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2006年3月14日 (火)

七本松の寺町

鋤柄の独断と偏見だが、今のところ古代・中世の京都には2筋の聖なるラインがある。
一筋はご存じ五辻通から持明院通(毘沙門堂通(上立売))
北野天神と平野社(いつの時代に決まったのかどうかはわからないが、実は平野社の南?の路が上立売)を西の端において(平野社はもちろん広隆寺の旧地推定地で北野天神の南は北野廃寺の場所)、東にのびた先には院御所と室町殿、そして相国寺、その先はなにかというと現在河原町通が賀茂川を渡る橋
これが何を意味するのかはこれからの課題
もうひとつの通は下立売と中立売
言うまでもなく下立売の西には内裏があって、その北には聚楽第
その下立売を東へ進んで堀川を渡ると見えてくるのが府庁の南門
というのは京都守護職屋敷
そして中立売を烏丸から東へ渡れば京都御所の南ライン
これが偶然なのかこじつけなのかはこれからの課題だが
こだわっておきたいのは、下立売通の府庁の南門まで行く手前に「いしざき」という古い飴屋さんがあること
確かに旨い
ちなみにこの「いしざき」の西の角を南へさがったところに鋤柄が2度目に住んだ下宿の跡がある

今日の仕事はふたつ
ひとつは寒梅館のマルチメディア展示のサーバメンテナンスの引き継ぎ
2000年に立ち上げた歴史資料館web以来、Nくん0くんGくんという3人の工学部くんがバーチャルミュージアムを支え創りあげてきてくれたが
みな卒業して就職して、ついに3代目のGくんもこの3月で院を修了、就職おめでとう
ということで4代目となるFくんが今日とあさっての予定で諸々の引き継ぎをおこなう
君の手の上に同志社の遺跡情報が載っている
たのむぜ

ふたつめは上京のGPS携帯の受信チェック
丸太町で地下鉄を降りて間ノ町口から京都御苑へ入る
苑内施設維持のための外構石張り改修工事が始まったようで、10トンダンプが走り回っているという不思議な風景を見ながら、携帯片手に鷹司邸の南をまわって大宮御所の南西角から北へむかう
あと数週間もすれば桜が咲いて新入生が興味津々で歩き回るのだろうか

今出川をパスして相国寺を抜けて慈照院を覗いてから寺之内から室町へ
おおむね受信は良好
今出川から新町を下がって武者小路を抜けて小川へ出ようとして
発掘事務所にいて、現在法学研究科に所属しているAくんに久しぶりに会う
聞けば中世前半の法制史を勉強しているという
これはたのもしい
あらためて話しをしよう

堀川を中立売まで下がって西へ
どのあたりから平安宮を感知するかなとチェックをかけながら大宮をすぎて
智恵光院でヒット
そのまま中立売を西へ向かいながら正親小学校の前で立ち止まる
たしかここに聚楽第の石碑があったはずだが工事をしていて見あたらない
きれいに作り直すのだろうか
Jusiniti

千本を西へ抜け仁和寺街道から七本松通に入る
七本松通は秀吉による京都改造の後に開通(1615?)したとされ
北は五辻、南は下立売という
南北の聖なるラインである
名前の由来は、この通の下の森に一株七本に分かれた松があったことによるという
また近世初期はこの通が町の内と外の境にもなっていたようで
「七本松通ひがしかは京地也、西がは西の京也」とある
その七本松通を仁和寺街道から丸太町へ向かう途中で不思議な光景を目にした
Pict2675 どう見ても寺町なのである

およそ北は一条通、南は下立売通、東は千本通、西は天神川(紙屋川)にかこまれた学区を仁和学区と言う
天正15年(1587)、聚楽第を造営した豊臣秀吉は、内野に大名以外の武士を七ブロックに分けて集住させた。これが現在の一番町から七番町までの町名の起源という。
水上勉の名作「五番町夕霧楼」にちなむ舞台である
ちなみに「金閣炎上」など京都を舞台にした作品で有名な水上が9歳から13歳までいたのが相国寺の西門に近い塔頭、瑞春院である。
聚楽第破却後、跡地は荒廃したが、宝永5年(1708)の大火で烏丸通の周辺が類焼した後に禁裏が拡張されたことにより、立本寺とともに烏丸下立売付近の住民がこの地に移住してきたという。

立本寺は、月明が五条大宮に建立した、後に妙顕寺と改称する妙本寺と対立し、延暦寺の末寺となり改称した本応寺が起源とされる。
場所は中立売通が千本通の西で北西に曲がって一条通に向かう先の南西にあり、町名は一番町である。
本応寺は応永23年(1416)に、日実などが四条櫛笥にあった妙顕寺の旧地に建立された。
天文法華の乱(1536)に山門の攻撃で破却され、再興したが秀吉により文禄年間に京極今出川の北東に移された。
本堂西南隅に今出川小川に家のあった灰屋紹益と吉野太夫の墓がある。

観音寺は七本松の下立売を上がった西にある。
慶長12年(1607)の創建とも、寺伝によれば当初一条寺町にあって万治4年(1661)の類焼で現在の地に移ったという。
境内の観音堂に安置されている聖観音は、安阿弥の作で、応永年間に疫病が流行したときに山名重氏が祈願して再興したものといい、多くの人が集まったことにことにより千人堂とも言われた。
さらにこの観音はもと一条戻り橋の近くにあって浄蔵が祈念して父の三善清行を蘇生させた伝説をもつ
また山門は伏見城の牢門を移したと言われ、門のくぐり戸が風で開くときに人の泣き声が聞こえるという出水七不思議のひとつ

近世初頭に生まれた寺町もまた、京の内側と外側を境界するものだった
あるいは京の内側と外側を境界するものゆえにそこに置かれたのか
ちなみに、そのすぐ西を走っているのが秀吉の土居堀である

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