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2005年12月

2005年12月31日 (土)

伏見濠川と求肥巻

Photo28日、所用で伏見に寄ってから上京へ入る
年明けの文化史特論で秀吉の話をするが、その中で伏見にふれる
足利健亮先生の足跡をたどり、大手筋から濠川を渡る
東横堀ほどではないが、想像していたよりはるかに大きな川である
良く言われることであるが、伏見城下は大坂城下に劣らない広さをもっていたという
大坂城では8年間秀吉を見てきた、城下もひととおり歩いたつもりである
今年から聚楽第とつきあいがはじまった
そして伏見
来年は秀吉の目線でこの三カ所を体感してみようと思う

京阪で四条まであがり錦を歩く
過日の上京知恵袋の打ち合わせで京都のおせち料理の話になった
その中に初めて耳にする料理があってそれを確かめたかったため
料理の名前は「求肥巻き」と言う
呼び方は「ぎゅうひまき」、または「りゅうひまき」とも言うそうである
どんなものかと聞くと、ヒラメの生を昆布と挟んで軽く塩をしてそれを昆布で巻くという
あるいは甘酢でしめて、生姜を芯にして昆布でまくという
またそのままでは長いので切ってだすそうである
寺町から西へ向かって歩いていくと中程から先の5軒ほどで発見する
なるほど巻き寿司のような形をしており、いい値段が付いている

ところで「ぎゅうひまき」または「りゅうひまき」という名称が何を意味するものかと思い調べていたら
意外なところから「求肥」が登場してきた
マイペディアによれば、「求肥」は「ぎゅうひ」と読んで、「和菓子の一種。白玉粉をこね,強火で蒸してなべにとり,弱火で砂糖と水あめを入れながら練り上げる。牛皮に似るところからの名称という。色をつけ蜜豆に入れたり,餡あんを包んでうぐいす餅にしたりもする。」という。
なんでも敦賀には「求肥昆布」という銘菓もあるそうである
またあるサイトを見ていたら、「求肥昆布」の説明として、昆布を蒸して甘酢に漬けたものという説明もあった
ということは、「求肥巻き」の語源は和菓子の「求肥」にあったのだろうか
全くの思い違いかもしれないが、和菓子の名称をおせち料理にとりこんでしまう京の文化にあらためて感動
全くの思い違いかもしれないので、知っている人がいたら教えてほしい

買って帰ろうとも思ったが、この日は帰りが遅くなるので断念
31日に買おうと心に決めて上京へ
上京歴史探訪館webチームのTさんとWくんとNさんが
寒風の中、和菓子店の調査で出町から荒神口そして大宮あたりまで探索をしたので、寒梅館へ戻ったところでその話を聞く
彼らは皆、京・大和の出身だが、それでも歩いてみて京の新しい顔をしばしば発見したという
京は普通の町並みの中に、突然有名な史跡や和菓子店が現れ驚かされるという
京・大和の出身でもそうであるから、京・大和でない地域の出身者にとってみれば
京は驚きの連続に違いないと思う
ただし、ちゃんとした案内人がいないと気がつかないままで通り過ぎてしまうのも京である
本の勉強も大事だが、
自分の足で歩いて、自分の目で見た確かな知識を元にした勉強の面白さをどんどん会得していってほしいと思う

29日夜、難波を歩く。京とはまた違った年末の空気がある。
つくづく贅沢な空間で生活をしていると感じる。
いろいろなことだらけだった2005年が終わろうとしている
来年はいい年でありますように

2005年12月27日 (火)

同志社の近代歴史遺産を考える

Photo_1 少し前になるが、20日に京都府京都文化財団の主催による文化財講座を寒梅館でもった。聴衆は90人ほどの熱心な会だった。
例によって室町殿関係の話をしたが、一緒に京都府教育委員会のTさんが現在おこなっているクラーク館の解体修理を中心とした今出川キャンパスの近代建築について話をした。
学内であまり知られてはいないが、現在今出川キャンパスでは、クラーク館の解体修理をおこなっている。
神学館の北側にある覆屋がそれである。
始まったのは、まだ鋤柄が今出川キャンパスの発掘調査をおこなっていた頃で
2003年だっただろうか

覆屋をつくるための基礎工事でクラーク館の周囲を少し掘ったのが、このプロジェクトとの最初の関係だった
また、基礎の構造調査の一部にも立ち会った
現在その報告が出来上がりつつあるが、みごとに江戸時代の遺構面がみつかり、土器や鋳造関係の遺物が出土した
薩摩藩邸になる前の町家にともなうものだろう
ちなみに、クラーク館の西には薩摩藩邸のものと伝える井戸が残っている
(これはいずれ紹介)

その後、解体修理がはじまるのだが、これも学内の重要な歴史遺産であるため、専門外ではあるが、発掘調査と並行して、修理工事の記録保存もおこなうことにした
具体的には、デジタルビデオカメラとデジタルスチルカメラを準備して、工事を担当している京都府のTさんと連絡をとりあって、現場を歩き、工事の節目節目に当時4回生だったSくんとTくんが撮影をおこなった。また、建築に関心のあるアルバイトさんがいたので、彼女が撮影記録をとった。
現在もその仕事が引き継がれていると聞くので、解体修理が終了した後は、その膨大なデータを編集して、貴重な近代建築のさまざまな様子を学ぶことができることになっている。

前にも言ったことだが、同志社大学と言うところは、古代から近代まで生きた歴史資料がいたるところにあって、歴史を学びたいものにとってみれば、恵まれすぎるくらいの環境だと思う。
ただ、良くあることだが、あまりに環境が整いすぎていると、それに馴染んでしまって気づかずに過ごしてしまうことも多い。
20日の時も、Tさんによる今出川キャンパスの重要文化財の建物の説明を聞きながら、もっと学内の多くの学生くんに知ってもらいたいと思った。
文化情報学部についてみれば、近代建築様式のデジタルアーカイブ資料として、重要文化財の5つのデータ化ができることになる。さらに生きた修理工事の方法としても学ぶところが大きい。

修理工事は来年度から再建築に入る。
体がもうひとつあれば、年度内に近代建築のプロジェクトチームをつくるのだが

・読んだ本と読みたい本
綿貫友子2005「中世流通の東と西」『中世瀬戸内海の流通と交流』塙書房
田中正流2005「愛知川町の雛人形・五月飾り」『愛知川町史研究』愛知川町教育委員会
田中正流2004「皇室ゆかりの人形文化」『郷玩文化』12
田中正流2004「疱瘡と猩々人形に関する一考察」『日本人形玩具学会誌』15
黒田慶一ほか2005「高石市伽羅橋遺跡の軒瓦について」『大阪文化財研究』28
黒田慶一2004「韓国の最近の倭城調査について」『韓国の倭城と壬辰倭乱』岩田書店
黒田慶一ほか2000「豊臣氏大坂城と宇喜多氏岡山城の同笵瓦」『大坂城と城下町』
黒田慶一2005「歴史的名辞としての大坂城「三の丸」」『森宏之君追討城郭論集』織豊期城郭研究会
宇野隆夫2005「第5章 飛鳥・奈良・平安時代ほか」『新修豊中市史』第4巻 考古
北海道埋蔵文化財センター2005『遺跡が語る北海道の歴史』
兵庫陶芸美術館2005『やきもののふるさと丹波』
櫻井茂昭2005『六郷山と田染荘遺跡』同成社
小山靖憲・平雅行1995『荘園に生きる人々』和泉書院

・来年度のプロジェクト授業で宿題にする予定のレポート
清水真澄2005「法隆寺東院夢殿久世観音の細部モチーフにみえる中国北斉時代の要素」『文化史学』61
服部敦子2005「対馬歴史民俗資料館蔵海獣葡萄鏡について」『文化史学』61

2005年12月23日 (金)

千代の井

Photo 昨日の京田辺キャンパスの雪の筒木の宮の碑を載せようと思ったがちょっと変更

いつものイケメンでランチをとる
今日は祭日なので、もちろん学生くんは少ないが、家族連れがたくさん食事に来ている
オープンから2度目の正月を迎えようとしている
すっかり今出川にも地域にも定着している。
今年はとくに上京区のプロジェクトと関係しているので、地域と大学との間をつなぐ場としての活躍にとてもありがたいことだと思う

9月から中国で勉強をしているNさんが、映像を資料にした社会学的な研究の会で帰国しており、ランチを食べながら話を聞く
実は、過日からポッドキャスト(Podcasting)というものが気になっている
Podcastingとは、アイポッドとブロードキャストを合わせた造語だそうで、オーディオコンテンツを購読したり、自分のオーディオコンテンツを公開したりするものだそうだ。
ところがそのポッドキャスト内の言葉を調べる検索エンジンが出てきているそうである
『ポッドジンガー』(Podzinger)と『ブリンクス』(Blinx)の新バージョンと『ポッドスコープ』だそうである

どんな仕組みでそんなことができるのか、全く理解できないが、もしそんなことができるのならば、歴史分野の研究も大きく変わることが確実になる
これまでの資料体は2次元でも3次元でもスチル状態が前提だった
しかし歴史というものは本来時間の流れなので、資料体としてはムービーが一番近いことになる
ところがムービーに含まれるデータを分析可能な形にするのはとても手間のかかることなので、実現することは無いと思われていた
考古学の分野について言えば、遺跡情報の取得にとって最も大切なことは、なにがどこからどのように見つかったかなので、それを2次元画像や図面の断片でもなく、調査者の解釈が加わったテキストではなく、発見時のそのままの状況を動画で取得でき、さらにそれがデータベースになるのならば、これまでとはまったく次元の違った遺跡の研究が可能になると思う。
もちろん報告書というものの考え方を大きく変えるものであると思う。
消え去りつつある民俗調査にもぜひ活用できれると思うし
論文の形に大きな転換を促すものだと思う
来年は挑戦してみたい

15時からMさんと雪の残る鎌倉時代の上京をまわる
宝慈院から寺之内を通って成逸学区の芝の薬師を通過して大宮に出るとそこが櫟谷七野社
めざす場所は景愛寺と千代の井
大宮を南へ五辻まで下がり探すが見あたらないので地図を確認して本隆寺へ
本隆寺へ入り、一回りして本堂の脇で発見
いかにも古そうな石板の井戸枠である
鎌倉時代の京都へいよいよ関心が高まった

2005年12月22日 (木)

綜芸種智院

空海が東寺の東に開いた日本初の私立大学?

雪の京田辺

国境の長いトンネルを抜けなくてもそこは雪国だった

近鉄電車のいくつかの乗り換えのタイミングの度に、大学へ到達するためのいくつかの方法を考えながら、結局興戸から雪をかきわけながら田辺坂を登る
約束の時間に少々遅れるもなんとか許される時間範囲で到着

今日は機器調整を兼ねた何回目かの実験の日
最初はPI3000というトプコンの写真測量ソフトを利用してオルソ画像による実測のための準備。
実験の対象は、だいぶ前に西安で買ってきた兵馬俑のおみやげ用の人形。
キャノンの1眼レフデジカメの28ミリを1mでキャリブレーションして、被写体との距離60㎝、左右の間隔約20㎝で撮影。絞りは22、シャッタースピードは1秒。バックは方眼紙。
PI3000を立ち上げ、画面上に基準点を設定。左右の画像を取り込みクローズとオープンで合計8点の測量をおこなう。その後1ミリ単位でDEMを自動生成させ、TINを組んでテクスチャをかければオルソ画像のできあがり。
これをJPGで書き出してイラストレータにのせてトレースすれば、従来の実測図と同等な遺物のアウトラインが作成できる。高精細のデータを利用しているので、いわゆる表面の調整痕や文様についても同様に(あの手間ばかりかかる割付をせずとも)作成することができる。
もちろん遺構図の生成も同様。
春までに、実際の須恵器や京田辺キャンパス内にある下司古墳群の石室やら断面図やらを作成してみたい。
考古学の分野が数十年にわたって基礎資料としてきた実測図のスタイルに従いながら、そのデータの新しい活用を促すこれからの実測の方法である

次はVIVID910というコニカミノルタのレーザー測量器による資料の全3次元化とその利用についてのための準備。
オプションの連動式のターンテーブルもあるが、今回はワンショット画像をつなぎあわせることで全3次元化してみる。
そこで登場するのは再び兵馬俑のミニチュア殿
複数の角度でテクスチャと一緒にレーザーショットされたデータをエディターソフトでつなぎ編集していく
さすがにこれは多少の訓練が要りそう
また、撮影の精度がつなぎ合わせに反映されるので、詳細データへのこだわりに応じた一定の撮影計画が必要そう
おそらく広角で全体形を撮っておいて、再度接写を多く撮って重ねていくことになろう。
マクロもミクロも自由自在の、従来の実測図の概念を越えた新しい形の実測図がここに姿を見せ始めることになる。

さらにあらためて実感したのだが、全方位三次元のレーザー測量のすごさは、前面に詳細な三次元の点群が確保されるということで、その点群を自分の問題意識にしたがって任意の場所で輪切りにすれば、その面でのアウトラインを自由に取得することができるので、従来の1面のみの断面形による資料のモデル化がもっていた限界を軽く克服することができるという点である。
このエディタの場合、点群の中で不要部分を範囲指定して、それこそ普通のカットコマンドで消去して、残った点群の端点の抽出をおこなうことができるので、資料の全表面において、必要な部分アウトラインについて、ミリ精度あるいはミリ以下精度で測点情報を獲得することができるのである。
形になった歴史資料ならば素材を問わず形を問わず大きさは限度があるかもしれないが、なんでも対象になりそう
未確認ではあるが、面積や体積も計算できそうである
また三次元点群情報は、同時にRGBデータももっており、縄文土器や石器などはいわゆる傾斜面分析への応用が可能だろう

といったように、デジタル機器の進歩による資料の情報化はより精細により手間がかからなくなってきている。
そうなるとやはりこの分野の研究で重要になってくるのは、いつもの繰り返しであるが、どこに着目して、そのデータをどのように説明するか、「遺跡の見方、歴史の見方」である。
いくら高度な分析をやったとしても、元のデータに意味が無いとただの時間の浪費である。
その意味で鋤柄のデジタル化促進は、これまで以上に、より厳しい歴史の見方を求めるていることになるかもしれない。
なお、ここまでのことは、主に弥生時代以降の資料を対象とした考察についてである。

アナログをベースとする写真測量の方法とデジタルを前提としたレーザー測量の方法と
どちらも正しいしどちらも大きな可能性をもっている
さらにピンスキャナを利用した実測法もおこなっている
鋤柄のところで卒論をすすめるものは、それぞれのコンセプトでどれからの方法を学び選び
新しい歴史を描いていくことになる

ところで、突然の雪にあたふたした10時半すぎから、気がつけば外は真っ暗で21時前
暖房の効いた部屋の中で時を忘れてずっと実験をしていたことになるが
夜風に当たってこれはいけないと我にかえった
こんなことをずっとしていたら歴史の見方ができなくなってしまう
やはり野を歩き、街を巡って、いろいろな人に会って話をしていろいろな見方を当たり前とすること
歴史を語るためにはそれが一番大切なのだから
歴史家は風にあたらたないと元気がなくなってしまう
ということで
明日は上京を歩こう(笠置の現説は行けませんすみません)

鋤柄のゼミを選ぶ学生は、精神論の意味ではなく
ベタな体力論の意味で、ついてくる力が必要かも

2005年12月21日 (水)

終い弘法

今日、12月21日は、東寺の終い弘法である
京都の下京の人は、年末年始の支度をこの市を訪れることで始めるという
キャンパス京都プラザで文化史特論の講義を終え、教授会までの時間を利用して
東寺を訪れた

油小路を八条から下がって伏見稲荷の御旅所の北を西へ入る
空海の綜芸種智院(日本初の私立大学?)跡を通過して
大宮通りの東の門から入って南の脇門へ抜ける
おっちへ押されこっちへ押され
うわさどおりのものすごい人だかりである

ありとあらゆるものが売られ
なかにはきれいなテントが張られて足裏マッサージをしているところもあった
それにしても
京都の人は古着が好きなのか
一番のひとだかりはいつも古着やの前
天神さんに出ていたアンティークの同じ店もあった
サツマイモをスティックにしたものや
ホクホクのおまんじゅうを食べながら老若男女が
にぎやかにごったがえす

今日は文化史特論で平安京という古代都城が
中世の都市へ姿を変えるときのポイントを整理して話をしてきた
その時に前提としたのが平安時代終わりからみられる
左京の南北分化である

現在の2条以北と4条以南で
異なった町並みのまとまりがあって
それに対応するように、白河や法住寺や鳥羽や持明院があったというのが
鋤柄の考え方なのだが

北野の天神さんと東寺の弘法市が
それを現代に継いだ京都の北と南のバザールに重なって見えた
歴史って面白いと思う

・12月15日の読売新聞によれば、北山殿の廊下跡の礎石が見つかったと?
・川崎保2005「遺跡から見た古代・中世の千曲川の水運」『信濃』57-12
・高橋昌明2005『酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化』中公文庫
おもしろそうである


笠置山の発掘調査に対する鋤柄のコメントが京都新聞の1面と社会面で紹介されている

2005年12月17日 (土)

中世入山田村の風景を読み解く

大阪府泉佐野市で中世荘園を代表する日根野荘の講座をもった。
テーマは、一昨年の冬から発掘調査がおこなわれ、今年、史跡の追加指定となった泉佐野市大木の長福寺遺跡を中心とした中世入山田村の歴史的な見方についてである。
この遺跡は、1501年から1504年まで、ここの荘園領主であった九条政基がそれまでの代官支配に代わって直接現地に乗り込んで支配(直務)したときの拠点だった長福寺跡とされ、すでに昨年度のおわりに報告書でその考察を発表している。
今回の講座はそれをふまえたものであるため、当然話の内容の基本線は変わらない。しかし、この遺跡に関係の深い『政基公旅引付』とその多くの研究にあらためて触れたところ、いくつか見落としていた点があったことに気づいたため、それをふまえたときの遺跡の見方についての考えを整理し直しているうちに、朝になり夜になりの日々がこの数日続いて、再び四苦八苦の状態になっていた。

日根野荘とは、文暦元年(1234)に現在の大阪府泉佐野市につくられた九条家の荘園である。つくられた時は、鶴原・井原(南中安松)・日根野・入山田の4村に加えて、一時は上之郷村もその領域にあったと言われる(現在の泉佐野市の大半)広大な荘園で、その様子を描いた鎌倉時代の鮮明な村絵図でも有名な、この業界で最もメジャーな荘園のひとつである。

そもそも五摂家の一つである九条家は、藤原兼実(1149~1207)からその邸宅の名称をとって始まった家系で、鎌倉時代は幕府と深い関係をもち、政基の時代は室町幕府の有力管領だった細川氏と姻戚関係をむすぶなど、中世京都の中で政権との関わりを強く維持し続けた代表的な公家勢力だった。もちろん政基も右大臣、左大臣そして関白を経た人物で、当時の最高権力者だと言って良い。

しかし室町時代の後半を過ぎる頃から、和泉の守護だった細川と紀伊の守護だった畠山(プラス根来寺)の勢力争いに巻き込まれ、領地も侵食され、政基がここへ来たときは九条家の支配の及んだ場所は日根野村と入山田村だけだったと言う。
日根野村は現在の慈眼院を中心とする一帯、入山田村が今回の話題の中心となっている大木の集落にあたる。そしてその現地役所が日根野村は無辺光院(慈眼院)と戒躰院、入山田村のそれが長福寺だったのである。

発掘調査の結果、政基がこの場所で過ごした時期に対応する15世紀後半から16世紀前半の建物跡や池や井戸などがみつかり、日々の生活を物語る資料も出土した。なかでも建物跡は堂跡と推定される特徴があり、政基が滞在した長福寺の施設だった可能性が高いと考えられる。標準的な遺跡の調査ではこれだけでも十分な成果である。

けれども鋤柄の遺跡の見方では、これだけでは満足しない。
政基がここで生活をしていたことがわかったことが、日根野荘の歴史にどのような
意味を与えるのだろうか。
地域の歴史の中における遺跡の位置づけが説明できなければ本当の意味で遺跡を歴史資料として考察したことにはならない。
この遺跡から復原される政基の時代の大木地区(入山田村)とはどのような姿をしていたのだろうか。
長福寺はこの村の中でどのような役割をはたし、政基はそこでどのような生活をしていたのだろうか。それは政基の日常生活のことではない。高級貴族であった政基がその支配地へやってきて、ここで過ごしたことの「歴史的な」意味である。
さて、それをどうやって語ろうか
ひとつの遺跡を見ているだけではそれはかなわない
もっと視野をひろく、もっと歴史情報を集めて

手がかりはしっかりある
それが『政基公旅引付』、そして地形、字名、金石文などなど
その記録は、政基が子の聡明丸を管領細川氏の養子に出した関係を背景に、守護方の侵食によって弱体化した荘園を回復させようとした文亀元年(1501)3月~永正元年(1504)12月までの入山田村での日々を綴ったもの。
守護などの動向をはじめとして、惣村の日常生活の具体的様子や風流踊りのような芸能に都の人に劣らぬ洗練さをみせる村人の姿もこまかく描かれている。
戦国時代の村の様子を知る上でこれ以上の無い好資料である。
原文はもちろん筆書きの古文書であるが、幸いなことに『泉佐野市史』にその詳細な解説があるので、考古屋さんでも勉強ができる。

四苦八苦しながら絞り出したこだわりは3つ
ひとつめは、政基が日根野村ではなく、入山田村に滞在したのはなぜか?
政基が積極的に入山田村へ来たのか、あるいはそうでないのか。
それによって長福寺の風景がまったく違ってくる
ふたつめは、入山田村の中でも大木に滞在したのはなぜか?
入山田村は大木・菖蒲・船淵・土丸の4つの村からなっていて、それぞれが独立した共同体の仕組みをもっていた。その中で政基はなぜ大木をえらんだのか?
先入観無しで地形と字名を見ると、プリミティブな中世前半のヤトダ開発の荘園景観としては、菖蒲(中大木)に残る「五所の内」のあたりが、最も地域拠点を置く場所としてふさわしい。それなのに、なぜ政基は大木にいたのか、である。
みっつ目は、それらをふまえたときに発掘調査の結果はどのように見ることができるのか
とくに堂舎が消えた後につくられる17世紀初めの「かまど状遺構」(堺の大商人と同じような中国製の陶磁器をもっていた人の施設)とは一体なんなのか、である。

なんとかこれで本当の意味での遺跡の見方になったかと思って就寝

鋤柄的な解答は
・現在の大木に見える3つの時代のモニュメントの整理
・政基の時代の大木のポイントは、3つの村それぞれにあった寺とその(概念としての)上にあった滝宮と円満寺の役割

こまかな説明は授業で話そう
四苦八苦していたのは、従来の見方に縛られていたことが原因
これまでの鋤柄の見方は条里地割りのあるような平野部の村が多かった
大木も無意識なままその見方をしていたが、大木の主たる生業は山の産業や商業だった。現地や現場をみていたつもりだが、まだまだ見方があまかったようだ。
今回四苦八苦しなければ、よくあるステレオタイプ論者になっていたかもしれない。

さらに研究史を調べていて、石井進先生が学生を連れてここを歩いていたことを知った。今回の調査では実は大木の3分の1ほどしか見てまわっていない。現場を歩くことを重視するのは、文献も考古も同じだが、遺跡を本業とする考古はもっと現場の廻りをあるくことにこだわらないといけない。
四苦八苦したおかげでとても良い勉強ができた。
平野部の村と山間部の村と都市と
来年の授業では、有志を募ってエクスカーションでぜひ歩きたいと思う。

2005年12月14日 (水)

四苦八苦する

今年の文化史特論は少しこれまでと違う構成を組み立てながらやっている
テーマは「遺跡が語る京都の歴史」なので
これまではそれをオーソドックスに時代毎のエピソードを個別に話してきた
しかし今年は、それらの個別のエピソードをつなぐことを考えながら話をしている
分断された歴史の紹介から、シームレスでアナログな歴史の説明への転換であり
当然そうすべき時期に来たのでそうしていると思っている
ただ、これまでのデータとエピソードの扱い方を再編集しているので少々四苦八苦するときもある

前回からのテーマは
「古代の都城から中世の都市へ」とした
都市の構造は社会の仕組みを知る手がかりになるので
平安京の変貌を見直すことから中世の京都の社会を考えるのが目的である

平安京の変貌について一般に言われていることは
右京の衰退と平安時代後期における左京の充実
問題はこれの意味するところである
その理由は何かといったとき、右京南部の生活環境の不具合がきっかけだと良く言われている
しかしそれは右京が衰退する理由にはなるが、左京が充実する絶対的な理由にはならない
それでは、ということでいつものように視野を広げる
言い方を変えると平安時代後期に何があったのかをニュートラルに見直す
もちろん位置情報がベースとなる
その時頭に入れておかなければならない重要な先行研究は「上の町」と「下の町」
この頃から、京都が南北の町にわかれた意識で見られていたということ

そしてそこに登場するのが鳥羽離宮・・・中略
鳥羽離宮は京の港町としての役割もあった
兵庫県尼崎市の大物遺跡と比較すれば、その解釈も妥当である
しかし平安時代後期に登場したのは鳥羽だけではなかった
法住寺殿や白河殿そして今出川校地の調査では持明院殿の存在も明らかになった

これらは、いずれも院の権力と大路を軸とする街区をもっている
左京の南北と東を取り巻く形で出現した院の御所とその周辺地区
左京の充実は自然拡大ではなかったのである
左京が北と東へのびたのではなく
院の御所とその周辺地区が古代都城としての平安京と別の中心として
左京のまわりに出現したのである
さらにそれは偶々そこに出現したわけでもなかったのである

一番考えやすい事例は白河街区
白河街区は二条大路の延長にあるが、これは言うまでもなく高級貴族の邸宅中心地との関係
そこには、旧来からの中心地とそれにつながる関係の新しい中心地という構造がみてとれる

それでは法住寺街区も同様に考えられるのか
それを知る手がかりが京都駅前の調査
そこには高級陶磁器と大量の貨幣の流通と職能民の姿があった
その背景には平家と八条院の存在
七条界隈が平安時代終わり頃から実質的な京の中心地だったということ
そうであるならば、法住寺街区は七条との関係で説明できると思う

では鳥羽と持明院は
簡単に言うと、それらの組み合わせは
白河街区(白河院)→持明院街区
法住寺街区(後白河院)→後期鳥羽街区(鳥羽院)
ではないか
つまり、二条以北の「上の町」と白河および持明院の関係と
四条以南の「下の町」と法住寺および鳥羽の関係と
ただし順番は
白河(上の町)→法住寺(下の町)→後期鳥羽(下の町)→持明院(上の町)
院      →平家      →八条院(鳥羽娘) →鎌倉
平安京の内側の中心と、その外につくられた新しい中心の組み合わせによって
権力の移動に連動する京都の中心の移動が見える

左京の拡大の積極的な背景とは
平安時代後期に新しく生まれたもうひとつの権力が
その中心を平安京の外につくりだした
平安京の内側にあった中心地と関係のある拠点の出現だった
そしてこの構造は、外側に出現した新しい中心が当然刺激的な激しい動きをするところに特徴をもった-鳥羽の様に
さらにこの二元的な権力の構造が次の時代の幕開けとなる

それを知る手がかりが神戸大学病院の調査
<湊川そして平野と和田>どうしても気になる鴨川

しかしすこし気がかりな問題がある
それが石清水八幡宮と淀
二重構造としての京の港町

2005年12月13日 (火)

日々大切なことを学ぶ

自分は歴史家として何ができるのかを考える
それはたとえ退屈な繰り返しだと言われようとも問い続けなければならないこと

マルク・ブロック2004『歴史家のための弁明』岩波書店
ジョン・L・ギャディス2004『歴史の風景』大月書店
上村忠男2004『歴史を問う』岩波書店
石塚正英・杉山精一2004『歴史知の未来性』理想社

数年前からジョン・H・アーノルドの『歴史』という本のフレーズを
「日本史」の授業でとりあげている
「歴史とは、過去に関する真実の物語から構成されたひとつのプロセスであり、議論である」
「歴史とは何にもましてひとつの議論なのだ」と

歴史とはアナログでシームレスな全体
しかし歴史史料や歴史資料はアナログなその断片
個別の資料を詳細に見ることも大切であるが
その背景をひろく見て全体を相対化できる力を鍛えること
それが「議論」の意味だと
どの分野にもどんなシチュエーションにも必要なこと
それを学ぶために最も適した研究が歴史だと

下記は最近の関心の方向が読める図書リスト

徳橋曜2004『環境と景観の社会史』文化書房博文社
勝村公2005『枕詞と古代地名』批評社
永原慶二2004『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館
林巳奈夫2004『神と獣の紋様学』吉川弘文館
羅宗真・中村圭爾・室山留美子2005『古代江南の考古学』白帝社
五味文彦2004『中世社会と現代』山川出版社
川越俊一郎2004『法隆寺のものさし』ミネルヴァ書房
本郷恵子2004『中世人の経済感覚』日本放送出版協会
武蔵義弘2004『知られざる東京の史跡を探る』鳥影社
大津市歴史博物館2005『近江・大津になぜ都は営まれたか』
塚田孝2004『大阪における都市の発展と構造』山川出版社
西山良平2004『都市平安京』京都大学学術出版会

2005年12月11日 (日)

深い悲しみと悔やみとお詫び

学長と法学部長の緊急声明にありますように、12月10日宇治市において、本学の学生が取り返しのつかない事件を起こしました。


被害に遭われたお子様のご冥福を心からお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様に深くお詫び申し上げます。

今一度、足元より見つめ直し、一人ひとりの学生に対し、大学人としてできる限りの取り組みをして参りたいと存じます。

2005年12月 8日 (木)

上京歴史探訪館webアンケート結果発表ほか

12月1日(金)の4講に、来年から始まるプロジェクト授業の歴史情報系ガイダンスをおこなったが、その時に、テーマのひとつである「歴史遺産活用」の実験的実践例としてすすめている上京歴史探訪館webの評価を出席の課題とした

この授業は本学部学生の必修なので受講者数は270人ほどだと思うが
実際のその日の出席者数はわからない
締め切りの12月7日(水)までに送られてきたメールの数は222だった。
その内容であるが、鋤柄の説明が悪く、改良のためのコメントがほしかったのだが、皆心優しい学生くんたちばかりで、「良かった」との回答がほとんどであった

○感想の内容は大きくふたつ。(<数字>は人数。下のコメントの人数と重複あり)
1:日頃気づかないが、上京にはたくさんの遺跡があっておどろいた。ためになった。<102>
2:今自分のいる場所が、平安時代ではどのような場所であったかなど考えたことがなかったが場所との関係がわかり、臨場感が湧いた。これを参考に上京を歩きたい。<49>
3、その他。<26>

○コメントの具体例は
・当時の風景がほしい。<2>
・専門用語の解説がほしい。<2>
・写真の説明がほしい。<4>
・時代毎の比較がほしい。
・詳細ページに工夫がほしい。<7>
・画像をもっと増やしてほしい。
・地図表示の方法に工夫がほしい。<5>
・フレームをつけてページの関係がわかるようにしてほしい。<2>
・「年中行事」のページが面白かった。<8>
・「資料館」のページがよかった
・「史跡めぐり」のページがよかった。<6>
・デザインが良い。<13>
・観光情報がよかった。
・和菓子店の話が面白かった。<4>
・コラムが面白かった。<5>
・観光などにもつながる役に立つ活用法だと思う。<12>

最も素直な感想はやはり、上京にこれだけたくさんの歴史が眠っていることに驚いたという印象だったようである。あわせてためになったという感想もよせられた。
次に寄せられた感想は、「今自分が歩く場所が、歴史の舞台だったと感じるのは非常に面白かった。」という言葉が象徴する臨場感だった。
「遠い時代の平安京がとても身近に感じられた」という表現もあった。
いろいろな感じ方があって全てが正しいのだが、プロデュース側としては2番目の感想をめざしたい。

思いがけなかったのものでは、「ここまで上京区に集中してるとは…」という感想があった。
室町時代の現状のマップ表現は、一見すると完全に破綻しているが、あの時代の混雑の様子を最も良く表現しているとも言える。現在マップの見せ方の変更を考えているが、大変参考になった。
もうひとつ思いがけなかった感想は「歴史ある建造物を画面上で見ることに違和感をおぼえました」というもの。
これは鋤柄の説明が不足していたゆえの感想で、このwebの本来の目的が「現地へ行っての歴史体験」で、その仕掛けとしての「携帯電話によるデジタルガイドブック」も用意している。歴史のある建造物は現地で見るべきものなのです。その意味でこの感想はとてもうれしい感想である。

「実際の場所で歩きながら話しの聞けるツアーや、地元に今生活する人との交流など、考えられると思います。」という感想ももらった。
これはとても生産的で有意義な意見である。実はこのプロジェクトは上京区の企画なので、地域の人々と連携したプログラムもすすめている。

「ふらり・・・と京都に行きたくなること必至の楽しいサイトでした。特に写真入りの説明が大変良かったです。」
「歴史を一連の流れとして考えることができ、とても素晴らしいと思いました。」
「史跡に関係のある人物がどのような人であったのか、説明があるともっと分かりやすくなると思いました。」
「詳しく場所と年代を特定するということは、とても大変なことだろうなと思った。」
という励ましと生産的な感想を原動力にしながら、人物の説明を初めとする未完成の内容の充実もあわせて、1月末を目標に完成をめざしたいと思っています。

☆ということで、その夕方におこなった会議の結果について
・紙版の散策マップの見通しはつきました。ご苦労様でした。
・紙版の散策マップの地図面は、9日に印刷屋さんから校正が来るので、月曜日に配布します。
・紙版の散策マップの表紙面は、その後。それに向けて3つの表紙案へのコメントを全員で寄せてください。
・webの「時間旅行」は、1万分の1地形図のトレース版と○○マップを利用した閲覧の方法を考え、ページの構成とレイアウトはそれにあわせて変更する。
・webの「年中行事」と「史跡めぐり」は○○マップの利用を検討して廃止の方向でいきましょう。
・webのトップレイアウトについて、リニューアルの「具体的な」意見を全員で寄せてください。
・年末に全体会議を開きましょう
ではでは

2005年12月 6日 (火)

貞慶上人の般若台または雪の般若台

記録によれば、奈良時代以前から山岳信仰の拠点だった笠置山は、平安時代前期頃から弥勒信仰に伴う修験道の霊場としても有名となり、鎌倉時代初めには、興福寺の僧だった貞慶がここに隠棲することで弥勒信仰の中心道場として復興と坊舎の整備が大いにすすんだという。別名笠置上人と呼ばれる解脱房貞慶(じょうけい)は、笠置寺にとって後醍醐天皇に優るとも劣らない重要人物なのである。

彼は久寿2年(1155)から建暦3年(1213)に生きた法相宗の僧で、藤原通憲の孫という。通憲といえば藤原信西のことで、鳥羽院の近臣として後白河の即位をプロデュース。保元の乱では後白河方の勝利に貢献してその後の政権をリードするが、藤原信頼ら旧来の近臣の反発を受けて平治の乱で姿を消すことになる。信西は平治元年(1159)に死んでいるので、貞慶はこの歴史を動かした祖父を直接知っているわけではない。しかし彼が歴史のドキュメントの中に長く留められることになったのは、彼の中に祖父と同じものがあったからに違いないと思う。

その貞慶に関わる遺跡が般若台である。
「山城名勝志」は、般若台は鐘楼の西二町ほどにあって、解脱上人が春日明神を請け奉るためにつくったところで、南北7・8間、東西4間(15×7m)。岸に従い築き出すところは高さ6間ばかり。下段の地に六角形の堂跡ありとし、あるいは建久5年甲寅秋、上人が六角堂を山の南の般若台に造る。釈迦文仏を奉安す、とする。
また「沙石集」によれば、解脱房上人、笠置に般若台と名付けた閑居の地をおく。
なお「玉葉」によれば、貞慶が般若台という所に移り、春日大明神を勧請し奉らんと思った時に告げさせ給ひける歌として「我ゆかん ゆきて守らん般若台 釈迦の御のりのあらんかぎりは」
貞慶によってきわめて重要な場所だったということがわかる。

現在、笠置山の太子堂を200mほど南にいったところにその場所がある。
笠置寺の中心部は、最高峰を中心とする太子堂の北に集中しているが、その場所は、最高峰に近い南側稜線平坦面の一角にあたる低い独立丘陵を中心とする一帯である。このピークの南は、いったん浅い谷を隔ててからその先の稜線につながっているので、狭い範囲の笠置山山頂周辺は、この一帯までとみることができる。
その場所は、標高281.2mのピークを中心に北に1段と、南に2段の平坦から構成されているが、一番のポイントとなるのが、南の2段目の平坦面である。
1976年に史跡の保存整備事業の一環で発掘調査がおこなわれ、六角形の基壇の上に並んだ多数の礎石が発見された。現在その上に土を覆い史跡公園として整備されているが、12世紀末に建立された六角堂の跡と考えられている。
12世紀末に笠置に入った貞慶は、笠置の主峰の周辺にあった中心部を離れたこの場所に居を置いたことになる。
その意味は何か
ひとつの可能性は、笠置山が、北は木津川で急落する山塊だが、南は尾根づたいに柳生につながる南都からの道であったからかもしれない。
もとより貞慶の時代は笠置と南都との関係が強い時期だった。あの重源も来たという。
貞慶は南都仏教の覚醒に努めた戒律を重んじたと言われるが、弥勒信仰の中心道場と別の意図をここに置こうとしたのだろうか。奈良市の般若寺は真言律宗の寺と言う。
手がかりは六角堂

ちなみに太子堂の東の尾根の先端に、谷を隔てて貞慶上人の墓がある。高さ九尺をはかる立派な五輪塔で、周囲に大型の舟形板碑や宝篋院塔が並ぶ。北に千手の瀧を見下ろす絶好の立地である。

2005年12月 5日 (月)

The Google Earth-Mさんへ-

上京区衣棚通寺之内上ル上木ノ下町に臨済宗の単立寺院である宝慈院がある。
本尊は阿弥陀如来で、「京都事典」によれば、13世紀末に金沢顕時の妻だった無外如大尼の創建した景愛寺塔頭の資樹院が前身と言う
無外如大尼は無外が道号の尼僧なので、名は如大となるか。MIHO MUSEUMに文永2年(1265)の銘をもつ「かな文」があり、その解説によれば、父は執権北条氏の外戚だった安達景盛で、夫が早世したため無学祖元を師として出家し、西五辻東町の景愛寺の開山となったと言う。
ちなみに父の安達景盛は明恵上人(1232没)の弟子で高野山金剛三昧院の開基とされ、無学祖元は円覚寺の開山(1282供養)であるから、仏教にきわめて親しい環境だったと言える。

さて、その景愛寺だが、大宮五辻の西北の地で西32丈5尺、南北43丈を建治3年(1277)に理宝尼が皇族の安泰と故御所の冥福を祈って如大尼に寄進した土地で、およそ南北1町東西3/4町の広さをもつ。
仏光国師の無学祖元にちなみ、京都における仏光派の最初の道場とされ、仏光派の援助により拡大、室町時代初期に尼寺五山が制されると、その筆頭になった大寺である。
末寺が宝慈院・宝鏡寺・大聖寺・継孝院など
寺の存在は明応頃(15世紀末)までわかっているが、その後は戦国の世に忘れ去れていったという。
なお弘安8年(1285)に仏光によって印信許可された如大尼は、永仁6年(1298)11月28日に76歳で示寂している。

現在の大宮五辻は商店街の中で、北野から東へのびてきた五辻通の終点になっている。面影は無いように思うが、この通りが定家の時雨邸と後鳥羽上皇の五辻殿など、京の鎌倉を語るときに、なくてはならない存在だということをあらためて実感させるエピソードだと思う。

<追記>
「後深草院二条」さんのサイト
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai.htmで
山家浩樹さんの「無外如大と無着」『金沢文庫研究』第301号 神奈川県立金沢文庫1998の紹介を知った。
夫が金沢顕時ならば、「夫が早世したため」というエピソードが矛盾し、二人の女性に関わる記録の詳細な検討や、足利氏との関係など興味深い内容をもつ。


今日の午後、上京webに載せているマップの視覚効果をGくんとTくんとKくんと話し合っていて、やはりGoogle-Mapsではないかということになり、いくつかのサイトを調べ、実験的にhttp://hsj.jp/gme/のGoogleMapsEditorでサンプルを作成してみることになった。
うわさのThe Google Earthも試してみて、これは水曜の文化史特論で紹介してみようと思う。
とりあえず「WORKS」-「遺跡の見方と考え方」をgoogle-maps連動版にしました
お試しください
では

2005年12月 4日 (日)

京都の歴史を駆け抜ける

先日から上京探索マップの原稿整理を一気にすすめている
先週の週末が目標だったが
いつもぎりぎりにならないと仕事を始めないという悪い癖を反省しつつ
青山さんの表紙データを木曜日に送って
地図面のデータを金曜日に送って
土曜は果ててしまったので
日曜日に表紙面のデータを送る

表紙面では平安時代から江戸時代までの歴史遺産を写真と共に短く紹介する
今回は普通の歴史マップではあまり取り上げられることのなかった遺跡をクローズアップ
京都市考古資料館と同志社大学歴史資料館の協力で
上京区内(一部中京区も)の主な遺跡の写真を揃える
これまでに無い話題作になること請け合い
各写真の説明は「見出し」「小見出し」「70字か40字の説明文」
学生君たちの原稿に目を通しながら、資料をチェックしながら
内裏内郭回廊跡から京都守護職屋敷跡まで1000年の時を約10時間で駆け抜ける
わかっていたことを確認するのと同じくらいの量で新しい発見をする
海龍王の館と言われた高陽院は4つの池があったと言うが
千本釈迦堂の本堂は京都市内最古の木造建築物(鎌倉時代初期)で国宝だ
愉快愉快

いろいろな勉強の方法があるが
思えば鋤柄の場合は、いつもこういった実戦の中で走りながら資料を調べエピソードのつながりを考えてきていた
あまり体系的な方法とは言えないから回り道も多いが
体系的でない分だけ、いろんなエピソードがつながり新しい発想が生まれる
 と思っている
この業界には大学とかそうでないとかに関わらず現場型の研究者と非現場型の研究者がいて、面白いほどに話が合わないことが多い
それから遺物とか遺跡とかに関わらずモノ型の研究者とモノノ型の研究者がいて、これもまた面白いほどに話が合わないことが多い
アナログでシームレスでとにかくめったやたらの全体である歴史の研究に対して
体系的な方法って一体何だろうということがわかるようになるには時間と経験が必要
とは言え初学者は、教養としてのクラシカルな勉強も重要
なにごとも勉強勉強


飯村均2005『律令国家の対蝦夷政策』新泉社
小林昌二2005『高志の城柵』高志書店
藤木久志2005『戦国の城』高志書店
東北中世考古学会編2005『海と城の中世』高志書店
千葉城郭研究会編2005『城郭と中世の東国』高志書店
小野正敏・藤沢良祐編2005『中世の伊豆・駿河・遠江』高志書店
C.ギャンブル著 田村隆訳2005『入門現代考古学』同成社

2005年12月 2日 (金)

Pensieve

本日、来年度から始まるプロジェクトという授業のガイダンスをおこなう
考えてみると文化情報の全ての学生の前に立つのは初めてかもしれない
文化情報では来年からいよいよ文化情報としてのさまざまな分野に分かれた授業が始まるが、その核になるのがこのプロジェクトという授業になる
(ちなみに、来年から類似の科目が別にはじまるらしいので、今後やや混同する可能性がある)

鋤柄が担当するのはもちろん歴史情報系である
これまでの歴史研究の本質を守りながら
これまでの歴史研究で限界とされていたところを克服する試みをおこなうつもり
キーワードはミクロとマクロ、数量化、位置情報、総合化そして社会性

古墳を題材にしてもっと詳しい話をしたかったが
例によって、色々な話をしていたら時間がきてしまった
それでも歴史情報系プロジェクトのコンセプトとめざすところと段取りは理解してもらえたかと思う
最後に、「歴史遺産活用」の実験的な具体例としての
上京歴史探訪館webの閲覧感想を求めた
新しい視点で社会を切りひらく彼らがどんな感想を寄せるのか
さらにそれを自分に帰ってくるものとして
評論家ではなくクリエイターとしてどんな行動を始めるのか
楽しみである

年が明けたら、あっという間に「先輩」と呼ばれる2回生
本番はこれからです
ガンバレ文化情報1期生

今日はそんな楽しい京田辺キャンパスのクリスマスデコレーションの点灯式
1期生のアーカイブに頑張っているWくんとTくんがビデオをしっかり準備
えらいやっちゃ
(せっかくなので授業も撮ってもらった)
4講がおわり、薄暗くなってくる西の空を背景にした
ラーネッド記念図書館の南に立つツリーの下に聖歌隊が並ぶ
さすが同志社やなあと思いながら
文情のみんなとカウントダウン
今年は学生支援センターの前にトナカイさんも登場
ローム館のデコレーションも華やか
今出川のクリスマスキャンドルも良いが
京田辺もだんだんさまになってきたと思う

ワインでも一杯飲みたい雰囲気になったが
頭の中を上京の歴史遺産が飛び回っていまにも飛び散りそうな雰囲気なので
PensieveのようにUSBメモリーを耳に入れてデータの整理ができたらいいのに
と思いながら
また機会にと我慢

本日の気になった言葉:ポッドキャストの音声検索

2005年12月 1日 (木)

星の数ほど

上京歴史探訪館では、webだけでなく紙媒体による歴史遺産活用もおこなっている。
その具体的な成果品として現在すすめているのが「上京探索マップ」の製作である。
すでに昨年度そのバージョン1が上京区から刊行され、大好評を博している。
現在作成しているのはその第2弾になる。
前回の散策テーマは、「平安京界隈を歩く」「説話のあとを歩く」「茶の湯にゆかりの道をあるく」「京都御所周辺を歩く」というものだったが、今回は歴史探訪館の開館にあわせて「歴史」をテーマとして前面に押し出している。
基本的なレイアウトは第1弾と同じであるが、4つのテーマを時代に変えて、「平安時代」「鎌倉時代」「室町時代」「江戸時代」それぞれの時代にちなむ上京区内の歴史遺産をめぐるコースを考えた。
一昨日上京区で打ち合わせをして、昨日夢告館で打ち合わせをしてほぼ全体がかたまった。
昨日の打ち合わせでは、上回生の作成してきた文章に1回生が質問をして検討がおこなわれるなど、すっかりコロキアム。愉快愉快
一部撮り直しのカットもあるが、昨夜最初のデータを印刷屋さんに送った。
できれば1月28日には刊行したい。

一昨日の上京区役所では、もうひとつの地域連携プロジェクトである「上京知恵袋」の打ち合わせもおこなわれた。すでに夏の歳時記は、学区毎にデータをいただきおおまかな整理ができている。次はなんといっても年末年始の上京の歳時記である。
12月13日が事始めという年末年始の支度開始という。できれば上京の各地でおこなわれるさまざまな日常をリアルタイムでアーカイブしながらデータ化をしていきたいと考えている。
ということを打ち合わせの席上で言っていたら
「それなら年末年始を上京ですごさはったら」と言われ
ついその気になってしまい、今年の年末年始は上京で過ごすことになった
信濃を出てきて四半世紀以上たったが、都の年越しを経験するのは今回が初めてである。
聞くところによれば、カウントダウンが近づくと寺町界隈ではいたるところから鐘の音が聞こえ、それはそれは荘厳な雰囲気らしい
上京のプロジェクトはこの一ヶ月ほどで一気に押し進められることになる

というわけでとくに紙判の「上京探索マップ」の編集をおこなっている3回生と院生は現在大詰めで大変である
昼間は授業と整理室の業務があり、その合間と夜になって取材をして資料を調べ原稿を書いている
そしてその中から自分の専門テーマを熟成している
しっかり社会人してるという感じである

ところで鋤柄はどうも変な癖があって
列車の揺れが無いと原稿に集中できないとか、23時を過ぎないと原稿が書けないとか
これはひとえに14年間いわゆる埋蔵文化財の行政調査を担当していたことが最も大きな原因となっている。
11年間は通年で発掘調査をおこない、同時に調査の報告書もつくっていた。1年間は事務局勤務をしていた。2年間は大阪城跡の報告書をつくっていた。
そしてそれと同時に色々な原稿も書いていた。
現場で発掘をおこない、博物館で展示や普及活動をおこなっている多くの仲間もみな同じであるが、昼間は当然業務に専念しなければならない。勤務時間中は現場にたち(幸か不幸か一瞬でも目を離せない現場が多かったので)、業務としてのやるべきことの段取りをつける。
自分の原稿を書くのは家に帰ってやれやれとなってからである。当然締め切りが近づくと原稿の途中であっても翌日の仕事に支障があるので2時までを限度としてその日に書いたものをプリントアウトする。
それを推敲するのが通勤電車の中だった。
ゆえ、この業界に生息する人間にとって、メリハリのある時間配分はいたってあたりまえのことで、ベースとなる研究はしっかり持続するものの、段取り力と集中力を頼りに日々の仕事をこなしていって、締め切りを延ばすなんてことは、後の自分の仕事の支障になって、なんの得にもならないので、これまでまずしたことが無かった。
そんな生活をずっとしてきていたので、そのペースが今もなお続いているということになる。

現在の環境に移って6年になろうとしているので、もう少しこの状況を変えるべきかとも思っていたが、実は森浩一先生の研究スタイルも同様であることを最近あらためて感じている。
校務と並行しながら各地を精力的にまわり、刺激的なシンポジウムやプロジェクトを数多く立ち上げ、多くの著書を発表してきている。
今日も、いったいどこからこんなアイデアが湧いてくるのだろうと思いながら話を聞き、知的刺激を受け、鋤柄のやっていることはまだまだ甘いと思った。歴史というのは、やはり意味のある蓄積がものを言う学問なのである。
新しい授業科目もはじまる。
やるべきことは星の数ほど。
これまで以上に集中力と段取り力を鍛えて、メリハリのある仕事をしていこう。

それにしても一昨日の七五三太は旨かった。

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