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2006年4月26日 (水)

鳥羽について考える2

まずはじめに、鳥羽離宮と呼ばれる一帯の中で
どこが調査されたのかを知る必要がある
最近の法金剛院の報告書と1984年のカラー表紙の報告書に
その集成の一部が掲載されているが
ここはやはり一から見直そうとばかり
名神高速道路の建設にかかる調査にさかのぼって調査地点の集成をおこなった
(まだ途中)

次に入手しうる調査報告の初出から調査成果をながめはじめた
手にしたいもののイメージはまだ明確ではないが
目的は鎌倉時代の都市の風景の原型である
それを示す可能性のあるモニュメントや情報がなんであるかを決めつけることなく
まずはながめて自分の体を鳥羽と一体化させる

おそらくその手がかりのひとつは区画溝ではないだろうかと思い
その目で再び報告をながめ直す
思いついて、名神高速道路の工事にかかる報告書をとりだし
読み直す

昭和34年3月31日の京都府教育委員会発行による「名神高速道路路線地域内埋蔵文化財調査報告」である
この本は、京都府内における、名神高速道路路線地域内に予想された、埋蔵文化財の発掘調査および実地測量調査の概況報告、となっており
山科の芝町遺跡と大宅廃寺
伏見の深草廃寺とけんか山古墳と嘉祥寺跡、貞観寺跡、西飯食町遺跡そして鳥羽離宮跡が納められている
調査の代表は梅原末治と有光教一
現場の指導は森蘊と坪井清足および酒詰仲男(同志社大学)
大宅廃寺の調査担当が浅野清、木村捷三郎、小林行雄、杉山信三、鈴木嘉吉、工藤圭章、高橋猪之介、西谷真治、樋口隆康
調査補助員が岡田茂弘、小野山節、金関恕、佐原真、田中琢、田辺昭三、西川幸治
経費の総額は234万円
参加延べ人数は2400人だったという
いろいろな意味で、今思えば、卒倒するようなプロジェクトだった
ちなみにこのとき既に日本道路公団があった
蛇足であるが、鋤柄はこのとき産まれて7ヶ月だったことになる
また大宅廃寺から中世墳墓がみつかっている
豊富な陶磁器と特殊な構造をもっており、可能ならば見直してみたいものである
深草瓦町の瓦窯についても同様

鳥羽離宮跡は協議の結果、詳細な実測測量がおこなわれ、精巧な地形図がおさめられている
これが大きなショックだった
ある程度は予想していたのだが、それ以上に当時の地割りが現在の地図と一致しないのである
もちろん鴨川の旧河道を示す地割りや、それ以外にも複雑に入り組んだ地形を示す地割りがいたるところにあって、平安時代末期の風景を甦らせる情報はふんだんにありそうなのだが
さて、どうやって考えたら良いものやらと、近鉄電車の中で三山木まで思案にくれる
一番気になったのが、条里地割りがあまり鮮明でないこと
史料にあるような西大路や北大路が意味のある形で復原できるのだろうか

そこで縮尺はだいぶ異なるが
明治時代に作成された完成図を見てみようと急遽歴史資料館の書庫をたずねる
さて
陸地測量部によって作成された明治の地図は、仮製図と正式図のあることが知られているが、それぞれ使う目的によって有用な成果を得ることができる
今回は位置関係の正確さを求めて正式図を参照
するとここでも驚いたことがたくさん
1、京都駅の東でJR線を越えて東洞院を南下する大和街道沿いに「東寺道」「鳥羽街道」「勧進橋」「竹田」「ぼうばな」という駅を通って伏見の西端をさらに南下する「京都電気鉄道」の路線がある。この路線は市内電車につながっている。
2、現在の近鉄京都線の一部は元の国鉄奈良線で、京都を出ると次は「伏見」。現在の関係になるのは1921年に東海道線の東山にトンネルが出来て以後
3、京阪電車は当時からあるが、「丹波橋」は「桃山」で、その北は「墨染」「 」「稲荷」「稲荷新道」「鳥羽道」「東福寺」となっている
京都の地名もあらためて注意しないといけないようである

閑話休題
では肝心の明治時代の鳥羽はどうかというと

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