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2005年11月17日 (木)

笠置山にこだわる

今昔物語によれば、鷲峰山とならんで山岳信仰で有名な笠置寺の開創は、大友皇子の遊猟を故事を基にし、古くからの山中修行者の霊地で、役行者や良弁の来山を伝えている。また当寺に残されている高さ15.7mの弥勒石仏を始めとした石仏群は奈良時代末期とされる。
 平安時代前期頃からは、弥勒信仰に伴う修験道の霊場として吉野金峯山と並び称され、「枕草子」の「寺は」の段にも当寺が登場する。永延元年(987)には花山院が、寛弘4年(1007)には藤原道長も当寺を参詣している。安元年中に(1175~77)には後白河法皇が参詣したことによって田畠が寄進され、養和元年に(1181)弥勒念仏が弥勒殿でおこなわれている。
 建久3年(1192)に興福寺学僧の解脱上人貞慶が隠遁して後、弥勒信仰の中心道場となり、復興と坊舎の整備がすすめられる。俊乗房重源も銅鐘ほかを寄進し、建保2年(1214)には東大寺の末寺となって、寛喜2年(1230)には東大寺尊勝院主宗性が入山しさらに弥勒信仰をすすめている。
 一方この頃鎌倉では極楽寺を中心とした叡尊と忍性による西大寺流律宗の政治と経済を巻き込んだ大きな活動があり、西日本でも非常に強い宗教勢力の動きがあった。貞慶も鎌倉新仏教に対して、南都仏教の覚醒に努めた戒律を重んじたと言われるが、あるいは符合する動きかもしれない。
 その後元弘の変(1331)で後醍醐帝の行在所がおかれたことにより、本堂ほかの坊舎が焼失。永徳元年に(1381)に再建されるがまもなく焼失、再興がなるのは文明14年(1482)の貞盛を待つ。

なお、この山はもうひとつ別の形で歴史の舞台に登場している
山上から南へのびる自然遊歩道が柳生に続いているように、戦国期には山伝いルートの重要拠点ともされ、足利義晴(おなじみの寒梅館の主)の時には、山城守護が細川晴元(おなじみの新町キャンパス西北に住んでいた人)で、守護代に木沢長沢がおかれ、笠置山は要塞として使われていたと「多聞院日記」に出てくる。
天文10年(1541)11月26日「伊賀衆が(柳生側から)笠置城に忍びて坊舎と小屋を少々焼く。3のツキ(郭?)の内1つか2つを取る。(守備側の)木沢方の城大将は右近某など人数は70~80人。弥勒岳を拠点とする。」
天文10年(1541)11月28日「笠置で合戦があった。木沢方は(笠置)城から二手に分かれて攻め出る。(攻め手の)伊賀衆は退散した。」

奈良時代(8世紀):山岳信仰の霊山
平安時代(11~12世紀):弥勒信仰・12世紀に後白河が寄進
鎌倉時代(13世紀):東大寺系・南都とのつながり
南北朝(14世紀):後醍醐・醍醐系とのつながり
室町時代(15世紀):やや停滞
戦国時代(16世紀):幕府守護代の城

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