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2006年4月22日 (土)

鳥羽について考える1

鳥羽について考えている
福原の溝と鎌倉の溝について考えたとき、その原型として頭にあったのは鳥羽だった
市の湊とつながった陸の道と水の道をひかえたところに、一定の規格線に依った館が集合する
平泉もとても近い関係と言える

平安時代後期の京都には、それぞれ京の大路につながった3つの街区があった
12世紀初め、白河上皇は、高級貴族の邸宅が集中する二条通を東にいった先に、藤原良房の別業だった白河院を中心に、法勝寺や院御所の集中する白河街区を整備した
12世紀後半、鳥羽天皇と美福門院の愛娘だった八条院女御は、莫大な所領を譲られ、弟の近衛天皇が死ぬと女帝に推されるほどであったが、その御所とその時期のバブルストリートと呼ばれた七条町をむずぶ七条通を東へいった先には、その12世紀中頃に後白河上皇の御所であった法住寺殿を中心とした街区があった
そして朱雀大路を南へいった先には、白河上皇が築いた鳥羽殿があった

平安京の歴史を語るとき、その後半の時代、右京が衰退して左京が繁栄していったと一般に言われている。
しかし、右京の衰退の原因については、あまり深く考えられて事がない
最も多く言われているのは、桂川の氾濫原に近いという自然環境である
しかし山陰線の高架工事にともなう発掘調査で、右京の北部はけっして衰退していないことがわかっている
『池亭記』に描かれているのはあくまで慶滋保胤にとっての世界である
仁和寺の子院である花園の法金剛院は、待賢門院によって大治5年(1130)に(大治5)落慶。待賢門院の晩年の御所として多くの堂が建てられたという。
もちろんその西の先には嵯峨天皇の離宮だった嵯峨院(後の大覚寺)があり、鎌倉時代も後嵯峨院・亀山院・後宇多院とつづく御所があった

ひとくちに右京の衰退と呼ばれるものは、単に自然環境によってのみおこったものではないと思っている
中国の『周礼』にもとづいた理想の形として築かれた平安京は、しかし実際の生活が始まると、都城に住んだ人々によって実質的に住みやすいものに変化する
その結果が平安時代後期の姿であったのだ
それではその原動力はなにか
歴史のさまざまな状況を独立変数で考えていけないのは自明であるが
先の風景を頭に思い浮かべると、どうしても「鴨川」の存在が大きく思えてしまう

古代律令社会の骨格は五畿七道とよばれる地域区分とそれらをつらぬく官道にあった
あまりに単純な話しかもしれない、それを大きく変えたのが藤原純友と平将門で、決定づけたのが平清盛だと思っている
はじまりはちょうど10世紀の中頃頃だったことになる
平安時代中頃にはじまる平安京の変貌は
水上交通を軸とした拠点集落の形成と連動したものだったのではないかと考えている
すでに書いているが、その典型である
北条の整備する以前の鎌倉と福原の風景は規模も形もとてもよく似ている
してその規模がちょうど鳥羽にもあっている
ゆえ
それを検証するためには鳥羽をしっかり見ないといけないので
学史にさかのぼって鳥羽の資料を見直している
京都市考古資料館の資料閲覧コーナーでひっそりと
ちょうどジョージスマイリーがビルの痕跡を資料の綴りの中から探し出しているように

奈良国立博物館で「重源」の特別展がおこなわれる
「一遍」とならんでプロデュース学概論のテーマにしている
これは見に行かなければ

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