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2006年4月11日 (火)

一遍と信濃

2002年の5月に「市と館-館の成立とその背景-」という論文を『長野県考古学会誌』99・100 に書いた。
問題にしたかったのはサブタイトルの通りだが、その中でとりあげた重要なエピソードに一遍の訪れた信濃伴野市庭と館の風景がある
現在の佐久市である
既に東京大学の五味先生や千葉大学の玉井先生が中世の館を説明する好例として紹介しているものであるが
鋤柄はそれをもとにして、現地を歩いてまたほかの先行研究と合わせて館とその周辺の風景を復原した
その際疑問に思ったまま残していたのが、なぜ一遍は伴野の市庭を訪れたのかである

今年度からはじまったプロジェクト科目の姉妹講座のようなものとして、学際科目でプロデュース学概論というものが設けられた
そのなかで2回の講義を受け持つ予定であるが
現在そのテーマを中世・近世の風景にみるプロデュースにしており
具体的なエピソードを「重源」「一遍」そして可能ならば「後藤祐乗」や「角倉了以」もやってみたいと考えている
一遍智真は法然・親鸞に続いて現世の救済に活躍した鎌倉時代の偉大な宗教家であり
かつ本人が意図したかどうかはともかく、今で言うすぐれたプロデューサであったと思う
彼は、極楽往生を「保証」する「念仏札」を全国を「遊行」して「賦算」という方法で「授与」し、人々はその喜びを「踊り念仏」で表現したという

今回の授業ではその一遍の遊行のあとをしっかりたどってみようと思っているのだが
(一遍を知ることは京都ももちろんで広い意味でさまざまな鎌倉時代を知ることにもつながるので)
その過程で一遍と信濃に深い関係があることを今更ながら知った
善光寺のところでも触れていたがあまり気に留めることなく見過ごしていた
一遍と善光寺聖の関係も調べないといけないと思いつつ
見ていても取り込んでいないということはこういったことである

一遍は、10歳ほどで出家をするが、父の死により普通の生活にもどる。しかし32歳で再び出家しそれから本格的な修行をはじめる。その初期に訪れたのが「水鏡」に「生身の善光寺の阿弥陀仏の三尊」と言われた信濃の善光寺なのである。その後伊予の窪寺や岩屋、大坂の四天王寺および高野山などで修行し、ついに紀伊の熊野本宮で、念仏札の神勅を受けることになる。一遍と称したのはこの時からと言われ、その後の遊行のなかで信濃国で踊り念仏を始めたというのである。

本格的な修行の開始と「踊り念仏」の始まりという一遍にとって最も重要なエピソードに信濃が舞台として登場するのである
「生身の善光寺の阿弥陀仏の三尊」として有名な善光寺が、現世の救済を積極的にプロモートする一遍の行動に大きな影響を与えたことは合理的に説明できる要素であろう
これはこれで鎌倉時代の善光寺を考えるときにもっと注目したいテーマである
ただし一遍と信濃の関係はそれだけではなかったような

一遍の祖父は河野通信と呼ばれる人物で、河野氏は有名な伊予の水軍であった
その通信は承久の変に際して後鳥羽上皇方についたため、乱が終息した後、厳しい処置を受けることになる
通信は岩手の江刺に流され、一遍の伯父の通政は現在の長野県伊那市で斬首
そしておなじく一遍の伯父の通末は信濃国伴野荘に流されるのである

一遍が2度目の善光寺参詣と共に佐久の伴野の市庭を訪れたのは、最初に善光寺に参詣した文永8年(1271)から8年後の弘安2年(1279)のことで、彼はそこで歳末の別時の念仏をおこない、続いて小田切の里の或武士の館に呼ばれていき、踊り念仏が始められるのである。
現在、佐久市の跡部では国の重要無形文化財に指定されている「跡部踊り念仏」がおこなわれているという
信濃の歴史にくわしい人々の間では通有なものとされている一遍と信濃の関係
歴史はどこでどうつながっているかわからないところが面白い

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