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2006年4月29日 (土)

続・トピックス-六波羅政庁址-

京都が日本の文化と歴史の中心だと言うことは、遺跡学から見たら全然抽象的なことではなく、非常に具体的で臨場感あふれていることである
言われてみれば当たり前のことかもしれないが、地面を掘り下げる度に、そこで生きた人々の生活の痕跡が次々と姿を現してくる
京都国立博物館の周辺もその典型である
平安時代後期は法住寺殿、鎌倉時代は六波羅政庁、そして桃山時代以降はあの鴨川の改修にも関係する方広寺があった
これを歴史のかたまりと言わずしてなんとしよう

平成10年度の京都市埋蔵文化財調査概要によれば
京都国立博物館の新館建て替え工事にともなう調査で、方広寺の南門跡の根固めを10箇所、回廊の南側の溝と石垣および鋳造遺構がみつかている。
鋳造遺構は東大寺戒檀院の梵鐘鋳造遺構の部材に似た部材が残っており、最下層が防湿のための木炭層で、その上に平瓦を敷いて、さらにその上に井桁状に組まれて置かれている。調査者が書いているように、鋳型を支える定盤の痕跡だろう。
こういった遺構の通例により、スラグは大量にみつかるものの、鋳型や形のわかる溶解炉はみつからないため、製品の特定はできないが、方広寺といえば誰でもあの有名な鐘を思い浮かべるので、その関連を考えるだけでも楽しくなる。
ちなみに、溶解炉も鋳型も再利用するため、みつからないのが普通である。

中世から古代末では石敷きと路面と池状遺構と東播系の埋甕がみつかっている。これらの遺構のうちのいずれかが六波羅政庁跡に関係することになる
鎌倉時代後半の埋甕といえば、京都駅前の調査で3つ並んだ墓が有名だがこの場合はどうなるだろうか
また遺物には9世紀後半から10世紀の土師器皿があるため、法住寺に先立つ平安時代前期からこの鴨東の地が開発されていたことがわかる
以前にも書いたが、左京の繁栄はそのさらに外縁にあった複数の拠点の繁栄を原動力としていると考えているが、そのひとつの証しになるかもしれない
それから備前窯系と言われている須恵器碗が出土している
時期は13世紀になる
もちろん京都市内ではめずらしいが、実は鎌倉で見つかることが知られている
この六波羅政庁跡でそれが見つかっていることが非常に面白い

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