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2005年12月17日 (土)

中世入山田村の風景を読み解く

大阪府泉佐野市で中世荘園を代表する日根野荘の講座をもった。
テーマは、一昨年の冬から発掘調査がおこなわれ、今年、史跡の追加指定となった泉佐野市大木の長福寺遺跡を中心とした中世入山田村の歴史的な見方についてである。
この遺跡は、1501年から1504年まで、ここの荘園領主であった九条政基がそれまでの代官支配に代わって直接現地に乗り込んで支配(直務)したときの拠点だった長福寺跡とされ、すでに昨年度のおわりに報告書でその考察を発表している。
今回の講座はそれをふまえたものであるため、当然話の内容の基本線は変わらない。しかし、この遺跡に関係の深い『政基公旅引付』とその多くの研究にあらためて触れたところ、いくつか見落としていた点があったことに気づいたため、それをふまえたときの遺跡の見方についての考えを整理し直しているうちに、朝になり夜になりの日々がこの数日続いて、再び四苦八苦の状態になっていた。

日根野荘とは、文暦元年(1234)に現在の大阪府泉佐野市につくられた九条家の荘園である。つくられた時は、鶴原・井原(南中安松)・日根野・入山田の4村に加えて、一時は上之郷村もその領域にあったと言われる(現在の泉佐野市の大半)広大な荘園で、その様子を描いた鎌倉時代の鮮明な村絵図でも有名な、この業界で最もメジャーな荘園のひとつである。

そもそも五摂家の一つである九条家は、藤原兼実(1149~1207)からその邸宅の名称をとって始まった家系で、鎌倉時代は幕府と深い関係をもち、政基の時代は室町幕府の有力管領だった細川氏と姻戚関係をむすぶなど、中世京都の中で政権との関わりを強く維持し続けた代表的な公家勢力だった。もちろん政基も右大臣、左大臣そして関白を経た人物で、当時の最高権力者だと言って良い。

しかし室町時代の後半を過ぎる頃から、和泉の守護だった細川と紀伊の守護だった畠山(プラス根来寺)の勢力争いに巻き込まれ、領地も侵食され、政基がここへ来たときは九条家の支配の及んだ場所は日根野村と入山田村だけだったと言う。
日根野村は現在の慈眼院を中心とする一帯、入山田村が今回の話題の中心となっている大木の集落にあたる。そしてその現地役所が日根野村は無辺光院(慈眼院)と戒躰院、入山田村のそれが長福寺だったのである。

発掘調査の結果、政基がこの場所で過ごした時期に対応する15世紀後半から16世紀前半の建物跡や池や井戸などがみつかり、日々の生活を物語る資料も出土した。なかでも建物跡は堂跡と推定される特徴があり、政基が滞在した長福寺の施設だった可能性が高いと考えられる。標準的な遺跡の調査ではこれだけでも十分な成果である。

けれども鋤柄の遺跡の見方では、これだけでは満足しない。
政基がここで生活をしていたことがわかったことが、日根野荘の歴史にどのような
意味を与えるのだろうか。
地域の歴史の中における遺跡の位置づけが説明できなければ本当の意味で遺跡を歴史資料として考察したことにはならない。
この遺跡から復原される政基の時代の大木地区(入山田村)とはどのような姿をしていたのだろうか。
長福寺はこの村の中でどのような役割をはたし、政基はそこでどのような生活をしていたのだろうか。それは政基の日常生活のことではない。高級貴族であった政基がその支配地へやってきて、ここで過ごしたことの「歴史的な」意味である。
さて、それをどうやって語ろうか
ひとつの遺跡を見ているだけではそれはかなわない
もっと視野をひろく、もっと歴史情報を集めて

手がかりはしっかりある
それが『政基公旅引付』、そして地形、字名、金石文などなど
その記録は、政基が子の聡明丸を管領細川氏の養子に出した関係を背景に、守護方の侵食によって弱体化した荘園を回復させようとした文亀元年(1501)3月~永正元年(1504)12月までの入山田村での日々を綴ったもの。
守護などの動向をはじめとして、惣村の日常生活の具体的様子や風流踊りのような芸能に都の人に劣らぬ洗練さをみせる村人の姿もこまかく描かれている。
戦国時代の村の様子を知る上でこれ以上の無い好資料である。
原文はもちろん筆書きの古文書であるが、幸いなことに『泉佐野市史』にその詳細な解説があるので、考古屋さんでも勉強ができる。

四苦八苦しながら絞り出したこだわりは3つ
ひとつめは、政基が日根野村ではなく、入山田村に滞在したのはなぜか?
政基が積極的に入山田村へ来たのか、あるいはそうでないのか。
それによって長福寺の風景がまったく違ってくる
ふたつめは、入山田村の中でも大木に滞在したのはなぜか?
入山田村は大木・菖蒲・船淵・土丸の4つの村からなっていて、それぞれが独立した共同体の仕組みをもっていた。その中で政基はなぜ大木をえらんだのか?
先入観無しで地形と字名を見ると、プリミティブな中世前半のヤトダ開発の荘園景観としては、菖蒲(中大木)に残る「五所の内」のあたりが、最も地域拠点を置く場所としてふさわしい。それなのに、なぜ政基は大木にいたのか、である。
みっつ目は、それらをふまえたときに発掘調査の結果はどのように見ることができるのか
とくに堂舎が消えた後につくられる17世紀初めの「かまど状遺構」(堺の大商人と同じような中国製の陶磁器をもっていた人の施設)とは一体なんなのか、である。

なんとかこれで本当の意味での遺跡の見方になったかと思って就寝

鋤柄的な解答は
・現在の大木に見える3つの時代のモニュメントの整理
・政基の時代の大木のポイントは、3つの村それぞれにあった寺とその(概念としての)上にあった滝宮と円満寺の役割

こまかな説明は授業で話そう
四苦八苦していたのは、従来の見方に縛られていたことが原因
これまでの鋤柄の見方は条里地割りのあるような平野部の村が多かった
大木も無意識なままその見方をしていたが、大木の主たる生業は山の産業や商業だった。現地や現場をみていたつもりだが、まだまだ見方があまかったようだ。
今回四苦八苦しなければ、よくあるステレオタイプ論者になっていたかもしれない。

さらに研究史を調べていて、石井進先生が学生を連れてここを歩いていたことを知った。今回の調査では実は大木の3分の1ほどしか見てまわっていない。現場を歩くことを重視するのは、文献も考古も同じだが、遺跡を本業とする考古はもっと現場の廻りをあるくことにこだわらないといけない。
四苦八苦したおかげでとても良い勉強ができた。
平野部の村と山間部の村と都市と
来年の授業では、有志を募ってエクスカーションでぜひ歩きたいと思う。

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