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2005年12月 6日 (火)

貞慶上人の般若台または雪の般若台

記録によれば、奈良時代以前から山岳信仰の拠点だった笠置山は、平安時代前期頃から弥勒信仰に伴う修験道の霊場としても有名となり、鎌倉時代初めには、興福寺の僧だった貞慶がここに隠棲することで弥勒信仰の中心道場として復興と坊舎の整備が大いにすすんだという。別名笠置上人と呼ばれる解脱房貞慶(じょうけい)は、笠置寺にとって後醍醐天皇に優るとも劣らない重要人物なのである。

彼は久寿2年(1155)から建暦3年(1213)に生きた法相宗の僧で、藤原通憲の孫という。通憲といえば藤原信西のことで、鳥羽院の近臣として後白河の即位をプロデュース。保元の乱では後白河方の勝利に貢献してその後の政権をリードするが、藤原信頼ら旧来の近臣の反発を受けて平治の乱で姿を消すことになる。信西は平治元年(1159)に死んでいるので、貞慶はこの歴史を動かした祖父を直接知っているわけではない。しかし彼が歴史のドキュメントの中に長く留められることになったのは、彼の中に祖父と同じものがあったからに違いないと思う。

その貞慶に関わる遺跡が般若台である。
「山城名勝志」は、般若台は鐘楼の西二町ほどにあって、解脱上人が春日明神を請け奉るためにつくったところで、南北7・8間、東西4間(15×7m)。岸に従い築き出すところは高さ6間ばかり。下段の地に六角形の堂跡ありとし、あるいは建久5年甲寅秋、上人が六角堂を山の南の般若台に造る。釈迦文仏を奉安す、とする。
また「沙石集」によれば、解脱房上人、笠置に般若台と名付けた閑居の地をおく。
なお「玉葉」によれば、貞慶が般若台という所に移り、春日大明神を勧請し奉らんと思った時に告げさせ給ひける歌として「我ゆかん ゆきて守らん般若台 釈迦の御のりのあらんかぎりは」
貞慶によってきわめて重要な場所だったということがわかる。

現在、笠置山の太子堂を200mほど南にいったところにその場所がある。
笠置寺の中心部は、最高峰を中心とする太子堂の北に集中しているが、その場所は、最高峰に近い南側稜線平坦面の一角にあたる低い独立丘陵を中心とする一帯である。このピークの南は、いったん浅い谷を隔ててからその先の稜線につながっているので、狭い範囲の笠置山山頂周辺は、この一帯までとみることができる。
その場所は、標高281.2mのピークを中心に北に1段と、南に2段の平坦から構成されているが、一番のポイントとなるのが、南の2段目の平坦面である。
1976年に史跡の保存整備事業の一環で発掘調査がおこなわれ、六角形の基壇の上に並んだ多数の礎石が発見された。現在その上に土を覆い史跡公園として整備されているが、12世紀末に建立された六角堂の跡と考えられている。
12世紀末に笠置に入った貞慶は、笠置の主峰の周辺にあった中心部を離れたこの場所に居を置いたことになる。
その意味は何か
ひとつの可能性は、笠置山が、北は木津川で急落する山塊だが、南は尾根づたいに柳生につながる南都からの道であったからかもしれない。
もとより貞慶の時代は笠置と南都との関係が強い時期だった。あの重源も来たという。
貞慶は南都仏教の覚醒に努めた戒律を重んじたと言われるが、弥勒信仰の中心道場と別の意図をここに置こうとしたのだろうか。奈良市の般若寺は真言律宗の寺と言う。
手がかりは六角堂

ちなみに太子堂の東の尾根の先端に、谷を隔てて貞慶上人の墓がある。高さ九尺をはかる立派な五輪塔で、周囲に大型の舟形板碑や宝篋院塔が並ぶ。北に千手の瀧を見下ろす絶好の立地である。

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