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2006年2月24日 (金)

上出雲寺と上御霊神社

「中昔京師内外図」によれば、現在の上御霊神社は、出雲氏の氏寺として平安遷都以前からこの地にあった上出雲寺の鎮守社でした。
小山寺とも呼ばれた上出雲寺は、上御霊社内にあって「延喜式」には御霊寺として載っています。
延暦年間(782~808)に最澄によってひらかれたとも伝えますが、元来はこのあたりに住んだ出雲氏の氏寺で、後に御霊会の修法堂として利用されるようになったと考えられています。
出雲郷は、山陰道から移動してきた出雲出身者たちが住み着いたところで、上出雲郷と下出雲郷のふたつ分かれて「和名抄」にも記されています。
また「正倉院文書」の神亀3(726)年の記録に「山背国愛宕郡雲上里計帳・山背国愛宕郡雲下里計帳」に出雲臣の名が見えます。
なお「延喜式」には「出雲井於(いのうえ)神社」と「出雲高野神社」が載っており、郷の範囲が高野までのびていたこともわかります。今、仮にこの関係を上下の出雲郷にあてれば、上出雲寺が上出雲郷の氏寺ならば、下出雲郷の氏神が出雲高野神社となり、賀茂川の右岸が「上」で左岸が「下」となり、その西に位置する山陰道との関係に対応する呼び名だったとも思われます。
(「山城名勝志」では下鴨を出雲郷とし、「大日本地名辞典」では上出雲郷が小山と鞍馬口、下出雲郷をその南としています)
ちなみに附近で出土した瓦や上御霊神社に保管されている瓦は奈良時代前期と考えられています。
平安時代以降の上出雲寺については、天安2(858)年には智証大師が住んだことがあり、
延長4(926)年の記録によれば、その伽藍は、凍(漆(七)カ)間肆(四)面で重層屋根の金堂と五間四面の講堂と五間四面の食堂と鐘楼があったといいます。
(ちなみに史料に登場する数字は、一が壱、二が弐、三が参、四が肆、五が伍、六が陸、七が漆、八が捌、九が玖、十が拾)
その後天徳2(958)年には、疫病流行に際して上出雲御霊堂ほか13カ寺で読経がおこなわれ、康保3(966)年の読経では、延暦寺・東西寺・御霊堂・上出雲寺・祇園とならぶ寺院として記載され、康和4(1102)の村上天皇の死に際しても、延暦寺・釈迦堂・上出雲寺・観空寺・醍醐寺・法性寺・弥勒寺とならんでいます。いずれも天皇や上皇の死後の霊を鎮める儀式に登場しています。
しかし平安時代末期には荒廃し、今昔物語には「修理加える人無し」と書かれ、山城名勝志には「観音堂が神殿の北にあり、それが上出雲寺の堂舎」ということで、中世には衰退して上御霊社の神宮寺化されたと考えられています。

一方上御霊神社の起源は2説あります。
1説は平安遷都の時に、大和国宇智郡(現在の五條市)から遷座したとのもの(出雲寺流記)
もうひとつの説は「神祇正宗」にあって、天慶2(939)年に「京極出雲路に御霊と称する道祖神として遷座」とあります。
最初の説にある宇智郡にあったの時の祭神は光仁天皇皇后の井上内親王で、元々は宝亀3(772)年に井上内親王が廃されて、その子の他戸親王が宇智郡に流されて死んだ後、そこに内親王を祀って宝亀8(777)年に建てたもので(水鏡ほか)、これが現在の地に遷座の後、延暦24(805)年に早良親王(光仁天皇の息子で桓武天皇の皇太子となるが、藤原種継暗殺事件で逮捕)を祭神に加え、御霊を祀る社とされたと言われています。
とくに、桓武天皇の周辺で厄災が続いた時、怨霊を鎮めるための社として注目されたと言えます。
なお、先の出雲郷にともなう史料で、「延喜式」に「出雲井於神社」がみられますが、上御霊神社との関係は不明とされています。
平安時代から鎌倉時代は独立した神社として史料には見えず、康保3(966)年においても、疫病流行の折の読経所の一つ「御霊堂・上出雲寺」として登場(日本紀略)します。
史料に多く登場するのは上出雲寺が衰退する中世後期以降で、至徳元(1384)年、御霊神に正一位が与えられ、応永30(1423)年に足利義満が参詣、応仁元(1467)年1月18日、ここに布陣した畠山政長が畠山義就と戦って焼失し、その後も焼失しますが、足利氏の庇護により再興がなされています。
ちなみに件の応仁の乱勃発の模様については、御霊森(御霊社から相国寺にかけてあった森)に陣をはった東軍の畠山政長が西軍の畠山義就と戦い、政長軍が御霊社に火を放って退去したことを言いますが、「応仁記」によれば、「18火の早天に御霊へ押し寄せる。この御霊の森の南は相国寺の藪大堀(堀があった!)で、西は細川の要害(城塞?)なれば、北と東口から攻め入りける」とあります。
ちなみに、上御霊神社の南の「上御霊中町」には「藪ノ下町」と「藪之内町」があり、現在の相国寺の北東に「藪之下町」があります。さらに烏丸を西に渡ったところに「内構町」があり、さきの「細川の要害」をさすとも言われています。

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