« 善光寺について考える3 | トップページ | 善光寺について考える5 »

2006年4月 4日 (火)

善光寺について考える4

それ以前の時代と同じように、そしてそれ以降の時代と同じように
鎌倉時代においても、日本列島の各地でしっかり人々の生活がおこなわれていた
しかし
確実にそれを物語ってくれる場所はそれほど多くない
厳密に言えば鎌倉時代後期であるが、それを知るために最もよく知られている史料は『一遍聖絵』である
この絵画史料に描かれている風景をたずねて一遍のあとをたどることで、その時代の主要な場所をめぐることができる

ただしいずれの場所をとってみても
室町時代の地域拠点のような華やかさはあまりみられない
鎌倉時代の日本列島というものは、京や鎌倉といった他と隔絶した中心があって
とくに東日本は鎌倉に集約されて、その他の地域はすべて静かな農村だったように見える
そうなのだろうか
『中世都市研究』で取り上げられた「都市的な」遺跡をみても
多くは室町時代の遺跡であり
鎌倉時代の遺跡は京都・鎌倉・草戸・博多と限られてきた
しかし
必ずしもそうではないことを、私たちは網野善彦や石井進から学んだ
かろうじて先年より、ようやく福原に目が向けられるようになったが
どこか鎌倉時代の遺跡の見方が足りなかったのだろうか

今回の調査で明らかになった善光寺門前の鎌倉時代遺跡は
そんな鎌倉時代研究に必要な重要な手がかりを与えてくれる可能性があると
強く思う

先に述べたように鎌倉時代の地域拠点をリアルに説明する事例はあまり多くない
ただし見方を変えればその可能性のある場所は少なくない
畿内では石清水門前と淀、日吉門前の坂本、敏満寺門前の多賀
瀬戸内の尾道、信濃の上田
東北日本海の遊佐、東北太平洋の松島
南九州の金峰、小樽の大川
これらの場所については、これからもっと注目していかなければならない
けれどもこれらの全ては水上交通の要衝である
平安時代末から鎌倉時代に発展する多くの地域拠点は、平氏と北条氏に特徴づけられる水上交通が大きなポイントとなってきたからである

これに対して、善光寺門前はこれまでこの時代の遺跡研究が経験したことのない内陸の地域拠点である
当然、これまでの見方に加えて、新しい見方を考えなければならない
それはなにか

その手がかりのひとつはやはり断面がV字の溝である
既にこれまで何度か紹介しており
『交流・物流・越境』(新人物往来社)でも書いたが
平安時代終わりから鎌倉時代初めの断面V字の溝は
特定の館にステイタスのように設けられた特殊な溝だと考えている
その象徴が平清盛にかかわる福原の溝であり、源頼朝にかかわる鎌倉大倉の溝だと思う
今回善光寺門前で見つかった溝も、時期はそれらよりやや下るが
また、事実関係の確認をしないといけないが
中国陶磁器を出土し、京都に似たかわらけを出土しているならば
地域の拠点を構成した施設の条件を、十分満たしていると思う
大げさな言い方をすれば、福原の都や源氏の棟梁の館に似た施設が、この場所にあったということになるのである

周知の記録ばかりであるが、落ち着いて史料にもどってみよう
治承3年(1179)善光寺焼失
文治3年(1187)源頼朝が信濃領主に再建協力を命ずる。
建久2年(1191)再建
建久8年(1197)源頼朝が大勢の御家人を率いて善光寺に参詣
良く言われてきたように、源頼朝が善光寺に対して大きなサポートをしていることがわかる

そしてその後の記録で、意外な人物が信濃に関わっていることが知られている
安貞元年(1227)閏3月、知行国主の前大納言藤原(滋野井)実宣(さねのぶ)が銭500貫文を払った人に信濃の国務を与えると公募し、藤原定家が銭300貫文で請け負う
その時の信濃についての情報は
 「信濃は国司無用の地。鎌倉方の武士が200人余。みな名主支配」
 「鎌倉の執権北条泰時と守護の重時に挨拶をすべき」
安貞元年7月、藤原定家は信濃へ国情調査の使者を派遣
使者は京都から鎌倉をまわって善光寺へ向かったが、その時の報告によれば
 「木曽の架け橋は無い。更級の南西に姨捨がある。浅間の峰の石が燃える。千曲川は大河。国の南端から善光寺まで6日かかる。善光寺の近辺は<後庁>で、<眼代>たちの居所。国中の田地はみな良好だが、承久の乱後、国主の使者の働きが悪く、収入は少なく、国庁の官人たちは武士で命令を聞かない」
とある

ここに<眼代>と<後庁>が登場する
眼代とは目代のことで、国司の代官として地元で実務をおこなった人物のことを言うが、それをふまえれば、<後庁>とは、本庁の信濃国府が松本におかれていたのに対して、分庁だが実質的な役所として善光寺におかれた施設と考えられている
さらに文永2年(1265)には、善光寺の「寺辺の悪党を鎮め、警護のため」に近辺の御家人を奉行人に命じた記録がある
これは、この時代の信濃に鎌倉の支配力が強かったことを示すものであるが
それゆえ、藤原定家の使者が挨拶に行った後庁には、当然鎌倉の役人がいたことも考えられる

鎌倉時代の信濃に対する京の支配拠点は現在の松本にあり
一方で鎌倉の支配拠点は現在の上田にあった可能性があるが
善光寺はその両方の権力が集まっていた特異な場所であったことになる

平安時代以来の系譜をひく国府の分庁であり、かつ鎌倉の代表機関であった「後庁」がここにあったとするならば、鋤柄は、福原と鎌倉の例を元に、その周囲の濠は断面がV字のいわゆる薬研濠であるはずだと考えている。

ただし現在の「後町」は、今回の調査地から南へ下りた長野信用金庫大門町支店のある交差点の南東(東後町)から後町小学校のある南県町の東(西後町)までのひろい範囲にある
ゆえこの地名を尊重するならば、今回の調査地は「後庁」そのものではないとも言える
後町小学校の近くを裾花川の急流路である八幡川がとおっているように見えるので、これも現地で確認して考えをすすめてみたい
(現在の後町の東には問御所という地名があり、隣接して室町時代初期の板碑をもつ十念寺もあるため、この後町は、漆田の中御所とあわせて室町期の中心施設を示す可能性もある)

ところで今回の溝からはおよそ13世紀後半の中国陶磁器が出土しており
それより新しい時期の遺物がみられない(と思う)ため
溝に囲まれた館は、13世紀後半を中心とするあまり長くない期間に機能していたと考えられることになる
そこで年表にもどれば
藤原定家の使者が善光寺の後庁を訪れたのは1227年の13世紀前半で鎌倉の勢力の強い時期であった
しかし先の文永2年(1265)に幕府が御家人を奉行とした云々の記事は、それ以前に任命した奉行が不当なはたきをしたため、彼らを罷免した旨が記されており、この頃から善光寺が園城寺の京方と結びついたとも評価されている
したがって、今回見つかった溝が13世紀後半に埋められていることは、この間の事情をあらわしているという解釈も可能ではある

いずれにしても今回の調査成果は
鎌倉時代の善光寺の周辺が、単に宗教の場だっただけではなく
北信濃の政治や経済も集中した鎌倉時代の一大拠点だったことが明確に示されたという点で大きな意味をもち
さらに全国的に不透明であった鎌倉時代の地域拠点について見直す手がかりを与えてくれたと言う点で非常に大きな意味をもつと思う
もちろん
この溝が埋まった前後の
文永8年(1271)には一遍が北陸から越後国府(現在の上越市)を経て善光寺に参詣し
正応3年(1290)には大納言久我雅忠の女二条が7ヶ月間善光寺に滞在し
永仁6年(1298)には一遍の後継者の他阿真教が善光寺に参詣し、それを描いた絵画には多くの人々がみえる
門前には寺に属した仏師や彩色師なども住み、参詣者のための宿も整備されていただろう
東日本を代表する大寺院であったことは言うまでもない

« 善光寺について考える3 | トップページ | 善光寺について考える5 »

遺跡の見方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 善光寺について考える3 | トップページ | 善光寺について考える5 »