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2006年4月28日 (金)

トピックス-京都の方形竪穴建築址と六波羅政庁址-

歴史資料館の書庫で鳥羽をさまよっていたらまた面白いコンテンツに出会ったので再び寄り道

1、京都の方形竪穴建築址
(『京都市内遺跡試掘調査概報』平成13年度、京都市埋蔵文化財調査センター)
 場所は烏丸通と三条通の交差点の北西を少し北へいったところで、調査されたトレンチは烏丸通に面した東西に長い敷地。
 この場所は平安京の条坊では左京三条三坊十二町にあたり、平安時代中期には藤原頼通の妻の祇子の邸宅が、末期には藤原基隆の邸宅があり、その後白河法皇へ献上されると、鳥羽天皇や鳥羽天皇の中宮待賢門院が御所御所(三条西殿:平安博物館の調査報告がある)として利用した。ちなみに烏丸通を渡った東には白河法皇の三条東殿があり(新風館の壁に説明板がある)、あたかも院の権力の中枢の様な場所だったと言える。

 みつかったのは土坑20・23・26。
 土坑20は、南北2.8mで深さ70㎝ほどに掘りくぼめられた四角い穴。西壁に沿って幅30㎝ほどの溝が掘られ、その中に50~65㎝の間隔で、礎石を入れた5つの柱穴が設けられている。また床面は固く締まり、その上に薄い炭層があったという。土坑の中からは13世紀後半から14世紀初頭の土師器皿と青磁碗がみつかっている。
 土坑23は、南北2.3m、東西1.7m以上で深さはやはり70㎝である。壁際に幅40㎝ほどの溝がめぐり、その中から60㎝間隔で礎石を伴った柱穴が見つかっている。出土した遺物は、11世紀の土師器皿・灰釉陶器碗など。
 土坑26も同様な遺構と考えられており、他の出土遺物とあわせて室町時代の地下式土坑とされている。
(図面に掲示されている資料は13世紀後半または14世紀初めくらいと思うが)

 こういった遺構は、業界用語で言うと、鎌倉で多くみられる方形竪穴建築址と呼ばれるものに似ている。ひらたく言うと、地面を掘りくぼめて、その低くなったところ(半地下状)に基礎をおいて建物をつくりあげているものである。古墳時代や弥生時代などの竪穴住居跡をイメージしてもらっても良いが、規模はずっと小さい。
 
 1986年に『長野県考古学会誌』に中世集落遺跡のことを書いたとき、東日本では古代はもちろん中世においてもそれなりに知られている遺構だが(戦国時代の城館跡からもみつかっている)、関西では高槻でそれらしいものが鎌倉時代にあると言われているだけの非常に稀な遺構であるとして、東西日本の違いと、14世紀代を過渡期とする時代区分論に話題を提供した記憶がある。
 その後、京都駅の伊勢丹の地下の鎌倉時代後半の鋳物師の家の裏庭から、2本柱で浅く掘りくぼめた四角い遺構と掘りくぼめた壁際に柱穴のならんだ遺構がみつかり、方形竪穴状の工房跡と言われている。
 鋤柄もその意見に賛成であり、烏丸三条の例とあわせれば、西日本でも鎌倉時代後半に
ある程度みられた遺構だった可能性がある。

 問題が2つある。
 ひとつめは、鎌倉の場合、こういった遺構の分布は前浜に多く、普通の建物が多い鶴岡八幡宮周辺との対比で都市の中心とその周縁の議論の材料になっているが、鎌倉時代後半の烏丸三条でこれが見つかったことの意味はどのように考えたらいいのかということ。
 ふたつめは、京都駅の伊勢丹の地下でみつかった方形竪穴は道から離れた場所にあったが、この方形竪穴は烏丸小路のすぐ近くにある。さらに3つ重なり合うようにつくられている。この意味はなんなのか。

2、六波羅政庁址
 

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