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2006年3月

2006年3月31日 (金)

さまざまなはじまり

2001年の11月にはじまった今出川キャンパスを中心とした発掘調査事務所のプロジェクトが全ての業務を今日、終了する
最初は事務の松本さんと二人だけだった
2002年2月から現在の新町学生会館地点の発掘調査が始まった
今日の業務終了の指揮をとってくれている市澤君はまだ1回生だった
すでにその時までに次の寒梅館地点の発掘計画がわかっていたため
長期的な視野に立った大規模な調査・整理・公開・活用システムを考える必要があり
古巣の大阪や地元の京都をまわって同志社にふさわしいシステムをつくりあげた

2002年5月から寒梅館地点の発掘調査がはじまった。
夏にその一般公開の説明会をおこなったが、その時に4月から4回生になって
卒論を書き始める松本さんが来ていた
まだ高校生だったことになる
調査は秋学期に入っていったん中断されるが
新町の旧臨光館の地下に設けられた調査事務所では
発掘でみつかった土器や陶磁器の整理や図面の整理作業がすすめられ
いつも数十人の学生の熱気にあふれていた

2002年の年末から2003年の年始にかけて、現在の寒梅館の畳の部屋のあたりの追加調査をした
今出川キャンパスの近くに泊まったこともあった
その年の年度末には
歴史資料館で学生君たちのアイデアを活かしたコーナー展示をやった
調査事務所は整理室と呼ばれ
業務に対する責任感とはじける学生の感性が調和する場所になっていた

2003年の春は、現在の渓水館地点の発掘調査があった
大学院の松田くんと渡辺さんが考古学と文献の両面で調査の指揮をとるようになった
夏は岩倉の看山ハウス地点とクラーク記念館と寒梅館の室町通口の調査をした
学生くんたちと地形や歴史遺産にこだわりながら岩倉を歩いて地域の見方を学んだ
クラーク記念館では地下にもぐって基礎を見た
秋学期から寒梅館のオープンにむけて展示のプロジェクトが本格化した
学生君たちも、乃村工芸の人と一緒に、博物館展示のイロハを体験した
年度末は大騒ぎだった

2004年4月、寒梅館がオープンして実物の遺跡と遺物とマルチメディア展示が公開された
発掘調査というものは、掘るだけではなく、その成果をひろく社会に還元して初めて意味をもつということを形にできた大きな仕事だったと思う
すぐに現在の臨光館地点の発掘が始まった
学生くんたちは、もうみんなすっかりベテランになっていた
調査も整理も報告書の作成もそして遺跡の説明会も
夏に寺町今出川を下がった北志寮地点の調査をおこない
同時に岩倉の小学地点の試掘をおこない
これが今回のプロジェクトにかかる発掘調査の最後となった

2005年3月に新町キャンパスの調査事務所(整理室)が閉鎖され
4月に京田辺キャンパスの整理室に一本化され
資料の整理と報告書作成の作業がおこなわれてきた
新しく開設された文化情報学部の学生君たちも何人かそれを手伝った
院生の市澤君・中川くんと松本さんを中心とする3回生がすべてをオペレートした
そして彼らの段取りによって、しなければならないことが全て予定通りに終結した

ありがとう
そしてご苦労さまでした
鋤柄も君らとさまざまに交流を重ねる中で、大学人として必要な勉強をたくさんすることができました
言い古された言葉ですが
宝です

4月から君たちは修論や卒論やそれぞれの専門を深める勉強がはじまります
がんばれ
そして彼らを支えていた歴史資料館の事務のみなさんも新しい生活が始まります
このプロジェクトを通じて出会った全ての人に
あらためてお礼を申し上げます
ありがとうございました

誰かが泣くかもしれないと言っていたが
ちょっとやばいかもしれない

2006年3月25日 (土)

桜直前

Sany0164今日は4月から始まるプロジェクト科目の登録説明会で今出川へ
すばらしい春の空
説明会の後
朝のニュースを見て
気持ちの良い空気に誘われて思わず糺ノ森まで足をのばして
帰りに伊勢丹の上から北と南を見る
Sany0167 北の左奥に見えるのが船岡山
南の左手に見えるのが桃山城
来週はもう入学式です

2006年3月21日 (火)

龍の棲む日本

 3月5日に武藤先生と巣山古墳を経て額安寺へ行ってその後、郡山までの道すがらいろいろなことを教えていただくことができましたが、その中で最も驚いた話しが中世日本の地図についてでした。

「謎解き洛中洛外図」で知られる黒田日出男さんは、「絵画史料で歴史を読む」や「姿としぐさの中世史」や「謎解き伴大納言絵巻」や「地図と絵図の政治文化史」や「中世荘園絵図の解釈学」といったように、マルチメディアな歴史資料の研究をおこなっているが、その中に「龍の棲む日本」という作品があります(岩波新書)。
カバーの紹介によれば、「中世日本には龍が棲んでいた、人々は、地震・噴火は地底のわだかまる龍の鳴動であり(中略)龍とはなにか。日本の国土とは何か。(中略)古地図に書き込まれた謎の姿を出発点に・・・」というもの。
黒田先生得意の「心性」をテーマにした歴史書で、本書の場合は、鱗のある長大な胴体が取巻いている鎌倉時代につくられた日本図を題材にして、中世日本列島における地震という自然現象を人々がどのようにとらえていたかを考えた書です。
言い方を変えれば、「龍」というイメージを手がかりに中世を説明した社会史を代表する典型的な書と言えるでしょう。
ですが
鋤柄的にここで注目したいのは、それが「地図」というコンテンツです
前近代における日本の地図と言えば誰でも伊能忠敬の作品が思い浮かぶでしょう
ところが伊能忠敬が地図をつくったはるか前にも日本を描いた地図があったのです
嘉元3年(1305)の仁和寺蔵「日本図」
14世紀半ばの『拾芥抄』所収の「大日本国図」
そして金沢文庫本「日本図」
大きさは縦34.2㎝、横51.8㎝
東半分は失われれているが、その解題によれば、欠けている部分は遠江・越後以東で、大陸周辺諸国を周りに配置し、その内側に日本列島を描いているが、その日本列島のまわりを身をくねらせた太い蛇がまいているそうです
列島の島々や国々は丸みをおびて描かれ、九州は大隅・日向・筑後・薩摩・豊後で、右端に西国という標記がある
蛇の外側には対馬、隠岐、琉球、中国、高麗が描かれ、弘安の役の激戦地だった志賀島や竹島が意識的に描かれているので、その後の時期だと考えられています
国内の標記は、国の上・大・中・小や田の町数が書かれているそうです
14世紀初めの日本という世界の人々を心性的に知る上で貴重な史料だと思います

そしてもうひとつ千葉に地図がありました
鋸南町の妙本寺という日蓮正宗の有名なお寺にある地図で縦24.2㎝、横17.1㎝で、中央にひとつの島があって、そのうえに周辺の諸国が半月形に描かれています

国内のイメージと対外的なイメージ

2006年3月20日 (月)

文化情報にはジャズがよく似合う

もし室町時代ならば烏丸殿とでも呼ばれたであろう寒梅館へ行くと、いつも1階の通称イケメンカフェに顔を出してホッとするのだけれど、寒梅館にはもうひとつホッとするところがある。
7階のセカンドハウスウィルである。実はそこがオープンする直前に行ったきりまだ一度もそこで食事をしたことがなかったが、先日ネットを見ていたら2周年記念のジャズライブディナーがあると言うので、なんとあれからもう2年も経つのかと、すこしだけショックを受けつつちょっとだけ感慨にひたりながら、初めての食事を家族でしてきた。
テーブルの並ぶレストランフロアの一番南奥にピアノが置かれていて、ジェルの乗った金時ニンジンのコールドスープを味わい始めると、まもなくメンバーがドラムを運び入れ組み立て始める。
気の利いた和風のだしがしっかりしみ込んだ蕪とフォアグラにはさまれたステーキを楽しみながら、ここのシェフはおでんもきっと旨いに違いないとおもいながら、調子に乗って白ワインをすごす。
コーヒーが配られるタイミングにあわせて木村 知之トリオの木村(ベース)、ラリー・ランサム(ドラム)と辻 佳孝(ピアノ)のステージがはじめる
1977年の3月に一度行ったことがある木屋町のブルーノートに出演しているトリオだそうだが、いたって楽しいナンバーをくり出す
ピアノマンは信じられないようなテクニックで鍵盤と会話をし、ベースマンはバドパウエルのようにメロディをくちずさむ。
「ドラムがすごいわ」と数mの距離でKが感嘆する
次々に繰り広げられるアドリブのソロを聞きながら
文化情報学部の形ってジャズかなあって思う
それぞれみんなまったく違った音を出す楽器
演奏の方法も姿形も違う
そして、みなソロができる
そんなプレイヤー達が一緒になってひとつの作品を創りあげていく
まだまだ学部完成へむかって試行錯誤が続くけれども
文情の皆さん
ジャズをテーマにしてみませんか

2006年3月19日 (日)

善光寺について考える1

Sany0118 正月に帰郷しなかった代わりにちょっとだけ飯田に戻って地元のテレビニュースを見たところ、善光寺の門前で発掘がおこなわれ、その説明会を18日におこなうというので、急遽予定を変更して長野へ向かう。
鎌倉時代の薬研濠が見つかったというのである。
現地説明会の資料には「垣間見る善光寺門前町の歴史」というタイトルがついている
調査は長野市教育委員会、文化財課埋蔵文化財センター
みつかった遺構の内、最も古い時代は古墳時代の竪穴住居跡でおよそ6世紀とのこと
調査区の南東隅からわずかに竪穴住居跡の一部が姿を見せていたが、わかりにくい土質の中で貴重な成果をあげている
なお、遺物だけなら縄文時代の石斧が見つかっているのは長野らしいとところ
中心となる時代は鎌倉時代から室町時代で、調査区の北よりを東西方向のV字溝が走っている
上端の幅は2.5m、深さは1.5m
埋土から大量の鎌倉時代の土器や陶磁器が出土したという
展示資料をみると、中国製の青磁碗や珠洲窯の擂鉢や土師器皿が並んでいる
青磁碗は龍泉窯系の蓮弁文碗で、土師器皿はロクロ成形だが全体のプロポーションは京都の13世紀代に似ている
溝は一部がとぎれて陸橋状になっており、その部分に柱穴が重なっている。
入り口とするには幅が狭いが門があったのだろうか
なお、この溝の埋土には布目瓦も含まれていたそうである

次の時代は室町時代とされる方形竪穴
さきの溝の南のすぐ近くでみつかっている
遺物をみると瀬戸窯の灰釉平碗があったが、これを指すのだろうか
そして最後の時代は江戸時代で、石組みの地下式貯蔵庫や石組みの水路や井戸がみつかっている
石組みの地下式貯蔵庫は河原石を野面積みにしたもので、京都や大阪でみつかるそれとそっくり
ただしこちらの年代では安土桃山くらいではないかとも思うが
また遺構の配置をみると方形竪穴と並んでいるので、時期は異にしているが使用者は関連していたかもしれない
また石組みの水路と土蔵の軸は合っているので同じ時期だろうか
元禄の一分判金が出ているからというわけではないが
この遺跡の安土桃山時代以降の風景は、大坂や京の繁華街に劣らない姿が容易に想像できるものだった
大門町は江戸時代に北陸諸国の大名が参勤交代の定宿とした善光寺宿の本陣がおかれたところで(ちょうど調査地点の東が本陣の藤屋)、さすが牛にひかれて善光寺詣り

ちなみにその時期の様子については、笹本正治さんの「中世末から近世初頭の善光寺門前町」『国立歴史民俗博物館研究報告』第78集1999が重要

さてそれでは鎌倉時代のV字溝はなんなのか
福原以来注目しているが、単純化して言えば、平安時代末期から鎌倉時代初めのステイタスの高い館はV字溝をもっていたのではないかと考えている
「吾妻鏡」によれば、源頼朝は文治3年(1187)に信濃国御家人と目代にあてて治承3年に焼けた善光寺の造営に尽力することを命じ、建久2年(1191)に再建がされ、嘉禎3年(1237)には五重塔も再建されたという
信濃と鎌倉幕府の関係は深く、たしか上田の塩田平に北条執権の守護館が築かれ、記憶が曖昧だが方形居館が推定されている
調べなおさないといけない
「一遍聖絵」にも有名で、「平家物語」には重衡の菩提を弔う寺として登場する
善光寺門前にそんな鎌倉や福原を彷彿とさせるような館の風景があったという想像は、まったくありえない話しではないと思う
考えなければならないことは無数にある
この溝に対する内側は南か北か
その場合の外側には館が続いていたのか道があったのか
少なくともここの場合は連続する館区画とは考えにくい
複雑な文様が施された小型の瓦器の意味するものはなにか
大阪の日置荘遺跡で見たような気がするが

いずれにしても善光寺は難しい
梨の話にしても、大室古墳群の積石塚にしても
菅江真澄にしても(善光寺と大陸との関係のエピソードは川崎保さんの「信州発考古学最前線」vol.45 小谷村の謎の文字-その2-にくわしい)
今回の調査を見て最初に思ったのはこの溝と条里との関係だった
もう10年以上前になるのだろうか
以前に長野県歴史館で中世の善光寺の復原図を見たときに、条里のような区画と善光寺と長野駅の間を北西から南東へ流れる川(鐘鋳川)の複雑な風景が頭の隅に引っかかっていたが、この溝は善光寺門前の町並みの中でどのような意味をもってくるのだろうか
目の前の遺跡とあの時の風景の関係を組み合わせようと四苦八苦
偶然出会った長野県立歴史館の川崎さんに元の善光寺の本堂の場所を教えてもらい、善光寺と条里の軸線の話しをしながら、あらためて善光寺をとりまく歴史の複雑さを実感する
歴史館の春季展の「古瓦からみた信濃の古代」が楽しみである
小学校3年から高校卒業まで暮らした街で
とくに高校の数年は毎日のように悪友達と歩いていた場所のことがなにもわかっていなかったということが今になってとてもよくわかることが非常に面白い
高校の時の友人で善光寺をテーマに作品をつくりたいと言っている男がいる
今年の夏は久しぶりに長野に帰って時間をかけて調べてみようか

飯田から中央道を経て長野自動車道を姨捨まできてサービスエリアで善光寺平を見ておもわず声をあげてしまった
善光寺平には飯縄山なんだ
http://scoophand.cocolog-nifty.com/zenkojihira.MP4

元屋さんの蕎麦はお薦め

2006年3月17日 (金)

不破関跡

不破関跡 名神高速道路の関ヶ原インターをおりて国道21号線を京都方面へ5分ほど走ると不破関資料館に着く
壬申の乱にも登場する有名な関である
また、関東という言葉は、この不破関をはじめとする三関の東を指したことによる
古代の畿内政権にとって重要な境界線を意味する場所である
国道1号線にある鈴鹿が東海道を、滋賀県北部から北陸へ抜ける愛発関が北陸道を
そしてこの不破関が東山道をおさえたと言われる
古代の政権はこの3つの関にどのような意味を求めて場所を決めたのだろうか

不破関跡は浸食の深い小河川に接した台地の縁辺にあった
Sany0084

関ヶ原町の歴史民俗資料館はJR関ヶ原駅のすぐ北にある
こちらはあの関ヶ原の戦いに特化した展示をしている
ちょうど企画展をおこなっており、テーマは近世の医について
関ヶ原の戦いはこれまでに無い大規模戦争であったため負傷者も多く
その人たちを助けるためにいわゆる野戦医療が大きく進歩したという

外へ出ると西に家康の陣跡がある

2006年3月16日 (木)

信楽甕の3D化(VIVID9010)

渓水館地点からみつかった信楽窯の甕のvivid910による3D作成をおこなった
前回はターンテーブルを使った手軽な3D作成だっが
今回はターンテーブルに乗らない大型資料を3D化する汎用性の広いもの
とは言え
ソフトの性能が高いため、それほど難しくはない
大型の資料を分割して撮影して生成された複数のデータを合成するもの
ワンスキャンで取得した最初のデータと重なるように次のデータを取り
両者を目視で比較して同じ点を3カ所、おおよそでいいので指定すると
自動でマッチングの計算をしてくれる
今回もミリ以下の精度で3Dのデータがつくられていく
最終的に全体の計算をし直して内面と外面をあわせた3Dにした後
画像上で任意のカ所を半裁してその端面の点群を選択すると、ミリ以下の精度で従来形の断面図ができあがる
手間・精度・その後のデータの活用の全てにおいて現行の図化作業を越えるデータが取得できる
立体で複雑な造形から構成される石造品・金属製品・瓦・埴輪・人形などなど
活用に大きな可能性が期待される
http://scoophand.cocolog-nifty.com/sigaraki3d011.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/sigaraki3d012.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/sigaraki3d021.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/sigaraki3d022.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/sigaraki3d031.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/sigaraki3d032.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/sigaraki3d041.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/sigaraki3d042.mp4

2006年3月15日 (水)

お知らせ。~脳内作戦本部~

~お知らせ~

過去ブログ内の記事を全て入れ替えました。

現在所要時間6時間。さすがの私もつかれたよ(ノ∀`)
過去記事はお知らせ系も含め、全部を移しかえた。
全てのトラックバック、コメントを移せなかったのを申しわけなく思う。
移しかえようと思えば移しかえられるが、それらは投稿した彼ら彼女ら本人のものでは無い。
投稿した時間もいじれないしな。

何よりめんどくさ(略

…だから敢えて移さないことにした。
必要があれば
ここここから探して欲しい。
まぁ、もともと無い場合もあるかも知れないが。

トラックバックやコメントはブログを活性化させる。

記事の内容を深くし、横の繋がりを広げる。
横に繋がることで似たような趣味の人も見付けられるかも知れない。

ブログの使えるところを最大限に利用して繋がりを広げてるのは素敵なことだよ。

レッツエンジョイブロギング!!

つぅわけで、移しかえ担当でした。

2006年3月14日 (火)

七本松の寺町

鋤柄の独断と偏見だが、今のところ古代・中世の京都には2筋の聖なるラインがある。
一筋はご存じ五辻通から持明院通(毘沙門堂通(上立売))
北野天神と平野社(いつの時代に決まったのかどうかはわからないが、実は平野社の南?の路が上立売)を西の端において(平野社はもちろん広隆寺の旧地推定地で北野天神の南は北野廃寺の場所)、東にのびた先には院御所と室町殿、そして相国寺、その先はなにかというと現在河原町通が賀茂川を渡る橋
これが何を意味するのかはこれからの課題
もうひとつの通は下立売と中立売
言うまでもなく下立売の西には内裏があって、その北には聚楽第
その下立売を東へ進んで堀川を渡ると見えてくるのが府庁の南門
というのは京都守護職屋敷
そして中立売を烏丸から東へ渡れば京都御所の南ライン
これが偶然なのかこじつけなのかはこれからの課題だが
こだわっておきたいのは、下立売通の府庁の南門まで行く手前に「いしざき」という古い飴屋さんがあること
確かに旨い
ちなみにこの「いしざき」の西の角を南へさがったところに鋤柄が2度目に住んだ下宿の跡がある

今日の仕事はふたつ
ひとつは寒梅館のマルチメディア展示のサーバメンテナンスの引き継ぎ
2000年に立ち上げた歴史資料館web以来、Nくん0くんGくんという3人の工学部くんがバーチャルミュージアムを支え創りあげてきてくれたが
みな卒業して就職して、ついに3代目のGくんもこの3月で院を修了、就職おめでとう
ということで4代目となるFくんが今日とあさっての予定で諸々の引き継ぎをおこなう
君の手の上に同志社の遺跡情報が載っている
たのむぜ

ふたつめは上京のGPS携帯の受信チェック
丸太町で地下鉄を降りて間ノ町口から京都御苑へ入る
苑内施設維持のための外構石張り改修工事が始まったようで、10トンダンプが走り回っているという不思議な風景を見ながら、携帯片手に鷹司邸の南をまわって大宮御所の南西角から北へむかう
あと数週間もすれば桜が咲いて新入生が興味津々で歩き回るのだろうか

今出川をパスして相国寺を抜けて慈照院を覗いてから寺之内から室町へ
おおむね受信は良好
今出川から新町を下がって武者小路を抜けて小川へ出ようとして
発掘事務所にいて、現在法学研究科に所属しているAくんに久しぶりに会う
聞けば中世前半の法制史を勉強しているという
これはたのもしい
あらためて話しをしよう

堀川を中立売まで下がって西へ
どのあたりから平安宮を感知するかなとチェックをかけながら大宮をすぎて
智恵光院でヒット
そのまま中立売を西へ向かいながら正親小学校の前で立ち止まる
たしかここに聚楽第の石碑があったはずだが工事をしていて見あたらない
きれいに作り直すのだろうか
Jusiniti

千本を西へ抜け仁和寺街道から七本松通に入る
七本松通は秀吉による京都改造の後に開通(1615?)したとされ
北は五辻、南は下立売という
南北の聖なるラインである
名前の由来は、この通の下の森に一株七本に分かれた松があったことによるという
また近世初期はこの通が町の内と外の境にもなっていたようで
「七本松通ひがしかは京地也、西がは西の京也」とある
その七本松通を仁和寺街道から丸太町へ向かう途中で不思議な光景を目にした
Pict2675 どう見ても寺町なのである

およそ北は一条通、南は下立売通、東は千本通、西は天神川(紙屋川)にかこまれた学区を仁和学区と言う
天正15年(1587)、聚楽第を造営した豊臣秀吉は、内野に大名以外の武士を七ブロックに分けて集住させた。これが現在の一番町から七番町までの町名の起源という。
水上勉の名作「五番町夕霧楼」にちなむ舞台である
ちなみに「金閣炎上」など京都を舞台にした作品で有名な水上が9歳から13歳までいたのが相国寺の西門に近い塔頭、瑞春院である。
聚楽第破却後、跡地は荒廃したが、宝永5年(1708)の大火で烏丸通の周辺が類焼した後に禁裏が拡張されたことにより、立本寺とともに烏丸下立売付近の住民がこの地に移住してきたという。

立本寺は、月明が五条大宮に建立した、後に妙顕寺と改称する妙本寺と対立し、延暦寺の末寺となり改称した本応寺が起源とされる。
場所は中立売通が千本通の西で北西に曲がって一条通に向かう先の南西にあり、町名は一番町である。
本応寺は応永23年(1416)に、日実などが四条櫛笥にあった妙顕寺の旧地に建立された。
天文法華の乱(1536)に山門の攻撃で破却され、再興したが秀吉により文禄年間に京極今出川の北東に移された。
本堂西南隅に今出川小川に家のあった灰屋紹益と吉野太夫の墓がある。

観音寺は七本松の下立売を上がった西にある。
慶長12年(1607)の創建とも、寺伝によれば当初一条寺町にあって万治4年(1661)の類焼で現在の地に移ったという。
境内の観音堂に安置されている聖観音は、安阿弥の作で、応永年間に疫病が流行したときに山名重氏が祈願して再興したものといい、多くの人が集まったことにことにより千人堂とも言われた。
さらにこの観音はもと一条戻り橋の近くにあって浄蔵が祈念して父の三善清行を蘇生させた伝説をもつ
また山門は伏見城の牢門を移したと言われ、門のくぐり戸が風で開くときに人の泣き声が聞こえるという出水七不思議のひとつ

近世初頭に生まれた寺町もまた、京の内側と外側を境界するものだった
あるいは京の内側と外側を境界するものゆえにそこに置かれたのか
ちなみに、そのすぐ西を走っているのが秀吉の土居堀である

2006年3月11日 (土)

7世紀について考える-飛鳥京-

土曜日は、すっかり春を思わせるぽかぽかの現説日より
(ここで言う「現説」とは、埋蔵文化財行政で行われる遺跡の一般公開を指す。あくまで行政用語なので、遺跡の一般公開以外にも使われることがあり、鋤柄としては、普通に「遺跡の一般公開」という言い方が良いと、行政にいたときから思っている)
明日香では、明日香村の主催する島庄遺跡第31次調査の現説

奈良県の主催する飛鳥京跡第155次調査の一般公開

独立行政法人文化財研究所の主催する石神遺跡第18次調査の一般公開

おこなわれた

好天にもめぐまれて、14時半すぎに着いたのにまだ入場制限が行われるほどの盛況で、見学者は5000人を越えるらしい
遺跡の一般公開の人数としては久しぶりの数である

飛鳥京跡は藤原京跡より遡る7世紀代の宮殿遺跡である
古墳時代における日本列島の国家形成過程には、重要な転換点がいくつかある
その最も有名なひとつがいわゆる大和朝廷の成立で時期はおそらく3世紀後半、場所は奈良盆地東南部
その次がおおむね5世紀代、いわゆる河内王朝の時代
そして継体による6世紀の変革
これらの変革期の評価についてはさまざまな意見があるが
いずれも有名な水野祐の3王朝交代説や江上波夫の騎馬民族征服王朝説そして古墳時代の時期区分にもつながる重要な考え方である
ただしその詳しい中身についてきちんとした説明がなされるにはまだまだ時間がかかる

一方で8世紀の奈良時代には、すっかり政治や制度が整った古代国家が姿をあらわしていた
つまり7世紀とは、古墳時代にはじまった古代国家形成のプロセスが完成する直前の非常にエキサイトな時期だったのである
この時期を知ることで、それ以前の社会を明らかにすることができ
この時期を知ることで、これ以降の時期の社会の実態を考えることができる

これまでの調査で飛鳥京について3つの時期が推定されている
1期は舒明の飛鳥岡本宮(630~)
2期は皇極の飛鳥板蓋宮(643~)
3期は斉明と天智の飛鳥岡本宮(656~)と天武・持統の飛鳥浄御原宮(672~)

このうち最もよくわかっているのが3期で、内郭は内裏、外郭は官衙、エビノコ郭は大極殿と考えられている。
今回の調査地は内郭のほぼ中央なので、平安時代ならば紫宸殿とその裏側あたりか(もっとも構造はまったく違うが)
いずれにしても天智か天武かというメジャネームの遺跡である

ただし今回の調査で注目されるのは、それと共に1期の建物がみつかったこと
掘立柱の建物で軸が異なっている
京田辺キャンパスの近くには、継体の筒城宮が眠っているが、古墳時代の宮を創造させる雰囲気があった

それにしてもいつも遺跡に立って思うのは
なぜ、その時の人々はこの場所を選んだのだろうかということ
明日香の宮の立地と難波や平城の宮の立地は明らかに異なる
見かけだけで言えば
明日香の立地は平安時代後期の開発領主のそれと同じであり
難波の立地は北条以降の鎌倉幕府のそれと同じである
その意味で良く言われるように、難波の宮の選地は大きな意識の変革を示していると言って良い

京都教育大学の和田萃先生は、奈良盆地の南東部の山地帯を蓬莱の地とする
森先生は、明日香の北東で奈良県桜井市の三輪山西麓にひろがる纏向遺跡を始祖王の聖なる地とする
飛鳥京の北西に位置する石神遺跡は須弥山石や石人像がみつかった国家的な饗宴地だと言われている
今回は天武8(679)年の「観世音経」と書かれた木簡が出土した
西には甘樫丘がたゆたゆと続く
流通や経済だけでは説明できない歴史の深さがそこにはある
ここでもやはりミクロの視点と同時にマクロに全体をGISする必要がある
http://scoophand.cocolog-nifty.com/asukaview.mp4

遺跡の一般公開の資料がカラーになって久しい
鋤柄の記憶によれば、埼玉県の金井遺跡の資料がカラーの最初だと思う
それを大阪に持って帰って、これからはカラーの時代だと言って、大坂城跡の一般公開資料を西日本で最初に出そうと思っていたら、その直前に別の遺跡の説明会資料がカラーで出された
森先生がアサヒグラフで「都市の考古学」を始める前年だった
今回の一般公開には5000人を越える見学者が集まったという
考古学と歴史研究は、この大勢の人たちの知的好奇心に的確に応えていかないといけない

2006年3月 9日 (木)

エンドロールに憧れて

2005年度の上京関係のさまざまな業務にメドがつきつつある。
ボランティアひまわりのみなさんと一緒にすすめてきた、上京の生活文化の記録集の編集が終了。16ページの冊子になる。
掲載項目を分担して手分けして調べ、表紙を飾る写真を撮るために上京を歩き回って、春休みの合間を縫って原稿を届けてくれました。みんな素晴らしいです。
ボランティアひまわりの皆さんからいただいた膨大な情報はとても16ページの冊子におさまるものではない。再編集して上京webに盛り込んでいきたい。

そんな上京webのリニューアルも間近。
先日Aさんの力作を初めて少し見ることができたが、抜群のセンスである。GPS携帯のサイトも修正をフォーマ対応をおこない進化を続けている。
乞うご期待。

そんな今週は、学部の学生プロジェクトチームの今年度最後を飾る企画が着々と進んでいる。
二度と無い1期生のムービーアーカイブ制作である。
Wくんが中心になって、KくんとTくんが熱くクリエイトしている。
先日も先輩のSくんと一緒に、作業と並行しなが全体の流れや構成や作業スケジュールなど、熱いけれどもすっかり大人のミーティングをしていた。
1年経って、すっかり頼もしい顔
完成が楽しみ

なんであれ、形になるということはとても大切なことです。
形になって残るので、次になにをしなければならないかがわかる。
形になって残るので、次への勇気と意欲が湧いてくる。
歴史研究は社会に議論を形にして提案することでその責務を果たしている。
これまで今出川キャンパスの発掘調査に参加してきた学生君たちはそれをしっかり体験してきた。
文化情報の1期生にもこの「ものづくり」の心が少しでも伝えられたらと思っている。

2006年3月 5日 (日)

古墳の木製品と額安寺

天気予報通りにすっかり春の陽射しが奈良盆地に降り注いでいる
遺跡屋さんは、こんな天気の時はつい野に山に出かけたくなってしまう
今日はちょうど巣山古墳の出土遺物の公開が広陵町の役場でおこなわれる日なので、ちょっと見学に
会場に到着したのは13時ころ、タイミング良く見学者が少なくゆっくり見ることができた
古墳関係の木製品は橿原市の四条古墳、高取町の市尾墓山古墳、桜井市の纒向石塚の弧文円板と勝山古墳から見つかった鋸歯文を付けたU字型の木製品、桜井市小立古墳の木製埴輪、三宅町の石見遺跡、田原本町黒田大塚と笹鉾山古墳、天理市の小墓古墳と御墓山古墳、新庄町の北花内大塚古墳、大和郡山市水晶塚古墳などが有名で、いずれも古墳時代の葬送儀礼を知る上で重要な資料とされてきた。とくに勝山古墳の木製品は年輪年代測定もおこなわれ注目された。
今回は巣山古墳の前方部の左端から外にのばした周濠のトレンチから出土し、木棺は裏返った状態で濠底からみつかったと言う。
種類は木棺(長持形木棺の蓋)(クスノキ)、舟形木製品と言われるゆるやかに彎曲した板材(スギ)、三角形材(クスノキ)、木偶(サカキ)、笠形木製品、建築部材(ヒノキ)。
船と古墳との関係は、これまでも船形埴輪が多く見つかっていることからよく議論されてきているが、なんといっても今回の資料に記された円と直線の組み合わせの文様が興味深い。隋書倭国伝などの文献も重要ではあるが、復原案については、これまでみつかっているさまざまな木製品の再評価とあわせて考えをまとめてみたい気がする。
確かに長持形石棺そっくりだとか(もしかして長持形石棺の表面にもこんな文様があったのだろうか)、保存が大変だと思ってみていたら、武藤先生が見学に来られたのを発見。奈良の古墳にもくわしい武藤先生と一緒に見学をすませると、車で送りがてら短時間だったが大和郡山の額安寺の見学にお誘いする。地元なのでいつでもいけると思いながらなかなか訪れる機会の無かった額安寺だったが、武藤先生と行けるとは、良い天気に誘われて出てきて幸運だった。

額安寺の古名は額田寺、山号は熊凝山、真言律宗、十一面観音菩薩。
奈良盆地中央部北の初瀬川と佐保川の合流点北に位置する。
有名な天平宝字年間(757~765)頃の額安寺班田図があり、東西3町、南北2町の寺地があったとされる。
寺伝によれば、本願とされるのは、大安寺の建立者である道慈(俗称額田氏)とされ、大安寺の前身である熊凝寺と結びつけられた伝承も持つが、鎌倉時代中期の「聖徳太子伝私記」に、聖徳太子の建てた46カ寺のひとつとして登場し、額田氏の氏寺として創建され、当初は額田寺と呼ばれ、後に額安寺とあらためられたと考えられている。
鎌倉時代に、叡尊と大和郡山生まれの忍性によって再興され、極楽寺開山の忍性は頼朝や政子の供養塔を建立したと言われる。
境内から飛鳥時代の瓦が出土し、班田図に額田宿禰の先祖の「船墓」とする墓があり、額安寺の北方約500mに円墳がある。
また額安寺北方の墓地内に、高さ3.3mの大石塔をはじめ、永仁年間の銘文をもつ鎌倉時代の石塔群がある。
Pict2660 寺を出ると南東の明星池に文応元年(1260)の宝篋院塔が見え、その東には元禄年間の銘をもつ手水鉢がなにげに置かれている推古神社がおかれている。
鎌倉墓や船墓へは行けなかったが、楽しみはまたの機会に残しておこうと思う。

2006年3月 4日 (土)

映画とテレビと舞台と

今日は上京区の企画による「学生が案内する上京歴史探索ツアー」の本番
奈良は濃い霧に包まれて、一部ではJR線の運行休止の知らせも入っていたが、京都に着くと天気予報通りの久しぶりの晴天。ただしちょっと寒い
春休みの合間を縫って11名の学生くんたちが9時過ぎの寒梅館に集まりました
京大院の市澤くん、同大院の中川くん、文の松本さんと谷口くん、文化情報の並木さん、青山さん、田中さん、渡邉くん、欅くん、東峰くん、上田くん
本日のコースは午前と午後の2つで、参加者は午前が27名、午後が20名ほど。午前のコースには小学生も参加です
午前のコースは相国寺から上御霊神社へあがって、その後後藤家の跡、宝慈院、持明院殿跡、百々橋、山名宗全跡、本阿弥光悦、近衛殿。
テーマは時代をつくった上京の歴史遺産
鎌倉時代の院御所と尼門跡寺院、室町時代の相国寺と戦国大名の館、江戸時代の豪商の館
午後のコースは学生会館の鏡工房から佐野紹益、一条風呂、楽家、茶屋四郎次郎邸、山崎闇斎、伊藤仁斎、二条邸、蛤御門、近世近衛邸そして薩摩藩邸
テーマは芸術と文化と学びの中心地となった江戸時代の上京

最初の相国寺から上御霊神社までは鋤柄が説明を
室町時代の二重構造を相国寺から考える視点の話をした後で、上御霊神社へ向かって歩きながら、この応仁の乱の頃はあたりがずっと森になっていて、現在そのなごりが地名になっている話しをする。上御霊神社では、それ以前にあった上出雲寺に現在の相国寺の法堂に匹敵するお堂が建っていた話しをする
それからどうして畠山がここの陣をはったかを足利政権と上御霊神社の関係から説明する
こういった歩いてまわるイベントに重要なことは、まず第一に臨場感。目の前に当時の様子が浮かんでくるようなさまざまな仕掛けが必要。けれどえもそれだけではなく、そこから当時の社会の仕組みを理解できるような説明がとても重要
ただ単に名所をめぐっているだけではなく、それらのポイントが意味のある形でつながっていて、それが歴史を理解する上で重要だということが、実際の現地にたって実感できるような説明がめざす姿です
そこが一般の観光案内との大きな違いだと思います

さて、そこから先は学生君たちの出番
まずは院生と3回生がお手本を見せてくれます
主に江戸時代は中川くん、鎌倉時代は松本さん、室町時代は市澤くんが各自の研究の成果を披露してくれました
午後は、この経緯をふまえて、ビデオや携帯ガイドブック担当以外の文情の1回生の4人にひとつずつポイントの説明を割り振り初舞台に臨み、頑張ってくれました
みなさん、大学の中でする発表とはひと味違う、社会への初舞台はいかがだったでしょうか
ツアーに参加された方々はおおむね楽しんでいただけたのではないかと思います
午前と午後とのべ5時間ほど上京を歩きました
お疲れさまでした
http://scoophand.cocolog-nifty.com/tansaku.mp4

これからの大学の役割のひとつには、それぞれの分野で方法は異なりますが、学生くんたちに、社会へつながるたくさんの舞台をふませることがあるのではないかと考えています

正しい比較になるかどうかはわかりませんが、歴史の研究にも映画的なものやテレビ的なものや舞台的なものがあって、佐倉の歴博の48集と71集と狭山池の報告書に載せた南河内3部作や歴博の92集などは、いわば映画的なものやテレビ的なものだったかもしれません。
研究の諸段階によって多少の異なりはありますが、この業界の専門家と言われるようになるには、こういった作品があたりまえにできないといけないのは当然ですが、それだけではなく、観客の反応をリアルタイムに知って、それに的確に対応しなければならない舞台をこなすということも重要で、それがとても勉強になる場になっています。
(なによりもリピータを前にして同じネタは使えません)
ただしここで言う舞台というのは授業や同業者の集まりの研究会のことではありません。そういった場ももちろん大変勉強にはなりますが、そうではない一般の社会との関係の舞台は、それ以上にいろいろな面で勉強をさせてくれます。
とくに現在の歴史研究や考古学研究は、社会の中で(社会との連携の中で)どのような役割を果たすべきか、果たすことができるのか、大いなる模索が始まっています。
そんな時、学問に対するしっかりした芯を持ちながら、しかし社会に対する鋭敏な感覚をもって、これからの開かれた大学の一端を担う意味で、学生君たちとの舞台を大切にしていきたいと思っています。
(もっとも、単に舞台が好きなだけとのうわさもありますが)

それにしてもしばらく映画を撮っていないなあ
久しぶりに映画も撮りたくなっています

2006年3月 3日 (金)

今週は上京週間

火曜日:大学院のNくんと知恵袋の原稿の打ち合わせをして、Mさんと翌日のNHKラジオの打ち合わせで今出川へ向かう。3月4日の最終下見をしがてら京都市へ挨拶に行った後、図書館の現場を少し覗いて広報課へ。
水曜日:今出川キャンパスの発掘調査データをひろく公開し、活用してもらうためにつくったシステムのデータ更新を年度末までにおこなわないといけないので、その打ち合わせを工学部の大学院のGくんと4回生のFくんと打ち合わせをする。
システムは管理用と公開用に分かれていて、データはまず管理用サーバーに入れ込む。調査地点毎のトレンチ単位でフォルダーを作成して、「画像」「テキスト」「DXF」などに分けて入れる予定。データは学生会館地点以後の全ての調査地点の遺物画像と実測図データと遺構データである。全部で十数ギガだがハードはそんなに準備していないのでサムネイルにするかと思案思案。
その後、整理室で3月4日におこなう上京探索イベントのブリーフミーティングを3回生と院生とおこない、工学部の先生とけいはんなの打ち合わせをしてから、NHKの関西ラジオワイドという番組に出るため、一緒に出演するMさんとTくんと寒梅館へ向かう。
Nhk4 16時からレポーターの森さんと6分間の生中継の段取りを打ち合わせる。インタビューのテーマは学生が制作した「上京をあるく2」の魅力と苦労話。主役は学生。森さんはひとりで取材、原稿作成、中継の全てをこなすスーパーウーマンである。大阪時代になんども取材を受け、いくつかの番組制作にたちあってもきたが、なにからなにまでひとりでこなす番組制作を見たのは初めてだった。
昨日の夕方にわずかな時間で下打ち合わせをしたのだが、それを見事にまとめた原稿を元に時間を計ってセリフの修正をしているうちに10分前。
電話回線を通じて生中継するという技にあっけにとられているうちに本番がはじまり、あっという間に6分間が過ぎる。
後で聞くとMさんもTくんも、とても緊張していたそうだが、とてもそんな風には見えないくらいしっかりしてました。仕事というものに対する姿勢に関して、MさんもTくんもとても良い勉強になったようで、なによりでした。森さんも皆さんもお疲れさまでした。
木曜日:午後になって知恵袋の冊子編集の全体打ち合わせを大学院のNくんと1回生のNさんとTさんとおこなう。Nくんの最後の原稿を入れて、Tさんがつくってきた表紙のレイアウトデザインについて検討して、ほぼ完成版のアウトラインができあがる。
金曜日:考古遺物の情報化の一番手軽な手法として、ローランドのピンスキャナを利用した、従来型実測図作成のビデオマニュアルを院生のIくんに手伝ってもらい撮影する。例によって測点の自動化とダイレクトなデジタル化が特徴で、工夫すれば十分従来の手書き実測図に代わる実用的な方法だと思う。
そして明日の土曜は、上京探索イベントの本番。案内役の学生は11名。少しは春めくらしい。とくに1回生は一般の人に説明するのは初めて。なんでも勉強です。各自なにかを得ることを目標にして欲しいと思います。

2006年3月 2日 (木)

PICZAによるピンスキャナによる小型遺物実測の手順

従来と同様な遺物実測の方法をとりながら、実測者の技能レベルによる誤差の発生を減らし、さらにより高精度でかつ簡単に小型遺物の実測図を作成することができます
http://scoophand.cocolog-nifty.com/pinscademo1.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/pinscademo2.mp4

用意するもの
・PICZA
piczaについては下記参照
http://www.rolanddg.co.jp/product/3d/3d/pix-30_4.html
・CADソフト
・イラストレイター

PICZAはミリ以下の単位で3次元データを取得する接触型のピンスキャナです
これをこれまで手実測でおこなってきた三角定規と直定規と型取り器の代わりに使用することで、任意の断面の形状を3次元で自動計測します
PICZAは一定の面積を指定することで多くの3次元データを取得することができますが、時間がかかって現実的ではありません。むしろ全体的な3次元データの取得はレーザーがふさわしいでしょう
ただし、レーザーは費用も設備を大がかりになるので、現在一般的な行われている断面図作成の代用に限定して、PICZAを利用して、その利点を活かします
ここではPICZAのピンが動き回る領域を最小にして(幅5ミリ)、そこで取得される2本の点群(線)のうち1本を利用しています
また取得したデータは、DXFで出力してイラストレイターでトレースすることで、従来おこなってきた遺物の観察を兼ねた実測につなげることとしています
もちろんできあがった図面はそのまま版下になりますから、計測が終了したら報告書の版下ができあがっているという合理的で実践的な方法とも言えます

もちろん、3次元の点群としてデータの出力もできるので、描き出したアウトラインの曲線をトレーシングペーパーで複数重ねて形の比較をすることなく、スプライン曲線などに置き換えて検討することも可能になります
実験を繰り返して見通しをつけてくれた市澤君ありがとう

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