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2006年4月 2日 (日)

善光寺について考える2

ヨシミツである
ヨシミツと聞くと、このブログの常連さんたちは、すぐ「足利」かと思うかもしれないが今回はちょっと違う
ヨシミツと読むのかどうかはわからないが
漢字で書くと「本多善光」となる。息子は善佐という。
生きていたのは推古天皇の時代だから7世紀
生きていた場所は信濃の国麻績の里で現在の長野県飯田市座光寺周辺という。あるいは水内郡とも
エピソードにはいくつかの読み方があるがその骨子は次のようなものである
彼は推古10年(602)に難波の堀江で見つけた一光三尊の本尊を持ち帰り、麻績の里の自宅の臼の上に祀っていたことから「坐光寺」という名がつき、その後、皇極元年(642)に水内郡芋井郷へ遷座され、彼の名前に由来する「善光寺」が創建されたという。
よって
鎌倉時代の善光寺門前の歴史をひもとく最初の案内人は
善光寺の縁起に深く関わるこのヨシミツという人物にしたい(若麻績東人という人物とも重なる)

荒削りではあるが、ここはやはり静かに史料の確認から始めたい
まずは一般的な知識から

各種日本史辞典によれば、長野市にある天台宗および浄土宗の別格本山。
山号は定額山、古来四門四額と称され、東門を定額山善光寺、南門を南命山無量寿寺、北門を北空山雲上寺、西門を不捨山浄土寺とする
本尊は一光三尊阿弥陀如来で善光寺如来とも呼ばれる。
創建は皇極元年(642)と伝える。

度々の火災の後、文治3年(1187)に源頼朝が再建に着手。建長5年(1253)に北条重時が供養を遂げる。
平安時代末期から、浄土教の成立と発展と聖徳太子信仰と結びついてさかえ、生身弥陀の浄土として全国総菩提所として全国から追善の遺骨や納骨が集まり、背後の大峰山には数千基におよぶ五輪塔がみつかっているという
また一遍に代表される念仏の中心地ともなり、全国に200を越える善光寺がつくられた
今昔物語を原型にしたと言われる、有名な「牛にひかれて善光寺詣り」や「遠くとも一度は詣れ善光寺」は、多くの人に親しまれた善光寺信仰の姿を表現したものだろう

本尊は戦国時代に武田信玄によって甲斐善光寺に移され、天正10年(1582)岐阜の清須・岡崎・吉田・甲府を経て、慶長2年(1597)には豊臣秀吉が京都方広寺の本尊としたが、翌年信濃善光寺に戻し、豊臣秀頼の寄進によって、1600年に如来堂が再建された。

現在の本堂は国宝で、元禄5年(1592)に計画され、1700年に松代藩に普請が命ぜられ、江戸谷中の感応寺住持の慶運が善光寺大勧進に任ぜられ、5年間の諸国出開帳で24577両の浄財を集め、幕府大棟梁の甲良豊前入道宗賀の設計で宝永4年(1707)に完成。東西7間南北17間。近世の大寺院を代表する建築という

ちなみに甲斐善光寺には、善光寺から移されたという梵鐘がある。記録によれば、治承3年(1179)と文永4年(1267)に善光寺の火災の折りに修理され、正和2年(1313)にも補鋳。「引きずりの鐘」とも呼ばれている。

現在善光寺の寺務職を勤めているのは、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願である。以前は妙観院と称して権別当職にあり、経衆の首班だった大勧進は、一時真言宗の醍醐寺に属していたが、1643年に寛永寺末となり、大本願は尊光上人を開山と伝える尼寺で、はじめ三論宗であったが、65世の時に浄土宗になったという。

現在の門前の風景は、おそらくこの地が1614年に北国街道の宿駅になったことを原型とし、本陣の藤屋が今回の調査地のすぐ東にあることは前に書いた通りである

さて、このような善光寺の縁起にかかる最も有名な史料は『扶桑略記』である
『扶桑略記』は神武天皇から堀河天皇の嘉保元年(1094)までの歴史書で、仏教史を中心として、様々な霊験記・往生伝・寺社縁起などを元にまとめられている。編者は比叡山の皇円阿闍梨とされる。

その中に善光寺阿弥陀佛像の由来と、引用されている「善光寺本縁起」があって
まず或記にいわくとして、欽明天皇13年10月に百済明王が一尺五寸の阿弥陀仏と一尺の観音・勢至像をもたらしたが、信濃国善光寺の阿弥陀仏はそれで、推古天皇の時代に、それを秦巨勢大夫が信濃に送ったという
また「善光寺縁起」にいわくとして、同じ欽明13年(552)に百済から阿弥陀三尊が摂津の難波津に来たが、これが最初に日本列島に来た仏像である。推古10年(602)に仏の託宣によって綸言が下され信濃国の水内郡に移された
『扶桑略記』には「かの寺の本縁起の文からとして」その仏像の鋳造にかかる詳細な経緯も記されており、その内容ははなはだ難解ではあるが、一般的な解釈はこのようなものだと思う

これに次いで、麻績村が登場するのは
1180年頃成立した国語辞書の『色葉字類抄』に、鎌倉時代に増補をしてできた10巻本の『伊呂波字類抄』で
仏像は推古10年(602)に信濃国麻績村へ移された後、皇極元年(642)に水内郡に移り、善光寺が創建されたとある

さて、創建されて以降の善光寺であるが
『善光寺年代略記』は大同4年(809)に火事のあったことを伝えており、別の『古記』によれば、弘仁5年(814)、天延3年(975)、天仁元年(1108)などの火災記事が知られ、その後に有名な治承3年(1179)3月の金堂および廻廊以下焼失の記録が続く
さらに一般に『応永縁起』と呼ばれる『善光寺縁起』(作者不明、4巻)によれば、応永34年(1427)にも火災のあったことが知られている。
なお、この縁起は『続群書類従』釈家部などに収録されており、室町時代以降の善光寺如来信仰を知る上で重要史料と言われ、善光の息子の善佐はここに登場するという。

ちなみに「善光」という人物については、同じ『扶桑略記』の天智天皇3年に、百済王善光が来朝し、難波に住んだという記述がある。
この記事は『日本書紀』の天智天皇3年(670)3月を元にしているが、その註によれば、百済王善光は百済の義慈王の子か弟かとされ、『続日本紀』の天平神護2年(766)6月28日条によれば、舒明朝(629~641)に豊璋と共に入侍、百済滅亡のために帰国せず、持統朝に百済王と賜姓。持統7年(696)に没すとある。

なお『日本書紀』に登場する「善光」を探せば
・崇峻天皇3年3月、学問尼善信尼が百済から帰って櫻井寺(豊浦寺)に住んだ時、得度した尼の中に「善光」がいる。崇峻の即位の用明2年(587)、物部守屋が蘇我馬子たちの攻撃に敗れ、聖徳太子によって四天王寺が建てられ、また飛鳥に法興寺が起った直後である。
・天武4年(676)、さきの百済王善光が正月の祝宴で薬などを進上
・朱鳥元年(686)、天武の死に際して、百済王善光に代わり百済王良虞が弔う
・持統7年正月15日、百済王善光に正廣参を賜う。
などとなっている

「そして歴史は伝説になり、伝説は神話になった」という
これはロード オブ ザ リングの中の有名な台詞であるが
善光寺へのアプローチもまた歴史の闇につつまれて一筋縄ではいきそうにはない
確かめなければならないことが多いまま探索を続けるのは限界に近いので
ポイントを絞って次に進みたい

鋤柄のこだわりは言うまでもなく3月18日の説明会で見ることのできた善光寺門前の鎌倉時代の風景である
しかし中世の風景を描くためには、その背景にあった古代の善光寺についても知っておかなければならない
これはそのための長い助走である
その点で小林計一郎さんの『善光寺史研究』や『長野市誌』をもとに、非常に興味深い話しを小林一郎さんがされている
タイトルは「どうして長野に善光寺があるのか」
http://www.h7.dion.ne.jp/~tsumugu/tsumugu020317.htm

・現在の善光寺周辺には水内郡の郡衙があり、科野国造(しなののくにのみやつこ)の末裔である郡司の金刺(かなさし)氏(または若麻績氏)が造営した寺があったのではないか
(金刺氏の関係については信州考古学探検隊さんのサイトも参照)
http://homepage3.nifty.com/himegappa/jisha/hokushin/houri.html
・「延喜式」に載る「式内社」の中で、とくに霊験が著しいとされる名神大社の「健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこがみわけのかみ)」がここにあった可能性
・仁王堂から東へのびる「中道」は、長野市東部に残る条里遺構の基準線にあう。中道は水内郡の郡衙と高井郡の郡衙をつなぐ道か。
善光寺平と朝鮮半島の文化とのつながりを強く意識することに重要性とあわせて、よりリアルな地域史にせまる指摘だと思う

それから遠藤薫さんによる「聖地の構造:善光寺とディズニーランド」http://endo-lab.org/paperF/Seichi.pdfという「異界との接触点」に注目したレポートも非常に参考になると思う

さてそれではこのような古代の背景をもった善光寺の中世的な風景とはどのようなものだったのだろうか
これまでの要素を分解して整理しながら考えてみたい

☆ここまでの探索で確かめなければならない資料
『扶桑略記』国史大系(国会図書館の近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/index.htmlで国史大系が見られます)
『日本書紀』日本古典文学大系
『続群書類従』
『伊呂波字類抄』
米山一政1957「善光寺古縁起について」『信濃』9-6
坂井衡平1969『善光寺史』上・下 東京美術
吉原浩人1986「安曇川町太子堂蔵『善光寺如来絵伝』考-続群書類従本『善光寺縁起』との対照を中心に-」『早稲田大学高等学院研究年誌』30
長野県1986『長野県史』通史編2 中世1
牛山佳幸1991「信濃善光寺史関係文献目録」『寺院史研究』2
牛山佳幸1996「信濃善光寺史関係文献目録補遺(その1)」『寺院史研究』5
牛山佳幸1997「『善光寺縁起』の成長」(長野市立博物館特別展図録『古代・中世人の祈り-善光寺信仰と北信濃-』
長野市2000『長野市誌』2 歴史編 原始・古代・中世
小林計一郎2000『善光寺史研究』信濃毎日新聞社

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