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2006年4月16日 (日)

中世前期の町場と都市について

高橋修2004「中世前期の「町場」と在地領主の館」『地方史研究』311
紀伊国湯浅氏の石崎館とその周辺というサブタイトルがついたこのレポートは、いわゆる中世後半の町並みをともなうような都市的な場の普遍的な存在を認めがたいこの時期において、むしろ湊や河岸や街道筋といった交通や流通の結節点に、疎槐村的な街村が形成されている景観があっているのではという保立道久さんの意見を前提にすすめられているもので、在地領主層によるその公的な権力の承認を受けるための環境として、町場の開発と宿の機能の成立と維持があったとする具体例として湯浅の町が紹介されている
熊野街道沿いの港湾都市である湯浅町は、字図によって町の東西に異なる軸線をもっていたことが知られるが、湯浅氏の館とおもわれる字岩崎はそのちょうど境界線にあって、地形と道と字と現存する寺院の創建年代と明恵や定家などの記録により、湯浅の町場が12世紀半ばに新たな地形環境のもとで開発された都市的な場としている
山田川と広川にはさまれてできたこの町の旧地形と原景観がどのようなものであったか、砂碓の形成過程をめぐって去年四国の友人達と彷徨った宇多津の風景を思い出した
それから益田の河口部についての伝説も

小野一之1999「国府をめざす他阿真教」『一遍聖絵を読み解く』吉川弘文館
一遍の後継者としての他阿真教による国府の神社への接し方は微妙に変化しているという視点で、中世都市・国府と総社へのアプローチに注目している
コンテンツは越前国府と武蔵国府

中世前半の国府は、律令時代の地域拠点の衰微した姿ではなく、有力な在地領主層が在庁官人として政務を執る国衙(留守所)と彼らの精神的なシンボルである総社を中心にさまざまな施設が展開した(官衙・市・津・宿)中世都市だったという
また、その国府の町が南北朝期を境に「府中」の名称にかわり商業都市としての様相を深めていくとも

善光寺とその門前を彷彿させるイメージである

淡河氏の関係で多阿真教が重視したとされる越前の国府は現在の武生で市街地に総社が現存する。やがて九頭竜川と合流して日本海に注ぐ日野川が東をはしり、もちろん北陸道がその中を通過する。
南に「上市」の地名があり、川野浦を国府外港とし、26の諸宗派の寺院があり、北には中世の大規模集落遺跡で礫槨墓から白磁四耳壺と烏帽子を出土した家久遺跡があり、その周辺に在地領主層の名がみえるとも
北陸における真教のエピソードで有名なものに平泉寺との争いがある
その背景は、一義的には信仰上の問題に思われているが、真教が国衙権力で、平泉寺が叡山を経由した中央の権門権力であり、また平泉寺と牛原荘地頭淡河氏の対立もからむという

武蔵国府は現在の東京都府中市である
市街地の中心部にある武蔵総社の大国魂神社の東側一帯から、古代の武蔵国庁と考えられている溝で囲まれた大型建物群が調査されているそうである
南北に鎌倉街道がはしり、多摩川沿いには寺院を中心とする聖地・墓地が想定されている

真教が国府をめざしたのは、政治都市・国府における在地領主や在庁官人を軸とした布教が目的だったとしている

大橋俊雄1978『一遍と時宗教団』教育社
西川幸治2005『近江から望みを展く』サンライズ出版
川崎保2006『縄文「ムラ」の考古学』雄山閣
砂川博2002『一遍聖絵の総合的研究』岩田書院
浜中邦弘2005「宇治市街遺跡の調査-渡来人の足跡-」『月刊文化財』506
石井正敏1998「入宋僧奝然のこと」『古文書研究』47
宮川禎一2005「描かれた古墳出土品」『学叢』27
小野正敏2006「戦国期の都市消費を支えた陶器生産地の対応」『国立歴史民俗博物館研究報告』127
研究代表者 小野正敏2006『前近代の東アジア海域における唐物と南蛮物の交易とその意義』平成14年度~平成17年度科学研究費補助金研究成果報告書

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