
その中央を北へ小河川が流れる

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.29.52.68&lon=+133.29.56.88&fm=0


名和館はその谷底平野の最奥部に近い位置で
蛇行して流れる小河川をおそらく館の西の障壁に利用して築かれたものと思われる
現在遺されているのは石碑とそのまわりの空間だけだが
もちろん本来はその周囲の不整形な地形を含んだ一帯だったと思う
畿内的な条里地割りとの関係は無さそうだ
あらためて地図を見直して館の復原を考えてみたい

館の東南にあたる段丘中位を利用して菩提寺がおかれており
その裏手をあがったところに大量の五輪塔と2つの宝篋院塔からなる墓地がある
見下ろせば名和氏館とその周辺が一望できる絶好の位置である

大山の僧たちとも通じ、海上交通にも長けた、特異な在地領主だったはずだが
その基層は意外にもオーソドックスな耕地開発型だったとは・・・・
まあ、極端に考えすぎると実態を見失ってしまうことが多いので
むしろその方が自然だったということを教えてくれる事例かもしれない

菩提寺は石段を登らないといけないので荷物を下に置いて墓まで登ってきた
近くで高速道路の工事があり、西の尾根上では発掘調査をしてるようだが
(発掘現場への突然の訪問が招かれざる客であることが多いのを経験的に知っているので行かなかったが)
それ以外は知った人しかいない静かな農村である
こんなところで盗まれることもあるまいと思っていたら
偶然郵便配達の人が菩提寺へ来て、石段の下にある荷物に興味を持ったようで
墓から降りて荷物を持って立ち去ろうとしたら話しかけられた

なにかと思い、話を聞き始めたら
なんとその人はとても後醍醐と名和長年に詳しい地元の歴史愛好家で
菩提寺の墓を見てきたことが嬉しかったようで
名和長年の遺跡と後醍醐帝に伝説について詳しい話をしてくれた
さらに自分しか知らない秘密のスポットも案内をしてくれると言う
名和長年の元の出身地のことなども含めてなかなか詳しい
思わず名和長年にであった気分

段丘を降り、海岸沿いの街道を歩いて後醍醐帝上陸の場所へ向かう
御来屋に入ったところに住吉神社がある
「御厨と神功皇后伝説ね、なるほどなるほど」
途中、新鮮なサザエがトロ箱にいっぱい入っておかれているスーパーの前を通る
思わずため息

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+35.30.42.75&lon=+133.29.40.09&fm=0


JRへは御来屋から乗りたかったが
後醍醐帝上陸地の近くのおじいさんに聞いたら
御来屋まで15分、名和まで10分と
きっぱり言われたので、再び名和駅へもどり倉吉へ

12時40分過ぎに倉吉に着く
乗り換えの時間を利用して伯耆国分寺と国府を見に行く
前回来たとき時間が無く回れなかった
バス停で聞くと近くまで行くバスは2時間後だと言うので
なんとかできるだけ近い場所を通るバスを教えてもらい13時5分に乗る

結局、西倉吉というところから徒歩で国分寺へ
あやふやな場所の記憶しかなかったのでGPS携帯の力を借りる
GPS携帯の地図で現在の場所と国分寺跡を確かめて歩く
今回はGPS携帯のデジタルマップが無ければ行き着けなかったくらい役に立った
(ちゃんと事前に調べていけばいいのだが)

よく知られているように、JR倉吉の駅周辺と本来の倉吉の中心部は離れており
その間を天神川が流れている
国府の場所は、その本来の倉吉の中心部からさらに西へ行き、天神川の支流の小鴨川を渡り
さらにまたその支流を渡った西にある
ここも地図を見ているだけではわからなかったが
国分寺跡を含めた国府関連の施設群は、これらの河川によって形成された平坦面を避けた
西側の丘陵上に展開していた
歩いたおかげで実感したが、小鴨川とその支流はひろい氾濫原をもっており
古代において国家施設のために一定の面積を確保しようとした場合妥当な選地だったと思う
(ただしもちろん要件はそれだけではないだろうが)

それ以上に今回得た収穫で大きかったのは
やはりバスが無いおかげで歩き回ったため
とにかく風景を見て回っていたら
打吹山が神南備型の山だったことに今回初めて気がついたこと
前に書いた本で注目していたが、広瀬町の冨田城も神南備型の山を背景にもっている
中世後半の日本海側の中心拠点の共通項には、これがありそうだ

梨の博物館で一服して17:02のスーパーはくと(白兎)に乗る
鳥取から智頭急行線を経由して山陽線の上郡に出るルートである
大阪は20時前らしい
今日もよく歩いた
次に山陰に来るときは、また新しい話が出来そうである

2005年10月20日 (木)

伯備線を行く

伯備線は、倉敷から高梁川をひたすらさかのぼる。
おおむね総社までは瀬戸内の香りがするが、総社をすぎて最初のトンネルをくぐると、もうそこはいきなり中国山地である
長野県の出身者からみるとやさしすぎる山並みがたゆたゆとつらなる
高梁川はその間を、ところどころに盆地をつくりながらくねくねと流れる
想像していたとおりの豊かな水量とひろい川幅をもつ

吉備の一帯が鉄生産で有名なためか、中国山地の柔らかなシルエットの裏に固い岩盤が見えるときがある
吹屋という地名が通り過ぎる
そんな時は高梁川にも岩が波をつくり難所のような場所もあるが
それはときどきのことで、基本的には水上交通にふさわしい河川だと思う

高梁市は高梁川が大きく蛇行して形成された?、その左岸のひろい平地にひろがっている
南西から流れてきた支流との合流点でもある
秀吉が攻めた備中高松城のある場所であるが、車窓からは見えない
ここに備中高松城がおかれたと言うことは
ここを境に流通に変化があったのだろうかと高梁川の様子に気を配る
どうやろうと思っていたら、なるほど水量が減り山が近づく
井倉に停まる
木曽福島のようなところである
迫る山肌は岩盤。ボルボの大型ダンプがころがっている

この先が新見である。中世荘園を研究する人間は誰もが一度は耳にする場所。
新見は、津山・三次と同様に丁度瀬戸内海と日本海からの中間地点にあるのが面白い
(ちなみにこれらの町をつないだのが中国道)
山の中であるが、伯備線と芸備線が交差する交通の要衝である
ただし谷の幅はせまく町は細長く連なった形になっている
農耕と言うよりも商業と流通がポイントか
中国地域の地図を詳しく見るとわかるが
新見や津山は位置こそは瀬戸内海と日本海の中間にあたるが
本格的な中国山地はこれらの町から北である
ゆえ、これらの町の文化圏は基本的に山陽ということになる

ここから先、伯備線は国道を離れる
国道はこれまでどおりに高梁川をさかのぼり剣山で分水嶺を越えて日野町に入るが
伯備線は西川をさかのぼり県道8号線沿いに谷田峠を越えて鳥取に入る
いずれにしても山の中である
どちらが古い道かは知らないが、米子へは県道ルートで鳥取へ入り、そのまま法勝寺川という
いわくありげな川をまっすぐ北上して下っていく方が距離は近い
ただし川の大きさをみれば、日野町を通る日野川の方が格段に大きい

あまり峠越えという感じが無いまま鳥取県生山に着く
寝雨に着く(と書いて「ねう」と読む)日野川上流の拠点である
舟場という地名をみつけ、あわてて広くゆったりと流れている日野川の写真を撮る

松江まであと1時間、松江は色々な意味で思い入れの強いところである
好天で米子から大山が良く見える
やはりなんといっても大山である
文化情報の話もしないといけないけれど
やはり今日の話のまくらは名和長年と大山かな
地域に根ざしたリアリティーのある歴史遺産活用
デジタルと数量化がキーワードだが
やはり本質は臨場感のある歴史的な見方
今日は松江東高校での模擬授業
それを元にした新しい見方を伝えよう

2005年10月19日 (水)

千代紙とおもろそうし

文化史特論で平安京成立前夜の京都盆地を考える
ポイントは京都盆地の西山にあって東山に少ない古墳の分布の意味
そして平安京の成立に深く関わったと言われている秦氏が嵯峨野を本拠にした理由
これらを組み合わせようとしたが、やはり少し難しい
少し整理をしてみる

1、古墳時代前期と中期に東山に前方後円墳が無いのはなぜか
  鴨氏と出雲氏が鴨川沿いに定着したのは、そこが空いていたからなのか
2、嵯峨野の秦氏と伏見深草の秦氏の関係はどうか
3、秦氏が嵯峨野を本拠としたのはなぜか
  南山城とは異なり、京都盆地では弥生時代以来の伝統をひく集団が古墳時代後期まで地域支配をしていた
  秦氏はその中にあって、先端技術と広域流通のノウハウを武器に、(空いていた?)嵯峨野を開発し、定着
  秦氏が開発したのは桂川の左岸か右岸か
  秦氏は丹波を意識していたとの考え方もある(秦大津父の伝説との関係)
  秦氏の本拠とその代表寺院である広隆寺と古墳との位置関係とは

午後、例によってイケメンで食事をし、上京区役所で打ち合わせをして後、上京webの室町時代コンテンツの載せる画像を撮りに少し彷徨う
室町を寺之内まで上がり突き当たりを右に折れ最初の通りを上がる
これが室町通りの続きである
上杉本洛中洛外図によれば、この交差点の北西に松永弾正が住んでいたことになる

ちなみに現在その場所には曹洞宗の無学寺があり
その西裏には、千代紙の語源ともいわれる宝慈院がある
開祖の如外無着大禅尼の幼名が千代野と呼ばれ
美濃の松見寺で修行したことから美濃紙との関係が生まれ、その中から千代紙がつくりだされたと伝えられているそうであるから
ここにも上京のものづくりの源流があるとも

そのまま北上して交差する狭い通りを過ぎる、この西が継孝院か
突き当たった通りが上御霊前町、東へ折れて烏丸を渡れば上御霊神社に着く
烏丸へ出る手前の南側に京都らしい割烹がある
烏丸を渡ったところにあるお蕎麦屋さんで、落語のライブがあるそうな?
上御霊神社へ向かって歩き始めると右手に猿田彦神社があり
上御霊さんの鳥居の手前の角においしそうなお煎餅屋さん?がある
時間が無いのであやふやだが、ゆっくり見て回りたい上京を実感

道をもどって上御霊前通りを西へ行く
室町通りの一筋西の細い通りは衣棚通り。思わず「ほお」
さらに一筋いったところが新町通り
ここで南に折れてしばらく行くと「大心院町」という掲示が見える
これも洛中洛外図にある寺
どこまで歴史が生きているのか、いまさらながらに驚く
新町を光照院まで降りてきてはて?と思う
この通りが新町通り
それではこの通りの東を南北に走っている
同志社大学新町キャンパスの東の通りは何通りだ?
上立売通りから南は新町通りで良いだろう
けれども上立売通りから北の新町通りが光照院さんの東の通りならば
この角にコンビニのある南北の通りは何通りだ?

という疑問を残しながら上立売通りを西へ
小川公園の北西に細川邸があって
さらに西へ行くと「水落の観音」か
「おっと あたかも橋の欄干の名残のような施設がある」
「ということは、この南北の通りは油小路か、細いなあ」

ひとりでつぶやきながら歩くあやしい中年

「兼康」は同志社大学の渓水館にあたる
恥ずかしながらそこを発掘していたときにはその意識は無かった
その北に新しくオープンした臨光館に入る
ご存じ「近衛殿」である(正確に言うと別邸)
ここの調査ではその近衛邸に関係する遺構をいくつか遺すことができた
食堂にそのうちのひとつの写真パネルがある

夕方、京田辺に戻る
O県埋蔵文化財センターのSさんが出張で奈良へ来ていて
せっかくなのでお話をという企画である
デジタル化された資料をもとに、O県のおもに中世について話を聞く
こちらとはまったく異なった文化の様子に3回生が興味津々
とくに最近その県へ行ってきたばかりのT君が興味深く質問をする
最近、中国大陸に近いO県では、中世におけるその関連の研究が若手によって精力的にすすめられているそうだ
これまでの研究の成果をふまえ、つねに新しい視点と問題意識をもってとりくんでいる
「新しいテーマは次々に湧いてきます」
Sさんの言葉が学生たちの知的好奇心を活性化させたようである
どうやらツアーの企画をたてはじめたようだ

「おもろそうし」は大学院の1年のときに森先生が話題にしていたことを思い出す。沖縄の琉球古歌謡(おもろ)の集成。1531年に首里王府で編集が開始され1623年に完成。勝連城の表現に鎌倉への意識がある。全盛期の勝連城とは年代がずれる気がするのだが、それ以上に京都ではなく、鎌倉との関係を重視した事実が、日本列島のネットワークを考える上で興味深い。
今から思えばほんとうにいろいろなことを学び、それが今になって活きてきていることを感じる。

2005年10月18日 (火)

森先生の微妙なコメントをめざす

師匠である森浩一先生は
学生の発表に対して実に的確なアドバイスをすることが有名で
もちろん現在もその教えをいただいている

どんな発表に対しても
その内容に関連して、さらに知的好奇心が高まるようなコメントを加え
それに多くの学生が学び救われてきた
かく言う鋤柄もたくさん救われてきたうちの1人である
批判や批評をするのではなく
「ああそうか」という思いを導き出すようなコメントである

しかしそんなコメントをするためには
ありとあらゆる分野にアンテナを張り巡らせて
さまざまな知識の蓄積とそれを意味のある形でつなぐ知恵に長けてなければならない
狭い専門の中におさまっているだけではできない技である

コロキアムとは良く言ったもので
本来の学会やシンポジウムとは、なにが飛び出すかわからない
そんな知的好奇心のコロシアムだった

鍛えられるのは学生君たちばかりではない
風邪気味だなんて言っていられないぜ

2005年10月17日 (月)

始まるよ・始まるよ

今年開設された文化情報学部では、これまでどこの大学でもやったことのない新しい授業形態がふたつある
学内からもよく「いったどんなことをするのか」と聞かれるが
そのひとつはコロキアムで、もうひとつがプロジェクトである
プロジェクトは来年からだが
コロキアムは今日がその初めての日
コロキアムというのは学会という意味だそうだが
1年生と3年生と4年生が一緒におこなうゼミのようなもので

かつて経験した文学部の文化史に当てはめてみれば
1年生にとっては基礎演習の役割
3年生と4年生にとっては3年演習と4年の卒業演習の役割も果たす

1年生は上級生の具体的な研究過程を身近で体験することで
専門研究を進めるためのさまざまな段取りを学ぶことになる
もちろん論理的な思考についても学ぶ準備ができる

3年生は
より専門性の高いコンテンツについての検討をいくつか経験する中で
卒論へ向けての準備にかかる
4年生は
ストレートに卒論作成へむけての発表である

かつて森浩一先生のゼミでは、普通の授業としてのゼミ以外に
定例研究会という自主的な研究会が毎週あって
大体1年生と2年生は聞くだけだが
3年生から(早ければ2年の後期から)発表する順番が回ってきて
とくに3年の後期からは卒論に向けた発表がおこなわれ
森先生からアドバイスをもらい、それがとても勉強になったことを覚えている

レジュメの作成や発表の仕方などといった技術的なことから
先輩との議論を通してさまざまなことを学ぶとても良い機会だった
またその機会にタイミングがあえば、森先生の知り合いの研究者が来て
話をすることもあった
同志社大学以外の広い世界を教えてもらった場でもあった
文化情報学部のコロキアムはきっとそんな場になっていくものと思っている

ただし当然今年と来年は上級生がいないので
代わりにさまざまなジャンルの大学院生を頼み、話をしてもらっている
分野は多岐にわたるが、それぞれの分野で最先端の研究について
問題の設定・研究史・研究法の模索・資料準備・研究経過・問題点などを話してくれて、文化情報の1年生たちは、知的好奇心的にとても贅沢な時間をもつことができた

さあみんな
準備はいいかい
いよいよ
始まるよ
始まるよ

2005年10月16日 (日)

がんばれ輝くタマゴたち

本日は大阪の河合塾で「ワンダーランド」なる企画に参加
大学紹介と入試説明のイベントであるが
さすが伝統ある大手予備校の主催だけあって
関東の大学も含めた有名どころの大学が集まってそれぞれの個性と特徴をアピール
そのせいか高校生や受験生が大挙して会場を埋めつくすこととなった
6階が大学毎のブースに分かれた模擬授業や実験のプレゼン会場
7階が入試説明会場
同志社からは文化情報学部で鋤柄と阪田先生が参加
オープンぎりぎりに準備を終えて7階の様子を見ようと廊下へ出ると
7階へ続く階段は順番待ちの人の列
どうやら入試説明の会場に入りきれない状態で入場制限をしているらしい
なんとか7階にあがって同志社のコーナーを探すと
入試課の職員さんが一人で押し寄せてくる受験生にてんてこ舞いで対応している
こりゃ大変だと思って、後で応援に来るからと声をかけて6階へ降りたら
なんと6階も受験生が続々と入場してきてすでに阪田先生のプレゼンが始まっている
お手伝いのUくんTさんKさんもてんてこ舞い
「先生、出番です」という声に従っている内に
あっと言う間に時間がすぎて17時
やれやれ
結局すわってゆっくりする時間が無かったことに気がついた

そんな状況だったのだが、阪田先生は
「文化情報学部の認知度が低いですよ。もっと知ってもらわないと」と頑張る
とても心強い

でも、去年のように説明する材料がほとんど無い中でやってきたことを思えば
今年はデジタル化を具体的に示す機器があって
その成果品となるしっかりとしたコンテンツがあって
それを元にした説明のできる教員スタッフがたくさんいて
さらに元気な学生くんたちがもっとたくさんいて

文化情報を
説明する側も聞く側も、とてもよくわかる関係になったと思う
今年のパンフレットはその象徴

おかげでたくさん持って行ったパンフレットも
けっこう持って行ったつもりだったんだが
文化情報の学生くんたちの活躍が載っているONE PURPOSEも無くなって足りなくなる始末

だから鋤柄的には去年とは雲泥の差の一日だった
でも、もちろんまだまだ始まったばかりの学問なので
これから一層各自のコンテンツに磨きをかけて
その可能性と魅力のアピールに力を注がないといけないのは確か

「歴史が好きだけれども、従来と違った見方をしたい」という受験生もいた
「文系だけど情報がしたい」という高校生もいた
「文系・理系という枠にとらわれたくないんですが」という受験生もいた

腰が痛くなったけれども気持ちの良い一日だった
がんばれ輝くタマゴたち

2005年10月15日 (土)

歩いてまわる京都1

京都御苑の南に面している通りを丸太町通りという
東へ行くと鴨川を渡り、東大路を過ぎると南に平安神宮の北裏をみる
「おたべ」で有名な聖護院は、かつて同志社大学のすぐ西にあったこともあるが
現在はこの丸太町東大路にある
西へ行くと千本通りの交差点で平安京が開かれたときの中心施設であった大極殿跡を通過し
西大路の円町の交差点際から嵯峨野線と平行してはしり、やがて嵯峨野につく

ある学生が、京都の地理がわからないと言っていたが
この丸太町通りをX軸に、烏丸通りをY軸においてみれば
京都タワーは(0、-a)、同志社大学今出川キャンパスは(0、b)
四条河原町は(c、-d)、嵯峨野は(-e、0)でできるかもしれない?

さて、その丸太町通りの一筋南の通りを「竹屋町通り」という
地下鉄の出口で言うとたしか5番のエレベータのあるところ
南に日経新聞や京都新聞のビルがある

先月はこの竹屋町を烏丸から堀川へ(文情的にはX軸をマイナス方向へ)何度も歩いた
何げなく通り過ぎてしまえば見落としてしまいそうな町並みの中に
京都を感じさせる割烹があり
室町で北へ曲がれば、おしゃれな串カツ屋がある
新町の竹屋町角にはなんと銭湯がある

先日のテレビによれば、メジャーな京都に満足しないリピーター達が
おたくな京都に注目し始めているという
社会との連携をめざす歴史家として
この風潮は放っておけない

そのためにも実際に上京をたくさん歩いて
たくさんのコンテンツを集めないといけない
時間をつくって毎週上京を歩いて歴史遺産を発掘し
上京の過去と現在を結びつけたいと思う

今日の京田辺キャンパスはおもいっきり雨である
さっきまでTくんとTさんとNさんが来ていたが帰ったようだ
学部の合宿も無事に出発したようである
本日は工学部とリエゾン主催のネオカデンのフォーラムで
17時17分から15分間でデジタルガイドブックのプレゼンをおこなう
もっと歴史研究の成果を社会へ

2005年10月14日 (金)

時のすぎゆくままに

秋学期がはじまってもう2週間たとうとしている
まわりのみんなに「あっと言う間に先輩やで」と言ってひんしゅくをかっているが
それを一番感じているのが彼らであろう
金曜はトピックス6という授業で
実際の生きた京都の文化を代表する人たちが講義を担当している
こんな良い機会は無いとばかりにWくんとTくんがビデオを持って行く
もちろん1期生のアーカイブ担当の仕事である
エライやっちゃ

今週末は、ネオカデンのフォーラムと河合塾の企画による2本のイベントがある
ただし、行って話をすれば良いだけなのでなんのことはない
それより夏期休暇中にする予定だった業務の準備をあれこれすすめる

TさんとS先生とS社の担当さんと一緒に11月5日のイベントの調整をする
TさんのデザインをS社の担当さんが感嘆する
当たり前だと思いながらもやはり嬉しい
エライやっちゃ

Gくんと12月に向けての遺跡情報公開システムの打ち合わせをする
修論もあるのにエライやっちゃ
寒梅館のコンテンツ更新の実験や、苔けずりをしないといけなかったことも思い出す
ちょうどそんな時、東京のTさんからこのシステムを教えてほしいとメールが入る

実は仕事の速い人ほど「仕事が遅くてすみません」と謝る
今日は、まだ若いのに、そんな対応のできる人に会った
エライやっちゃ

今週末で学部行事のリトリート合宿が終わる
無事に楽しんで来てほしい
帰ってきたら、少し休んで落ち着いて
そしたら色々な意味でのまとめの季節がやってくる

ところで、今、マニアな京都が注目度を上げているそうである
その話はまた

愛媛県歴史文化博物館2000『出土銭貨を探る』
・・・大昔の大阪時代に「摂河泉文化資料」という雑誌で「蓄銭外容器」のことを書いたことがあった
石岡ひとみ2004「愛媛県松山市石手川公園内出土の丁銀・豆板銀」『愛媛県歴史文化博物館 研究紀要』9
・・・大坂城跡の発掘調査で切りづかいされた丁銀を掘ったことがあるが
愛媛県歴史文化博物館2005『伊予陶磁器関係資料(三間焼窯道具)』

2005年10月13日 (木)

いまさらながらにブログのすごさに感嘆する

このところ、たてつづけにブログのリンクを更新している
さまざまな価値観の発動が次々とおこなわれている
学際科目の「現代社会に生きる情報環境」の最初の講義の時に
いつも言っていることではあるが
確実に、時代は変わってきている
それぞれが責任を自覚しながら、根底にあるやさしさと思いやりを大切にしつつ
けれども、積極的に社会に対する発言をおこなっている
アメリカでブログが始まって、とても大きな社会現象になったと
聞いたとき、それほどの実感はなかったが
「電車男」や「鬼嫁」をひきあいにだすつもりはないが
けれども、インターネット革命はブログ革命の前触れにすぎなかった

まで言ってしまいそうな気もしてきた
鋤柄の関連業界についてみれば
かつては
ミニコミ誌のような仲間内での研究冊子記録の発行が
とりあえずのそれぞれの研究者のタマゴ達の自己存在のあかしとしてあった
しかし、今やそれはブログが十分すぎるほどの役割を果たしつつある
いずれは同人誌系の研究雑誌は解体して
すべてブログ化するのではないだろうか
多くの人に、自分の研究の成果を読んでもらい、評価をもらうのが
そういった雑誌の本来の目的なので、良い形ができはじめたと思う

ただし、単独のブログはそれだけでは社会的なアピール度が弱いので
どこかのサイトにリンクしてあることが大きな意味をもってくることになる
はてさて、鋤柄のサイトはそんな役割をはたすものになっていくだろうか
面白い現象かもしれない

それにしても
スキンも個性的で楽しい
それぞれのデザインに対する主張が垣間見えたりもする
それに加えて、みなやさしい
それがやはり一番かも

狭川真一2004「火傷を負った金銅仏」『佛教芸術』275
狭川真一2004「高屋宝生院五輪塔実測記」『元興寺文化財研究所研究報告2003』
狭川真一2003「西大寺奥の院五輪塔実測記」『元興寺文化財研究所研究報告2002』
狭川真一2003「元興寺の設計と外京」『続文化財学論集』
狭川真一2005「噛合式五輪塔考」『日引』6石造物研究会誌
狭川真一2005「伊賀長隆寺層塔の復元」『元興寺文化財研究86』
元興寺文化財研究所『古きをまもる新しき技』
元興寺文化財研究所2005『元興寺文化財研究所研究報告2004』
狭川真一2004『解体修理で下ろされた建築部材の基礎的研究』
狭川真一2001『大宰府条坊跡』17(鉾ノ浦遺跡)太宰府市教育委員会

2005年10月12日 (水)

Learning to be Creative

文化史特論の2回目は
京都の歴史を知る上で一番重要な「舞台の設定」
どこの地域の歴史についても言えることであるが
人間の歴史の営みというものは、地域によって異なるのがあたりまえ
その地域がどんな環境にあるのかをしっかり押さえておかなければ
そこで生活をして社会をつくりあげていった人間の説明はできっこない
その意味で、京都の歴史を知るためには、京都がどんなところだったのかを
最初に知っておく必要がある
鴨川にも桂川にも宇治川にも神泉苑にもすべて意味があって
それがその後の歴史にさまざまな影響を与えてくる
人々の歴史というものは、その上に成立しているのである
だから、同じような建物跡でも
京都で見つかった場合と東京で見つかった場合は違った係数が与えられなければならないし
貴族の邸宅内でも、主屋の柱穴と脇殿の柱穴は違った係数が与えられなければならない
単にコンテンツに伴う数値を測定したり数を数えれば良いというものではないのである
歴史というものは、そんな安易な一般化や数量化で説明できるような単純なものではないのである
ということをしっかりわかっている人間が
真正面から歴史情報の数量化に取り組んでいるところが鋤柄の文化財解析である
創造的であるべく努力を続ける

話がずれていってしまったが
文化史特論の準備をしていて、そんなことに考えが及んだあげく
京都駅前のキャンパスプラザへ行かなければならないのに、うっかりしていつものように竹田で地下鉄に乗り換えてしまった

例によってイケメンでランチをとる
今日はサーモンのトマトソースのディッシュ
あまりの美しさに写真を撮ろうと思ったのは食べ始めてからだった
いつもは大抵、箸だけで食べているが
今日はおもわずナイフとフォークをとってしまった
ワンコインでこんなランチがとれるとはなんて贅沢なんだろうと
ただ、今も昔も魚料理は若者には人気が無いそうで
今日は13時頃行ったのでもう売り切れかと思ったがまだ残っていた
思えば同じメニューを見たことが無いということもすごいと思う
創造的であるべく努力を続ける

田辺へもどる列車で某先生と一緒になる
名古屋で鋤柄の話した文化情報のコンセプトに共感し
文化情報に期待するさまざまなキーワード(F.A.)について話がはずむ
文化情報のコンセプトは、これからの時代のあらゆる分野の前提だと
本物を見る目 そして コラボレート である
話が大蒙古帝国までいったところで第3整理室に着く

優秀なスタッフチームがオペレーションを進行しているから
いらんことはしなくても良いのだが
一応儀式として年末にむけた計画の確認をする
打ち合わせ終了後、研究会を始めたいとのことでその話を聞く
さすが3回生、着々と自分たちの道をきりひらき始めている
創造的であるべく努力を続ける

MKへ戻ると
この数日お留守居役になっているTくんが顔を出す
Kくんもなにやら真面目に勉強をしている
秋が深まりつつある
Learning to be Creative

2005年10月10日 (月)

歴史に学ぶもの

パキスタンの北部で非常に大規模な地震がおき、大変な惨事になっている
今年は地震災害が多い
日本国内ばかりでなく、世界規模での対策情報の共有化と支援体制の強化の必要を感じる
高度情報化社会と言えども、そのためにやらなければならない地道なことはまだまだ多い
日本国内の地震についても実は十分その情報が知られているわけではない
秀吉の時代におきた慶長伏見の大地震は比較的有名だが
12世紀におきた京都の大地震や
中世におきた東海の地震はあまり知られていない
その結果その後の社会の仕組みに大きな影響を与えているのであるが
歴史に学ぶべき事は多い

教材用に柄鏡を入手した
寺町の古道具屋である
共にいわゆる蓬莱鏡で鶴と亀と松が描かれている
また1枚には「津田薩摩守家重」
別の1枚には「藤原光長」の銘がある
鏡箱もついている
赤外線で墨書を確かめ
蛍光X線で元素を調べ
レーザーで3次元計測をして文様の分析をする
でももちろんその前に、いろいろな文献で和鏡を勉強しないといけないが
歴史と社会を見る目を養い鍛えて
必要な情報を正しく取得してその活用を考える
バラバラの知識を役に立つ知恵に変える
歴史に学ぶべき事は多い

毎月21日は東寺で弘法市があり古道具やさんが並ぶ
25日には「上京」の天神さんで同様な縁日がひらかれる
みんながドキドキするような教材を求めて
掘り出し物を探しに行かねば

2005年10月 9日 (日)

貴船口渋滞

あまりに使い古されたフレーズだが
昨日の雨がうそのような好天である
なぜか早く目が覚めてしまったので2階のラウンジで朝を迎える
知恵袋のデータを入力しながら
あらためて上京の生活伝承の豊かさを感じる
忘れていたことをゆっくり思い出したような
そう トトロの気分(そう言えばあの映画の主人公の父は同業者だった)

大原はいつも通りの美しさ
鞍馬は勢いで徒歩で登る
火祭りで有名な由岐神社が清水の舞台のようなつくりをしてたこと確かめる
勅使門をすぎると山道の参道が石段に変わる
息を整えてペースを崩さないように登れば
当座はしのげるが、明日はどうかという気持ちが頭をよぎるが
ねっからの体育会系の哀しい性がとまらない

最後の石段でようやくかつて来たときの風景を思い出す
満月祭と竹切り会と火祭りと
印象的な祭の多い寺で
京都の寺の中で最も好きな寺のひとつである

次回は貴船まで足をのばしたいと思うが
はて、いつになることやら
しばらくは鞍馬と貴船をネタにする原稿は思いつかない

降りてきたら13時をまわっており
山門の周辺は午後はじまりの観光客でにぎわっている
無事、全員の乗車を確認してバスが出たのは13時半前
狭い街道を観光の車がどんどんやってきて
ちょっとした渋滞状態

それでも予定の時間を少し遅れるだけで寒梅館に到着
御世話役の関係者のみなさんご苦労様でした
良い天気でよかった

2005年10月 8日 (土)

まいど

今日は初めて上京歴史探訪館を訪れる
午後から雨は上がるはずだが、ぎりぎりまで雨の神様は頑張りたいようだ
丸太町を智恵光院でバスを降りたら、いきなり土砂降りになる
うわっ と ちかくの路地の軒先に雨宿り
北へ渡るのに、信号の変わるタイミングを見計らう
よしっ と 軒先を飛び出すと
途中の軒先で外国人のカップルが同じように雨宿りをしながら見つめ合う
おっ と 映画みたいやなあ
やっぱり 京都やと絵になるなあ
 と思いながら水たまりに気をつけながら丸太町を渡る

ご存じの通り、「現代社会に生きる情報環境」は水と衝撃に弱いので
鞄がなるべく濡れないように気をつけながら探訪館に駆け込む
昨日の開館日は地元のテレビ局や新聞社も来てにぎわったそうだが
さすがに雨の午前中は客もおらず
副館長のYさんと上京の知恵袋のみなさんが歓談中

このブログに写真を載せるので「おこしやす」の雰囲気で話をしてくれませんか
と 頼んだときから、話がはずむ
上京の産業を代表する西陣は、職人さんの町だったので
家を訪れる人は、職方さんが多く
「まいど」と言って玄関に入って来るという
それを迎えて言うのは「おいでやす」

「そんな、東京の人らのイメージは「おこしやす」で「おいでやす」とか「まいど」とかは無いですよ」
でも、西陣はそういう歴史をもった町なので
それが実際なのだそうである

それで上がり框に腰をかけて話をしていたら
奥から「おいでやすいっすん」と言われておこられたそうである
おいでやすで話をしている間に一寸織れるという意味だそうだ

けれども、そんな風景は今はもう滅多に見られなくなって
昔は10時くらいになると表の床机に家々のおばあちゃん達が座って
通りを行く人と話をしたものだが
今はその代わりに家の前が駐車場になったものだから
自動車が通りを行く人を見ているだけになったと言う

芝の薬師町のはなしとか
大黒町のはなしとか
書き留めたいことはたくさんあったが
時間切れで続きはまた後日

10月22日には西陣でイベントがおこなわれるそうである
着物を着てみようかとも思っている

その後、各所で用事を済ませていたら、北小松でおこなわれる学部の行事にすっかり遅れてしまった
次は和邇らしい
ああ Kちゃんにおこられてまう

18時46分 北小松着
真っ暗な中を江若鉄道の軌道跡の道路を通ってリトリートセンターへ
かつて学部の頃、古墳の測量調査で何度も通ったことを思い出す

2005年10月 7日 (金)

通り雨

上京歴史探訪館が本日オープンした
場所は丸太町の智恵光院をあがった西にある山中油店の京町屋資料館
開館しているのは週末だけだが
上京のことがとっても詳しいたくさんの知恵袋のみなさんが
受付で上京を訪れる人を待っている
水曜日2講の「遺跡が語る京都の歴史」の遠足ではぜひ利用したい
(というか、そこの理事なので、はい・・・・・汗)

秋の同志社と京都はイベントが盛りだくさん
明日は、京田辺キャンパスで、京田辺の特徴のひとつである竹をふんだんにつかった大そうめん流しがおこなわれるらしい
残念ながら、今出川で会議があって行けない
週末はわが文情の合宿研修の2回目
週が明ければ、11月5日におこなわれる同志社京田辺祭の準備が本腰
その日にご講演いただく有名映画監督のポスターを
レイターのTさんが怒濤の勢いで制作中
できれば駅貼りしたいと考えている

3日には大学の広報雑誌「ONE purpose」の10月号が刊行された
特集の2として、文情の学生の元気な活躍が載っている
今日は通り雨があった
一雨毎に秋が深まる
そして
一雨毎に学部が落ち着いてきていることを感じる

2005年10月 6日 (木)

上京歴史探訪館webの暫定版をアップしました

10月7日のリアル版上京歴史探訪館のオープンに先立ち
web版の上京歴史探訪館の暫定版をオープンしました

http://kamigyo.doshisha.ac.jp

です

同志社大学の文化情報学部と文学部と工学部と文学部を卒業して京都大学の大学院へ進んだ学生君たちによる合同チームで制作しています
まさに文理融合による歴史遺産活用の実験的な
けれどもしっかり社会を意識したプロジェクトです

金田先生率いる工学部チームは、サーバー管理と実に見事なデータの入力と表示形式の連動したシステムの制作
一定のフォーマットに従って、歴史遺産情報を入力すると、自動で表示形式に整えられる。
しかもデータの更新も自由自在なので、発掘調査や研究の進展によって新しい成果が出たときは、すみやかにそれを反映することができる。
デジタルデータを利用した歴史情報の公開にうってつけのシステムである。
今回のwebが暫定版であっても公開することができたのは、この自由度の高い情報入力と公開システムのおかげである。
鋤柄関係の人環・文・文化情報のチームは、webデザイン、HTML化およびコンテンツ編集の担当にわかれている。
webデザインはもちろんAさんである。鋤柄もけっしてセンスに無頓着なつもりはないのだが、彼女の作品を見ると、もっと本質的なところでの彼我の違いを思ってしまう。
HTML化はTくんがメイン。Kくんもがんばってくれている。
コンテンツ編集は、院生と3回生がチーフとなって、平安・鎌倉・室町・江戸に分けた時代毎に、現在見ることのできない歴史遺産情報の整理がおこなわれた。
担当した各人はみなそれぞれのこだわりでコンテンツにとりくんでいる
資料を調べて、現地を歩いて、また資料にあたって
これが歴史家の原点

まだ、コンテンツは不十分ですが、これからしっかり増やしていきますから
ぜひ、ご期待ください


瀬戸哲也2005「グスク時代における墓制の集成」『南島考古』24沖縄考古学会
10月1日 兵庫県陶芸美術館 オープン
若林邦彦2005「方形周溝墓と集落」『考古学ジャーナル』534
二神葉子・津村宏臣2005「デジタル写真測量技術を用いた文化財建造物の計測と劣化評価」『文化財保存修復学会誌』49
山田邦和2005「福原遷都の混迷と挫折」『古代文化』57-9
藤原良章2005『中世のみちと都市』山川出版社
考古学研究52-2
三重県紀和町教育委員会2005『史跡 赤木城跡』
沖縄県立埋蔵文化財センター2005『沖縄埋文研究』3
沖縄県立埋蔵文化財センター2004『沖縄埋文研究』2
沖縄県立埋蔵文化財センター2005『首里城跡』

2005年10月 5日 (水)

きんつば

知恵袋で御世話になっているK会長がニコニコしながらやってきた
「おいしい、できたてのおまんじゅうがあるから食べて」
ついつられて
「おおきに、いただきます」

昨日から、京都埋蔵文化財研究会の後事務をしていて、なんとかまとまったので
・・・・収支報告書、実施報告書、後援お礼、関係機関への資料集の送付準備・・・・
今日は、秋学期の講義科目「遺跡が語る京都の歴史」の第1回目を京都駅前のキャンパスプラザでおこなってから
府庁前で資料集の印刷代を支払い今出川へ

例によって寒梅館のイケメンで昼食をとり、入試課と研究支援課をまわり
京都市埋蔵文化財調査センターへ行く途中で上京区役所のOさんと
上京歴史散策マップの打ち合わせをしようとした時だった

鋤柄の産まれた飯田にも、和泉庄という大きんつばで有名な和菓子屋がある
どちらかというと辛口のはずだが、ここのきんつばだけは、なんのためらいもなく食べている
もちろん砂糖の甘さだろうが、むしろ小豆の甘さというか、やわらかいけれども芯のある旨味が口の中にひろがって、普通のきんつばの2倍近くある大きさもつい食べきってしまう、和菓子である

K会長からきんつばをもらいながら、そんなことが頭をよぎる
竹の楊枝で分けようとするが、皮がしっかりしておりなかなか切れない
これは直接口に入れた方がいいのだろうかと思いながら
それじゃまったく田舎者だし・・・・と思いつつ
ようやく口に入れると
上品な甘さと共に、表面に乗っていた胡麻の香ばしい香りが口中にひろがる
羊羹が名物のお店なので餡は絶品である
「さすがだなあ」と思わず無言で感嘆

お店は三条の京極にあるが
工場は上京にあって、団体バスが停まるという
京都は地の人と知り合うことで、一層深みが加わっていく
上京歴史探訪館のテーマのひとつである
学生と地域とのコミュニケーション
観光客と地域とのコミュニケーション
そして地域の中のコミュニケーション
歴史をキーワードにして役立つことがたくさんあるはず

小雨の中を西陣の京都市埋蔵文化財調査センターへ行って書類を置くとその足で府庁へ
今出川を堀川までもどり、堀川のすぐ東の通りを南へ
府庁へ向かってなにげなく一条で東へ折れると、その先に「楽美術館」の看板が見える
そのまま油小路を下がり、また東へ折れて細いが西洞院を通って裏口から府庁へ

「遺跡が語る京都の歴史」では実際に京都市内をまわる企画もおこなっている
今年は絶対上京である

2005年10月 4日 (火)

個人的な体験2(アーカイブ)

水曜日
10月1日の懇親会場へ最終人数を連絡
数日手を入れられないため、言い訳用の扉を付けて10月1日公開予定の上京サイトを前倒しでアップする
内容が途中までのが多く、さすがにやや不安
10月1・2日におこなう学部行事の下準備がKくんとIさんの努力で見通しがついたので
事前にお願いしておいた世話役の先生方に集まってもらい、実施計画の説明と打ち合わせをおこなう
意欲的な先生方ばかりで話が順調にすすむ
帰宅後、できるだけ上京サイトの修正

木曜日
10月1日の配布資料と受付の準備を京田辺でした後、府庁前の印刷屋で10月1日の資料集を受け取る
今出川図書館でNさんに会って10月1日のことを頼んで後、資金課を経由してメディア工房へ
9月30日のムービー制作の進捗状況を聞き、Nさんにメールを打つ
広報で9月30日の段取りを調整した後
メディア工房で待ち合わせをしたIくんから上京webの平安時代画像の受け取る
9月30日のムービーを見ながら、セリフを考えつつ10月1日の看板を作成
Nさんが到着、ナレーションムービーを見ながら広報と最終的な打ち合わせ
阪神優勝

金曜日
京田辺でカントクと落ち合う
カントクは昨日のナレーションムービーの感想をうけ、先に来て修正をしていたという
必要な機材をもって「学びフェスタ名古屋」へ
近江八幡を過ぎたあたりから修正されたナレーションムービーをチェック
12時4分:名古屋着、すぐにホテルに入り荷物をおいて食事に出るが、結局高島屋の地下でお弁当(ロスタイム)
控え室で昼食をとりながら、AVIをエンコードする準備
結局13時すぎに会場に入り、リハーサルを開始

実は、最後のセリフのきめをまだつけていない
テーマは「大学の学びの魅力」
位置づけは各学部の模擬授業に先行する本イベントの主旨説明

頭を抱えながらいろいろ考えた結果
抽象的なことよりもやはり顔の見える臨場感のある話が良いと思い
「歴史家からの視点」とした

オープニングは京都
カントクがつくった架空の洛中洛外図が3Dもどきで展開しながら京都の歴史遺産を紹介する
今時の学生が話す京言葉のNさんのナレーションがながれる
ムービーが終了して登場「京都へようこそ」・・・・出だしがうまくない なんどかやり直す
今出川と京田辺の歴史にちなんだエピソードを話す
次にカントクがつくった大学の案内ムービーが、対照的な軽快なテンポで始まる
ここからが大学での「学び」の魅力について
「ういろう」をキーワードに3つのエピソードを語る
言いたいことは「知識」の蓄積をもとにした「知恵」を鍛えるはなし
さらに、開かれた大学としての社会との積極的なつながり推進のはなし
最後は、その具体例としての先輩からのメッセージ
途中で急遽付け加えた学部説明と懇談をはさみながら、リハーサルとセリフの手直し
なんとか形になったのは本番直前

出来は77点
名古屋駅で買ったひつまぶしの弁当は予想以上の美味さだった
カントクと別れ、大学に機材をもどして帰る

土曜日
うっかりしていて日曜日のM1のAV機器の操作担当を忘れていたので
高の原をすぎたあたりからメールで情報メディアのAさんと調整
10時の寒梅館でいつものメンバーと府立大の学生とNさんと待ち合わせ
NくんとTくんは情報メディアのAさんのところへ
MさんとNくんはメインマシンとサブマシンのオペレーションへ
IくんとNさんを中心に府立大チームで受け付け準備開始
Wくんが立て看板を用意して、横断幕に貼る研究会の回次の数字をSくんが打ち出す
イケメンと相談して、11時15分から交代で食事
12時からスタンバイ
12時半から「京都府埋蔵文化財研究集会」の受け付け開始
始まってしまえばこっちのもの
その後の情報交換会は異様な盛り上がりだった

日曜日
久しぶりに遅くまで京都にいて、W先生と奈良へもどったため、頭の半分はまだ目覚めていないが
8時半には、もう参加者がちらほら
受付はNさんのしっかりしたオペレーションに助けられた
テーマは「埋蔵文化財をめぐる情報環境」
研究会の進行はHさんの落ち着いた対応で形になった
感謝
会場から、情報の共有化についての強い推進に対する期待が寄せられた
その通りである
GISというのはあくまで技術であって
一番大切なのは歴史を見る目
そのためにデジタルネットワークを駆使した情報の共有化と
年に数回の情報交換会は欠かせない

終了後、大阪城時代の1期生(1991年)が挨拶に来てくれた、お母さんになっていた
片付けが終わって皆で寒梅館で食事をしながらせっかくなので一緒に調査をしようとHさんと話す
秋学期にはぜひMKへ見学に来ていただきたい
南山城のハイパー遺跡地理データベースなどをしたいと思う

13時半になって、「上京歴史探訪館の開設記念シンポジウム」のために再び寒梅館の大ホールへ
途中、10月1・2日で実施された文情の行事に参加していたKさんに会う
予定通りのようである
さっきK君からも、その旨のメールが来ていた
無事でなにより

大ホールで村井康彦先生の話を聞いた後、控え室へ
パネルディスカッションのメンバーがそろったところで進行の打ち合わせをする
上京のものづくりのこころを大きく強く広げるためのキーワードをKさんとつめる
本番開始
熱心なパネラーの話を聞きながら必死にキーワードを整理する
時間は超過したが、良い感じのできだったと思う
ただしさずがに集中力はとぎれがち

終了後、今年卒業したSさんといつものメンバーが待っていたので
ふたたびイケメンにもどって、ほっとしていつもの焼酎を飲んで帰る

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