« 中世前期の町場と都市について | トップページ | 唐古・鍵考古学ミュージアム2006年度春季企画展 »

2006年4月17日 (月)

砥部焼と鹿背山焼

愛媛県立歴史文化博物館で
4月22日から6月11日まで
平成18年度テーマ展の「近代えひめのやきもの 印判手のわん・さら・はち」が開催されます
平凡社の『やきもの事典』によれば、印判手とは、同じ模様の器を量産するための染付技法で、美濃で始められたといわれる型絵や、18世紀に伊万里で盛んにおこなわれたコンニャク印判が有名。明治には銅版転写が開発されたと言います

愛媛のやきものは砥部町の砥部焼が有名ですが、愛南町の御荘焼や宇和島の三間焼、伊予市の三島焼、八幡浜市の宮内焼、東温市の則之内焼など、各地に生産地のあったことがわかってきたそうです
鎌倉・室町時代のやきものは、東海地域に代表されるような特定の場所で焼かれていましたが、江戸時代以降は全国各地に窯場がひろがり、多彩で身近な焼き物文化が花を開くことになります
大量生産を促進した印判手の技法は、一方で文様によっては判の製作に手間がかかりあまり効率的ではなかったとも言われていますが、現代に続くやきもの文化をつくりあげた原動力のひとつだったことに違いはありません

そう言えば、この南山城にも近世から近代にかけてつくられた銅版転写の有名なやきものがありました
京都府相楽郡木津町鹿背山で焼かれていた磁器です
領主の一条家(兼香)は鹿背山に産業を興すことが好きだったようで、例えば享保2年(1717)に薩摩から琉球芋が献上されたことから、鹿背山の庄屋の利兵衛に命じ、薩摩の農民を上京させ収穫に成功したといい、薩摩から来たので薩摩芋と呼び利兵衛は「芋の利兵衛」と呼ばれるようになったと伝えています。
そしてやはり一条家により、森本助左衛門が奈良から陶工を雇って文政10年(1827)に始められ、明治まで染付を中心に焼かれたことが知られています
鹿背山では同じ頃、鹿背山瓦と呼ばれた評判の瓦も焼かれていたようですから、良質の粘土が採れたのでしょう
そう言えば木津町には、上梅谷の梅谷瓦窯・背後谷瓦窯、市坂の市坂瓦窯など平城宮へ瓦を供給していた窯が多くあり、なかでも上人ケ平遺跡は大規模な官営瓦工房跡で古墳時代の埴輪を焼いた窯も見つかっています。

埴輪窯と言えば、西大寺でも菅原東遺跡という埴輪窯がみつかっています。
その菅原の地ですが、菅原は土師氏の後裔氏族で、その子孫があの道真
それはともかく菅原の埴輪窯は、それゆえ土師氏の関係かと考えていたのですが
(河内の土師の里の土器つくりや、淀川右岸の高野新笠の里につながる高槻の新池の埴輪窯など)
ものが存在するためには、人(技術)と原料の両方の関わり方を考える事例の身近な典型になりそうな

« 中世前期の町場と都市について | トップページ | 唐古・鍵考古学ミュージアム2006年度春季企画展 »

遺跡の見方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 中世前期の町場と都市について | トップページ | 唐古・鍵考古学ミュージアム2006年度春季企画展 »