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2005年12月14日 (水)

四苦八苦する

今年の文化史特論は少しこれまでと違う構成を組み立てながらやっている
テーマは「遺跡が語る京都の歴史」なので
これまではそれをオーソドックスに時代毎のエピソードを個別に話してきた
しかし今年は、それらの個別のエピソードをつなぐことを考えながら話をしている
分断された歴史の紹介から、シームレスでアナログな歴史の説明への転換であり
当然そうすべき時期に来たのでそうしていると思っている
ただ、これまでのデータとエピソードの扱い方を再編集しているので少々四苦八苦するときもある

前回からのテーマは
「古代の都城から中世の都市へ」とした
都市の構造は社会の仕組みを知る手がかりになるので
平安京の変貌を見直すことから中世の京都の社会を考えるのが目的である

平安京の変貌について一般に言われていることは
右京の衰退と平安時代後期における左京の充実
問題はこれの意味するところである
その理由は何かといったとき、右京南部の生活環境の不具合がきっかけだと良く言われている
しかしそれは右京が衰退する理由にはなるが、左京が充実する絶対的な理由にはならない
それでは、ということでいつものように視野を広げる
言い方を変えると平安時代後期に何があったのかをニュートラルに見直す
もちろん位置情報がベースとなる
その時頭に入れておかなければならない重要な先行研究は「上の町」と「下の町」
この頃から、京都が南北の町にわかれた意識で見られていたということ

そしてそこに登場するのが鳥羽離宮・・・中略
鳥羽離宮は京の港町としての役割もあった
兵庫県尼崎市の大物遺跡と比較すれば、その解釈も妥当である
しかし平安時代後期に登場したのは鳥羽だけではなかった
法住寺殿や白河殿そして今出川校地の調査では持明院殿の存在も明らかになった

これらは、いずれも院の権力と大路を軸とする街区をもっている
左京の南北と東を取り巻く形で出現した院の御所とその周辺地区
左京の充実は自然拡大ではなかったのである
左京が北と東へのびたのではなく
院の御所とその周辺地区が古代都城としての平安京と別の中心として
左京のまわりに出現したのである
さらにそれは偶々そこに出現したわけでもなかったのである

一番考えやすい事例は白河街区
白河街区は二条大路の延長にあるが、これは言うまでもなく高級貴族の邸宅中心地との関係
そこには、旧来からの中心地とそれにつながる関係の新しい中心地という構造がみてとれる

それでは法住寺街区も同様に考えられるのか
それを知る手がかりが京都駅前の調査
そこには高級陶磁器と大量の貨幣の流通と職能民の姿があった
その背景には平家と八条院の存在
七条界隈が平安時代終わり頃から実質的な京の中心地だったということ
そうであるならば、法住寺街区は七条との関係で説明できると思う

では鳥羽と持明院は
簡単に言うと、それらの組み合わせは
白河街区(白河院)→持明院街区
法住寺街区(後白河院)→後期鳥羽街区(鳥羽院)
ではないか
つまり、二条以北の「上の町」と白河および持明院の関係と
四条以南の「下の町」と法住寺および鳥羽の関係と
ただし順番は
白河(上の町)→法住寺(下の町)→後期鳥羽(下の町)→持明院(上の町)
院      →平家      →八条院(鳥羽娘) →鎌倉
平安京の内側の中心と、その外につくられた新しい中心の組み合わせによって
権力の移動に連動する京都の中心の移動が見える

左京の拡大の積極的な背景とは
平安時代後期に新しく生まれたもうひとつの権力が
その中心を平安京の外につくりだした
平安京の内側にあった中心地と関係のある拠点の出現だった
そしてこの構造は、外側に出現した新しい中心が当然刺激的な激しい動きをするところに特徴をもった-鳥羽の様に
さらにこの二元的な権力の構造が次の時代の幕開けとなる

それを知る手がかりが神戸大学病院の調査
<湊川そして平野と和田>どうしても気になる鴨川

しかしすこし気がかりな問題がある
それが石清水八幡宮と淀
二重構造としての京の港町

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