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2005年11月

2005年11月27日 (日)

ロンドンに

EVE期間を利用して行っているつもりだった。今年の初めの計画では。
中世都市を研究テーマのひとつにしているが、日本列島の歴史だけではなく、世界史的な視野でも考えていくつもりなので、とくに京都とロンドンの比較をしたいと思い、準備をすすめている。
25日から29日は大学のEVE期間なので、それを利用して行く予定だったが、日々の生活に追われているうちに時機を逸してしまった。
来年は行かねば。

滋賀県犬上郡の多賀町で敏満寺遺跡のシンポジウムに出るために近鉄に乗ったら、「沿線四季ごよみ」の吊り広告があって、21日の東寺の「終い弘法」やら25日の北野天満宮の「終い天神」やら31日の八坂神社の「をけら詣り」やらが載っていた。えらいこちゃである。
EVE期間と聞いて思い出すのは、北小松学舎(現在のリトリートセンターの前身)で過ごした日々。
埋蔵文化財の調査が組織的におこなわれる以前で、また研究についても、学生でもアプローチできるたくさんの可能性がちらばっていたのどかな時代だった。
信じがたいことだが、森浩一先生が、現在の鋤柄の年頃だった。えらいこちゃである。
EVEというのは、そんな元気な学生にとってまとまった時間のとれる時期だったので、北小松学舎の裏山にあった古墳の調査に熱くなっていた。
現在、埋蔵文化財の調査は組織的におこなわれ、研究もさまざまな分野でとりあえずの成果が示されてきている。
ゆえ、学生があの頃と同じことをする環境ではなくなってきている。しかしそんな中、新しい時代を切り拓く問題意識で活動をはじめている学生くんたちがいることが嬉しい。おおいに期待したい。

しかるに鋤柄も期待するだけではなく、彼ら以上の熱意でそれに応えられるような研究と教育をすすめなければならない。
たとえば同志社大学の考古学が文化情報学部で始めることとしての文化財解析もそのひとつ。いよいよ来年度開講。
あくまで前提は、森先生がすすめてきた歴史研究における総合学としての考古学なので、これまでの森考古学を学ぶことから始める必要があるだろうと考えている
現在の計画は次の通り
1、ガイダンス-文化情報学的な遺跡の見方と考え方-
2、日本歴史に対し、戦後の考古学が果たしてきたもの
3、遺跡ってなに?
4、年代はどうしてわかるのか?
5、土器研究について
6、古墳時代の研究法についた
7、南山城の古墳
8、南山城の古代学
9、南山城の中世学
10、奈良盆地の古墳時代-邪馬台国論争を考える-
11、大阪の古墳時代-大山古墳は仁徳天皇陵か?-
12、高松塚には誰がいたか?-個人名を探求する-
13、考古学と文化財解析-総合学としての歴史研究へ-

多賀町でのシンポジウムを終え、東海道線に乗ってH先生と鎌倉時代の京都についての話をしながら帰る
鎌倉時代の北野社が中世の京都を構成する島宇宙のひとつだったと言う
興味深いテーマではないだろうか

ところで、日本史と日本以外の国の歴史との関係をみると、意外なことに気づく
フランク国王のカール大帝は桓武天皇と同じ時代の人
オットー1世やカノッサの屈辱で有名なグレゴリウス7世は平安時代の人
マグナ・カルタを承認したイギリスのジョン王は源頼朝に近い
マルコ・ポーロは承久の変あたり
ジャンヌ・ダルクは百年戦争のキャストだが、百年戦争は南北朝期から応仁の乱の直前までの時期
ダ・ヴィンチは第12代将軍の足利義晴が柳原御所をつくる直前に死んでいる
狩野永徳は二十歳の時に晩年のミケランジェロに会えたことになる
考えてみればあたりまえなのだが
時間は否応なく流れ
歴史は地球上のどこでも同時進行で生み出されている
時間という経糸と空間という緯糸を紡ぐ作業は日本列島だけにどどまるものではない

2005年11月21日 (月)

スキウタ

土曜日に書いたブログで紹介したコンテンツが何かわからないとの意見があったのであらためて言うが「ハウル」である

今年のNHKの年末の歌番組は、スキウタがテーマだという
さっきの番組によれば、全国各地から1511481件で3759996曲の投票があったという
しっかりしたデータである
そしてその話の内容がとても「文化情報的」だったのでちょっとだけ紹介を

このデータの内訳であるが
投票葉書が1163507件で2931146曲
パソコンが159563件で456091曲
携帯電話が146540件で310812曲
データ放送が25875件で61947曲
無効が15996件

これを年齢別に見ると~19歳が17.8%、20歳代が18.0%、30歳代が17.7%
40歳代が15.5%、50歳代が14.6%、60歳代が11.4%、70歳以上が5.0%
男女の比率は、男性が59.9%、女性が40.1%だという。
(いずれもNHKの公開資料:http://www3.nhk.or.jp/kouhaku/news1121.html)
世代的にはおおむね平均的なデータといえるだろうか

さて問題は、このデータから紅白それぞれ100曲を選ぶ方法である
NHKでは投票方法の違いによる順位のばらつきを補正する必要を考え
投票方法毎に順位を出し、その平均を最終順位としたそうである

統計の専門家では無いので、この方法についてのコメントはできないが
賢明で、色々な意味で非常に興味深い方法だと思う
なにより注目したいのは、まさに「文化」の「情報分析」であること
年齢・性別・地域・投票手段など、「曲」をめぐるさまざまな属性を
どのように組み合わせるとどんな結果が出るのか、そしてその意味はなんなのか
膨大な文化のデータを駆使してその意味を探る研究をめざす本学部としては
このデータはうってつけの研究資料ではないかと思う
大晦日の日に午後からその詳細な説明がおこなわれるそうである
楽しみにしたい

そしてその夜は、その中からさらに選ばれた曲が今年の締めくくりをおこなうという
大量のデータを駆使し、それを客観的に分析し、そしてその結果を人間的に解釈する
文化情報学のひとつの姿がここにもあると思った

2005年11月20日 (日)

昼くね

今日は上京歴史探訪館のプロジェクトの一部である上京探索紙マップの実地調査の日
13時に入試説明会の会場になっている寒梅館に集合
6階の会議室で時代毎のチーム分けとルートの確認をする
平安時代Aは市澤・中村・欅で大極殿中心コースを「平安宮と貴族の邸宅」
平安時代Bは渡部・田中・上田で清明神社から北野へ「異界巡り」
鎌倉時代は松本・佐久間・青山で五辻を東へ「明月記の世界」
室町時代は谷口・並木・渡邊で上御霊から一条小川へ「応仁の乱と洛中洛外図」
江戸時代は中川・竹井・東峰で鞍馬口から府庁前へ「上京富裕」
天気は良好、風はやや冷たし
鋤柄は自転車を駈って各チームの様子を撮影する

最後に出発した室町チームを見送ってひとまず江戸時代チームを追って鞍馬口へ
途中、東山皇女の光明定院墓を見つけて撮影
鞍馬口に着いたが合流のタイミングがずれたため、鎌倉時代チームを追って寺之内を西へ
今出川千本の手前で追いつき、そのまま五辻の時雨邸へ
歩きもなかなかあなどれない
定家の時雨邸跡だが、なんのサインもみられない
「せっかくの有名な場所なのに」と○さんが残念がる

平安時代Bチームは清明神社からこちらへ向かっているだろうと思い連絡をとると今出川の大宮を上がっているところとのこと
五辻をそのまま東へ向かい、途中で首途(かどで)八幡に寄ってから櫟谷七野社で落ち合う
首途八幡は義経が平泉に向かう時に寄った場所で近くに金売吉次の家があったという
知らなかった
大宮は良い感じの商店街だが櫟谷へのサインは見つからず少々迷う
七野社は斎宮に関係する平安時代コンテンツ
たしか洛中洛外図にも載っていたと思うがもっと注目されるべき

大宮を下がり中立売を西へ走り千本で平安時代Aチームに追いつく
途中千本から東へ下がる急な傾斜地形を見る
こんな細かな風景も多くの人に見てもらいたいと思いながら
○くんに記念写真を撮られる
江戸時代チームと連絡をとり出水を千本から西へ走る
堀川下立売で合流して西の山崎暗斎邸へ向かう
すぐ近くに八百屋の娘で幼名お玉、後に綱吉の母の桂昌院となった人物の生家がある
なんと京都はこれだからこわい

府庁までもどり滋野中学の東を下がると道ばたで水を汲んでいる人がいる
なにかと思って近づくと、そこが有名な滋野井
今度来るときは水筒が要ると思いながら小川を北へ向かう
室町チームがそろそろ洛中洛外図を歩いているだろうと連絡をとると誓願寺のあたりだと言う
油小路の楽資料館を過ぎて一条の小川で合流する
有名な一条風呂である
しかしここも普通の町並みに埋没している
「現地で歴史を再現することの意味がよくわかりました」と○さんが言う

ひととおり全てのチームをみたので、終点の近い鎌倉チームを追って出町へ
河原町今出川を上がると大変は人だかり
これがあの有名な和菓子屋さんかと思いながら商店街でチームを待つ
時刻が3時をまわり室町チームも寒梅館へもどる模様なので
最も距離の長い平安時代Bチームに連絡をとって大将軍八神社へ
地図を確認して最短の一条通りを西へ走る

実は現在の一条通りはなぜか途中から軸を北西に振っており
その結果、七本町で突き当たり(有名なお豆腐屋さん)南にぐいちになって西へ進む
そのぐいちのところが北野の商店街で、その西の御前通りからさらに西が一条の商店街
ちょうど今、ここで「妖怪ストリート」のイベントをやっている
地域に由来するコンセプトでかつ、元気で楽しそうな企画でとても良いと思う
時間があればゆっくりまわりたいがと思いつつ
和菓子屋調査も兼ねているチームを追って北野神社のすぐ東の和菓子屋へ

江戸時代チームが寒梅館へ向かうという連絡が来たのであわてて
平安時代Aチームに電話をすると高陽院から一条院へ向かうと言う
なんと優雅な会話だろうか
上京の位置表示はいっそ古代中世の邸宅名にしたらどうかと思うが
「それじゃ一条院であおう」ということにして
途中浄福寺を横目で見ながら再び一条通りを東へ走る

16時をすぎて全てのチームが寒梅館に戻り会議をはじめる
3回生と院生のチームリーダーがルートの説明とコンテンツの確定をおこない
1回生が感想を言う(またまたコロキアムである)
対象とする地域があって、明確な目的とそれにあったコンテンツがあって
効果をかんがえた演出とプレゼンを考えていく
やはり実戦が一番勉強になる
出来上がりが楽しみだ

今後の予定と役割分担を決めて会議終了
今日の内容をコラムとして出すようにしているのでそれも楽しみだが
帰ってきて撮影したビデオをみていたら
かつて、角淳一さんと原田伸郎さんが中心なってやっていた「夜はくねくね」という名番組を思い出した
編集して企画を練り直したら、面白い番組になりそうな気がする
とりあえす一部をストリーミングにしてアップしたいと思う
ご期待ください

2005年11月19日 (土)

待たれよ

探したよ・・・・1年ぶりに

さすがの自然描写である
加えて町並みの表現も
パレードが行く大通りから入った路地の石段で座り込んでいる人とか

どうも歴史家はドラマチックな事件を描くことに夢中になってしまうきらいがあって
当たり前の様子を当たり前に描くことの難しさを知っているから
宮崎作品で描かれている普通の情景が普通であることにとてもすごさを感じる
これも人間と自然に対する強い愛情の現れなのだろうか

かつてレコードを買うと高名な音楽評論家がライナーノーツに解説文を寄せていて、レコードを聴くと言うことは、それを読むことも合わせての行為だった
映画館で売っている映画のカラーパンフレットを何というか知らないが
「もののけ姫」のそれには網野善彦が解説を加えていた
その意味を知っている人はその「事件」に強い衝撃を受けたが
それだけあの映画は歴史家が見ても色々考えさせられる内容をもっていた
それが何によるものかというと
一言で言うと「細部へのこだわりと全体性との絶妙な調和」ではないかと思う
言い換えるならばミクロ的な分析とマクロ的な分析の共存ということになる

12月2日の歴史情報系プロジェクト授業のガイダンスでは
歴史というものが「シームレスなアナログ情報のかたまり」であるということから始めるつもりだが
そのシームレスなアナログ情報のかたまりというものが
ミクロ的な情報とマクロ的な情報の調和のとれた共存なのである

その説明というものが、これまでの全ての歴史家のめざしてきたことであるが
実際は、ミクロ的なことかマクロ的なことかの
どちらかの説明に偏ってしまうケースが多かった
そして歴史家の得意とする文章表現は
そのあたりをうまくオブラートにする特技をもっていた

去年、薩摩藩邸のCGを作成して、その事がとてもよくわかった
その意味で歴史家はミクロにもマクロにも高い精度の求められる映画に学ぶべき事が多いと思う
ビジュアル表現への積極的な挑戦と言っても良いと思う
中でもそのままでは平板で抽象的になりがちな考古学分野の説明は
意識してそれに努める必要がある

ただし、物語は始まったばかりである
魔法の力はまだ弱い
待たれよ


11月7日から南さつま市となったかつての金峰町のMさんから歴史交流館金峰のサイト案内がとどく
http://www18.ocn.ne.jp/~m-kinpo/index.htm

2005年11月18日 (金)

文化財解析という授業に向けて

国際日本文化研究センターの宇野隆夫さんがイミダスで考古学の説明をしている
「旧石器ねつ造事件」や「自然科学的な年代測定法」についてなど刺激的なコメントも多く、非常に勉強になるので、少しだけ紹介を
・近代考古学は19世紀中頃に古生物学や地質学から、型式学と層位学を学んだ。
(考古学の初学者が必ず耳にして取り組むこの研究法を学ぶためには生物学を知らなければならない)
・20世紀に「考古学と広義の歴史学の一部門とする」考えと、「人類学の一部門とする」考えがあった。もちろん同志社の考古学は歴史学としての立場が強い。
20世紀末にイギリスの考古学者のイアン・ホッダーが文字で書かれた記録も物質資料であり、考古学が総合学だと提言した。
これも同志社では、いうまでもなく森浩一先生がすでに「古代学」として提唱し、実践してきたことで、現在は文献史研究においても「資料学」という言い方で東大の史料編纂所などが取り組んでいる。日本国内においても同様な動きは進んでいる。
・AMS放射性炭素年代測定を巡る問題は、一番重要な資料のあつかいで見解の相違がある
・チャイルド考古学:様式編年網を基礎にした人類の発展過程と西アジアの農耕や文明がヨーロッパ社会を変革した様子を説明。鋤柄の時代のバイブルだった。
・プロセス考古学:ビンフォードらによって1960年代に新考古学運動が盛んになり成立。いろいろなプロセスが「なぜ」生じたかを客観的・科学的に説明することを重視。その研究法の開発。動物考古学などによる遺跡情報の多様化。考古学資料の数量化・空間情報の重視。計量考古学・分析考古学・環境考古学。考古学GISもその範疇だという。
・ポスト・プロセス考古学:ホッダーが1980年代に始めた象徴考古学。プロセス考古学は説明原理が経済的要因に偏っている。考古学情報の特定のかたちが特定の社会現象と対応するとは限らない。考古学の型式は社会の規範によって生じたのではなく、個々人の意志の表現の結果。空間考古学を重視し、地域の歴史伝統に注目し、様々な情報の相互関係からもっとも蓋然性の高い結論を導く。認知考古学。

初学者はこういった研究の歴史についてもしっかり学ぶ必要はある。しかし、それによって、評論家のように自分のスタイルが何にあたるかという議論は不毛である。
自分のおこなっていることが全体の中でどのような位置にあるかの感覚をもっていることは必須であるが、人間の歴史を研究することに対して、準備運動のような色分けは必要ない。言い方を変えれば、アプローチの方法が違っていても、本質を間違えなければ、すべて正しいのである。
一番重要なことは、人間の歴史に対する強い執着心だから。

・地理情報システム:空間情報をもつ各種データをコンピュータ上に表示し、空間解析をおこなうシステム。ただし、考古学(歴史学)においては、文化財情報(歴史情報)の集積と管理、考古学(歴史)情報の空間分析(考察)などに用いられつつある。

 単に遺跡の紹介と用語の説明にとどまるものではなく、考古学と社会の関係や、研究法の整理と新しい技術の紹介まで、日頃から宇野隆夫さんが言われている思いが、無駄の無い文章の中に込められており、それが宇野さんの感性で選んだ遺跡の紹介とあわせて楽しめる作品となっている。初学者必読のコンテンツである。

渡邊大門2004「中世後期における播磨国一宮伊和神社の存在形態」『中世一宮制の歴史的展開』岩田書店
渡邊大門2004「勧修寺家領摂津国小林荘について」『市史研究紀要 たからづか』第21号
高橋美都2005「国風歌舞について」『国風歌舞』国立劇場第59回雅楽公演
宇野隆夫2005「船と航海」「遣唐使船とそれ以後」『考古学ジャーナル』536
宇野隆夫2005「考古学」『イミダス2006』

2005年11月17日 (木)

笠置山にこだわる

今昔物語によれば、鷲峰山とならんで山岳信仰で有名な笠置寺の開創は、大友皇子の遊猟を故事を基にし、古くからの山中修行者の霊地で、役行者や良弁の来山を伝えている。また当寺に残されている高さ15.7mの弥勒石仏を始めとした石仏群は奈良時代末期とされる。
 平安時代前期頃からは、弥勒信仰に伴う修験道の霊場として吉野金峯山と並び称され、「枕草子」の「寺は」の段にも当寺が登場する。永延元年(987)には花山院が、寛弘4年(1007)には藤原道長も当寺を参詣している。安元年中に(1175~77)には後白河法皇が参詣したことによって田畠が寄進され、養和元年に(1181)弥勒念仏が弥勒殿でおこなわれている。
 建久3年(1192)に興福寺学僧の解脱上人貞慶が隠遁して後、弥勒信仰の中心道場となり、復興と坊舎の整備がすすめられる。俊乗房重源も銅鐘ほかを寄進し、建保2年(1214)には東大寺の末寺となって、寛喜2年(1230)には東大寺尊勝院主宗性が入山しさらに弥勒信仰をすすめている。
 一方この頃鎌倉では極楽寺を中心とした叡尊と忍性による西大寺流律宗の政治と経済を巻き込んだ大きな活動があり、西日本でも非常に強い宗教勢力の動きがあった。貞慶も鎌倉新仏教に対して、南都仏教の覚醒に努めた戒律を重んじたと言われるが、あるいは符合する動きかもしれない。
 その後元弘の変(1331)で後醍醐帝の行在所がおかれたことにより、本堂ほかの坊舎が焼失。永徳元年に(1381)に再建されるがまもなく焼失、再興がなるのは文明14年(1482)の貞盛を待つ。

なお、この山はもうひとつ別の形で歴史の舞台に登場している
山上から南へのびる自然遊歩道が柳生に続いているように、戦国期には山伝いルートの重要拠点ともされ、足利義晴(おなじみの寒梅館の主)の時には、山城守護が細川晴元(おなじみの新町キャンパス西北に住んでいた人)で、守護代に木沢長沢がおかれ、笠置山は要塞として使われていたと「多聞院日記」に出てくる。
天文10年(1541)11月26日「伊賀衆が(柳生側から)笠置城に忍びて坊舎と小屋を少々焼く。3のツキ(郭?)の内1つか2つを取る。(守備側の)木沢方の城大将は右近某など人数は70~80人。弥勒岳を拠点とする。」
天文10年(1541)11月28日「笠置で合戦があった。木沢方は(笠置)城から二手に分かれて攻め出る。(攻め手の)伊賀衆は退散した。」

奈良時代(8世紀):山岳信仰の霊山
平安時代(11~12世紀):弥勒信仰・12世紀に後白河が寄進
鎌倉時代(13世紀):東大寺系・南都とのつながり
南北朝(14世紀):後醍醐・醍醐系とのつながり
室町時代(15世紀):やや停滞
戦国時代(16世紀):幕府守護代の城

2005年11月16日 (水)

上京探索会議

アメリカの大統領も日本の総理大臣も
京都へ来て京都の一番濃いところに触れずに京都を去っていこうとしているが
こちらではそれにもめげずに
夕方から京都の一番濃いところが詰まった上京歴史探訪館の鋤柄チームのミーティングをおこなう
本日の議題は、まず役割分担の確認から
(1)上京歴探訪館webの時間旅行コンテンツは、市澤・竹井・渡辺が平安時代、松本・谷口が鎌倉と室町時代、中川・中村・佐久間が江戸を担当
(2)上京歴史探索の紙マップは、編集長が市澤でデザインは青山
(3)上京知恵袋は、ディレクターが中川でチーフスタッフが並木
(4)和菓子店データベースは、ディレクターが鋤柄でスタッフが田中・渡辺・上田・谷岡
(5)webサイト運営は、データ更新が東峰でデザインが青山   
(6)調整役としてリーダー中川とサブリーダー欅

次に情報の共有化としてメーリングリストと掲示板の利用を確認
そこからいよいよコンテンツの整備の確認
まず、年内におけるwebサイトの制作整備予定としては
(1)詳細コンテンツ説明に、少なくとも1つの画像を付けることを11月末までに松本が担当
(2)詳細コンテンツ説明に、新規ベースマップ完成後の個別マップをつける
(3)ベースマップの再作成は松本・谷口・渡部で年明けを目標
(4)詳細コンテンツ説明の文章の推敲は各時代担当が年内をメド
(5)「時間旅行」の見せ方については、年内で意見をまとめて後藤君を加えて年明け早々に見直し

次に紙マップの製作についてで、現場作業は11月末までに済ますこととして、表紙デザインのデータ形式について、来週中に青山さんと業者でミーティングをおこなう
そして、20日には手分けして実際のルートを歩いて、掲載コンテンツとルートの決定をおこなう
ルートは次のとおり
(1)平安宮中心部と聚楽第を兼ねた平安時代Aチーム(安土桃山)が市澤・欅・(鋤柄)。欅くんはもちろん比叡山のレポートが優れものだったため
(2)北野天満宮を含む平安時代の神社関係は渡部・田中・上田。このチームは北野天神周辺の和菓子店もチェック
(3)鎌倉時代は松本・青山で京都ではなかなか見つけにくい時代という難問に挑戦
(4)応仁の乱と洛中洛外図をテーマとした最も華やかなコースは谷口・並木・渡邊で、このチームも御所周辺の和菓子店についてもチェック
(5)江戸時代は、富裕の人々と学問の道をテーマに中川・竹井・東峰
コース踏破後は、その記録をコラムにして上京webにアップする予定です
1回生と3回生と院生の文章を楽しみにしましょう

その他、大学と地域連携をテーマにした上京知恵袋については
年末年始の上京の行事のアーカイブがやってくるので
12月から1月にかけて年末年始の行事と節句などの行事の取材や撮影の段取りをつける予定

上京和菓子店のデータベースは、上京に集中する和菓子の老舗について、その分布を江戸時代の上京の復原の手がかりにするもよし、社会調査へつながるのもよし
ここは1回生に項目選択もデータ取得もまかせて様子を見たい

歴史遺産活用のひとつの姿として、試行錯誤しながら、でもきちんと社会連携の実際の形をつくっていこう

2005年11月15日 (火)

将軍上洛

最近、急速に付き合いを深めているのは後醍醐であるが
その前からつきあっているのが義晴である

よく知られているように、戦国期の洛中洛外図はおおむね一条通りを境界にして
左隻と右隻に分け描かれている
もちろん左隻の主人公は義晴であり
右隻の主人公は天皇と町衆である
この天皇と町衆という組み合わせも面白いが
一条通りを境界線としたかった意味も面白い

言うまでもなく一条通りは平安京の京外と京内の境界線である
一条以南は京内
本来天皇と庶民の都市であった平安京に対して
武士の都市は別だという意識だろうか
絵画史料は発注者と絵師の作品である
それぞれの意図を読み取りながらその時代を考える
洛中洛外図のGISである

上京区役所で短いミーティングをした後、現在の風景の撮影で報恩寺から小川を南へ下がる
上立売小川の報恩寺には平安期の梵鐘があると言う(記憶)
今出川から小川を下がっていくと
北から順番に十念寺・極楽寺・誓願寺と続く
行願寺のところがちょうど小川の公園で、その南の路地にかつての小川の橋の欄干が残る(感動)
その南が日本で一番有名な一条の風呂屋(もちろん今は普通の民家)
そこを過ぎれば目の前はもう一条通りで百万遍がこの西にあったはず
一条通りへ出た後、東へ戻りながら西洞院の狭さに驚く
新町をすぎ、室町の北西角にある有名なお味噌やさんを横目で見ながら
虎屋さんのビルをぬけて烏丸に出る
この北にあったのが二度の観音と呼ばれた一条観音堂、南が広橋殿かと思いながら
烏丸を金剛流能楽堂までさがる
諸般の事情により今日の京は緊張状態なので、うろうろしながら写真を撮っていると叱られるかもと思いながら京都御苑の側に渡り中立売御門から北へもどる
烏丸今出川の交差点で西を見て勝智院を思い浮かべたが
つい地下鉄入り口におかれたバリケードに目が行ってしまう
明日は金閣らしい
中世の京都へようこそ

従来からの歴史研究と文化情報学における歴史研究とを考えている
ひとつの説明としては
「史料」と「史料」を組み合わせて「歴史」を叙述する方法と
「史料」と「史料」の間にあったものを、その関係から「仮説史料」として創出して
「史料」と「仮説史料」と「史料」の組み合わせから説明可能な「歴史」を提案する方法があった時
後者の方法が文化情報学的な歴史研究ではないかと思う

上杉本洛中洛外図から義晴か義輝の意図と永徳の意図を抽出して、それぞれの意味と、さらにそれ以外の歴史情報を組み合わせることでシミュレートされる京都の姿が示された時に、それがこれまでの京都の見方とどう関係付けられるのかを提案する

よく思い違いされるが
歴史というのは、全体であって、一部分を切り取ってなにかわかったというようなものではないのである
あくまで、そういうふうに考えられるとするならば、その地域は、その前後の時代は、これまでの説明とどのように整合するのか、しないのか
整合した場合、これまでの説明はどこが問題だったのか
整合しない場合は、そのどこに問題があるのか
「発見」は結果ではなく始まりなのである

クラーク館で赤外線照射の実験をする。成功
思いついてその足で徳照館へやってきたら
文化史のK先生とM先生が1階の事務室にいたのでさっそく撮影した画像を読んでもらう
ただしモニターが小さいのでよく見えない
K先生の時間があったので現場へもどる
生きた教材を前に議論がはずむ

2005年11月14日 (月)

本を読む2

木下良監修武部健一著2005『続 古代の道(山陰道・山陽道・南海道・西海道』吉川弘文館
唐木裕志・橋詰茂2005『中世の讃岐』美巧社
伊藤裕偉2005「伊勢平氏と屋敷」『古代文化』第57巻第4号
田原町教育委員会2005『平成17年度 秋季企画展 唐古・鍵遺跡と周辺の弥生遺跡』唐古・鍵考古学ミュージュアム 展示図録 VOL.2
大阪城天守閣2005『大坂図屏風』
坊津歴史資料センター輝津館2005『坊津』
鹿児島県立埋蔵文化財センター2004『九養岡遺跡・踊場遺跡・高篠遺跡』(鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書71)
高橋修三2004『おんなたちの源平恋絵巻』
南さつま市2005『歴史交流館 金峰』入海と交流が育んだ歴史と文化
北川央2005「浅井三姉妹の長女-淀君」「明智光秀の娘-細川ガラシャ」『戦国の女性たち』河出書房新社
北川央2005「大坂城と狐」『朱』伏見稲荷大社
北川央2005「大阪城・上町台地における文化イベントの展開と史跡・文化財」『歴史遺産と都市文化創造2』大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター

2005年11月12日 (土)

歴史遺産活用-懐かしさが沸騰する時-

昨日の奈良文化財研究所での研究会の時のエピソードで一番大事なことを忘れていた
1986年だったような気がするが、この場所で歴史時代遺跡の研修があって、それに参加していた
弱冠28歳である
当時国立だったこの組織は、(現在もそうであるが)埋蔵文化財の調査に関係するさまざまな研修を、各地の調査担当者を対象におこなっており、それが国内の遺跡調査の平均的な水準を高めることに大きく貢献してきた

当時、大阪文化財センターの調査員であった鋤柄は、自分の専門に関係していると言うこともあって、その研修に参加することとなった
全国から埋蔵文化財の調査担当者が来て、1週間以上の合宿だったように思う
この組織の敷地内に宿泊棟があって、そこで一緒に生活をするのである
陽の高い間は、奈良文化財研究所の職員を中心とした人達が講師となって話をする
現在日本を代表するK大学の考古学の先生となっている人も
このころはここの職員で、その研修の講師となった
さすがに非常に熱心な講義で、今もその動画が頭に残っている
その感じが誰に似ているかと言うと、S大学のS先生とか、T大学のH先生の話し方である
とても勉強になった

しかし、それと同じくらいためになったのが陽が沈んでからの時間である
全国各地からの同じ職種と同じ悩みと同じ喜びと少しずつ違った夢をもった人たちが集まり、いろいろな形でいろいろな話をした
いかにも九州男児のSさん、みんなにかわいがられた山陰のKさんと落ち着いた雰囲気のMさん、人なつっこい山陽のNさん、常識人だった四国のKさんと関東のKさん、えっとおどろいた関西のHさんとKさん、刺激的だった東海のHさん、豪傑だった関東のNさん。
ほぼ毎晩に近いペースで有意義な時間を過ごした

昨日は、その時の人が偶々研修に来ていて、鋤柄の話があるということで来てくれ
会いに来てくれた。
懐かしさが沸騰した
聞けば、市長部局に属す文化観光関係のセクションで遺跡の調査を担当しているという
正しいと思う
そして歴史研究がすすめなければならない大きな役割を果たすにふさわしいセクションだと思う
鋤柄の話したこれからのめざす埋蔵文化財と歴史研究の方向にきわめて近い姿が、
そこでは実際に現場でおこなわれている
鋤柄が文化情報学部で進めようと考えていることが、現場に立っている人にとっても当たり前に感じられはじめている
先端的であること、けれども実践的でもあること

今、埋蔵文化財をめぐる環境は、大きく変わってきている
さらにその先を見据えたことを進める大学は
それ以上の問題意識の集中を求められている
一層の緊張感が体を駆けめぐった

2005年11月11日 (金)

歴史的景観復原を考える

奈良文化財研究所と言うところで遺跡GISの研究会があって今出川キャンパスの調査の話をしてきた
鋤柄以外にもいくつかの話があったが、その中である報告を聞いていて懐かしい思い出がよみがえってきた
その人は、GISとCGを利用して歴史的な景観復原をおこなっているという
時代は江戸時代である
歴史の専門ではないので、あくまでわかりやすいデータ化ができる資料のある時代を対象としている
おもに絵画資料をもとに、CGで建物を復原し、それを風景の中に入れ込んでいた
とてもよくできた作品ですぐれた研究だと思う

しかしすぐに「これは歴史家から見たらちょっと違うなあ」と思った
人間がいないのである
精巧な模型の町並みをつくり、それをビデオカメラで写している風景なのである
「ああそうか、これが理系の考える歴史的な景観復原なのか」と思った
けれどもすぐに思い直す
知り合いの理系の人たちの中には、鋤柄以上に歴史上の人物に関心を持っている人も多い
逆にそういったことにまったく無頓着な文系もたくさん知っている
そうすると
理系とか文系とかの区別の問題ではなく、「歴史」というものに対する関心の持ち方の違いがなすものだろうか
そういわれると、「歴史」というものを深く考える必要のない期間が長かったからだろうか
現在の社会状況において、「歴史」というものは確かにわかっていそうでわかりにくいテーマになっているのかもしれない
しかし現在「歴史」を考えることが、とても必要な出来事が多くなってきているのも事実


だいぶ前に関東のある博物館へ行って、その時文献史研究の専門家が町並みの模型展示を見ながら言った言葉を思い出した
「今回初めてこの町並みに人形を入れたんですよ。しかも物語を考えながらね。やっぱり歴史は人間にかかわるエピソードが無いとねえ」
それまでその町並みの模型には人間はいなかったのである
見る人に特定のイメージを押しつけないように人間を入れない方が良いという考え方が主流の時代も、歴史研究の過程で確かに存在したのであった
しかし、それは戦前の状況との関係で、歴史家としての自らのアイデンティティーに対して、あまりに遠慮しすぎていたのではないだろうか


1990年、佐倉の国立歴史民俗博物館の特定研究会にゲストで呼ばれ、網野善彦先生の前で河内鋳物師の話をした
31歳だった
網野先生は61歳だった
あの高名な歴史学者を前にして、その代表作に関係した南河内の鋳物師の村について、おそらく日本で初めてプリミティブな歴史情報のGIS研究を披露した
しかし網野先生は「んんんん 隔靴掻痒かなあ」と言われた
その時は網野先生の反応がショックだった
しかし、今から思えば「だからなんなのか」という気持ちをもたれたのだと思う
人間が抜けていたのである
それが今はよくわかる

それからたくさん勉強をして、40歳をすぎて網野先生から面白がってもらえる文章が書けるようになった
今日の話を聞きながら「そんな頃もあったなあ」と懐かしく昔を思い出した
しかし、そんな網野先生ともう話のできないことがとても辛い
いろいろな考え方はあるかもしれないが
歴史とは空間と時間と個人的な人間のストーリーをもったコンテンツだと思う
だから鋤柄は、やはり網野先生が納得してくれるような歴史的景観復原をしていこうと思う

2005年11月10日 (木)

嵯峨野について考える

一般に言われる平安京にかかわる最も有名な人物は桓武天皇であるが、鋤柄が一番推すのは和気清麻呂と嵯峨天皇である。
桓武の平城離脱から平安遷都までをプロデュースしたのは和気清麻呂であり、理念としての平安京を実態としての平安京にしたのは嵯峨天皇であると思うからである。
その両者に深く関わっているのが嵯峨野である。

和気清麻呂は天平5年(733)に備前国藤野郡で生まれた。清麻呂の姉は平城宮の女官を務めた広虫で、孝謙上皇に信任され、出家後は孤児の養育にあたった。その地を本拠とする和気氏は、10世紀以降丹波氏と並ぶ医道の家となったようだが、詳しいことはわからない。
姉の広虫が孝謙と近かったので清麻呂が政治の中枢に関わることはそれほど難しくなかったものと思われ、33歳の天平神護2年(766)に従5位下で近衛将監になっている。しかし、彼が正式な形で歴史の表舞台に登場するのは、なんといっても宇佐八幡神託事件であろう。
その3年後の神護慶雲3年(769)、宇佐八幡宮の神託を利用して皇位につこうとした道鏡の陰謀を阻止した事件である。その結果彼は姉と共に流されるが、光仁のブレーンであった藤原百川の援護もあり、道鏡が失脚するや否や戻され、延暦2年(783)には難波宮の経営に関わる要職の摂津大夫となる。
難波津をおさえ難波宮を監督した摂津の長官は、これまで河内の丹比氏系が多かったが、桓武は平城を離脱するに際して、最初から難波宮の施設を利用すべく、この人事をおこなったのではないだろうか。
その後は長岡宮での造都事業の停滞に対してひそかに平安遷都を進言したとされ、延暦18年(799)に嵯峨野を見下ろす神護寺と護王神社にその痕跡を残しながら平安宮の整備半ばで死んでいる。
備前を出発点とした清麻呂の旅は、嵯峨野を見下ろす高尾を終着点に選んだということである。
中村直勝氏によれば、備前の和気氏は中国山系の鉱脈を追って丹波まで勢力を伸ばしたが、その背景となったのが、丹波の丹にちなむ丹生と呼ばれる水銀を含む土壌で、そこから金や銀より高価な朱ができると言う。嵯峨野は丹波の出口であり、清麻呂はその巨大な財力を背景に権力の中枢と深い関わりを持ったとされる。
丹生が古墳時代から重視されたことは、前期古墳に朱が多く使われており、前期古墳の集中する奈良の三輪山の麓は、その東へ行くと丹生神社のある宇陀地域が近かったからではないかとも言われているが、同じことが嵯峨野の地でも言えるとすると、嵯峨野に秦氏が葬送の地を選んだ理由についても見直す必要がでてくるかもしれない。
ちなみに清麻呂は摂津大夫時代に河内と摂津の境で水利工事をおこなっている。彼が難波宮の次に選んだ長岡京は木津・宇治・桂の三川合流地であり、嵯峨野は幕末に長州が京都を攻撃するときに陣をおいたという、京都盆地の中で代表的な河川交通上の拠点であった。意外に知られていないが、嵐山から桂川を渡り、法輪寺のあたりから東を望めば、見事に京都盆地がすべて見渡すことができる。京都盆地を西から押さえる絶好の場所なのである。
また高瀬川の開削で有名な、あの角倉了以も嵯峨野の人間である。
ゆえ、清麻呂と水上交通との関係も視野に入れておく必要はある。

ところで奈良の三輪山周辺を、森浩一先生は始祖王の聖地を象徴するような場ではなかったかと書いている。そしてその後の時代、その東にある宇陀と南の吉野は神仙思想に彩られた地域と考えられていった。
一方嵯峨天皇の名称にもなった嵯峨野の語源は、険しい山を意味する中国からの言葉と言われている。想像をたくましくすれば神仙世界の山々であろうか。あくまでイメージの段階ではあるが、三輪周辺と嵯峨野に共通する要素があるような気が少しだけしている。

嵯峨天皇は、延暦5年(786)の生まれである。父は桓武、母は藤原乙牟漏。兄が平城天皇である。平安京が消え去る危機を排除し、蔵人所など政府機関を整備して中国的な儀礼を積極的に取り入れながら平安時代の基礎が固めをおこなった。三筆の1人でもある。実はひそかにあこがれている人物である。
その嵯峨天皇が現在の大覚寺の場所に離宮をおいた。彼は在位中からしばしばそこへ通い、退位後はもちろんそこで上皇として国政をリードし、死んだのもそこだという。その地の場所を自らの天皇名にするほどその場所に強いこだわりを持っていたことは確かである。
それでは嵯峨はなにゆえその場所にそこまでこだわったのであろうか。

実は嵯峨が離宮をおいたのはここのほかにもうひとつ山崎にある。弘仁4年(813)に嵯峨天皇が行幸したと言われる河陽離宮がそれで、その後貞観3年(861)に離宮の機能を残して山城国府になっている。
だから嵯峨天皇のこだわりは嵯峨野から桂川沿いに南へ下り淀川の上流域までひろがっていたとみることができるかもしれない。嵯峨は幼少時を長岡で過ごしているので、その影響という見方もある。
ところで彼の后は壇林皇后と呼ばれた橘嘉智子。彼女は橘奈良麻呂の孫でその父が橘諸兄。母は不比等の娘の多比能というから名家中の名家である。しかし橘家は藤原家との権力抗争にやぶれ、衰退していく。その衰退した橘家が頼った先がやはり淀川上流域を本拠としていた百済王敬福だったと言われている。
だから嵯峨天皇が淀川上流にもこだわりを持ったのは皇后にちなむものだったという見方もできる。

物語が広がりすぎてとりとめがなくなってしまいそうだが、その背景はともかく嵯峨が嵯峨野と同時に桂川の水上交通に興味をもっていたことは確かではないかと思う。
平安京の中心としておかれた平安宮は京都盆地の中央北にあって、水上交通に至便な地とはとても言えない。これは古代の実質的な社会にとってあまり有利な条件とは言えない。その後の為政者達が結局川の近くに拠点を移していることがその理由である。
有能な政治家であり文化人でもあった嵯峨にとって国家に指揮するネットワークや先端の情報を入手するためには平安宮のある場所はけっして好ましい場所ではなかったのではないだろうか。

嵯峨野は天皇や貴族の遊猟の場で山荘が築かれたとものの本には書いてある。たしかに平安京が左京を中心とした実質的な都市となったときはそうであったと思う。しかし平安時代の前期の頃は、嵯峨野は政治と文化の情報が濃密に交錯する、京都盆地の中で最もホットな場所だったのではないかと、清麻呂と嵯峨を見て思っている。

2005年11月 9日 (水)

予測する歴史学

全国で遺跡を調査している機関の多くは基本的に教育委員会所管の地方公共団体になっている。ただし知事部局や教育委員会に属さない博物館や会社組織など、もちろん大学でも調査をしているので、この仕組みは絶対的なものなのではない。あくまで行政上の問題にすぎない。その中に財団法人の調査機関をまとめる組織があって、そこのコンピュータ関係の委員会から、埋蔵文化財とコンピュータの関係をその初期から現場で知っている人間として呼ばれて話をしたことがある。1996年の金沢だった。
その時の演題にしたのが「予測する考古学」だった。
1986年くらいから京都と奈良を中心に埋蔵文化財とコンピュータの関係を考える個人的な集まりがあって、ある組織ではそれを研究会にする動きもあった。それから10年たち、しかしその後のはかばかしい進展はなく、関係する研究会の方向も考古学とは違ったものになっていっていた。この辺で一度問題を整理する必要があると思っていたのでその話をした。そのタイトルである。
いつも言っていることではあるが、コンピュータありき、統計ありきでおこなわれている考古学とコンピュータの現状に警鐘を鳴らし、あくまで問題の所在は歴史的な疑問であり、コンピュータは、その歴史疑問に解答を導くための仕組みや仕掛けであるという考え方の確認である。考古学に関係している人間はもっと歴史家としての意識を高めなければならないぞという話である。
ただし、コンピュータの力は単にそういった研究支援だけではなく、やり方次第では、いわゆる歴史研究の最大の限界である「ないものは語れない」というコンセプトを乗り越えることができる可能性を持っているので、それがおそらく埋蔵文化財を含めた歴史学全体とコンピュータの生産的で本質的な関係になるだろうとまとめた。
これが「予測する考古学」の要旨である。

その後、その現実的な事例として、発掘調査の予算だてをする際に、調査経費の根拠として、その調査地の隣接地点の調査成果データをまとめれば、合理的な調査方法と予算だてができるのではないかと、そのデータベースをつくりだしたこともあった。いたってプリミティブだが、わかりやすい予測の一例だと思う。

この学部が開設されて半年たち、さまざまな人との交流や高校生とも話す機会があり、とくに先週の大森一樹監督と話をする中で、文化情報学として考古学および歴史学がなにをするべきかについてあらためて整理することができた。
そのひとつとして、大森監督との話で話題になったのは、「アナログデータは無限の情報の集合であり、デジタルデータというものはあくまでその一部である」ということだったが、文化情報学の目標のひとつはデジタルデータを駆使しながら、その時にこぼれ落ちるアナログデータについてもしっかりふまえた考察をすることだと思った。

そう考えていた時、かつて一緒に南山城を歩いた文学研究科のS君のコロキアムの中で出てきた、「歴史学というものは、残っている史料でのみ説明を考える」という慣れ親しんだスタンスと大森監督との話がオーバーラップしてきた。
これまでアナログ研究の代表だとされていた歴史研究であるが、「歴史」というものは本来アナログの無限情報で、一方「歴史史料」や「考古資料」とは、たまたま残った「歴史」の断片なのだから、比喩的に言えばそれらはデジタルデータという見方ができるだろう。
そうすると歴史研究というものは、そういった歴史の断片の(デジタル)データの集積と因果関係の合理的な説明から本来のアナログな歴史全体を再現しようとしてこれまで格闘してきたのだから、実はここで言う文化情報学の考え方と非常に近い関係にあったということになる。
そして文化情報学でおこなう歴史研究は、位置情報を軸としたデジタル化による歴史情報の総合で、従来の歴史研究のジャンルを越え、合理的なそれらの融合を統計の手法を取り込んでめざすので、あるものを集合して、それらの関係の説明もするが、それ以上にそれらの間にあったみえないものも創りあげ、それを含めた説明に挑戦するものと考えている。誤解を恐れずに言えば、見えなかったものを創り出し、それによる新しい解釈の提案をする研究である。
これを鋤柄は、従来の復原的研究から一歩進んで積極的に解釈を提案する意味で「予測する歴史学」と呼ぼうと思う。
かつてより大学者達がおこなってきたオーソドックスな歴史研究そのものである

そんなことを考えてたとき、東京から文献の研究者が到着した
ある地域を対象にした歴史情報の総合的なデータベースを考えているという
そして文献史料の公開を、情報の提供であり共有化であると言う
場所にこだわりジャンルを越えた歴史研究の必要性が、文献史研究のスペシャリスト達の中でも意識されていることに大きな時代の動きを感じた
思わず新田辺で長居を

<明日のテーマは「嵯峨野について考える」>
写真は本日ゲットした大学のネックストラップの新製品

2005年11月 8日 (火)

燃えているのは紅葉ばかりではない

もう一言付け加えれば、デジタルを駆使するということはどれだけアナログを知っているかということにかかっている
ゆえ、デジタル化することで落ちてしまう情報をすくい上げる研究が、これまでどこでもやっていない文化情報学でもある

どうもいけない癖があって、結局の所、最後は自分で確認しないと納得できない性分があって
いつも家の者にも言われ、叱られているのだが、「科学者なんだからしょうがない」と言ってあきらめてもらっている

最近後醍醐との付き合いがそれなりに深くなっていて
笠置山と関わっていながらまだ自分の足で登っていないことにずっと違和感を感じていたので
今日は、つい笠置の駅から32分かけて山に登ってしまった
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+34.45.11.95&lon=+135.56.23.60&fm=0
登ったのは良いけれども、1時間ほど滞在してあちこちを見てまわり降りてきた時に
これから登るハイカーに「紅葉はどうでしたか」と聞かれてにわかに答えられなかった自分に思わず苦笑い
それではいったい何を見てきたのかと聞かれると、それもにわかには答えられないのだが
後醍醐の行宮遺跡は山の北側にあるのかとか
ほう、この土塁はこの地形との関係になっているのかとか
車では体感できない臨場感はたくさん得られた
けれども、この時期の笠置山に登って紅葉の燃える様に気がつかなかったというのは修行が足りない
またひとつ勉強になった

ところでさすが3回生のこの時期になると意識の高揚が著しい
整理室のメンバーはそれぞれのテーマに対して具体的な攻め方を見つけつつあるようで
問題を前向きにとらえ、なによりも実践的なのが良い
さらに独自の研究会を立ち上げて、ひろく社会に問いかけも始めている
燃えているのは紅葉ばかりではない
そんな彼らの姿と連動するように1回生の意識の高まりも確実にみられる
月曜の2講時は「コロキアム」であるが
院生のさまざまな発表のポイントを的確につかんで、本質的なポイントをつかんだ質問をする
きわめてうまくいっていると思う

上京歴史探訪館のプロジェクトも、形が見えてきたので
各自がそれぞれ関心のあるテーマを意識してできることとしなければならないことに立ち向かい始めている
これからが本番だが、確かな動きが見えたと思う
自分たちの研究成果がそのまま社会に発信され、さまざまな反応があったり無かったりすることになる
こわいかもしれないが、これほど実践的で現実味のある研究は無いのではないだろうか
今日は鋤柄の位置情報にこだわった歴史研究を訪ねて東京からTさんとAさんがやってくる
研究もそうだが、こんな同志社の学生くんたちの姿もぜひ見てもらいたいと思う

2005年11月 7日 (月)

文化情報学を考える<考古学・歴史情報学バージョン>

土曜日の午後、大森一樹監督を招いて文化情報学部開設記念講演会がおこなわれた
監督による記念講演に続いて本学のスタッフによるパネルディスカッションがおこなわれた
テーマは「人間探求☆ディジタルもアナログも」である
この学部の一般的な印象として各地へ説明に行って言われるのが「情報」というキーワードによる理系イメージである
もちろんその要素は重要な位置にあり、その点で「ディジタルデータ」とは密接な関係にある
しかし、この研究のコンセプトにあるのは、アナログよりディジタルなのではなく
「ディジタルもアナログも」であって、そこがこれまでの学問分野に無い特徴となっているのである
しかし、それでは「ディジタルもアナログも」とはどういうことなのか
それを京都府立医大を卒業して映画監督となった文理融合の象徴である大森監督の問題提起によって専任スタッフを交えて考えることのできたとても良い機会となった

色々な考え方があるが、考古学・歴史情報にとって見た場合
文化情報学をすすめるためには3つの段階があると思う
第1としてまずは人間にかかわるコンテンツがあって、それを数量化する段階
第2はそのデータをおもに統計的な手法でモデル化や規則性の発見やシミュレーション(VRを含む)する段階
第3はそこで得られたさまざまな結果をもう一度人間にもどして説明・解釈および活用する段階、である
そこでこの3つの段階に対するディジタルとアナログとの関係を考えてみる

第1段階「歴史情報の数量化」
言うまでもなくアナログがベースである
言い方を換えると、この段階はこれまでの考古学・歴史情報系の学問においても普通におこなわれてきたことで
一見するとあたかもデジタル的であるようにも見えるが
コンテンツにとって最も重要だと思われる部分を歴史家の主観で選び、それをいわゆる計測や測量するといったことは
あくまでこの段階のベースがアナログであることを示している
しかし同時に一方で取得する情報が、最初から座標をもったベクトルデータであり、しかも従来の情報取得に比べてはるかに詳細なデータを取得する点で、文化財解析はこれまでおこなわれてきた数量化とは違った面をもっているとも言える
ただしこれはあくまで技術としてのディジタルである
さらにもうひとつ大きな違いとして、普通の物差しでは測れない抽象的な要素についても数量化することを文化情報ではおこなう
そのために使うのが一般的に統計的な手法であるが、しかしそれについても、統計的な結果のどれを採用するかの最終的な判定はあくまで歴史家のアナログな感覚でおこなうため、これについてもやはりアナログがベースとなるだろう

第2段階「歴史情報の分析」
言うまでもなくデジタルがベースである
失われた過去を甦らせ、あるいは直接は見えない規則性を解き明かす
これはアナログではできない芸当である
従来の考古学・歴史情報系の研究でも、アナログな手法を用いながら、それに近いことをおこなってきた
資料集成と分布図の作成はデータベースとプリミティブなGISであり
型式学や編年やグラフ化はモデルや規則性の解明であり
ジオラマや模型というのも、ある意味ではVRによるシミュレーションのひとつである(リアルCGと言えるかも)
ただしこれらの方法は、量的に現在完全に行き詰まっている
だから、デジタルデータによるマクロ的でニュートラルな考察は、現在の考古学・歴史情報系にとって最も求められているものである
ディジタルはこの時最大の力を発揮する
しかし考古学・歴史情報系の研究はこれで終わるものではない
これまでの作業は第3段階をおこなうための準備に過ぎないとも言える
いわゆる歴史的解釈である

第3の段階がディジタルとアナログの融合になると思う
第2段階で示された結果は、従来の研究に比べ大量のデータを駆使したよりニュートラルな状態での考察結果であり
その意味でそれはきっと個々の現象に対して従来の考察に比べてはるかに合理的な結果を示していると思われる
しかしそれはあくまで個々の現象に対する計算の結果であり、人間はまだそこに反映されていない
実は一番重要なのはこの計算結果を人間にもどすことなのである
それが、歴史的な説明であり、歴史家の解釈となる
データを大量に採って計算すれば、須恵器の編年はなんらかの計算式で表現することができると思う
それはそれで非常に重要なことなのだが
歴史とはその変化の背景や理由の説明をすることなのである
ゆえ、その計算式がなりたつ説明をおこなうために、歴史家は自らの歴史観というアナログな力を発揮することになる
デジタル化された膨大なデータを駆使して、偏りの少ない、ニュートラルで論理的で合理的な現象の因果関係の説明をおこなう
いつ・誰が・なんのために・なにを・どのように、その結果なにがおきて、それはどのような影響をその周囲におよぼしたか
それを人類学的に、または国家論的に、または社会構造的に説明することが歴史家の仕事である
これはすぐれてさまざまな分野の知識を有機的につなげられる知恵をもった歴史家というアナログな個人の思考に頼らざるをえない
文化財解析がめざすのは、まさにここである

これまで多くの大学の考古学系分野ではもっぱら第2段階までの教育が中心であった
第2段階までの学習は比較的容易であり、その成果の代表が編年研究だったので、ある時期編年研究が各地でおこなわれた
幸い森浩一先生の考古学と古代学は第3段階までの教育を積極的におこなってきた
鋤柄の文化財解析のコンセプトがその延長にあることは言うまでもない

4日から6日は、今出川のEVEに対して京田辺キャンパスを中心として、京田辺市民も一緒になったイベントもおこなわれた
3回生になって今出に行った学生もスポーツフェスティバルに参加するために懐かしい田辺にもどり
もちろん1・2回生やサークル参加の学生は花火を見てフリーマーケットを楽しんだようである
学生プロジェクトのメンバーの何人かは、貴重な1期生の時間をアーカイブするためにカメラをまわした
日曜日もがんばって出てきたTくん、おつかれさん

京田辺では今、日々、さまざまな実験や挑戦がおこなわれている
試行錯誤でもいいから流されず立ち止まらず歩き続けていこう
それが京田辺と文化情報学を大きく育てる一番のポイントだと思う

フランスのニュースを聞いて18世紀後半の歴史に思いをはせる

2005年11月 4日 (金)

秋の桜

さだまさしの名作に秋桜という曲がある。山口百恵が歌って大ヒットした曲である。個人的にはさだまさしの歌もすぐれていると思う。が、コスモスのことではない。

寒梅館の北東においている実物の遺跡(遺構)展示は、年に2回のペースでメンテナンスをおこなっている
基本的には石の集積なので劣化は考えなくて良いのだが、土に苔が生えるところがあり、その除去が必要となっている
この展示を考えたときに、実物の遺構を展示している施設をいくつかまわり、また自らの経験もふまえてその問題点と可能性について関係者で協議を重ねた
その結果、大学としてメンテナンスも重要な研究であり教育であるとの認識で現在のような形になったのだが
その時に心配されたほどの苔やカビの生育はなく、苔の掃除についても年に2回で十分なものとなっている
今日はその仕事で午前中寒梅館へ、整理室のメンバーが4人でガラス箱の中に入って掃除

最初だけ様子を見て、上京の探索へでかける
webに足りない風景画像をとろうとまずは烏丸を北へ
すぐに江戸時代中期の尊王論者であった藤井中門宅と京菓子資料館がある
上御霊前通りから西へ曲がると、そこは「内構町」という室町時代を彷彿させる町
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京都を感じさせる「畑かく」がある
西林寺のところで思いついて衣棚通り北へ
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東に後藤家の庭園を残した貯金局の築地塀をみながら通りをぬけると鞍馬口通り
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室町時代の京都の範囲で北の限りをしめすのが「清蔵口」である
現在地名にのみ残っているのがこのあたり、言い方を換えるとちょうど上京の北の境界である
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南の路地に入るとそこは北区長乗東町
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さらに南へ下がれば、いわれはわからないが「玄武公園」と名付けられた公園がある
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その西が岩栖院町、たしかここにも一時将軍が館をおいていたはず
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寺之内へもどり再び西へ
小川通りに出る直前の北に妙覚寺を見る
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紅葉が立派な山門にかかり、その奥に映画の一場面のような青空を背景とした本堂がそびえる
妙覚寺と言えば、後にまむしの道三と呼ばれる人物が若い頃学僧として過ごした寺の名前と一緒だったかなあと思いながら案内板をみれば
この山門は聚楽第の裏門だったとい言い伝えがあるそうな
ここにも隠れた上京の歴史遺産がある

禅昌院町から明らかに西側に小川の痕跡を残す小川通りを下がる
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ふと見ると着物姿の女性が集団でやってくる
「そうやった、この道は茶道の道やった」
カメラを持ってうろつくあやしい中年と思われないように大学名の着いたネックストラップを付けているが効果はあるか
戦国時代、この道をはさんで東は典厩、西は今も同じ場所に建つ宝鏡院殿
応仁の乱で有名な百々橋の跡を右に見て上立売通りを東へまがる

このあたりはもう何度も来ているからと足早に妙顕寺の前を通り過ぎようとして足が止まった
桜が咲いているのである
解説の札が下がっているので読む
「正式名は十月桜、11月上旬頃から咲き始め2月に咲き終わり、また4月に再度咲く。堀川通を西へ渡った妙蓮寺の桜が有名。
日蓮上人が亡くなった旧暦の10月13日に桜が咲いたという言い伝えがあり、その日を「お会式」と呼ぶので、「お会式桜(おえしきざくら)」と呼ばれている」
思わず日蓮に逢わぬのかと周りを見回す

寺之内を東へ衣棚で降りると木下突抜町
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上立売へ出て室町から烏丸へ出て寒梅館へもどると石敷き遺構はすっかりきれいになっていた
生きた室町時代ひとめぐりの巻

今日は11月とは思えぬ陽気、とは言え季節は晩秋
大分前になるが、この時期に北海道の遺跡をまわったことがある
通過中にトンネル内壁を利用したアナウンス表示で有名な青函トンネルをくぐり
函館の温泉に泊まり、うっかりして志海苔は見逃してしまったが
翌日から千葉の佐倉にある歴博の共同研究のメンバーだったKさんに案内していただき
札幌まで渡島半島の西海岸をまわって小樽から札幌に入った
オホーツクからの強い風にあおられながら海岸を見下ろす丘陵の先端にたつ平安時代の村の跡を見たあと
一転して果物の産地と言われる穏やかな風景の中で鎌倉時代の港湾都市を見た
丁度その年初めての雪が舞っていた

近鉄電車に乗っていても阪急電車の乗っていても、ふとしたときにそれぞれの時の風景が頭に浮かんでくる
そんな各地の風景と情報がどこかでリンクして新しい見方を生む
歴史を学ぶものにとって最も大切なのがこの感覚ではないかと思う
鋤柄が現在の学部へ移るときに森先生からいただいた言葉が「とにかくたくさん見てまわれ」である
もちろんしっかり予習していくのも良いが、まあそこそこの準備でも行ってなにかを見てきた情報量は
意識せずとも行かずに本を読むだけの何倍もの量で自らの知的財産となっている

昔、「文庫本を1冊持って旅に出よう」というコマーシャルメッセージがあった
悩んでいる暇はない、本とモバイルマシンを持って列車に乗ろうバスに乗ろう
(車は運転している時間がもったいないから)
風景を見ながら本を読み、そしてマシンからブログを発信しよう

昼に四条烏丸から阪急に乗って神戸へ
神戸のその遺跡は大倉山の東にある
これまで福原をテーマにして大倉山の西ばかり見てきていたので
地下鉄の大倉山を出て東へ歩きながら、宇治川の上流に見える大倉山の東斜面が新鮮に感じられる
遺跡から東へすすむと花隈である
やはり西からのびた丘陵の先端を利用して戦国時代末期に花隈城が築かれた
現在の花隈公園から福徳寺周辺がそのあたり
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+34.41.16.63&lon=+135.10.52.38&fm=0
ハナクマはハナワやタカナワに共通した丘陵先端を意味する言葉だろうか
歩いてみると確かにJR線のすぐ近くまで山が迫っている

夕方大坂図屏風展を開催中の大阪城天守閣へ
無理をお願いしてMさんにご案内いただく
絵画表現をテーマにした今回の詳細な調査によって近世の都市の文化に新しい発見があったと言う
人物ひとりひとりの表情やしぐさや装束、道具、町並み、景観、描かれている全ての情報が仮想空間クリエイターの世界である
洛中洛外図・大坂城下図・江戸図など中世終わりから近世にかけての社会と文化と知る上での最重要資料
なかなか一堂に会して研究することはむずかしい
高精細なデジタルアーカイブの威力は、こんなとき、大いに発揮される
これも文化財解析のテーマにしたい

玉造口から降りる、北を見ると大阪城公園の暗闇の向こうに京橋のビジネスパークのネオンが眩しい
一瞬のためらいもまた大阪らしくて良いと思う

2005年11月 2日 (水)

無理せず楽しんでやりましょう

今日のニュースで、どこかの大きなサーバーがトラブルをおこしたと聞いた
先日ある人と話をしていて、これまでの急激で膨大であまりに多様なデータ活用の対応に追われて続けてきたサーバーは、現在大きな転換期に来ていてその整理が大変だということを聞いた
膨大な量になっているのは情報だけではなく、プログラムもそうだそうだ
データとプログラムをあわせてユーザーの要望を満たす仕組みをオペレートする人材が必要になってきている
これはこれまでに無かった職種である。文化情報の学生君たちの進むべき道のひとつだろう

水曜の2講はキャンパスプラザ京都で遺跡が語る京都の歴史
本日は、長岡離脱と平安京遷都
平安京が現在の場所に開かれたことについて史料をもとに評価されている有名なものは
長岡京が水陸交通の要衝であり、平安京も交通に至便なところであるという点だそうだ
しかし注意しなければならないは
これらの史料が、長岡京や平安京をおくときの直接の動機を語っているのではなく
長岡京や平安京がそこにできた後やその理由付けをするときに語ったコメントだということである
ゆえ、これらの史料は長岡京や平安京をそこに決めた決定的な理由を語っているものではないことになる
史料は誰がなんのためにどのようなシチュエーションで記したかを考えて解釈しなければならない
平安京をこの場所に推薦した人たちが、その場所について悪く言おうはずがないである
それではその最も直接的な理由はなんだったのか

久しぶりにイケメンでランチをとったあと、これまた久しぶりにクラークの工事現場を覗く
新聞発表されたように明治に輸入されたレールが見つかったので、それを見てあわせて館内をまわる
同志社は今出川キャンパスに5つの近代化遺産の重要文化財をもっている
これもまた文化情報ですすめる有効な歴史遺産活用のテーマにつながる
自分の大学で、重要文化財を利用してその実践的な研究ができるのだから恵まれた環境だと思う

上京区役所に寄って新町から武者小路をまわって京田辺にもどる
本日は上京プロジェクトの鋤柄チームミーティング
現在進行形の上京歴史探訪館webの進捗状況を確認して今後の方針を協議する
参加者は中川・松本・谷口・渡部・中村・竹井・並木・欅・谷岡・東峰・青山・田中・上田
決まったこと
1、今週末でコンテンツの追加をいったん中止
2、年末までに全てのコンテンツに現況画像と詳細マップを載せ、文章の手直しを完成させる
2.3、正月明けを目標にベースマップを再作成
2.5、可能な範囲で「洛中洛外図」など外部資料の掲載申請をおこなう
2.7、年明けから完成版としてのコンテンツの追加を計画する
3、本日デザインの完成版をアップ。そのモニターをおこない、12月にトップページを含めたプレゼン法とデータ構造のリニューアルをおこなう
4、文情チームを中心に、上京に集中する老舗の「和菓子店」の社会史的研究を目的とした「和菓子店舗」のマップデータベースを作成する
5、紙版上京案内地図のコース設定とデータ収集ができたので、印刷会社とラフ版の調整にはいりながら、11月20日(日)に全員でコースの実走をおこない、レポートを作成し、コラムとしてwebにアップする。紙版の上京案内地図の刊行予定は12月初頭目標

それにしても、みんな意識が高い
各自それぞれいろいろやることがあるのに
なんてすぐれた人材ばかりなんだ
ひとつだけ注文を
「無理せず楽しんでやりましょう」

2005年11月 1日 (火)

天高く

ぬけるような青空という言葉があるが、今日はそんな表現がぴったりの日だった

工学部のO先生と3次元レーザースキャナを利用した土器の分類と型式変化についての打ち合わせをおこなう
1985年、大阪府松原市にある観音寺遺跡という古代から中世の集落遺跡の調査をおこなった
その時初めて通称瓦器碗と呼ばれる平安時代終わりから南北朝期に京都を除く畿内と北部九州からたくさん見つかる土器の碗に出会った
その頃この土器碗の形の変化の説明が平安時代終わりから南北朝期に関心のある京都を除く畿内の遺跡研究者にとってブームだった
奈良と大阪で少しずつ地域差があるものの、おおむね基本的な変化の様子が、右半分が断面と内面で左半分が外面の図面を並べることで説明されていた(これを編年表という)
それまで京都で土器の皿の編年を勉強していて大阪に就職した鋤柄は、その説明を自分なりにより理解するために瓦器碗の数量化と多変量解析による分類を観音寺遺跡でみつかった瓦器碗でおこなった
基本的な変化のポイントは、碗の彎曲がだんだん緩やかになること、全体の大きさが小さくなること、表面の飾りが減っていくことである
そこでまずは碗の内面のカーブを5ミリ単位でXY座標にしてその表をつくってみた
ちょうどその頃遺跡調査の業界にマッキントッシュのコンピュータが急激に普及してきてそのソフトにとても便利なグラフソフトがあった
そのソフトの機能の中にフィットカーブというものがあった
任意のXY数値をいれると、それらをつなぐ曲線を描きさらにその方程式を表示してくれるものだった
そこでそのグラフソフトに瓦器碗の内面の5ミリ単位のXY数値を入れてフィットカーブを指定した
観音寺遺跡でみつかったさまざまな形(さまざまな時代)の瓦器碗(の内面のカーブ)がさまざまな方程式に姿を変えた
これはおもしろいと思った
ということはこの方程式の係数の変化の規則性を突き止めることができれば、瓦器碗の時代の変化を数式で表現することができるはず
考え方は良いと思ったが、そこから先の作業が哀しいかな文系の歴史家はできなかった
それから約20年、そこから先が開かれようとしている

午後から笠置へ
先々週は名和町だったので、どうも後醍醐天皇と縁があるらしい
それにしても後醍醐帝は山が好きだったようだ
醍醐から鷲峰山・笠置山・船上山・そして吉野山
いずれも修験道や山岳宗教に関わる山
北条の鎌倉幕府は海が好きだった
歴史とは結局人間の物語なんだとつくづく思う

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