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2006年1月

2006年1月31日 (火)

秋学期が終わりました

1月は、秋学期の終わりの月。
年度末の試験もあり、あわただしい日々が過ぎていく中で、気がついたら行ってしまっていた。
しかし文情の1期生達は、春学期の試験に比べたら大分余裕が出来たようで、早くも新しいプロジェクトへの動きをはじめている。

年頭に決めた食文化の自己記録の1月分の集計は次の通りである
全ての食が網羅されたものでないことは、主食の数が足りないことからもわかる
データをとるということは大変なことである
パン(21)、飯(20)、酒(15)、うどん(12)、ラーメン(5)、そば(2)、すし(2)、マカロニ(2)、シチュー(2)、トウモロコシ(1)、カレー(1)、餃子(1)、コーンスープ(1)、焼売(1)、スパゲティ(1)、ビーフン(1)、もち(1)、やきそば(1)、スパゲティ(1)、コーヒー(15)、豆腐(7)、みそ汁(4)、大豆(2)、納豆(1)、湯葉(1)、カシューナッツ(1)、もやし(1)、たまねぎ(14)、白菜(11)、だいこん(10)、きゅうり(9)、じゃがいも(9)、キャベツ(6)、にんじん(4)、レタス(4)、トマト(4)、ごぼう(3)、おくら(3)、蓮根(2)、高菜(2)、水菜(2)、ねぎ(2)、ピーマン(2)、こんにゃく(2)、かぼちゃ(1)、セロリ(1)、なす(1)、さといも(1)、菜の花(1)、しいたけ(3)、えのきだけ(2)、えりんぎ(1)、なめこ(1)、生姜(2)、唐辛子(1)、ごま(1)、たらの芽(1)、いよかん(5)、みかん(3)、いちご(2)、ぼんかん(1)、ぶり(はまち)(5)、あじ(2)、さけ(身)(2)、たちうお(2)、めだい(2)、ふかひれ(2)、しまあじ(1)、あんこう(1)、あなご(1)、さんま(1)、いわし(1)、ひらめ(1)、あいなめ(1)、まんぼう(1)、いさき(1)、かれい(1)、すずき(1)、あんこうの肝(1)、さば(1)、しらうお(1)、たい(1)、ふぐ(身)(1)、まぐろ(1)、わかめ(1)、のり(1)、かに(2)、たこ(2)、えび(2)、いか(1)、うに(びん)(1)、赤貝(1)、つぶ貝(1)、ほたて(1)、いしがき貝(1)、チーズ(10)、マーガリン(8)、鶏卵(6)、牛乳(3)、ヨーグルト(2)、鶏(10)、豚(9)、豚の加工品(6)、牛(2)、牛の加工品(1)

2006年1月30日 (月)

洛中洛外図と寒梅館その1

2005年1月28日に新町今出川下がるのペアーレ京都でおこなわれた
京都市考古資料館文化財講座のさわりです
タイトルは「寒梅館地点の3つの謎をめぐって-洛中洛外図を発掘する-」
http://scoophand.cocolog-nifty.com/kyotokoko0501.mp4

2006年1月27日 (金)

参考文献の整理

2002に書いた「中世陶器に見る東海の拡散」『東海学が歴史を変える』五月書房と、2003 に書いた「北の「城」と南の「城」」『遺跡と景観』高志書院に関係するもの

・井上正「美濃・石徹白虚空蔵菩薩坐像と秀頼伝説」
・宮田進一1998「越中瀬戸の成立と展開」『情報と物流の日本史』地方史研究協議会
・白木原和美1975「類須恵器の出自について」『法文論叢』熊本大学法文学会
・池田栄史1993「南島の類須恵器」『季刊 考古学』42
・美濃口雅朗1997「樺番城窯跡の中世須恵器(1)」『肥後考古』10
・白木原和美1972「類須恵器集成」『南日本文化』6鹿児島短期大学付属南日本文化研究所
・赤司善彦1991「朝鮮製無釉陶器の流入」『九州歴史資料館研究論集』16
・赤司善彦1999「徳之島カムィヤキ古窯跡採集の南島陶質土器について」『九州歴史資料館研究論集』24
・安里進1991「沖縄の広底土器・亀焼系土器の編年について」『肥後考古』8
・白木原和美『南西諸島の類須恵器』
・大西智和1996「南島須恵器の問題点」『南日本文化』29
・荻野繁春1989「「樹枝文痕」からみた東アジアの中の中世日本陶器」『福井考古学会誌』7
・出合宏光1997「下り山窯跡研究ノート」『肥後考古』10
・佐藤伸二1970「南島の須恵器」『沖縄の社会と習俗』
・嵩元政秀1971「再び「グシク」について」『古代文化』156
・安里進1975「グシク時代開始期の若干の問題について」『沖縄県立博物館紀要』1
・當眞嗣一2000「考古学から見たグスク時代考」『古代文化』52
・出合宏光2000「九州南部における平安時代の土器・陶磁器」『中近世土器の基礎研究』15

・石井進1968「九州諸国における北条氏所領の研究」『荘園制と武家社会』吉川弘文館
・飯田久雄1968「平氏と九州」『荘園制と武家社会』吉川弘文館

豊田武1951「中世に於ける神人の活動」『東北大学文学部研究年報』第1号

2006年1月25日 (水)

お気に入り

STAND BY ME
1959年の夏、オレゴン州の、キャッスルロックで12歳の少年たちが体験した2日間の冒険を描いた名作である
原作はスティーヴン・キングの短編小説
監督はロブ・ライナ
主題歌はベン・E・キングのヒット曲
忘れかけていた青春時代を思い出して思わず心が熱くなる

とにかく長くどこまでもつづく線路が印象に残る
そして冒険を終えて帰ってきた時の町に入る風景も
彼らの前に続く長い人生そして帰ってくるところ、そして友達
STAND BY ME

2006年1月24日 (火)

没個性な都市と個性的な都市

2000年4月17日に書いたメモが出てきた。書き出しは面白いが、後半が不熟のままである。面白いので少し手をいれて載せる

 中世の都市における住人の価値観の多様性についてもう一つ加えると、中世の都市はその地域の中で非常に個性的な存在であるが、実は列島の中でみると没個性的な存在であったように見える。それはそれぞれが基本的に自己完結的であったこと、再生産を自己の内部でおこなうことができた、という特徴による。中世都市の研究のある面に、そういった評価がなされた理由のひとつはここにあると思う。
 誤解を恐れずに言えば、たとえば平国香の時代から北条氏の時代だろうか。
 一方これに対して、村落は一般に没個性的な存在と思われていたが、それは農村のみを見ていた場合で、実は「工村」や「商村」といった様々な顔をもつ村が各地にあることがわかってくると、地域はそのような様々な特徴をもった村がそれぞれ必要な役割分担をして成り立っていた、ということになり、実はそれぞれの村は実に個性的だったということになる。それを実証したのが南河内の鋳造村落遺跡研究である。
 しかるにある時期から都市とよばれるものも、それぞれの地域とそれぞれの為政者にとって有利な再生産の事情を反映した構造をとりだしはじめ、それが汎日本的に見てもそれぞれ違った個性を見せてくる。そしてそれが当然流通に反映され、モノの動きや分布にも変化が現れる。もちろんその背景にあるのが政治・経済・宗教その他様々な要因だろう。
 誤解を恐れずに言えば義政以降の時代だろうか。
 中世の都市と呼ばれるものの研究には、このような時期を異にした2とおりの姿があったことを考慮する必要がある。そして消費についても、村落の集合としての「都市」の消費と、そうではない、村落とは異なった消費のありかたと、2とおりがあった可能性も考慮する必要がある。
 それでは後醍醐から義教の時代はどうか

2006年1月23日 (月)

歴史は現場で

Hi330230 八幡市で分布調査の打ち合わせをするために丹波橋で近鉄から京阪に乗り換えた時にテレビでやっていたICOCAとPITAPAの相互利用開始を思い出したので思い切って京阪の改札にICOCAをあてたら正常に反応があっていやはやまた新しい時代が始まっているなあと思いながら淀を過ぎて八幡市駅へ。

新御堂を梅田に向かうときに渡る大きな川が淀川だと思っている人が多いだろう。それも正解。しかしあれは人口の放水路で元々は大阪城の北を流れる通称大川が本流。伝説によれば、あの川底には夏の陣で城を逃げ落ちた多くの女房達が、一緒に持たされたという竹筒に金を流し込んでつくったインゴットが沈んでいるという。
いずれにしても河口は大阪湾との接点ということで良いが、それでは起点はどこかというと、それが京阪八幡市駅の北から橋本あたりの木津川(京田辺キャンパスの東を南北に流れ、大久保から南へ行く途中で新田辺の駅の直前に渡る川)と宇治川(桃山御陵の南を流れている川)と桂川(嵐山の川)の合流点。通称三川合流という言い方もするので覚えておこう。

ところがこの三川合流の場所が時代で違う。とくに江戸時代までは木津川は現在よりずっと東の京滋バイパス久御山淀インターチェンジのあたりを北上して桂川に流れ込んでいたことが地形の観察でわかる。ちなみにこの久御山淀インターチェンジが、あの有名な「踊る大捜査線movie2」でレインボーブリッジになったところ。つまり現在の八幡市駅北一帯の木津川は明治初年に川になったところで(詳細は淀川資料館http://www.yodo-museum.go.jp/index.html参照)、江戸時代以前は普通の陸地だったのです。

八幡市の南に位置する男山の山頂にはあの有名な(宇佐八幡宮から勧請され、平安京の南の護りで、源氏一族の信仰を集め、全国のいたるところにある)石清水八幡宮があるが、現在の風景からは繁栄をとげたその門前町の姿を思い浮かべることが難しい。シュリーマンではないが、明治の初年に造られた現在の木津川の下にその町並みが眠っているのではないかと思っている。平安時代は多くの天皇が訪れ、鎌倉時代には頼朝が精神のよりどころとした神社の街のにぎわいとはどんなものだったのだろうか。水の少ない季節には井戸枠など町の痕跡が川面から姿を現す。これが木津川河床遺跡である。モノを調べて場所を確かめて史料を読んで。
歴史は現場でおきているんだ
これで雪が降っていなければ最高なんだが・・・・・

2006年1月19日 (木)

いろいろなこと

この数日、情報と現代社会にかかわる問題が噴出している
情報に対する実質的な管理体制が弱かったとの論評が多い
別の言い方をすれば情報に対する意識の問題だと思う

ある年表によれば、アメリカでインターネットの研究が始まったのは1957年
(鋤柄の生年は1958年だが、これは偶然か歴史的な必然か)
日本でインターネットの商用サービスが始まったのは1992年だという
そう言えば記憶にある最初のネットはパソコン通信だった
鋤柄がまともにインターネットを活用はじめたのは1990年代も後半だったと思う
たぶんまだ10年経っていないだろう
日本における情報との関わり方はまだ幼年期の真っ最中なのである
情報と人間社会との本当の意味での付き合い方ができるのはこれから
これも文化情報学部が担わなければならないテーマ

丹波と丹後と但馬と若狭について少し
『丹後風土記』逸文に丹波郡比治里にある奈具社創祀に関わる伝承がある
・比治里の比治山の頂上に真奈井があって、そこで天女8人が水浴をしていた
 比治里の老夫婦がその衣を隠したので天女が天に帰れなくなった
 天女は美味しい酒をつくることができたが、苦労をかさね、やがて奈具社の神となった
・古代、丹波や但馬沿岸部に常世信仰があった
 丹後国竹野郡に生王部神社
 但馬国出石郡に大生部兵主神社
 天平勝宝2年の記録に出石郡穴見郷の住人として大生直山方
 若狭国三方郡常神社
 石見国常世国社
 スクナビコナ神は出雲から常世に渡る
・これらの伝説は、丹波・丹後と大陸との交流のを物語る
それから、但馬については、但馬考古学研究会編による「古代但馬と日本海」という本がある
富山学研究グループによる「環日本海、その新たな潮流」も参考になる
 なお、森浩一先生が続けている春日井シンポジウムのテーマの中で東海と北陸の関係がとりあげられているが、その根拠のひとつが、古代氏族における丹波と三河のつながりである

木立雅朗2004「北陸における「古代寺院」研究の課題」「金沢市史会報」20
木立雅朗2003「「刷毛目」調整と工具の基礎的研究1」「立命館大学考古学論集」3
木立雅朗2005「近世鉛釉系陶磁器の窯について」「立命館大学考古学論集」4
法蔵寺鳴滝乾山窯址発掘調査団・立命館大学文学部2005「鳴滝乾山窯跡」

2006年1月18日 (水)

歴史をプロデュースした人々

 同志社大学がすすめている文部科学省のCOEやGPの中で、鋤柄は「平成16年度 現代的教育ニーズ取組支援プログラム」による『プロジェクト主義教育による人材育成 「プロデュース・テクノロジー」の創成』に関わっている。
 これからの時代に必要な人材のキーワードのひとつは、実践的でさまざまな問題を克服していける力である。いわゆるプロデューサーという人物に象徴されるこの力であるが、このプログラムでは、それを個人の資質に頼るだけではなく、適切なトレーニングによって獲得しうる普遍的な要素として抽出し、それを教育に活かすことを考え、メディア業界にとどまらず、さまざまな分野についてのプロデュース的な事例を集めて研究をすすめてきている。
 鋤柄の場合は、当然歴史にその題材を求めるわけであるが、一般的に言われるような卓越した能力やチャンスに恵まれた人物ではない歴史の事象の中から、にそういった人物や環境が求められないかを課題として、これまで何人かの歴史家と討議をおこなってきた。
 その結果、古代・中世における歴史の動態を政治のプロセスに注目して見ていく中で、最終決定権者が、その意志を固める際に働いた要素として、判断を支援する情報の蓄積である「文書」とその「文書」にかかわった人物にスポットをあてることが必要との指摘を受けてきた。
 一般に古代・中世の歴史の表面に残されるのは、それぞれの時代の覇者である。そして歴史というものは、そういったそれぞれの時代の覇者が意志を決定し、時代をつくってきたとして語られてきた。もちろんそれぞれの時代の変わり目において、次の進むべき道を決めたのは彼らであり、その意味においてそういった歴史の説明に間違いはない。
 しかし、その内部をみれば、かれらにそういった決定をくださせた仕組みが当然あったのであり、それは下さなければならない決定が重いほど、大きいほど単純ではなくなる。
 国家の運営に関わる決定とはまさにそういった決定であり、その意味でそれぞれの時代の覇者達は自らが下したと思ってはいるが、あくまでそういった決定を下すための支援のプログラムの中で動いていたと言えることにもなるのである。
 そういったことを考えたとき、歴史資料として登場するのが決定の判断基準の根拠となった情報の集積としての「文書」であり、それを最終決定権者につたえた人たちの働きであった。
 彼らは平安時代は家業として情報を集積し、「日記」という形でそれを財産として残し、その影響力を維持した。情報を共有化してかつそれを使える人間関係を家業としてもつことで、情報の収集に関わりながら社会の中で認知された立場を最大限に利用して人間関係を広げていき、人的なネットワークのコネクションも自動的にひろく形成する。そのことは、その家業が維持された古い家というものが横のつながりが大きいため、さらに情報の収集がすすむという相乗効果を生み出すことにもなった。
 彼らは情報のでどころの信頼性と、複数の情報源を比較してそれを見分ける能力を伝統的にもつようになり、中には金売り吉次などといった商人や密教といった宗教者との関係も利用するようになる。そして時には編集や編纂という行為によって情報操作もおこなった。さらに時代が下がれば、人は抽象的な原理だけでは動かないため、自分の方針を納得させるための会議をひらき、秀吉は情報を集めて信長にプランの正当性しっかり説明したとされている。プレゼンテーションの能力も彼らに求められた重要な要素となった。「文書」は、その根拠となった重要な情報の集積だったのである。
 古代・中世の歴史をふりかえり、いわゆる歴史の表面にでてくる卓越した人物以外で歴史を動かしたものを考えたとき、そこに見えてくるのは、政治の最終決定権者の意志を操ったとも言える多くの情報収集者とかれらの存在を維持させた(結果が革新であったとしてもあくまで前提は)先例にならう社会制度および彼らの家業組織ではなかったかと考えられる。別の言い方をすれば、プロジェクトを遂行する際に、いかに失敗を防ぎ成功を呼び込むかのノウハウの集積と言っていいかもしれない。そしてそれが従来より歴史研究が担ってきた最も大きなテーマにもつながるものであることは言うまでもない。
 歴史に普遍的なプロデュースを学ぶとするならば、たとえばそれは藤原実資にさかのぼるような、家業として維持されてきた情報の収集と活用の力であると言えるのではないだろうか。

今日は2006年初めての上京プロジェクト会議
正月明けはじめてゆっくり学生君たちと話しをする
完成直前の散策マップを確認した後、上京探訪館webと知恵袋の打ち合わせをする
わいわいと言いながら仕事が進んでいく
楽しい
早いものであと数日で秋学期が終わる
上回生は卒論や修論に立ち向かい、1回生は初めての後輩を迎える時が間近
あせらず安易な近道を選ばず結論を急がず
時間がかかったとしても、たくさん試行錯誤をして知識ではなく経験を蓄積して
自分の中にいろいろな色や大きさの引出を作ってほしい
まずは試験ガンバレ

2006年1月17日 (火)

あれから11年たつ

1995年(平成7年)1月17日(火)。あとからの記録を読むと午前5時46分52秒だったという。
テレビをつけると確か阪神高速松原線の画面が写っていたような気がするが、あるいは大坂城の事務所に着いて見た映像だったかもしれない。
家の様子を確かめると、サラリーマンの習いにしたがい、ともかく事務所へ行こうと駅へ向かう。6時半をまわっていただろうか
列車ダイヤは乱れていたが、まもなく各駅停車が来たので乗り込む
西大寺でもそれほど待つことなく乗り換えが出来たように記憶している
いつもは生駒から地下鉄中央線に乗り換えるのだが
さすがに停まっており、そのまま生駒の西麓を駆け下りる
上本町で降り、地上に出て谷町筋を歩いて府庁へ向かう
大きな地震だということはニュースで知っていたが、谷町界隈にそれほどの影響はみられなかったと思う。
府庁の整備事業に伴う大坂城跡の発掘調査事務所は、1階が駐車場でその上に2層のプレハブでつくられた構造になっていた。
ゆえ、遺物のおかれた棚も机も倒れているだろと思いながら階段を駆け上がる。
ちょうど9時の出勤だった。

1週間か10日ほど経ち、友人を訪ねて東灘へ入った。西宮までは電車があり、そこから徒歩で西へ向かった。道路が波打っていた。家が崩れていた。テレビで見ておりわかっているつもりだったが、テレビとはまったく違った風景がそこにはあった。幸い友人とその家族は無事だったが、妙に乾いた空気と重い空がひろがっていた。目の前には、テレビに映された断片ではなく、アナログでシームレスな全体がひろがっていた。
これが現実だと思った。そしてこれを伝えなければならないと思った。

しかし、それはどんな言葉を使っても、どんな映像を使ってもそれは伝え尽くせないものだった。どんな言葉でもどんな映像でも表現し得ない、現実という膨大な情報のかたまりのすごさを思い知られた。
事実を正確にアーカイブして、さらにそれを伝えることの難しさを思い知らされた。
歴史研究における臨場感と歴史叙述へのこだわりがうまれたのはこの時だったのかもしれない

一昨年の1年間、神戸で考古学を教える機会があった。また平清盛とのつきあいでしばしば神戸を訪れた。
新しい街が次々とうまれ、あの頃の面影は少なくとも表面上はすっかり無くなっていた、と思う
歴史を研究するということは、実は途方もないことである
けれどもそれはとても必要なことなのでもある

2006年1月15日 (日)

写真測量ソフトによる実測の実験01

http://scoophand.cocolog-nifty.com/pi3000demo.mp4 遺物実測を写真測量ソフトのオルソ画像から作成する実験の映像です

2006年1月14日 (土)

柿とポッドキャスティングなかわらけ

Ichidakaki長野県の郷里から干し柿が届いた
市田柿という
市田は地名である
長野県の南部、伊那谷に所在する
http://www.navitime.co.jp/map/?datum=1&unit=0&lat=%2b35.32.45.797&lon=%2b137.53.22.500
天竜川の流れる伊那谷は、全国的に河岸段丘の有名な場所で
毎年秋になると、その下の段は濃い川霧につつまれるという

伊那谷の干し柿はそんな環境の中、しっかり干されて水分が抜けてタンニンが固まって渋が抜けていくと言う
渋の抜けるくわしいメカニズムはよくわからないが
ビタミンが豊富で風邪や二日酔いに良く効くと言われる健康食である
子供の頃はあまり食べなかったが
最近はこの甘さが好きになって冬の楽しみになっている

ところで柿の渋は歴史の分野に無関係ではない
考古学は腐って無くなってしまうものや再利用されて最初の姿をとどめていないものが苦手で
そのくせそれをいつも忘れがちになっているという面をもっているが
旧石器時代だからといって石器だけで生活がおこなわれていたわけではなく
縄文時代だからといって土器だけで生活がおこなわれていたわけでない

その忘れられがちででもとても重要なものが木製品
(その次が再利用されて当初の姿が忘れられてしまう金属製品)

そのため、いつの時代の木製の皿や椀がどんな形をしてどのように使われていたかはよくわかっていない
一応、平安時代(9世紀)には現在の多摩ニュータウンで白木の皿が使われていたことがわかっているが、それはおそらく神事に伴うもので日常生活の容器についてはわからない
鎌倉時代後半以降になると、ようやく漆器が多く見つかってきて、考えてみたら当たり前だ

が日常生活に木製品が多く使われていたことが考古屋さん達にもわかってくる
ただし見つかっているのは京都のクリスタルビルの南や鎌倉や草戸など一部でいたるところから見つかっているわけではない
実はいたるところから漆器椀が見つかるのは室町時代後半以降になってからである
なお室町時代後半という時期は、漆器以外にもそれ以前あまりみられなかったさまざまなものが普及するという不思議な時代である

それはともかく鎌倉時代後半にはあったことがわかる漆器椀だが、その始まりは平安時代後半だったらしい。もちろん漆をコーティングに使う技術は縄文時代にさかのぼるが、その後一般にはあまり姿をみることなく、再登場が平安時代後半だということなのである。
ただし、そこにつかわれたのはいわゆる漆だけではなかったという
「柿渋」が白木の上にほどこされたコーティング材(柿渋と炭粉をつかった「渋下地」)で、それが安価な漆椀の普及を促したと言われているのである(石川県の四柳嘉章さんの研究)

最近ではおしゃれなクラフトショップで柿渋の使われているものがあるので知っている人も多いとは思うが、防腐効果や、防水性を利用して、染めや建材にも利用されているようである
先日寺町のオリエンタルなショップで中国製の赤漆椀を1000円で購入した
縁に布着せがあって、漆の粗塗りがそのまま残り、素朴な形も良かった
平安時代後半の初源的な漆器とはこんな感じだったのだろうかと思いながら

月曜日に立命館でおこなわれるCOEの研究会で話しをするのだが
イギリスのサイモン・ケイナー氏が「デジタル時代の考古学」を話す
鋤柄は日本での実践的な事例を話す予定だが
ポッドキャスティングの可能性に注目しているので
去年文化史特論でおこなったインターネット授業の一コマ「かわらけの文化史」のさわりを
載せて紹介してみようと思う

Photo

去年の冬に京田辺のローム館にあるスタジオで1人で収録したものだが
パワーポイントと進行と映像が同時に編集されて収録できるシステムだった
ところがそのデータがダイレクトにRealPlayerになっていたので
Aviに変換して編集するのがとても大変やった

http://scoophand.cocolog-nifty.com/kawarakedemo00.mp4(25秒の映像)

http://scoophand.cocolog-nifty.com/kawarake01-001.mp3(3分のしゃべり)

2006年1月12日 (木)

黒田日出男さんの群馬学の確立にむけて

森先生から平成16年度に、群馬県立女子大学でおこなわれた群馬学連続シンポジウムの記録集をもらった
第1回のシンポジウムで基調講演にたった森先生は地域学としての群馬のもつ「再生力」と「古代における卓越した文字の習熟度」が語られた。遺跡と遺跡から見つかった歴史情報を地域の特徴として解釈する見方はさすがである。
しかもそれを全体史を見直すキーワードとしても活かしている。学ぶことが多い。

なにげなく次の項目を見ていたら、東京大学の史料編纂所におられた黒田日出男さんがシンポジウムのメンバーになっていた
『謎解き洛中洛外図』でも有名な歴史家である
その内容を読んでいて「さすが」と思ったことがあった
黒田さんは群馬学をおしすすめるために3つの提案をしていた
第1の提案は「開かれた」研究のスタイルである
戦後の古代史には井上光貞先生や岸俊男先生に代表される「超特大な実証力を持った歴史家」がいた
ところがどんどん小粒になっていって
極端な場合、限られた時代の限られたテーマを専門にすると言って平気になってしまっていると。
それではだめで、地域学を本気でするならば、地域というテーマにかかわるあらゆる学問的なテーマについて「開かれた方法論や考え方をもって挑戦していくべきだ」と
特定のコンテンツについてやるだけではなく「開かれた学問の方法的な多様性と、いわばそれを渡り歩くようなスタイルの研究が必要である」と
それは「一種の総合性かもしれないし、多元的な方法論ということであるかもしれない」と

考古学を含む現在の歴史研究に最も求められている考え方であり、常に森先生が遺跡学あるいは地域学の意味として話をしてきたことである
これまでも繰り返してきたように、鋤柄が文化情報学部でめざす考古学の研究はまさにこのことであるが、いよいよ来年度から本格化する授業に熱が入りそうである

ちなみに黒田さんは、第2の提案として身体表現をあげている。関東や東北は関西とは違う身体表現があると言う。あくまで歴史家の発言である。非常に興味深いが、創造力が不足しており、これについてはうまく理解できない

本日の読まなければいけない本
・杉本宏2005『宇治遺跡群』同成社
・村井章介編集2005『港町と海域世界』青木書店
・佐々木幹雄 斎藤正憲2005『世界の土器づくり』
・菱田哲郎2005「古代日本における仏教の普及」『考古学研究』52-3

2006年1月11日 (水)

護浄院

Kiyosikojin 通称、清荒神(きよしこうじん)である
文化史特論を終えて、来年度の新しい授業の打ち合わせのために寺町丸太町へ行く
その後、今出川へ行くために寺町を上がりながら荒神口まできて思い出し東へ曲がる
すぐ北が鴨沂(おうき)高校(日本最初の女学校を前身とし、沢田研二の出身校としても有名らしい)で、道長の法成寺跡がその場所にダブる
平安京で言えば東京極一条下がるの東である
愛宕さんと並びおくどさん(かまど)の火の用心で有名な荒神さんがここである

天台宗常施無畏寺(じょうせむい)または常施寺と言って、本尊が三宝荒神尊となっている
寺伝によれば、光仁天皇(桓武の父)の宝亀2年(771)に、桓武の兄とされる開成皇子が箕面の勝尾山を開いたときに、荒神が出現したので、それを守護神として箕面の清(きよし)に祀ったのを始まりと言う
後小松天皇の時代(15世紀初め)に乗厳が高辻堀川の東と言えば、現在の四条通と五条通の中間の通りに移し(現在その場所に「荒神町」という町名が残る:別の見方をすれば室町時代の下京の南西隅の外)、慶長5年(1600)に豊臣氏の命でここへ移ったと言う
寺町の造営に代表される秀吉の京都改造は1591年前後で、秀吉は1598年に死んでいるので、1600年の移動が豊臣氏の命に依ったとしても、いわゆる寺町造営とは別の機縁によるものとなる

Kokaku 江戸時代も代々の勅願寺として霊元天皇や東山天皇が護摩供をおこない、その後も朝廷からの篤い信仰を受け続ける。巽(南東)の守護神とされたらしい。元禄7年(1694)に「護浄院」と命名。境内に君主としての自覚が強く朝儀復興をつよくすすめ、石清水や賀茂の臨時祭の復興を果たし院政をめざした光格天皇(1771~1840)の胞衣塚がおかれているが、これも朝廷の信仰のあらわれか。
不動明王は慈覚大師、如来荒神は乗厳の作

Rinkokan 久しぶりに新町キャンパスの新しい臨光館へ行く
ここは室町時代の後半、藤原家筆頭の近衛家の別邸があった場所
2004年に発掘調査をおこなって関連する遺構が見つかった
新しい臨光館ができる時にその一部を残して、建物にその位置がわかるサインを付けるように工夫をした
見事に1階の床に柱穴が表示してある
皆さんここから北が安土桃山時代の近衛家別邸の敷地です
やはりわかりやすいのは良い

2006年1月10日 (火)

こいつあ初春から

1990年代の前半、千葉県の佐倉市にある国立歴史民俗博物館である共同研究がおこなわれた
テーマは中世食文化の基礎的研究だった
鋤柄は西日本の土製食膳具と煮炊具の総覧と土製煮炊具の意味論で、例によって長い論文を書いた
思い起こせば卒論・修論に加えて、30代で書いた2本の歴博の研究報告の長い論文(48集と71集)と40のはじめに書いたやはり歴博の研究報告の長い論文(92集)が自分の研究の骨格になっている
その意味で歴博にはとても御世話になった
それはともかく、その時の論文で残念だったのは
中世食文化をめざしながら中世食器文化にとどまった部分多かったことである

原田信男さんが書いているように、中世史の研究テーマの中心は権力や支配と自由で
実は中身の濃い生活文化に注目されることがあまりなかった
しかし権力も支配も自由も、根っこはベタな生活文化に基づいた社会構造の上に成り立っているもの
ゆえ、リアルな生活文化と社会構造が説明できないような権力や支配や自由は、あまり臨場感の無い議論となってしまう
その点で権力や支配や自由と直接関係のなさそうな考古資料はベタな生活文化や臨場感のある社会史が描けるものと頑張ってはみたが
もちろん達成できたところもあるが、全てが満足できるものではなかった
歴史系の隣接諸分野を総合した考察を十分に行き届かすことができなかったのである
(その点については、48集や92集の方がお気に入りの作品である)

昨年の秋に、森浩一先生の「食った記録」が出た
森先生の20年間におよぶ生きた食文化のデータである
これは書けると思った
この膨大で貴重な生きたデータの鋤柄的な考察をしたいと思った
そこで正月休みの間、森先生の食った記録と格闘していた
古代の延喜式、中世の往来物、近世の日記類
比較する資料はいくらでもある
これまでアナログでシームレスな歴史の断片に過ぎなかったそれらの史料に対して
「食った記録」20年間のアナログでシームレスな歴史そのものである
面白いにきまっている
しかしどうしてもまとまらなかった
考えてみれば当たり前だった
500品目を越える食材と料理
知っている食材より知らない食材の方が多い
インターネットの切り貼りも効かない細かさ
こぎれいなまとめすらできるはずも無いのである
けれども愉快だった
身近なところにもこんな豊かな文化があるということ
じっくり考えていこうと思う

ということで鋤柄版「食った記録」を付けていこうと思う
そんな今日、もうひとつこの話題に良いエピソードが加わった

森先生の事務所で遅まきながらの新年の挨拶に行って
洋食屋の話しやらそんな話をしていたら
文藝春秋の「オール読物」の新年号で、丸谷才一さんが「食った記録」に触れた随筆を書いているという
あわてて今出川の書籍で買って読む
さすがのプロの目の付け所と文章のうまさに脱帽
やはりまとめきれなくて良かった
この年末年始の格闘は有意義だったと
こいつあ初春から縁起がいいわい

とは言え、今年のモットーは、「上手な時間の使い方」のはずだったが
10時から工学部のO先生とVIVID910の実験を始めたが、どうもうまくいかずドロー
お昼休みの迷惑を顧みずリエゾンと情報メディアをまわって、ともかく13時20分に興戸を出る
森先生の事務所をまわって15分そこそこで今出川へ
その後上京区役所で上京探索マップのほぼ最終に近い校正を渡して打ち合わせ
後は本当の最終校正をして色校正をすませば今月末には刊行予定
学生君たちが自ら歩いてつくった上京の探索マップ
出来上がりも反応も楽しみである
帰りに暗くなった寺町を下がって下御霊神社まで来て昼食を摂ってないことに気づく
やれやれと御池地下街のカスケードでパンを買って帰る

2006年1月 8日 (日)

podcastの実験その2

http://scoophand.cocolog-nifty.com/terakane.mp3をダウンロードしてください

3gppg2では認識できない場合もあるので。mp3も加えました

同じ年越しの寺町の鐘の音です

サイズは約500 時間は30秒

すでに高知大学の講座や東京都現代美術館が番組を提供している

興味大なり

podcastの実験その1

http://scoophand.cocolog-nifty.com/terakane02.3g2 をダウンロード

読売新聞のポッドキャスティングニュースを聞いてなにかとても不思議な気分になりましたが

とりあえず年越しの寺町の鐘の音を実験のその1でアップします

保存形式は3gpp2 ファイルサイズは308k

マニュアルによれば、ポッドキャスティングの受信ソフトでバナーのURLを登録すれば、自動的に更新を感知するそうな

2006年1月 4日 (水)

ご連絡

関係各位様

諸般の事情により、ブログのサイトを変更いたしました
直接リンクを貼っておられる方は
お手数ですが変更をお願いいたします

2006年1月 3日 (火)

個人的な体験3(北村弁護士)

Pict2589 元旦に行列の出来る法律相談所の特番があった
その中で北村弁護士の企画コーナーがあった
なにげなく見ていてびっくりした
母校が写っているのである
校舎はすっかり新しくなってしまったが
航空写真に写ったグラウンドと班室の場所は面影があった
(今は知らないが、当時はクラブを班と呼んでいた)

北村晴男弁護士
1956年生まれ、長野高校卒業後早稲田大学を経て現在北村法律事務所代表者
高校在学中は野球班に属し活躍
学年では3年先輩にあたるようだ
ただし鋤柄は野球班に属したことも無かった
(実は山登りをやっていた)
だから直接のつながりは無い

当時を思い出すと野球班よりサッカー班の方が印象に残っている
慶応出の政経の若い熱血教師が若者達の心を強く動かしていた
けれども確か1980年代の初めに、野球班は選抜で甲子園に来たことがある
現場をやっていて応援に行けなかったことが今でも悔やまれる

番組では北村弁護士の同窓の野球班のメンバーが集まって旧交を温めていた
つられて思わず記憶がさかのぼった
あの頃の長野高校は学生運動の名残がまだ生きていた
そんな先輩達が皆大人に見えた
金鵄祭(きんしさい)と呼ばれた文化祭では熱い討論会がおこなわれ
同時に熱い青春もしていた
そんな田舎町で一緒に遊んだ友人達にもう5年以上会っていない
みな年男の立派なおじさんだろう
なんぎやなあ
けれども暖かくなったら会いに行こうか

北村弁護士のために弁護しておくが
彼は本当は気さくな笑い上戸らしい
(あくまでネット情報)
なお猪瀬直樹さんは、たぶん一回り上の先輩にあたる

写真は根付きの松

2006年1月 2日 (月)

求肥巻再び

Pict2592四条河原町のデパートで求肥巻を買って大晦日に食す
ひきつづき京の食に挑戦を続ける

森浩一先生の「食った記録」と一緒の三ケ日を過ごしている
前にも書いたが、これは森先生が1981年から2001年までの間
毎日、食べた食材を記録したものである
きっかけは、考古学の説明でなされる、たとえばそれぞれの時代の食の表現への臨場感へのこだわりだと聞いた
もちろん森先生の関心は食におさまるものではない
重要なことは、学問的な探求心としての臨場感へのこだわりである
それを自らの課題として実践し、20年間の記録にしてしまうすごさである
そんなデータ主義な現場へのこだわりを今年も続けていきたい

さて、「森浩一、食った記録」に掲載されているデータを一覧すると
それだけでも発見できることがたくさんある
まず項目であるが
1:米・穀類(1ページ)
2:豆類(1ページ)
3:野菜(3ページ)
4:茸・木の実(0.5ページ)
5:香辛料系(0.5ページ)
6:山菜など(1ページ)
7:果物(2ページ)
8:魚類(3.5ページ)
9:海草類(0.5ページ)
10:甲殻類・軟体動物(1ページ)
11:貝(1ページ)
12:淡水魚および淡水生物(1ページ)
13:卵・乳製品・虫など(0.5ページ)
14:肉類(1ページ)
である

一般的な感想としては
圧倒的に多いのが魚類と野菜であるのに対して肉類が少ないことだろうが
貝類や甲殻類の種類の多さが驚きで、さらに豆類の多さも新鮮である
単純な見方が出来るとするならば、種類だけならば、米穀類と豆類は同じ扱いになることになる
また貝類も淡水魚以上の扱いになるが、これは今の錦を歩いても実感できる
さらにそれ以上に思うことは
同時代に生きている人間でありながら
知らない食材がたくさんあること
逆に言えば
この国には、現在以上に豊富で豊かな食文化がつい最近まであったということ
そしてそういった記憶というものが同時代にあってもどんどん消え去っていくこと
その危機感をリアルに実感し続けることが歴史家としての必須の感性

さて今年の仕事始めとして
「森浩一、食った記録」に学びながら、その文化情報的な臨場感を描いてみようか

2006年1月 1日 (日)

謹賀新年

Pict2603

正月を上京で迎えるため、午を過ぎて京へ向かう
宿へ荷物を預けてから錦へ入る
今年一番の人混みの中を西へ進む
おせち料理の材料や品々が並ぶ店店から
いつもと違った威勢の良い呼び声がかかる
気のせいか、鮮魚より川魚や貝や海老や海鼠に目が行く

夕方になって八坂さんに着く
数時間後の嵐を前にして屋台が店を広げ、おけら火用の縄の下では若者達がおにぎりを頬張っている。御守りや破魔矢を置くところもまだ準備中
本殿に詣ってから南へ向かうと2基の灯籠の前に人が集まりつつある
おけら火の灯籠である
マイペディアによれば「八坂神社の行事。大晦日から元日の朝にかけて神前に供えた削掛と薬草のオケラをたいて邪気を払い、参拝者はこの白朮火(おけらび)を吉兆縄に移して持ち帰り、元日の雑煮を煮たり、神棚や仏壇の灯明をともしたりする。」という
ちなみに、おけらとは「キク科の多年草で、高さ40~100cm。若芽は食べられ、根茎は蒼朮(そうじゅつ)または白朮(びゃくじゅつ)と呼ばれる利尿・健胃薬とされ」、正月の屠蘇(とそ)にも入れられると言う意外に身近なもの。
19時半前に、本殿の儀式をすませた宮司が灯籠に火を灯すと一気に煙が立ち上る。
700円で買った竹製の吉兆縄の先に火を移してくるくると回しながら四条通へもどる。
これがやってみたかった。

23時半をまわって宿を出る。
今出川を東へ向かう。
烏丸を越え、大学の正門から北へ折れ、相国寺へ
すでに鐘楼の前に人だかりが出来ている
毘沙門堂大路を東へ曲がり寺町をめざす
まもなく午前0時
寺町への出会いにあるのが佛陀寺、その北に十念寺・阿弥陀寺と続く
廻りの家から人々が姿を現し、寺々の梵鐘に集い始める
まもなく寺町の寺々から鐘の音が響き始める
新年の挨拶を聞きながら相国寺へもどる
鐘楼のまわりの列に入り鐘突を待つ
寺町も相国寺もそうだが、家族連れや高校生らしい若いグループが鐘突に集っている
これが普通の京の姿で、それがとてもうらやましい

年が明けたので、初詣で北野天神に向かう
千本通のあたりから車の量が増える
天神さんの前の交差点ではお巡りさんが交通整理に忙しい
ものすごい人の数である
屋台に挟まれた狭い参道を人波にもまれながらなんとか進んで初詣
ここでも若いグループの多さに驚く
カウントダウンイベントより、やはり京都は二年参りか
屋台をゆっくり見てまわりたかったが、あまりの寒さにあきらめて宿へもどる

元旦の朝、今出川の北と南で車の量が違うと思いながら地下鉄に向かう
途中で、根付きの門松を発見
京都駅で降り、東寺に向かう
いつも見慣れている京都駅が、日本の文化を代表する観光都市京都の玄関口として輝いている
東寺では新年の古道具市が開かれており、初詣にあわせておもわずアンティークの見学も
暖かく、これ以上ないくらいにきれいな青空の元旦だった
今年は全ての人にとって良い年でありますように

今年の目標
・必ず体力作り
・できればお茶
そして時間の上手な使い方

NHKのアーカイブを見てたら、炭手前の時に
播磨型土釜と呼んでいる素焼きの浅鉢が表千家の濡れ灰の容器に使われていた

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