« 続・トピックス-六波羅政庁址- | トップページ | 醍醐寺と京博と鳥羽 »

2006年4月30日 (日)

高野山について考える-ラピュタ-

Ktyoseki言うまでもなく、あの空海がひらいた真言宗の総本山金剛峰寺のおかれている山である
辞書によれば、和歌山県高野町にある海抜850mの山上に開かれた東西4km・南北2kmの寺院と弘仁7年(816)に空海が修禅の道場として開創した西の壇上伽藍と、承和2年(835)3月21日に、61歳で生身のまま禅定に入り衆生を救済しているとの入定信仰を生んだ空海廟のある東端の奥院が中心で
空海の密教理論に基づき南北に中門・講堂(金堂)・僧房をhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/k-danjo.MP4、後方に胎蔵と金剛界を象徴する大塔・西塔http://scoophand.cocolog-nifty.com/daito.MP4を配置し、仁和年間(885~889)に真然(しんぜん)により一旦完成
その後鎌倉時代に入って、壇上伽藍についで順次周囲の谷々が開かれ、十谷に塔頭・子 院・別所が建ち並び、ほぼ現在の規模となったと言われる
http://scoophand.cocolog-nifty.com/gokurakubashi.MP4

空海は、古代の有力氏族につながる讃岐佐伯氏を出自として宝亀5年(774)に生まれる。18歳で大学に入るが、土佐室戸崎などで修行をして強烈な宗教体験の中で仏道を志したと言う。
延暦16年(797)、23歳で有名な「三教指帰」(聾瞽指帰)を書いて出家。
延暦23年(804)、30歳で37歳の最澄と共に唐に渡り、長安青竜寺の恵果から胎蔵・金剛界・阿闍梨位などの密教を受法。最澄は天台教学や金剛密教を受けて翌年帰国。
これに対し空海は大同元年(806)に32歳で帰国。密教が仏教の中で最高の教えであるという「弘法大師請来目録」を進献。しかし最澄はその前年に、勅により高尾山で密教の灌頂をおこない、この年には天台宗年分度者が2名認可され、日本における天台宗の開創となっている。
空海は大同4年(809)の35歳になって高雄山寺に入り、当時23歳の嵯峨天皇や42歳の最澄らと出会い、最澄とも不完全な密教部門の充実のために交流を始め、弘仁3年(812)には38歳で、45歳の最澄に灌頂を授ける。しかし互いの密教観の相違から39歳の弘仁4年(813)に46歳の最澄と決別。
弘仁7年(816)、42歳で本格的な密教寺院を建てるために高野山を請う。
弘仁13年(822)、48歳の時、南都密教化の拠点として東大寺に真言院を創立。
弘仁14年(823)、49歳で嵯峨天皇から造営のはじまった官寺の東寺を、真言僧50人を常住させる真言宗の根本道場としてもらい、翌年に50歳で造東寺別当となる。日本初の庶民のための学校として東寺のとなりに綜芸種智院を開設したのは、それから4年後の天長5年(828)で空海が54歳の時だった。

歴史の面白さは、歴史上の人物と各自の人生を重ね合わせたときの様々な思いにもみられるが、空海の年譜をみていくと彼がとても人間味のあふれた身近な存在に思えてくる
最澄は55歳、空海は61歳で死んでいるが、激しすぎる人生を行き急いだふたりだった

延喜19年(919)金剛峰寺は東寺長者観賢が金剛峰寺座主を兼務することで東寺の末寺となり、正暦5年(994)には火災により衰退するが、長和5年(1016)に興福寺系の持経者祈親上人定誉を中心に復興が進められ、この時以降、空海の入定信仰がひろまり、治安3年(1023)の藤原道長の参詣をはじめとする藤原頼通・白河上皇・鳥羽上皇らによる支援が行われ、修行の寺から信仰と天下の霊場へ変貌していったという。

浄土教の普及にともない有名な高野聖も11世紀後半から多く生まれ、鎌倉時代以後は武士の信仰もあつめ(北条政子は頼朝のために金剛三昧院(国宝の多宝塔がある)を建てた)、多くの荘園を領有してその後の繁栄につながる
高野聖とは、諸国を勧進して高野山の信仰をひろめながら堂舎修復の資金をあつめた聖のことで、正暦5年(994)におきた大火後の復興に尽力した祈親が最初とされる
金剛峰寺の組織下にはなく、小田原谷・往生院谷・萱堂などの別所に居住して、真言念仏や時宗などを修めながら他寺とも交流したといい、室町時代に入ると、勧進のかたわら商業にも従事

ところで空海がこの地を求めたのはなにによるのだろうか
史料によれば、空海が室戸を始めとする各地で修行をしていた時期、高野山もおとずれ、高い峰に囲まれたその風景を「八葉蓮華」にあて、嵯峨天皇に願いでたという
こういった縁起と風景に関わるエピソードは、京都府和束町の西にある鷲峰山金胎寺の由来にもみられ、嵯峨天皇が現在の大覚寺の地に離宮を選んだ背景にもつながるが、高野山には、もうひとつ非常に興味深い伝説がある

『金剛峯寺建立修行縁起』によれば、空海が修行で各地を巡ってきたとき、大和国宇智郡(五條市)で黒白2匹の犬を連れた狩場明神に出会う。空海はその犬についていくと、紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)で丹生明神に出会い、高野山を譲り受けたというものである

高野山と丹生神社との関係については、1990年代の後半に広島県世羅町の高野山領太田荘と康徳寺古墳(後期古墳と古代寺院がセットの例)を見に行ったときに、今高野(龍華寺)で森先生から聞いていたことを思い出したが、丹生は水銀朱の丹に通じて、前期古墳が多い奈良県桜井市の東の宇陀に丹生神社があることから、古代における丹の重要性を前提にすれば、この伝説はまた別の意味をもってくるかもしれない

そういえば、嵯峨天皇が嵯峨院で実質的な政治をおこなった背景には、その西の「丹」波が大きな意味をもっていたとの説明もある
なお道に迷い導かれるというストーリーは愛知県宝飯郡一宮町にある砥鹿神社 (とがじんじゃ) にもあって、『砥鹿神社縁起』によれば、草鹿砥公宣が本宮山中で道に迷った際、童子を連れた老翁(大己貴(おおなむち)命)に導かれ、公宣は老翁に感謝して宮を麓に造ったと伝える

Kdaimonあるいは、最澄は出自が近江の三津首で空海は讃岐の佐伯だが、それぞれの出自に近い場所にちなむものなのだろうか
今日は曇っていて見えなかったが、金剛峯寺の西の大門からは遠く四国が見えるというhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/k-daimon2.MP4

Kdanjo なお金剛峰寺とは本来高野山の一山の総称で、創建当初は堂塔のたつ壇上伽藍を言ったが、明治2年(1869)以降に総本山となった(秀吉が母の菩提のために建てた)青巌寺をさすようになっている
http://id20.fm-p.jp/album/pub_view.php?uid=tsukigara&dir=39&pub_num=0&target=28&user=0

高野山は山上に築かれた宗教都市である
Kmachinami確かにそれはそのとおりだが、山上の稜線上に集落が広がっているわけではなく、山頂に近い山間の谷の中央部を道がはしり、その両側に家並みが、そしてその外側の山に沿ったところに寺院が建ち並んでいるといった風景である

Ksando都市構造の整理はまだこれからだが、奥の院への参道脇にならぶ巨大な五輪塔をみれば、この地が聖地であり霊場であることは圧倒的な迫力で迫ってくる


谷の坊をめぐること、そして尾北窯の四耳壺らしい製品をみることが次の課題

中世の名所リストに善光寺と高野山が並んでいることは既に書いたが
Kkaruka 空海の入定伝説と生身の善光寺信仰、善光寺と同じ刈萱堂、北条氏とのつながり、高野聖と善光寺聖、一遍の選択
鎌倉時代の善光寺を解く鍵は高野山にもあるのではないだろうか
前期古墳の木棺に多く使われている高野槙の小枝を無人の販売所で200円で買った
独特の香りが印象に残った
Kkoyamaki

« 続・トピックス-六波羅政庁址- | トップページ | 醍醐寺と京博と鳥羽 »

遺跡の見方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 続・トピックス-六波羅政庁址- | トップページ | 醍醐寺と京博と鳥羽 »