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2006年4月 3日 (月)

善光寺について考える3

結論から言えば、鋤柄は3月18日に公開された大門町の鎌倉時代の溝を
鎌倉幕府の出先機関の役割を果たし、国府の出先機関でもあった「後庁」か
その関係施設に伴う館のまわりを囲んでいた溝だと考えている
ただ、この遺跡の場合、この話題はそれだけにはとどまるものではない

考えなければならないポイントを順番に整理していきたい

・遺跡から推定できる資料として、古いものでは善光寺境内から瓦が出土し、それらが飛鳥の川原寺や法隆寺に似ている複弁蓮華文軒丸瓦と唐草文軒丸瓦であることから、善光寺の瓦葺き建物の起源を白鳳時代か平安時代とされてきたが、昭和56年に長野市若槻上野で発掘があり、この瓦が平安時代の土器と住居跡から出土し、文様の作りも均整がとれていないため、9世紀後半ではないかと考えられている。
古代において瓦を葺いた建物は、官衙か寺院に限られるため、すくなくとも9世紀後半には善光寺境内周辺に瓦を葺いた寺院があったことは確かであろう。
一方『善光寺年代略記』などにより大同4年(809)、弘仁5年(814)、天延3年(975)などの火災記事があるので、瓦にこだわらなければ、さらにその記録を遡らせることができるとも考えられる。

・善光寺にかかわるエピソードは、平安時代末期の『今昔物語』に載っておらず、『宇治拾遺物語』には信濃国が無仏世界と描かれているという。
とくに記録に善光寺が頻出するのは、善光寺が園城寺の末寺となった1100年以降?で、永久2年(1114)には善光寺別当の従者が京都の法勝寺境内と乱暴し、元永2年(1119)には宇治の平等院が船を用意して鳥羽天皇の中宮の藤原璋子(待賢門院)をもてなし、鳥羽北殿から船で出て、神崎(尼崎)にあそんでいるが、この時、善光寺別当清圓も一緒だったという。
また九条兼実の弟の前大僧正覚忠(1118~1177)(天台座主で、西国三十三カ所巡礼を最初に行った人で、善光寺はその番外に位置づけられた)が善光寺に参詣している。
また『扶桑略記』の成立も平安時代末である。
これらの状況は、それまでの善光寺がその後の善光寺よりは世に知られていなかったことを示す可能がある。
 
・そうすると、すくなくとも平安時代前期から堂舎を構え、平安時代末期に一躍全国的に注目されることになった善光寺の背景にはなにがあったのだろうかという疑問が当然わいてくる。
古代における一般的な寺院の成立は氏寺または山岳信仰系とみていいだろう
例としてふさわしいかどうかわからないないが、京都盆地では、平安京遷都以前に、秦氏の北野廃寺、出雲氏の上出雲寺と下出雲寺、粟田氏の北白川廃寺、古墳の連立する向日丘陵の樫原廃寺、中臣氏に関係するとも言われる山科の大宅廃寺、そして八坂造の法観寺
いずれも京都盆地をめぐる丘陵縁辺部に立地し、おそらくその下位の平坦面を再生産の場としていた集団の精神的な紐帯となっていた

一方善光寺の立地を見た場合、およそ現在の昭和通周辺は旧裾花川の支流とされる南北の八幡川を境に大きく地形が異なる
(この川に面して昭和通のすぐ北にある鍋屋田小学校が卒業した学校)
その南はほぼ平坦地となって犀川に達するが、北は急に傾斜を強め城山公園の乗る善光寺の平坦面に達する
善光寺平の北の縁辺にあって、南の平坦面を見下ろす丘陵先端に位置すると言って良いかもしれない

さらに、福島正樹さんによる2003年3月15日の「信濃毎日新聞」のレポートによれば
http://user1.matsumoto.ne.jp/~fukusima/jyori.htm
旧長野市街は善光寺の東にひろがる(1)三輪・吉田地区と善光寺の南東にひろがる(2)古牧・朝陽・柳原地区と、善光寺の北に位置する(3)浅川以北の若槻団地の3つの地区に条里でわかれ
先の八幡川が柳原方面を、裾花川を水源とする人工的な鐘鋳川が三輪と吉田を
、浅川が若槻団地の灌漑を担っていたという
また、善光寺の北西からは、長野西高等学校の西を流れる湯福川が流れ込み、中世には現在の善光寺三門付近を流れていたという
そして問題は人口流路である鐘鋳川の開削時期で、福島さんは『一遍上人絵巻』で善光寺の南大門の前を流れている川がそれだとして、善光寺の台地の南辺を等高線に沿って北東に回り込んでいるこの川の開削時期を、8世紀末から9世紀初めとして、三輪から吉田の条里成立の時期を推定している

さらに、善光寺の仁王門付近を東西にはしる道筋が、三輪・平林・和田・石渡・尾張部へ続く「中道」で、江戸時代以前からの東の参道でかつ条里線だともいう
非常にすぐれた考察だと思う。とくに鎌倉時代の本堂は、そのすぐ北にあったとされており、違和感なく関係が理解できる
そして8世紀末から9世紀初頭にこのような開発がおこなわれたとするならば、それをおこなった人物がとうぜんこの場所におり(金刺氏だろうか)、その氏寺がここに営まれたとするのは至極当然の理解で良いと思う
一般的な古代の地域拠点は、荘園または国衙領の支配を前提とした国府あるいは国府に近い水上交通の流通拠点であり、寺院はそれに付属する関係あるいは、山岳信仰にかかわるものが多く、戸隠や飯縄との関係も考えてみたが
おそらく古代における善光寺周辺の風景の再現は、これらの条件で満たされるものと思われる

ただし平安時代末期以降については、現在の町並みに見える地割りは複数の軸線をもっており、その説明を考えるためにも、湯福川と鐘鋳川の流路の確認と仁王門から今回みつかった溝の距離の確認もどうしてもしたい
それまではどちらかというとオーソドックスな古代寺院の一例としての存在だった善光寺が、平安時代末に突如として全国から注目される
その背景にはなにがあったのか
そして善光寺門前の風景とは

ここではそのてがかりを
同じ時代に大活躍をしていた石清水神人や日吉神人そして白山神人との存在と対比して考えてみたい

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