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2006年3月11日 (土)

7世紀について考える-飛鳥京-

土曜日は、すっかり春を思わせるぽかぽかの現説日より
(ここで言う「現説」とは、埋蔵文化財行政で行われる遺跡の一般公開を指す。あくまで行政用語なので、遺跡の一般公開以外にも使われることがあり、鋤柄としては、普通に「遺跡の一般公開」という言い方が良いと、行政にいたときから思っている)
明日香では、明日香村の主催する島庄遺跡第31次調査の現説

奈良県の主催する飛鳥京跡第155次調査の一般公開

独立行政法人文化財研究所の主催する石神遺跡第18次調査の一般公開

おこなわれた

好天にもめぐまれて、14時半すぎに着いたのにまだ入場制限が行われるほどの盛況で、見学者は5000人を越えるらしい
遺跡の一般公開の人数としては久しぶりの数である

飛鳥京跡は藤原京跡より遡る7世紀代の宮殿遺跡である
古墳時代における日本列島の国家形成過程には、重要な転換点がいくつかある
その最も有名なひとつがいわゆる大和朝廷の成立で時期はおそらく3世紀後半、場所は奈良盆地東南部
その次がおおむね5世紀代、いわゆる河内王朝の時代
そして継体による6世紀の変革
これらの変革期の評価についてはさまざまな意見があるが
いずれも有名な水野祐の3王朝交代説や江上波夫の騎馬民族征服王朝説そして古墳時代の時期区分にもつながる重要な考え方である
ただしその詳しい中身についてきちんとした説明がなされるにはまだまだ時間がかかる

一方で8世紀の奈良時代には、すっかり政治や制度が整った古代国家が姿をあらわしていた
つまり7世紀とは、古墳時代にはじまった古代国家形成のプロセスが完成する直前の非常にエキサイトな時期だったのである
この時期を知ることで、それ以前の社会を明らかにすることができ
この時期を知ることで、これ以降の時期の社会の実態を考えることができる

これまでの調査で飛鳥京について3つの時期が推定されている
1期は舒明の飛鳥岡本宮(630~)
2期は皇極の飛鳥板蓋宮(643~)
3期は斉明と天智の飛鳥岡本宮(656~)と天武・持統の飛鳥浄御原宮(672~)

このうち最もよくわかっているのが3期で、内郭は内裏、外郭は官衙、エビノコ郭は大極殿と考えられている。
今回の調査地は内郭のほぼ中央なので、平安時代ならば紫宸殿とその裏側あたりか(もっとも構造はまったく違うが)
いずれにしても天智か天武かというメジャネームの遺跡である

ただし今回の調査で注目されるのは、それと共に1期の建物がみつかったこと
掘立柱の建物で軸が異なっている
京田辺キャンパスの近くには、継体の筒城宮が眠っているが、古墳時代の宮を創造させる雰囲気があった

それにしてもいつも遺跡に立って思うのは
なぜ、その時の人々はこの場所を選んだのだろうかということ
明日香の宮の立地と難波や平城の宮の立地は明らかに異なる
見かけだけで言えば
明日香の立地は平安時代後期の開発領主のそれと同じであり
難波の立地は北条以降の鎌倉幕府のそれと同じである
その意味で良く言われるように、難波の宮の選地は大きな意識の変革を示していると言って良い

京都教育大学の和田萃先生は、奈良盆地の南東部の山地帯を蓬莱の地とする
森先生は、明日香の北東で奈良県桜井市の三輪山西麓にひろがる纏向遺跡を始祖王の聖なる地とする
飛鳥京の北西に位置する石神遺跡は須弥山石や石人像がみつかった国家的な饗宴地だと言われている
今回は天武8(679)年の「観世音経」と書かれた木簡が出土した
西には甘樫丘がたゆたゆと続く
流通や経済だけでは説明できない歴史の深さがそこにはある
ここでもやはりミクロの視点と同時にマクロに全体をGISする必要がある
http://scoophand.cocolog-nifty.com/asukaview.mp4

遺跡の一般公開の資料がカラーになって久しい
鋤柄の記憶によれば、埼玉県の金井遺跡の資料がカラーの最初だと思う
それを大阪に持って帰って、これからはカラーの時代だと言って、大坂城跡の一般公開資料を西日本で最初に出そうと思っていたら、その直前に別の遺跡の説明会資料がカラーで出された
森先生がアサヒグラフで「都市の考古学」を始める前年だった
今回の一般公開には5000人を越える見学者が集まったという
考古学と歴史研究は、この大勢の人たちの知的好奇心に的確に応えていかないといけない

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