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2006年2月28日 (火)

住吉大社で5世紀の建物跡みつかる

新聞によれば
大阪市文化財協会の調査により、大阪市住吉区の住吉大社境内から5世紀後半の掘立柱建物跡が見つかったという
大社の創建は4~5世紀と考えられていたが、今回の調査では、最も古い時期の建物跡(一辺4m)が5世紀後半と推定されるとのこと
また、蛸壺や土錘、中世の中国製陶磁器や北宋銭も出土

住吉大社南には仁徳天皇の時に「墨江之津」を定めたと言う伝承をもつ細江川がながれており、万葉集には遣唐使の出航の模様が記されるなど、古代の大和政権にとって難波津と共に外交的にも重要な港だったと考えられている
なおこの時(第9次)の大使は多治比広成(南河内を本拠とする氏族で摂津職も歴任

また住吉津は海上交通の要衝だっただけでなく、「磯歯津路」と呼ばれる東西道路や難波宮へ続く道や、さらに「日本書紀」の伝承から神功摂政2年に表筒男・中筒男・底筒男が「大津渟中倉之長峡」と呼ばれた現在の住吉大社の地に鎮められたことから、奈良時代前期には「大津」と呼ばれていたこともわかっており、あるいは現在松原を東西に横断する大津道の延長にこの地がおかれたとも思われるような陸上交通の要衝でもあった
なによりその地が古代の湊立地にふさわしい潟の一部だったとも言われる
(これははるか30年近く前に森先生の授業で聞いた話しだったろうか)

ゆえ、この津や社の近くには得名津や敷津や住吉邑や有名な大伴金村の宅など賑やかな風景がひろがっていたようである

住吉大社の起源は、神功皇后によるいわゆる新羅戦争の帰りに、先の三神を長門から招いたことにちなんだもので、神功皇后伝説という点では京田辺キャンパスの周辺に点在する鉾立の杉とか違わずの池と同じ雰囲気をもつ
しかるに本来的な起源は「澄んだ入江」が連なっていた(とは現在の状況からは想像できないが、いわゆる「潟」が古代の港の立地に重要だったことはやはり森先生が30年近く前に言っていたこと)ところで、その地の利を活かして海上交通に長けた津守の人々が育てたものであったろう
ちなみに出雲大社の場所が西に開いた潟の内側である点も同様なこととして注目される

いずれにしてもそんな場所で5世紀の集落が見つかったのは非常に面白い
なにが面白いかというと、その時期はいわゆる古墳時代中期の河内王朝の時代
現在の堺市と藤井寺市に集中する巨大古墳の時代である
古墳時代の研究というとつい古墳そのものにばかり目が行ってしまうが
古墳はあくまでお墓であって、実際に生活していた人々の様子は集落からみなければならないのである
ところがこの時期の集落がなかなかみつからない(法円坂の倉庫群は特殊)
けれどもあれだけ巨大な古墳がつくられたから当然大きな集落もあったはずで
そこで生活をしていた人々のために耕作地も大いに開発されて
南河内にはそのための運河がつくられたとも考えられてきた
しかしその運河の開発時期が7世紀に下がると言われる中
今回の発見は、あらためて5世紀における河内の大開発を物語る資料になるのではないかと思うのだが
注目していきたい
(4月からのプロジェクトの授業ではできるだけタイムリーな話しもとりこんでいきたい)

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