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2006年3月 5日 (日)

古墳の木製品と額安寺

天気予報通りにすっかり春の陽射しが奈良盆地に降り注いでいる
遺跡屋さんは、こんな天気の時はつい野に山に出かけたくなってしまう
今日はちょうど巣山古墳の出土遺物の公開が広陵町の役場でおこなわれる日なので、ちょっと見学に
会場に到着したのは13時ころ、タイミング良く見学者が少なくゆっくり見ることができた
古墳関係の木製品は橿原市の四条古墳、高取町の市尾墓山古墳、桜井市の纒向石塚の弧文円板と勝山古墳から見つかった鋸歯文を付けたU字型の木製品、桜井市小立古墳の木製埴輪、三宅町の石見遺跡、田原本町黒田大塚と笹鉾山古墳、天理市の小墓古墳と御墓山古墳、新庄町の北花内大塚古墳、大和郡山市水晶塚古墳などが有名で、いずれも古墳時代の葬送儀礼を知る上で重要な資料とされてきた。とくに勝山古墳の木製品は年輪年代測定もおこなわれ注目された。
今回は巣山古墳の前方部の左端から外にのばした周濠のトレンチから出土し、木棺は裏返った状態で濠底からみつかったと言う。
種類は木棺(長持形木棺の蓋)(クスノキ)、舟形木製品と言われるゆるやかに彎曲した板材(スギ)、三角形材(クスノキ)、木偶(サカキ)、笠形木製品、建築部材(ヒノキ)。
船と古墳との関係は、これまでも船形埴輪が多く見つかっていることからよく議論されてきているが、なんといっても今回の資料に記された円と直線の組み合わせの文様が興味深い。隋書倭国伝などの文献も重要ではあるが、復原案については、これまでみつかっているさまざまな木製品の再評価とあわせて考えをまとめてみたい気がする。
確かに長持形石棺そっくりだとか(もしかして長持形石棺の表面にもこんな文様があったのだろうか)、保存が大変だと思ってみていたら、武藤先生が見学に来られたのを発見。奈良の古墳にもくわしい武藤先生と一緒に見学をすませると、車で送りがてら短時間だったが大和郡山の額安寺の見学にお誘いする。地元なのでいつでもいけると思いながらなかなか訪れる機会の無かった額安寺だったが、武藤先生と行けるとは、良い天気に誘われて出てきて幸運だった。

額安寺の古名は額田寺、山号は熊凝山、真言律宗、十一面観音菩薩。
奈良盆地中央部北の初瀬川と佐保川の合流点北に位置する。
有名な天平宝字年間(757~765)頃の額安寺班田図があり、東西3町、南北2町の寺地があったとされる。
寺伝によれば、本願とされるのは、大安寺の建立者である道慈(俗称額田氏)とされ、大安寺の前身である熊凝寺と結びつけられた伝承も持つが、鎌倉時代中期の「聖徳太子伝私記」に、聖徳太子の建てた46カ寺のひとつとして登場し、額田氏の氏寺として創建され、当初は額田寺と呼ばれ、後に額安寺とあらためられたと考えられている。
鎌倉時代に、叡尊と大和郡山生まれの忍性によって再興され、極楽寺開山の忍性は頼朝や政子の供養塔を建立したと言われる。
境内から飛鳥時代の瓦が出土し、班田図に額田宿禰の先祖の「船墓」とする墓があり、額安寺の北方約500mに円墳がある。
また額安寺北方の墓地内に、高さ3.3mの大石塔をはじめ、永仁年間の銘文をもつ鎌倉時代の石塔群がある。
Pict2660 寺を出ると南東の明星池に文応元年(1260)の宝篋院塔が見え、その東には元禄年間の銘をもつ手水鉢がなにげに置かれている推古神社がおかれている。
鎌倉墓や船墓へは行けなかったが、楽しみはまたの機会に残しておこうと思う。

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