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2005年11月10日 (木)

嵯峨野について考える

一般に言われる平安京にかかわる最も有名な人物は桓武天皇であるが、鋤柄が一番推すのは和気清麻呂と嵯峨天皇である。
桓武の平城離脱から平安遷都までをプロデュースしたのは和気清麻呂であり、理念としての平安京を実態としての平安京にしたのは嵯峨天皇であると思うからである。
その両者に深く関わっているのが嵯峨野である。

和気清麻呂は天平5年(733)に備前国藤野郡で生まれた。清麻呂の姉は平城宮の女官を務めた広虫で、孝謙上皇に信任され、出家後は孤児の養育にあたった。その地を本拠とする和気氏は、10世紀以降丹波氏と並ぶ医道の家となったようだが、詳しいことはわからない。
姉の広虫が孝謙と近かったので清麻呂が政治の中枢に関わることはそれほど難しくなかったものと思われ、33歳の天平神護2年(766)に従5位下で近衛将監になっている。しかし、彼が正式な形で歴史の表舞台に登場するのは、なんといっても宇佐八幡神託事件であろう。
その3年後の神護慶雲3年(769)、宇佐八幡宮の神託を利用して皇位につこうとした道鏡の陰謀を阻止した事件である。その結果彼は姉と共に流されるが、光仁のブレーンであった藤原百川の援護もあり、道鏡が失脚するや否や戻され、延暦2年(783)には難波宮の経営に関わる要職の摂津大夫となる。
難波津をおさえ難波宮を監督した摂津の長官は、これまで河内の丹比氏系が多かったが、桓武は平城を離脱するに際して、最初から難波宮の施設を利用すべく、この人事をおこなったのではないだろうか。
その後は長岡宮での造都事業の停滞に対してひそかに平安遷都を進言したとされ、延暦18年(799)に嵯峨野を見下ろす神護寺と護王神社にその痕跡を残しながら平安宮の整備半ばで死んでいる。
備前を出発点とした清麻呂の旅は、嵯峨野を見下ろす高尾を終着点に選んだということである。
中村直勝氏によれば、備前の和気氏は中国山系の鉱脈を追って丹波まで勢力を伸ばしたが、その背景となったのが、丹波の丹にちなむ丹生と呼ばれる水銀を含む土壌で、そこから金や銀より高価な朱ができると言う。嵯峨野は丹波の出口であり、清麻呂はその巨大な財力を背景に権力の中枢と深い関わりを持ったとされる。
丹生が古墳時代から重視されたことは、前期古墳に朱が多く使われており、前期古墳の集中する奈良の三輪山の麓は、その東へ行くと丹生神社のある宇陀地域が近かったからではないかとも言われているが、同じことが嵯峨野の地でも言えるとすると、嵯峨野に秦氏が葬送の地を選んだ理由についても見直す必要がでてくるかもしれない。
ちなみに清麻呂は摂津大夫時代に河内と摂津の境で水利工事をおこなっている。彼が難波宮の次に選んだ長岡京は木津・宇治・桂の三川合流地であり、嵯峨野は幕末に長州が京都を攻撃するときに陣をおいたという、京都盆地の中で代表的な河川交通上の拠点であった。意外に知られていないが、嵐山から桂川を渡り、法輪寺のあたりから東を望めば、見事に京都盆地がすべて見渡すことができる。京都盆地を西から押さえる絶好の場所なのである。
また高瀬川の開削で有名な、あの角倉了以も嵯峨野の人間である。
ゆえ、清麻呂と水上交通との関係も視野に入れておく必要はある。

ところで奈良の三輪山周辺を、森浩一先生は始祖王の聖地を象徴するような場ではなかったかと書いている。そしてその後の時代、その東にある宇陀と南の吉野は神仙思想に彩られた地域と考えられていった。
一方嵯峨天皇の名称にもなった嵯峨野の語源は、険しい山を意味する中国からの言葉と言われている。想像をたくましくすれば神仙世界の山々であろうか。あくまでイメージの段階ではあるが、三輪周辺と嵯峨野に共通する要素があるような気が少しだけしている。

嵯峨天皇は、延暦5年(786)の生まれである。父は桓武、母は藤原乙牟漏。兄が平城天皇である。平安京が消え去る危機を排除し、蔵人所など政府機関を整備して中国的な儀礼を積極的に取り入れながら平安時代の基礎が固めをおこなった。三筆の1人でもある。実はひそかにあこがれている人物である。
その嵯峨天皇が現在の大覚寺の場所に離宮をおいた。彼は在位中からしばしばそこへ通い、退位後はもちろんそこで上皇として国政をリードし、死んだのもそこだという。その地の場所を自らの天皇名にするほどその場所に強いこだわりを持っていたことは確かである。
それでは嵯峨はなにゆえその場所にそこまでこだわったのであろうか。

実は嵯峨が離宮をおいたのはここのほかにもうひとつ山崎にある。弘仁4年(813)に嵯峨天皇が行幸したと言われる河陽離宮がそれで、その後貞観3年(861)に離宮の機能を残して山城国府になっている。
だから嵯峨天皇のこだわりは嵯峨野から桂川沿いに南へ下り淀川の上流域までひろがっていたとみることができるかもしれない。嵯峨は幼少時を長岡で過ごしているので、その影響という見方もある。
ところで彼の后は壇林皇后と呼ばれた橘嘉智子。彼女は橘奈良麻呂の孫でその父が橘諸兄。母は不比等の娘の多比能というから名家中の名家である。しかし橘家は藤原家との権力抗争にやぶれ、衰退していく。その衰退した橘家が頼った先がやはり淀川上流域を本拠としていた百済王敬福だったと言われている。
だから嵯峨天皇が淀川上流にもこだわりを持ったのは皇后にちなむものだったという見方もできる。

物語が広がりすぎてとりとめがなくなってしまいそうだが、その背景はともかく嵯峨が嵯峨野と同時に桂川の水上交通に興味をもっていたことは確かではないかと思う。
平安京の中心としておかれた平安宮は京都盆地の中央北にあって、水上交通に至便な地とはとても言えない。これは古代の実質的な社会にとってあまり有利な条件とは言えない。その後の為政者達が結局川の近くに拠点を移していることがその理由である。
有能な政治家であり文化人でもあった嵯峨にとって国家に指揮するネットワークや先端の情報を入手するためには平安宮のある場所はけっして好ましい場所ではなかったのではないだろうか。

嵯峨野は天皇や貴族の遊猟の場で山荘が築かれたとものの本には書いてある。たしかに平安京が左京を中心とした実質的な都市となったときはそうであったと思う。しかし平安時代の前期の頃は、嵯峨野は政治と文化の情報が濃密に交錯する、京都盆地の中で最もホットな場所だったのではないかと、清麻呂と嵯峨を見て思っている。

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