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2006年2月25日 (土)

きょうもあるく(木津川河床遺跡の研究の方法)

一週間前の天気予報が幸いにも外れて木曜日は薄曇りになった
気温も思ったより高い
23日は木津川河床遺跡の調査の3日目で最終日で採集日
初日がRTKのGPS測量と電子平板による杭列の測量
二日目が手書き断面図とGPSの基準点測位
そして三日目は遺物拾いの分布調査
ただし場所にこだわった調査にしたいので、やはりGPSを持って採集地の記録もおこなう
午前中は左岸の河原を歩いて午後は右岸を歩く
場所にこだわるというコンセプトに従い、鋤柄の100歩を単位に測位をして、その範囲で採集された遺物を記録する。また河原の幅が広いところでは川側と陸側にも分かれて測位する
採集された遺物は、古いものでは弥生時代の壺の底部、古墳時代の土師器壺、須恵器杯や甕。奈良時代以降では、土師器甕、11~12世紀の摂津型の羽釜、瓦器碗、土師器皿。一番多いのはおそらく13世紀位の瓦器碗や土師器皿そして京都型の瓦器釜や鍋、12世紀の京都型瓦器火鉢や15世紀の京都型瓦器釜も。16世紀の大和型土師器釜も。14世紀位の常滑甕や16世紀代?の信楽壺、14世紀代?の滑石製石鍋転用の温石。珍しいものでは10世紀代の須恵器碗などなど。
木津川河床遺跡は、古代中世の石清水門前にかかわるきわめて重要な遺跡である。
しかし遺跡の現況が河原であるため、採集される遺物が供給された元の厳密な場所がわからず、取り扱いの難しい遺跡でもある。
遺構が残っていて、それが川の水で洗われて遺物が顔を出した場合もあるだろう。その場合その遺物は、それがその場所(石清水門前)で人間との関係で本来果たしていた機能を忠実に物語ってくれる可能性がある。
しかしそうではなく、洪水によってはるか上流から流されてきた遺物がそこにあることも大いに考えられる。その場合、その遺物は石清水門前と無関係に人間との関係をもっていたことになる。
河原を歩いてどこかからたくさんの遺物が拾えたとしても、それはその近くに村の跡があった場合もあるが、そこが偶々川の流れによってものが溜まりやすい場所にすぎなかった可能性もあるのである。
そんなさまざまな遺物を前にして、ここでは、そのうちのどれが石清水門前と関係し、どれが関係しなかったかを判別し、それを元にした石清水門前の復原に挑戦しなければならないのである。
一見すると到底不可能のような気もする
しかし、大量のデータを駆使することで一定の傾向を導き出し、それを元にしたほかの事例との比較によって、これらの資料からの石清水門前の復原はまったく不可能では無いと思っている
実はこういった遺跡の調査に文化情報的な方法がうってつけではないかと考えている
重要なことは全体を把握するちからである
採集される遺物の多くは破片であるため、一般的な目視による年代や種別の識別は困難である
むしろ蛍光X線による胎土分析と色調のスペクトル分析によって腕力で分類する方が信頼性が高い
さらに採集状況に信頼性が低いならば、遺物による摩滅の様子の違いや、河川の砂の堆積の様子、そしてなによりも原位置を保っている川岸の断面情報から、より信頼性の高い歴史解釈の提案は可能だと考えている。
重要なのは、遺跡に対する歴史家としての問題意識と(それがそこにあることの意味)を常に念頭に置きながら、情報に対してどん欲であること、そして知的好奇心に対してタフであること

24日は上京の打ち合わせ。できあがった探索マップをもって、相国寺と上御霊社と宝慈院と宝鏡寺をまわる。それから知恵袋の編集材料を求めて和菓子屋と錦をまわる。錦ではたくさんの旬の京野菜に出会う。たくさん歩いて、たくさんの出会いがあって、そんな中から文化を考える力を養っていってほしいと思いながら。

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