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2006年2月

2006年2月28日 (火)

住吉大社で5世紀の建物跡みつかる

新聞によれば
大阪市文化財協会の調査により、大阪市住吉区の住吉大社境内から5世紀後半の掘立柱建物跡が見つかったという
大社の創建は4~5世紀と考えられていたが、今回の調査では、最も古い時期の建物跡(一辺4m)が5世紀後半と推定されるとのこと
また、蛸壺や土錘、中世の中国製陶磁器や北宋銭も出土

住吉大社南には仁徳天皇の時に「墨江之津」を定めたと言う伝承をもつ細江川がながれており、万葉集には遣唐使の出航の模様が記されるなど、古代の大和政権にとって難波津と共に外交的にも重要な港だったと考えられている
なおこの時(第9次)の大使は多治比広成(南河内を本拠とする氏族で摂津職も歴任

また住吉津は海上交通の要衝だっただけでなく、「磯歯津路」と呼ばれる東西道路や難波宮へ続く道や、さらに「日本書紀」の伝承から神功摂政2年に表筒男・中筒男・底筒男が「大津渟中倉之長峡」と呼ばれた現在の住吉大社の地に鎮められたことから、奈良時代前期には「大津」と呼ばれていたこともわかっており、あるいは現在松原を東西に横断する大津道の延長にこの地がおかれたとも思われるような陸上交通の要衝でもあった
なによりその地が古代の湊立地にふさわしい潟の一部だったとも言われる
(これははるか30年近く前に森先生の授業で聞いた話しだったろうか)

ゆえ、この津や社の近くには得名津や敷津や住吉邑や有名な大伴金村の宅など賑やかな風景がひろがっていたようである

住吉大社の起源は、神功皇后によるいわゆる新羅戦争の帰りに、先の三神を長門から招いたことにちなんだもので、神功皇后伝説という点では京田辺キャンパスの周辺に点在する鉾立の杉とか違わずの池と同じ雰囲気をもつ
しかるに本来的な起源は「澄んだ入江」が連なっていた(とは現在の状況からは想像できないが、いわゆる「潟」が古代の港の立地に重要だったことはやはり森先生が30年近く前に言っていたこと)ところで、その地の利を活かして海上交通に長けた津守の人々が育てたものであったろう
ちなみに出雲大社の場所が西に開いた潟の内側である点も同様なこととして注目される

いずれにしてもそんな場所で5世紀の集落が見つかったのは非常に面白い
なにが面白いかというと、その時期はいわゆる古墳時代中期の河内王朝の時代
現在の堺市と藤井寺市に集中する巨大古墳の時代である
古墳時代の研究というとつい古墳そのものにばかり目が行ってしまうが
古墳はあくまでお墓であって、実際に生活していた人々の様子は集落からみなければならないのである
ところがこの時期の集落がなかなかみつからない(法円坂の倉庫群は特殊)
けれどもあれだけ巨大な古墳がつくられたから当然大きな集落もあったはずで
そこで生活をしていた人々のために耕作地も大いに開発されて
南河内にはそのための運河がつくられたとも考えられてきた
しかしその運河の開発時期が7世紀に下がると言われる中
今回の発見は、あらためて5世紀における河内の大開発を物語る資料になるのではないかと思うのだが
注目していきたい
(4月からのプロジェクトの授業ではできるだけタイムリーな話しもとりこんでいきたい)

2006年2月26日 (日)

巣山古墳の木製品

23日の新聞によると
奈良県広陵町にある巣山古墳の周濠から多量の木製品が発見されたという。
種類は木棺の蓋や船形木製品、木偶などで「すべて人為的に破壊されいるため、「破砕祭祀」を行った」とされ、「遺体を古墳に運ぶ船形の葬送儀礼用の道具と推定」と発表されている。古代の葬送儀礼を復原するうえで貴重な資料だろう。
とくに木棺の蓋に刻まれた直弧文などが注目される。
この発見に対して、とある新聞が活用についてのコメントを加えていたが、これまでのような「発見記事」にとどまらず、その後の対応について関心を示した点でおおいに評価されるだろう。
以前から言ってきたことだが、「発見報道」も重要だが、その後の「活用報道」にも、もっと力を入れてもらえれば、多くの歴史遺産と社会の関係がより意味のあるものになると思う。
遺物は3月4・5日に広陵町南郷の町役場敷地内町文化財保存センターで公開されるという。
木製品などの保存が困難な資料のデジタルアーカイブによる活用も考えさせられる事例である。

2006年2月25日 (土)

きょうもあるく(木津川河床遺跡の研究の方法)

一週間前の天気予報が幸いにも外れて木曜日は薄曇りになった
気温も思ったより高い
23日は木津川河床遺跡の調査の3日目で最終日で採集日
初日がRTKのGPS測量と電子平板による杭列の測量
二日目が手書き断面図とGPSの基準点測位
そして三日目は遺物拾いの分布調査
ただし場所にこだわった調査にしたいので、やはりGPSを持って採集地の記録もおこなう
午前中は左岸の河原を歩いて午後は右岸を歩く
場所にこだわるというコンセプトに従い、鋤柄の100歩を単位に測位をして、その範囲で採集された遺物を記録する。また河原の幅が広いところでは川側と陸側にも分かれて測位する
採集された遺物は、古いものでは弥生時代の壺の底部、古墳時代の土師器壺、須恵器杯や甕。奈良時代以降では、土師器甕、11~12世紀の摂津型の羽釜、瓦器碗、土師器皿。一番多いのはおそらく13世紀位の瓦器碗や土師器皿そして京都型の瓦器釜や鍋、12世紀の京都型瓦器火鉢や15世紀の京都型瓦器釜も。16世紀の大和型土師器釜も。14世紀位の常滑甕や16世紀代?の信楽壺、14世紀代?の滑石製石鍋転用の温石。珍しいものでは10世紀代の須恵器碗などなど。
木津川河床遺跡は、古代中世の石清水門前にかかわるきわめて重要な遺跡である。
しかし遺跡の現況が河原であるため、採集される遺物が供給された元の厳密な場所がわからず、取り扱いの難しい遺跡でもある。
遺構が残っていて、それが川の水で洗われて遺物が顔を出した場合もあるだろう。その場合その遺物は、それがその場所(石清水門前)で人間との関係で本来果たしていた機能を忠実に物語ってくれる可能性がある。
しかしそうではなく、洪水によってはるか上流から流されてきた遺物がそこにあることも大いに考えられる。その場合、その遺物は石清水門前と無関係に人間との関係をもっていたことになる。
河原を歩いてどこかからたくさんの遺物が拾えたとしても、それはその近くに村の跡があった場合もあるが、そこが偶々川の流れによってものが溜まりやすい場所にすぎなかった可能性もあるのである。
そんなさまざまな遺物を前にして、ここでは、そのうちのどれが石清水門前と関係し、どれが関係しなかったかを判別し、それを元にした石清水門前の復原に挑戦しなければならないのである。
一見すると到底不可能のような気もする
しかし、大量のデータを駆使することで一定の傾向を導き出し、それを元にしたほかの事例との比較によって、これらの資料からの石清水門前の復原はまったく不可能では無いと思っている
実はこういった遺跡の調査に文化情報的な方法がうってつけではないかと考えている
重要なことは全体を把握するちからである
採集される遺物の多くは破片であるため、一般的な目視による年代や種別の識別は困難である
むしろ蛍光X線による胎土分析と色調のスペクトル分析によって腕力で分類する方が信頼性が高い
さらに採集状況に信頼性が低いならば、遺物による摩滅の様子の違いや、河川の砂の堆積の様子、そしてなによりも原位置を保っている川岸の断面情報から、より信頼性の高い歴史解釈の提案は可能だと考えている。
重要なのは、遺跡に対する歴史家としての問題意識と(それがそこにあることの意味)を常に念頭に置きながら、情報に対してどん欲であること、そして知的好奇心に対してタフであること

24日は上京の打ち合わせ。できあがった探索マップをもって、相国寺と上御霊社と宝慈院と宝鏡寺をまわる。それから知恵袋の編集材料を求めて和菓子屋と錦をまわる。錦ではたくさんの旬の京野菜に出会う。たくさん歩いて、たくさんの出会いがあって、そんな中から文化を考える力を養っていってほしいと思いながら。

2006年2月24日 (金)

上出雲寺と上御霊神社

「中昔京師内外図」によれば、現在の上御霊神社は、出雲氏の氏寺として平安遷都以前からこの地にあった上出雲寺の鎮守社でした。
小山寺とも呼ばれた上出雲寺は、上御霊社内にあって「延喜式」には御霊寺として載っています。
延暦年間(782~808)に最澄によってひらかれたとも伝えますが、元来はこのあたりに住んだ出雲氏の氏寺で、後に御霊会の修法堂として利用されるようになったと考えられています。
出雲郷は、山陰道から移動してきた出雲出身者たちが住み着いたところで、上出雲郷と下出雲郷のふたつ分かれて「和名抄」にも記されています。
また「正倉院文書」の神亀3(726)年の記録に「山背国愛宕郡雲上里計帳・山背国愛宕郡雲下里計帳」に出雲臣の名が見えます。
なお「延喜式」には「出雲井於(いのうえ)神社」と「出雲高野神社」が載っており、郷の範囲が高野までのびていたこともわかります。今、仮にこの関係を上下の出雲郷にあてれば、上出雲寺が上出雲郷の氏寺ならば、下出雲郷の氏神が出雲高野神社となり、賀茂川の右岸が「上」で左岸が「下」となり、その西に位置する山陰道との関係に対応する呼び名だったとも思われます。
(「山城名勝志」では下鴨を出雲郷とし、「大日本地名辞典」では上出雲郷が小山と鞍馬口、下出雲郷をその南としています)
ちなみに附近で出土した瓦や上御霊神社に保管されている瓦は奈良時代前期と考えられています。
平安時代以降の上出雲寺については、天安2(858)年には智証大師が住んだことがあり、
延長4(926)年の記録によれば、その伽藍は、凍(漆(七)カ)間肆(四)面で重層屋根の金堂と五間四面の講堂と五間四面の食堂と鐘楼があったといいます。
(ちなみに史料に登場する数字は、一が壱、二が弐、三が参、四が肆、五が伍、六が陸、七が漆、八が捌、九が玖、十が拾)
その後天徳2(958)年には、疫病流行に際して上出雲御霊堂ほか13カ寺で読経がおこなわれ、康保3(966)年の読経では、延暦寺・東西寺・御霊堂・上出雲寺・祇園とならぶ寺院として記載され、康和4(1102)の村上天皇の死に際しても、延暦寺・釈迦堂・上出雲寺・観空寺・醍醐寺・法性寺・弥勒寺とならんでいます。いずれも天皇や上皇の死後の霊を鎮める儀式に登場しています。
しかし平安時代末期には荒廃し、今昔物語には「修理加える人無し」と書かれ、山城名勝志には「観音堂が神殿の北にあり、それが上出雲寺の堂舎」ということで、中世には衰退して上御霊社の神宮寺化されたと考えられています。

一方上御霊神社の起源は2説あります。
1説は平安遷都の時に、大和国宇智郡(現在の五條市)から遷座したとのもの(出雲寺流記)
もうひとつの説は「神祇正宗」にあって、天慶2(939)年に「京極出雲路に御霊と称する道祖神として遷座」とあります。
最初の説にある宇智郡にあったの時の祭神は光仁天皇皇后の井上内親王で、元々は宝亀3(772)年に井上内親王が廃されて、その子の他戸親王が宇智郡に流されて死んだ後、そこに内親王を祀って宝亀8(777)年に建てたもので(水鏡ほか)、これが現在の地に遷座の後、延暦24(805)年に早良親王(光仁天皇の息子で桓武天皇の皇太子となるが、藤原種継暗殺事件で逮捕)を祭神に加え、御霊を祀る社とされたと言われています。
とくに、桓武天皇の周辺で厄災が続いた時、怨霊を鎮めるための社として注目されたと言えます。
なお、先の出雲郷にともなう史料で、「延喜式」に「出雲井於神社」がみられますが、上御霊神社との関係は不明とされています。
平安時代から鎌倉時代は独立した神社として史料には見えず、康保3(966)年においても、疫病流行の折の読経所の一つ「御霊堂・上出雲寺」として登場(日本紀略)します。
史料に多く登場するのは上出雲寺が衰退する中世後期以降で、至徳元(1384)年、御霊神に正一位が与えられ、応永30(1423)年に足利義満が参詣、応仁元(1467)年1月18日、ここに布陣した畠山政長が畠山義就と戦って焼失し、その後も焼失しますが、足利氏の庇護により再興がなされています。
ちなみに件の応仁の乱勃発の模様については、御霊森(御霊社から相国寺にかけてあった森)に陣をはった東軍の畠山政長が西軍の畠山義就と戦い、政長軍が御霊社に火を放って退去したことを言いますが、「応仁記」によれば、「18火の早天に御霊へ押し寄せる。この御霊の森の南は相国寺の藪大堀(堀があった!)で、西は細川の要害(城塞?)なれば、北と東口から攻め入りける」とあります。
ちなみに、上御霊神社の南の「上御霊中町」には「藪ノ下町」と「藪之内町」があり、現在の相国寺の北東に「藪之下町」があります。さらに烏丸を西に渡ったところに「内構町」があり、さきの「細川の要害」をさすとも言われています。

2006年2月23日 (木)

万年山相国寺

永和4(1378)年に「花の御所」を造営した足利義満が、その東隣に築いた一大禅苑です。
約10年の歳月を費やして明徳3年(1392)に竣工しました。
開基は夢窓疎石で本尊は釈迦如来。
夢窓疎石(1275~1351)は伊勢国生れで、初め天台教学を学んだが、後に来朝した一山一寧に禅を学び禅僧にすすむ。隠遁癖が強く、美濃の古谿庵、土佐の吸江庵、三浦の泊船庵、上総の退耕庵、伊勢の善応寺、鎌倉の瑞泉寺、播磨の瑞光寺等を開くき、南禅寺・建長寺・浄智寺等の住持も務めます。京都臨川寺を本拠として西芳寺を開き、後醍醐天皇に国師号を贈られ、後醍醐天皇の冥福を祈るために天竜寺を開山した。造園にすぐれ西芳寺、天竜寺、鎌倉瑞泉寺、山梨恵林寺などに名園を残します。
また禅宗寺院を統制する僧録司の職が置かれ、春屋妙葩がその最初の職に任じられます。
春屋妙葩(1311~1388)は夢窓疎石の高弟(甥)で、南禅寺でその法を嗣ぎます。応安2(1369)年に延暦寺と南禅寺の争いによって一時丹後に隠棲しますが、康暦元年(1379)に還り、足利義満のときに天下僧録司に任じられ、全国の禅寺・禅僧を統括し、将軍のブレーンとして活躍。火災によって焼失した天竜寺・臨川寺を復興し、五山版を多数刊行して禅林学芸の振興に大きく貢献。義満創建の相国寺は夢窓を開山とするが、事実上春屋が初代とも言われています。
さらに京都五山(南禅寺を上位におき、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の第2位に列し禅宗行政の中心地として、五山文学の中心ともなりました。

ある意味で政治的な意味をもった寺院だったようにも思います。
伽藍は竣工後まもなく失火で炎上、すぐ再建にかかり、応永6年(1399)には高さ109mに及ぶ七重塔を造立して壮観であったといい、現在国立歴史民俗博物館にある洛中洛外図は、その上からの眺望を元にしたとも考えられています。
しかし応仁の乱ですべてを失い、のちに豊臣・徳川氏により再興されます、天明8年(1788)の大火で焼け、法堂以外の伽藍はその後の再建です。
京都御苑の今出川御門の北約200m位置に総門を置き、総門をくぐると参道がつづき、右手に塔頭寺院が軒を連ね、左手に三門跡・仏殿跡などの緑地がひろがります。奥まったところに法堂・方丈・庫裡・開山堂などの諸堂が立ちます。

・法堂は無畏堂と称し現在仏殿を兼ねる。慶長10年(1605)に豊臣秀頼が再建。重層の入母屋造、正面七間、側面六間の唐様建築で内部は瓦敷、中央須味壇に本尊釈迦如来、脇侍に阿難・伽葉尊者像を安置する。天井に狩野光信筆と伝える彩色鮮やかな蟠龍図がある。
・開山塔は法堂の東側にある。文化4年(1807)の再建。夢窓国師像を安置し、襖・杉戸絵は円山応挙筆といわれます。前庭は江戸時代後期に改作された禅院式枯山水庭園。
・方丈は法堂の北、庫裡の西側にあり、単層で入母屋造り。文化4年(1807)の再建。
・宗旦稲荷は開山堂の南で鐘楼の後。伝説で有名な宗旦狐をまつる。相国寺の雲水に化けて禅の修行をしていた狐がいたといい、塔頭の慈照院で茶会が開かれた時は千宗旦に化けてみごとな手前を見せ、その後も時々宗旦に化けたと伝える。

2006年2月22日 (水)

なんのなんの(vivid910ターンテーブル)

今年度事業のまとめ作業と来年からの授業に向けての準備作業をすすめている
火曜日は上京知恵袋のメンバーが集合して冊子の編集会議がおこなわれた
分担して宿題になっていたのはTさん担当の上京の四季のうつろいに連動して京のメジャーなイベントを載せようと思うのでその原稿と
Kちゃん担当の3月から9月までの節句にちなんだエピソードの原稿と
Nさん担当の季節を彩った旬の食べ物の原稿
それから表紙を飾る上京の街角写真
途中経過の話しでは「なかなかまとめるのが難しい」とのことだったが
なんのなんの
いずれも適切なポイントをおさえた原稿になっており一部はきれいな編集もおこなわれている
いやあ見事です
バラエティに富んだ街角写真も、上京のあちこちをめぐり歩いた臨場感あふれる作品ばかり
Image02 その中から、あんなことがあった、こんなこともあったという、その時の話しを聞きながら各自のこだわりのカットを選んでいく1時間
西陣の石畳、もののけ姫に出てきそうな猪、路地の奥の不思議な空間
1週間後にこれらを使ってレイアウトデザインの検討をしようというところでミーティングは終了
さて画像データをどうやって配ろうかと思うまもなく、なにげにUSBメモリーが出てくるあたりはすっかり文情に馴染んだかなという感じ
来週、院生のNくんが全体をまとめていよいよ大詰めとなります

今日はコニカミノルタのVIVID910という3Dレーザースキャナとターンテーブルを連動させた実験
これからの3次元資料の情報化に必須の機器になりそう
http://scoophand.cocolog-nifty.com/vivid-turntable0101.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/vivid-turntable0102.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/vivid-turntable0201.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/vivid-turntable0202.mp4
(各14メガ)

明日は木津川河床遺跡の分布調査
晴れたらいいな

2006年2月19日 (日)

嬉しいこと限りない(GPS受信機操作手順)

年度末ということで、小さなプロジェクトをいくつかまとめかけているが
いずれも学生君たちが、それらの経験を各自なりに自分のものにしてきている感じがわかる
3月4日におこなう上京企画では、現地でその勉強会をしたが
各地にちらばっているさまざまな歴史情報を関連づけてみることの重要性を感じてくれた様子
知恵袋関係では、冊子の編集コンセプトにむけてふさわしいコンテンツの制作に対する意識を会得してくれている
web関係でも最終形状のユーザーの求めをイメージしながら、必要な仕事に対する意識が高まっている
分布調査では遺跡の調査や採集資料へ興味を高めた学生君が、本での学びから本物への学びへ意識を高めている
嬉しいこと限りない

<参考>GPSソリューションズのNetSurv作業手順
Bitmap1アンテナ設置(端子は南)

Bitmap2 本体のスイッチを長押し




Bitmap5 PDAのスイッチを入れる
スタートボタンからRTK
初期化中
アンテナ設定
そのまま保存
条件設定
確認するだけ
衛星情報
確認
観測
左を下から順番に
この間に名前を入れる
フィックスしたら
観測
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閉じる
管理
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(杭2のレベル:7.026、杭3のレベル:7.345)

高橋慎一朗「室町期の都市京都における長夫勤仕の実態」『古代中世の政治と権力』吉川弘文館(ものぐさ太郎の歴史学)
諏訪考古学会編『藤森栄一を読む』新泉社(「資料」の学問より「人間」の学問へ)
中村博司2006「慶長3~5年の大坂城普請について」『ヒストリア』198
第20回国民文化祭越前町実行委員会『シンポジウム(山と地域文化を考える)記録集』
東京大学埋蔵文化財調査室2005『工学部1号館地点』(CD付き)
東京大学埋蔵文化財調査室2005『医学部付属病院外来診療棟地点』(CD付き)
横井孝「源氏物語の世界ー藤壺の宮の恋は書かれていないかー」『第31回国文科会総会』
横井孝「六条院の風景-『源氏物語』の庭園を再構築する」『源氏物語の新研究』新典社

2006年2月18日 (土)

大活躍(木津川河床遺跡分布調査2)

今日は木津川河床遺跡分布調査の2回目
断面図の作成がメインの仕事
御幸橋にほど近い4カ所の断面について、トータルステーションでレベルを移動して
GPS受信機で絶対位置をおとして、手書き断面図を作成する
まずは思いっきり基本の手書き断面図の作成を
1回生二人と上回生の組み合わせで作業開始
初めてとは思えないくらいけっこうさまになっている
http://scoophand.cocolog-nifty.com/danmen1.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/danmen2.MP4
次に思いっきり先端のGPS受信機による位置測量
前回に続いての作業なので上回生はもうすっかり慣れたもの
今回はしっかり1回生を教える役
http://scoophand.cocolog-nifty.com/kidugps1.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/kidugps2.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/kidugps3.mp4
おかげで1回生もすっかり上手くなり
手書き平板と手書き断面とGPS受信機は会得した模様
3月になったらPI3000でオルソ画像をつくって電子平板で京田辺の遺跡をデータ化しよう

2006年2月13日 (月)

木津川で遺跡情報取得実習

Dscn1774 好天と久しぶりに気温がわずかにあがった13日、八幡市の木津川河床に集合したのは、京大院のIくんと文3のMさん、Tくん、Tくん、文情3のNさん、Wくん、Hくん、そして調査主体の八幡市のYさんと技術のご協力いただいたSさん、Kさん、Hさん。
御幸橋から下流へいった右岸で簡単なミーティングをおこない、さっそくGPS受信機の操作に入る。
晴天で人工衛星は7つとれてコンディションは申し分ないそうで、順調に基準点を設定していく。
http://scoophand.cocolog-nifty.com/gps.mp4
約3分(12メガ)

次に中州に渡り同様に基準点を設定。ここでMさんとNさんとWくんは手平板部隊となって右岸の杭列の測量に向かい、Tくんはレベル移動のお手伝いにいく。
一方中州では基準点上にトータルステーションをたて、オルデコという電子平板を設置して杭の測量に入る。
http://scoophand.cocolog-nifty.com/e-heiban.mp4
約11分(40メガ)

もちろんみんなで手平板も。練習のかいがあって良い感じのチームワークができていました。やはり現場が一番の勉強の場です。
http://scoophand.cocolog-nifty.com/te-heiban.mp4
約2分

文情1回生には、初めての遺跡の体験で、いろいろな発見があったようです。
わずかに気温があがったとはいえ、やはり冬の河原は風がきつい分だけ消耗が激しいです。ゆっくり休んでまた明日会いましょう。おつかれまさでした。
次は断面の測量をします。だんだんと遺跡の見方を学びます。
Hくんが、今日の装備をリストにしてくれました。
トータルステーション足
トータルステーション本体
GPSポール
発電機
GPS受信機
GPSコントローラー(PDA)
電子平板
電子平板ケーブル
電子平板カバー
ケータイ
PDAカバー
長靴5足
アリタードセット
テープ
コンベックス
3スケ
レーザー測定器
平板の足、板
スタッフ
ドラム
デジカメ

2006年2月10日 (金)

上京携帯歴史ガイドはいかがですか(常在光院跡?)

今日の京都新聞電子版に、上京歴史探訪館企画の一環ですすめている、携帯電話によるガイドブックが記事で紹介されました
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006020900205&genre=I1&area=K1B

大阪城公園に次いで2番目です
技術的にはあっと驚くものではないですが
コンテンツとその活用によって生まれる新たな可能性はそれ以上のものです
これがまさに文化情報だと思います
もちろん新しい技術をこれからもどんどん組み込んでいきたいと思っています

明日からの京都観光には
探索マップと携帯ガイドと探訪館webの3点セットをお忘れなく

同じサイトに知恩院の庭園の地下から足利尊氏が東山山麓に創立した常在光院の庭園跡の可能性のある遺構が発見されたという記事がある
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006020900141&genre=M2&area=K1E
さすが京都は奥が深い
どこの時代のどこの地域の歴史研究でもそうであるが、科学としての立場を守るために
互いに関連が知られている最も信頼性の高い(と思われる)データのみで叙述をおこなうことが正当とされてきた
もちろんそれは正しい。
しかしそれを優先することで、断片としての信頼性の高いデータは叙述の中に組み込まれる機会を失い、その結果なにかどこかで聞いたような話しは多く聞かれるものの、ほっとしたりあっとしたりするような人間的な歴史叙述にはあまり出会わないような気がしている

一見矛盾するように思われるかもしれないが、鋤柄が文化情報学部で、デジタルと数量化をキーワードに目指しているのは、黒田日出男さんが言っているような、井上光貞先生や岸俊男先生、そして網野善彦先生や石井進先生に代表される「超特大な実証力を持った(人間的な叙述をした)歴史家」であり、その最も直接的な研究法が森考古学である
常在光院の話題は、そんな現在のスタンスをあらためて思い起こさせてくれた

2006年2月 9日 (木)

直前打ち合わせ(木津川)

Hi330233 来週月曜日の木津川河床遺跡の分布調査を直前にひかえて、本日午後からあらためて手平板測量の練習と直前ミーティングがおこなわれました。
ここで手平板と言っているのは、文化情報学部として電子平板を推進するための前提として、測量の基本を学ぶためのものです。
京大院のIくんが先生役になって田辺天神山遺跡で1時間ほど。みなのみこみが早くて素晴らしい。
引き続いて直前のミーティング
作業内容は
1、レベル(東京湾平均海水面の高さ)の移動。これは文3のTくんが担当。
2、堤防を降りて草原を抜けた河原にGPS受信機で基準点を2点おくこと。これは鋤柄が担当。
3、その場所にある橋の柱の測量は手平板で、文3のMさんと文情1のNさんとWくん
4、中州にGPSで基準点を設定
5、中州の橋の柱と石の範囲は電子平板で。これはとりあえず鋤柄と京大院のIくんと文3のTくんと文情1のHくん。これにレベル移動を終えたTくんと3のメンバーがくわわります。
6、最後に中州の断面図作成
みんなイメージはできたかな
月曜日、とにかく風が弱くてあたたかいことを祈りましょう

2006年2月 8日 (水)

社会へデビュー(上京探索マップができました)

Tansakumap 上京区との連携ですすめてきた「京都~上京区探索マップ~ 上京を歩く 其の弐」が完成しました
京大と同志社の学生君たちと一緒に歩いて、写真を撮って、原稿を書いて、デザインを考えてつくったものです
とくに文情の1回生たちにとって、形になった初の仕事
それも、具体的に社会とつながるもの
表紙のデザインはAさんの作品です
同志社大学では来年度からプロジェクト科目という実践形の社会と連携する授業をはじめるが、これからの大学は実社会とどのようにつながっていくかが大きなテーマとなってくる
今回完成した上京区探索マップは、上京に集中する平安時代以降の歴史遺産に注目したものであるが、文化情報学部では、さまざまな分野でコンテンツで文化情報された成果を社会に発信していくことができたら良いと思う
ちなみに今回のマップは鋤柄のこだわりで上京区にかかわる著名な遺跡や歴史資料の写真(洛中洛外図や明月記や平安時代と江戸時代の内裏図など)をふんだんに盛り込み、高校の修学旅行や大学の講義資料としても十分活用できるものになっている。
3月にはこの実際にこのマップを持って上京をあるくイベントも予定されている。
がんばってくれた学生くんたちごくろうさん。これからも、パソコンは必須だけれど、どんどん街に山にもくり出して、臨場感のある歴史遺産活用をめざそう。
・問い合わせは上京区役所へどうぞ
ちなみに今日の京都新聞に下京区の下京中学の建設にともなう発掘調査で石鍋を再利用した温石(おんじゃく)がたくさんみつかったというニュースが載っていた。
今のカイロにあたる温石もおもしろいが、下京というキーワードと石鍋というキーワードがひっかかった。以前に、京都と鎌倉をつなげるアイテムとして石鍋に注目した論文を書いたことがあるが、その時、石鍋が下京に多くみられるようなことを書いた。つながるかもしれないので覚えておきたい。
立命館大学で京焼きと登り窯の展示をやっているそうである。時間があれば行きたいが。

2006年2月 4日 (土)

平板測量の実習

13日からおこなわれる木津川河床遺跡の分布調査の準備として
田辺天神山遺跡という京田辺キャンパスにある弥生時代の遺跡で
平板測量とトータルステーションと断面図作成の練習をしました
本番の河原は風も強いし寒波もきついです
がんばりましょう

これは平板測量の実習のひとこまです(3分弱)
http://scoophand.cocolog-nifty.com/heiban0203.mp4

準備したもの
1、平板セット(平板のイタ・アシ)
2、スタッフ
3、テープ
4、さんすけ
5、アリダードセット
6、レーザー測距器
7、トータルステーション
8、コンベ
9、GPS受信機

2006年2月 2日 (木)

年度末という季節の中で

・上京のボランティアひまわりとの共同プロジェクトですすめている「上京知恵袋」では、年度末までに、上京の伝統文化がぎっしり詰まった16ページの冊子を作成します。大学側のメンバーは文学研究科のNくんと文化情報のNさんTさんいつものKちゃん。
昨日の打ち合わせでおおわくのイメージができました
1、表紙(上京の街角から)
2、目次
3、はじめに(鋤柄)「4月の祭」
4、節句(1)「5月の祭」
5、旬のもの(1)「6月の祭」
6、夏をすごす(祇園祭)「7月の祭」
7、夏をすごす(大文字と地蔵盆)「8月の祭」
8、節句(2)「9月の祭」
9、旬のもの(2)「10月の祭」
10、御火焚き神事「11月の祭」
11、冬をすごす(1)「12月の祭」
12、冬をすごす(2)「1月の祭」
13、冬をすごす(3)「2月の祭」
14、まとめ(学生)「3月の祭」
15、上京の歴史地図
16、表紙(上京の街角から)
表紙は学生くんたちが上京をあるいて撮った写真で埋めようと思います
夏や冬の写真はボランティアひまわりの皆さんから協力をいただいています
上京の皆さんにも学生くんたちにも新しい発見いっぱいのものになると思います

・上京探訪館webが2月中旬を目標としてリニューアルされます
デザインやマップへのアクセスを一新して、さらに、これまでの時代別のマップ以外に、googlemapを使ったさまざまな歴史遺産の閲覧も考えています

・文化情報学部1期生の有志でおこなわれてきた学生プロジェクトチームによる、1期生のドキュメントビデオアーカイブの編集がおこなわれます。サポートとして文学部からカントクことSくんが参戦

・新しい考古学と歴史研究のために必要な機器の実験もすすめています
VIVID910のターンテーブルを利用した撮影と分割撮影およびマイクロステーションなどによる3次元データの編集や活用をします。ビデオマニュアルもつくります

・PI3000では、京田辺キャンパスにある下司古墳群の石室の測量をする予定です

・GPS受信機と電子平板は、八幡市教育委員会とおこなう木津川河床遺跡で実験と実践をおこなう予定です。これもビデオマニュアルにします

・ピンスキャナによる自動実測についてもビデオマニュアルを作成しようと思います

・アイモデラー3Dやフォトモデラーの実験をします

・今出川キャンパスの遺物情報を同志社大学遺跡情報公開システムで更新します

・寒梅館のデジタルプレゼンテーションシステムの更新テストを予定しています

・2回生になってようやく専門に分かれて始まる文化情報学部のプロジェクトという授業では、文化情報の学生君たちに歴史の見方を最初に学んでもらいたいと思っています。その準備もすすめています

2006年2月 1日 (水)

染付の実測デモ

今出川キャンパスの発掘調査の整理をしていたときに
中国製の染付の実測図を書く練習のために鋤柄がその実演をしました
これはそのさわり
http://scoophand.cocolog-nifty.com/jissokudemo.mp4
それにしても薄くなりました
来年までもつのでしょうか(はあ)

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