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2006年5月

2006年5月28日 (日)

遺跡探索-平城宮と佐紀古墳群-

再び大方の心配をよそに雲がとぎれ、風は強いが初夏の日射しが顔を出した土曜の午後
平城宮と佐紀古墳群のミニ遺跡見学会をおこないました
参加したのは文化情報学部の1・2回生9名
14時に近鉄の大和西大寺駅に集合して、簡単にコースの説明をした後に平城宮へ
(コンコースで集合しているときにN大学学長だったM先生に偶然再会。お元気そうでなにより)
Pict2921 ご存じ平城京は、和銅3年(710)に元明天皇が藤原京から遷都し、恭仁や紫香楽や難波などを変転するものの、延暦3年(784)に桓武天皇が長岡に都を移すまで日本の首都だったところ。中ツ道を東京極、下ツ道(平城第389次の平城宮中央区朝堂院朝廷の調査で確認されているようです)を朱雀大路として中央北端に天皇の宮殿と国家の重要施設のおかれた平城宮があります。
この下ツ道は奈良盆地を南北に走る幹線で、南は巨勢道から紀ノ川を経て紀伊へ、北は歌姫峠を越えて南山城へのびていたようです。
これは、ちょうど平安京の朱雀大路の南延長線に鳥羽作り道があるのと対比されますが、鳥羽作り道は平安京より前にあったかどうかはわかりませんから、そのまま同じようにあつかうことは出来ないでしょう。

Pict2923 平城京のおおきさは、南北約4.7キロで、東西は東へ張り出した外京(その後東大寺と興福寺の中世奈良町として発展した現在の奈良市中心部)を含めて東西は約6.3キロ。
ちなみに鋤柄の家はこの平城京の南西のすぐ外。
平城宮は、東西南北約1キロで東に張り出しをもちます。1959年以来、奈良国立文化財研究所によって発掘調査がすすめられており、
朱雀門の真北におかれた第1次大極殿とその東におかれた内裏および第2次大極殿を中心としたさまざまな施設が明らかにされています。

Pict2919 宮跡のほとんどは、広大な緑地公園として地元民の憩いの場にもなっていますが、朱雀門の復元建物や東院庭園の復元に加えて現在第1次大極殿の復元工事がすすめられており、古代の日本社会を考える上で重要な役割が期待されています。
いつも頭を悩ませてしまう、あまりに姿かたちの異なる第1次大極殿と第2次大極殿の関係を目の当たりにしながら、復元の工事現場の前施設で遠く朱雀門を見Pict2920 晴らした後に、第2次大極殿へ

こちらは大阪時代に8年間なじんだ難波宮の大極殿跡と似ているので安心
内裏の位置の移り変わりを説明してから、宮内省の脇をとおって遺構展Pict2922 示施設へ
本物の遺構展示のメンテナンスの難しさは寒梅館の展示でも体験済みだが、中国の半波もそうだし、山口の土井ケ浜もそうだったが、多くの課題はあるもののそれ以上に見る人に大きな影響を与えるもので、遺跡の活用として最も重要だと思います
内裏のくりぬき井戸枠や、平城宮最大の柱を見て、話題は東大寺の柱のくぐり抜けへ
遺構展示館を出るとその南東に造酒司の井戸があり、飛鳥池遺跡で見た井戸の話を少しだけ

Sany0261 その後、東院庭園で見た発掘現場の模型と復原された施設の関係に思いをはせながら朱雀門へ
「やっぱり現場はいいねえ」と
門の上から幅76メートルの朱雀大路を見渡してすっかり奈良時代の宮廷官人になったところで気がつくと資料館の閉館までわずか10分
第1次大極殿の前の広場を早足で横切ってなんとか平城宮跡資料館に滑り込んで展示の見学

資料館での見学を終えて後半戦は佐紀古墳群の一部の見学へ
佐紀古墳群は平城宮の北の京都府との境界にある丘陵南斜面を利用して築かれた4世紀から5世紀にかけての古墳群
勢力範囲や消長とによってワニ氏との関係が推定されている大型の前方後円墳の集中する遺跡
森先生の授業を思い出しながら、古墳時代や前方後円墳の説明を
今回はその一部だけの探索で、まずは資料館を出てすぐ北西の路を北へすすむ
突き当たりを右におれると左手に池が見えてくる
この池は北の丘陵から派生した南北方向の谷を利用した溜め池で、実はその延長に平城宮の北西の苑地がある
さらに付け加えれば、この谷の東の尾根の先端の上に平城宮の大極殿が乗っている
しごく理にかなった立地といえるでしょう
この池をはさんで東西にあるがの佐紀神社で、古墳群はこの佐紀神社を南の端におくようにそれぞれの尾根を利用して築かれています
池の東をまわって北へすすみ池の東の路をくねくねと登っていって、傾斜が平らになったPict2925 なあと思う頃に、住宅地の中に現れるのが全長77メートルの前期の前方公園墳の瓢箪山古墳。綺麗に整備されていて、当時の様子を想像する時にとても参考になる古墳です。もっと多くの人に知ってもらいたい古墳です。
次に訪れたのは佐紀陵山古墳と佐紀石塚山古墳と佐紀高塚古墳。これらの古墳はそれぞれ垂仁皇后の日葉酢媛命・成務天皇・称徳天皇陵に比定されているため、さっきの瓢箪山古墳とはちがった形だが、またとてもよく整備されています。
このうち佐紀陵山と佐紀石塚山は、尾根線に平行した南北を軸にしてつくられており、とくに佐紀陵山とその北にある五社神古墳(神功皇后)は軸がほぼ一緒なので、関係の近さが想像されます。
Pict2935 これに対して佐紀高塚古墳は、西の秋篠川の谷に前方部をおいたもので、尾根線とは直交する古墳になります。まわりの水濠が無いので形がよくわかり、なるほど秋篠川からみれば、地形を最大限に利用した形になるので、「高塚」と名付けられた理由もわかるような気がします。

Sany0259 みなさん初めての遺跡探索はどうだったでしょうか
地域という大量で多彩な情報の中で理解する遺跡の見方と考え方について少しでも体感してもらえたら幸甚です

今回の参考文献:森浩一企画 前園実知雄・中井一夫『奈良北部』(日本の古代遺跡4)保育社

福島正樹2002「古代における善光寺平の開発について」『国立歴史民俗博物館研究報告』96
小島孝修2006「研究ノート・貯蔵穴の認定」『往還する考古学』(近江貝塚研究会論集3)
小島孝修2006『蜂屋遺跡』滋賀県教育委員会
小島孝修2006『竜ケ崎A遺跡』滋賀県教育委員会

2006年5月24日 (水)

多くの人が平等に遺跡の情報を得られる努力

長野市立博物館で見せていただいた資料を家で再検討しながら
記憶というのもが、いかにあやふやなものかをあらためて確認
現場では、話しを聞きながら、写真をとって、スケッチをして
あれこれ考えをめぐらせてはきたものの
いざ記憶をたどって参考資料にあたってみれば
思い違いしていたことや知らなかったこともたくさん出てくる
もっとも、その積み重ねが新しい発見をうみだす原動力になるので
けっして悪いことばかりではないものの
「いやいやまいったなあ」というところである
さっそく宿野さんに手紙を書く
森浩一先生の言葉に「生涯不熟」というものがあるが
未熟であってはならないが、毎日が勉強ということの実際である

学部の間は「かわらけ」としても史料に登場する土師器の皿ばかり見ていて
それ以外の陶磁器についてはそれほど勉強していたわけではなく
ひろく陶磁器全般に対する勉強の機会をもったのは、大学院に入ってからだった
ただし卒論の資料調査では、一乗谷朝倉氏遺跡と草戸千軒町の資料館と大宰府の調査事務所を訪れ、小野さんや吉岡さん、松下先生、森田さんと横田さんにお会いして、さまざまな陶磁器は見てはいた。
ちなみにその時、松下先生から広島大で土師器の皿をやっている学生がいることを聞いたが、鈴木さん(広島県立歴史博物館)だった
そういえば九州陶磁資料館の大橋さんと初めてお会いしたのも学部時代だった

大学院に入って森研究室の論集を書くことになり、学部時代に長野県阿南町の早稲田遺跡の発掘を手伝った時にたくさんみつかった捏鉢の生産地と編年とその歴史的な性格をテーマにした
その時はたしか名古屋駅前の愛知県青年会館ユースホステルを定宿にして瀬戸と常滑に通った。
両者を比較した東海系捏鉢の編年を整理できたのは、当時瀬戸市におられた藤澤さん(愛知学院大)や常滑市民俗資料館の中野さんのおかげだった
長野県史の手伝いで県内のほとんどの地域をまわって実測をした時に、関西ではあまり見かけることのない珠洲を勉強するために、初めて金沢に吉岡先生をたずねた
事前に報告書を読んでいったが、実物を見てもその変遷の特徴を全く理解することができなかった
けれども、これが縁になって、その後まもなく佐倉の歴博に移られた吉岡先生に、大変お世話になった
最近、その古稀記念の論集が刊行された
短い一文を寄せることができたが、学恩を返し切れていない
その時はたしか別所温泉の上田まほろばユースを定宿にして上田の塩田城関係資料の実測をしていた
鋤柄の初めての活字が「東信出土の常滑について」『上小考古』№17なのはその関係による
大学院2年のときには、平安博物館でお手伝いをしていた
その後東大へ移られた寺島先生から魚住窯の資料の整理の紹介をいただき、大いに勉強をした
鎌倉の蔵屋敷遺跡の資料を見学に県の埋文センターに服部さんを訪ね、手塚さん(青山学院大)に会ったのもその頃だったと思う

就職後すぐに平泉と東北の諸窯を駆け足でまわった
平泉で本澤さんに会って、それとは知らずに飯村さん(福島県文化振興事業団)の掘った八郎窯の資料を見て、仙台で藤沼さん(弘前大)にお会いし、鶴岡では致道博物館の資料を酒井さんにご案内いただき、そして秋田城跡調査事務所の小松さんと日野さんと長い夜を過ごした。新潟の坂井さん(文化庁)にもお世話になった
西日本の各地は、大阪を中心とした研究会のグループで見学する機会をもった

この業界の人間は、常に現場で勝負が求められているもので
計測も重要だが、おうおうにして現場は計測を待っていてくれないことも多い
そのため、この業界の人間は皆、いかにして自分の制御できる生きた知識を蓄積するかに苦心する
鋤柄もその一員として20代の間、ひたすら知識の集積に励んだ
30代はそのデータベースを背景に遺跡研究に移行していった
現在、それを発展させて歴史系諸分野を総合した研究をすすめている
森先生が考古学と古代史を総合させてきたあゆみと重なるものと思っている
そしてそのあゆみと重なるもうひとつのテーマが、多くの人が平等に遺跡の情報を得られる努力である

全国各地で見つかっているさまざまな考古学関係の資料を、その生の姿に近い形で、いつでも誰でもどこでも手軽に入手でき、自由にそれについて考えることのできる環境が、この分野の研究や社会貢献を強く推進するための大きな原動力であることは、もはや誰も疑わないだろう
だから鋤柄のゼミを選ぶ人間は、それを促進するための資料の識別や判別の検討やデータベースの作成もひとつのテーマとなる
そのためには、ものをたくさん見て、とにかく経験値を高めることが必要
ただ、そのためにも、もっと自己研鑽をすすめないといけないと、つくづく思った
生涯不熟である


原明芳2006「松本平の古代末期の寺院考」『信濃』58-5
 以前にたしかK君の結婚式の前に森先生と一緒に、白山関係で訪れた波田町若澤寺についての優れた論文。原さんの良い視点がいかされている。
海津一朗代表2006『中世日前宮領の研究』科研費研究報告書
長野市教育委員会2000『南宮遺跡』巨大な平安時代集落
豊島区遺跡調査会2005『雑司が谷』2
豊島区教育委員会2006『巣鴨』5
福島正樹2004「返抄」『文字と古代日本』1吉川弘文館
長野市教育委員会1994・1995『栗田城』2・3
長野市教育委員会1998『西町遺跡』

2006年5月21日 (日)

中世の善光寺門前を歩く

天気予報によれば、土曜日は終日雨とのことだったが、見事に晴れてくれた
8時すぎに長野駅の6番ホームでかけそばを食べながら、そのつゆの色と味にうなる
Pict2848長野県立歴史館は、かつて長野と東京をつないでいた大動脈の信越線屋代駅から歩いて25分の森将軍塚古墳の麓にある
その信越線は、長野新幹線が出来たことで碓氷峠で分断され、長野県の一部の区間がしなの鉄道と呼ばれる路線になっている
碓氷峠は古代東山道の入山峠にあたり信濃と東国をむすぶ重要な場所だった
その意味で信越線はとても深い歴史性をもっていたはず
峠の釜飯が有名で、急勾配を登るために鉄道マン達がとても苦労した話しもたくさん残っている
だから信越線が無くなるという話しを聞いたとき、体の中で少し動揺が走ったことを覚えている

ともかく前夜の雨で少し湿度の高い屋代の街を、記憶をたどりながら歴史館へむかう
昨日から古代瓦の企画展が始まっていて、そこにあの善光寺瓦が展示されているのである
歴史館の川崎保さんと福島正樹さんにご案内いただき、瓦の展示を見て常設の善光寺展示を見る
神津さんと米山さんの研究をふり返りながら県内の古代寺院の跡をたどる
今更ではあるが、善光寺を初めとして、長野には謎に包まれた古代寺院が多くあって
それらが信濃の古代を明らかにするときの重要なポイントになることを思う
若槻にも古い伝承をもつ寺院があるというし安曇野市の明科廃寺(桜坂窯や瓦塔や重弧文の瓦に関係する)についてもまったく知らなかった
古代寺院と集落を道や川とつないでいく遺跡学とGIS的な考え方の有効性がここでも試みられるのではないかと思う
福島さんに善光寺周辺の古代景観にかかる貴重なお話をうかがい
ここでも再会を期して12時すぎに長野へもどる

いよいよ時空を越えた中世の善光寺門前探索の開始である
最初に中御所の御所遺跡へ
長野駅を東口へ出ると、とにかく陽射しが眩しい
小学校6年から高校卒業まで、この東口から歩いて5分くらいのところに住んでいたはずなのだが
まったくその場所がわからないほどに街が変わっていた
目的の御所遺跡を地図で確認して線路沿いに南西に歩き出す
こちらは再開発がおよんでいないようで狭く入り組んだ道が残っている
Pict2850 目印の郵便局と観音寺を見つけて、御所天神(八幡)へ向かう
姫河童と加茂鹿道さんのサイトによれば、この郵便局の前の道は松代街道で、善光寺の門前からまっすぐ南下する条里線とのこと
であるならば、守護所推定地とされる御所遺跡は実にふさわしい場所にあったことになる
Pict2852 現在の御所天神(八幡)は、合格祈願の旗が並ぶ小さなお堂が建っているだけだが、「御所八幡」となれば、「花の御所」でも有名な室町時代の武士の邸宅に付属した施設であるため、ここを起点にして守護所を復原する重要な手がかりになる
長野市埋蔵文化財センターの案内によれば、少し盛り上がった地面を中Pict2853 心とした一角を主郭とされているが、たしかに御所天神のあたりはまわりから高くなっている
基本的に平坦な地形なので目立つ
地図を見て北へまわると屈曲を繰り返しながら流れる川がある
よくある形では、自然河川を堀に利用してその形によって館の輪郭を推Pict2854 定することができるので、ここもそうかとも思う
犀川に船着き場があって、そこに近い場所に拠点をおいた守護所
条里地割りと水路と字名とレイヤーを重ねてみたい
どこかで見た風景に似ているが・・・と思いながら、線路で分断された松代街道に代わる跨線橋を越えて善光寺へ向かう

福島さんにの教えていただいた地図を片手に長野大通りを北上し川筋をさがす
これも知らなかったことだが、長野市街の西を区切る裾花川は江戸時代のはじめに開削されたものだという
江戸時代最初の河川改修では富士川や高瀬川や大堰川や鴨川の工事で有名な角倉了以がいるが
ここでもそういった工事がおこなわれていたとは知らなかった
それではそれ以前の裾花川はどこを流れていたかというと、長野市街を北西から南東へはしる複数の道がその痕跡で
その代表が南八幡川と北八幡川と言われている
現在ほとんどは暗渠となっているが
Pict2858 南八幡川は長野大通が昭和通に出る直前の西側に公園整備され、掲示板とともに見ることができる

一方北八幡川はそこから北西に少しいった鍋屋田小学校の南を流れてPict2861 いる川で
実は鋤柄はこの学校の卒業生なので、長いこと見ていたことになる

このふたつの川を確かめながら中央通の東の道を権堂へむかって歩く途中で遠雷が聞こえ出す
西を見ると旭山はすでに厚い雲に覆われている
歩みを早めながら善光寺へむかったが大門町に入った時には雷雨のど真ん中
なんとか元屋に入って雨宿りを兼ねた昼食に
2時前だった
元屋さんは知る人ぞ知るという蕎麦屋さん
表向きは目立たないが、その味によって地元の人たちと通が密かに守っているお店である
灯明せいろを頼んだ時に、メニューの蕎麦焼酎にも目が行ったがぐっと我慢して地図を取り出す
2時半前、少し雨脚が弱まった頃に店を出て善光寺へ向かう
ふと思いついて大本願の向かいにある白蓮坊に入る
ギャラリー蓮という万華鏡の有名なお店がある
普通の万華鏡とちがって風景を万華鏡にしてしまうという不思議な空間にしばし身をゆだねる
ちなみにここのご住職はパステル画の世界では名の知られたアーティストでもある

Pict2865 白蓮坊を出ると雨はもうほとんど上がり再び陽の光が射し始める
青雲たなびき光明が射すとはこんな感じだろうかと思いながら大勧進を通って善光寺を北へ出る
実は善光寺をとりまく形でもうひとつ重要な川が流れており湯福川という
その川を遡ることで刈萱上人の最後の修行地といわれる往生寺へ向かうPict2881 ことができるので
歩みをそこへ向ける
善光寺の北の道を西へ向かい地福川に沿ってすぐに湯福神社という大きな神社に着く(日本書紀持統5年に風鎮祭の神として、竜田と諏訪と共に登場とのこと)

Pict2886 山から下りてきた湯福川は、ここから緩斜面を流れることになり、地形的にも重要な場所
往生寺へはここから湯福川と別れ、一筋南の路を西へ登る
往生寺は善光寺平を全て見渡すことのできる高台にある
まっすぐ見下ろせば善光寺が見え、右手に裾花川が、前方遠くに犀川とPict2898 千曲川が流れ、さらにその先の丘陵斜面まで見通せる
雷雨が空中のほこりをきれいに洗い流してくれたため、景色が奇跡的なほど鮮明に見える
はるか南に、午前中行っていた森将軍塚まで見られたのには驚いた

Morishogun しっかりこの風景を頭に刻みつけて山を南下りる
善光寺の風景を語る上で最も重要なアイテムとしての人工河川の金鋳川をたどるためである
裾花川にせり出している段丘を下りて加茂小学校から長野商業高校の脇Pict2916 を抜けて妻科神社へ
現在この神社が金鋳川の取水点になっているようだが
傾斜変換点にたつ妻科神社についても当然注目されるモニュメントだろう
福島さんが言われた通り、金鋳川の右岸と左岸で傾斜の変わっていることを確認しながら
信濃教育会の建物の前と市立図書館の前を通って善光寺の東へまわりこむ
Sany0234 金鋳川が暗渠を抜けてその全貌を現した場所まで行って再び善光寺に戻る
ちょうど大本願の坊舎地区の南の路に出る
注意してみると、この路から北で明らかに段をも って地形が変わっており
鎌倉時代の善光寺境内と推定されているその地区が他とSany0237区別された空間だったことがわかる

表参道にもどってゆっくり下りながら現在の街並みを観察する
そこであらためて気がついたのだが
平清盛の福原も大坂城下町も名護屋の城下町同様だが
ここも斜面に街並みが設けられているため
Sany0256 当然、段々畑のような造成をしないと家は建たない
現在の善光寺境内は湯福川を改修して切りひらいたものだが、それでも地福川の氾濫に悩まされたといわれるような斜面地形を背景にもっている
しかし鎌倉時代の善光寺境内推定地区は、マクロ的にみれば丘陵斜面の中でも比較的ひろい平坦面にあたり、敷地を造成する手間はほかに比べて少なかったことが推定できる
問題はその南の大門地区であるが、地形の傾斜はけっして弱くはない
したがってそれなりの造成工事をおこなって敷地を整備していたことになる
その目で今回の遺跡を見た場合、山側を削りだして、谷側に盛り土をおこなったとすれば、今回の調査範囲ではフラットな状態で全域で地山がでているので、その点において、盛り土造成によってつくられた敷地の南側ではなく、北側だったと言えることになる
そしてその敷地の南の範囲は、溝のレベルをてがかりに復原することが可能かもしれない
南の西町遺跡でみつかっている東西軸の溝とあわせてもう一度考えてみたい
Sany0244やはり旧地形の復原とあわせた3次元表示の遺跡情報システムの開発が必要だと実感
そして金鋳川は古代・中世の善光寺景観を復原する上で最重要アイテムだということがよくわかった

Sany0250北八幡川の北にある十念寺と、 南八幡川の南にある刈萱堂を訪ねながら長野駅まで下り
18時半から高校の友人たちと会う
30年の時空が跳び皆やんちゃな高校生にもどる
けれどもその子供が同じ上松の高校に通っているという話しを聞くと
30年の時を覚えておもわず頭に手をやる
0521再会を期して分かれたのは日付が変わった後だった
また明日学校へ行けば会えるような雰囲気のまま

日曜日の朝、再び善光寺を詣でた後、列車に乗る
しなの6号は眩しい高原のひかりの中
長野道とおいかけっこをしながら筑摩の山塊をぬけていく
聖高原をすぎてふり返ると北アルプスにはまだ雪が残っていた

いつもそうなのだけれど、今回の旅もまたたくさんの出会いに恵まれた
遺跡探索はたくさんの人に感謝する旅でもあると思う

2006年5月20日 (土)

大門の遺跡を学ぶ

大方の予想を裏切って、長野駅に着くと天気はそれほど悪くない
MIDORIのビルから駅を出て長野大通りから東急をみるとアネックスができていてまわりにSany0254もお洒落なブティックが並んでいる
あらためて駅前を見渡すと、元気な長野市があちこちにあふれていて嬉しくなる
昔、平安堂という本屋のあった場所に、友人がcellar KITAMURAというワインのお店を出しているので、ちょっと顔を出してからバスで長野市立Pict2807 博物館にある長野市埋蔵文化財センターへ向かう
場所は川中島の合戦で信玄と謙信が直接対決したと言われている八幡原

最初に来たのは小学校の遠足だったろうか
大学院時代に長野県史の仕事で資料調査をしたときに矢口忠良さんにお世話になり
その後、東国土器研究会の原稿を書いたときに青木和明さんにお世話になった
お互いに約20年の時空を越えた再会を実感しながら照れ笑い
今回は3月の大門町の遺跡を担当された宿野隆史さんと森田利枝さんにお話をうかがう
注目される鎌倉時代の溝の遺物からはじめて、遺構の様子や出土状況とあわせてひとつひとつを確認していく

やはりこの業界は、どんな難しそうな研究をしていたとしても結局は実際に遺跡を前にしたり遺物を前にした時に具体的な対応ができないと仕事にならないから、こういったことが一番勉強になる
記憶の霧の中から、もつれた糸を解きほぐして、ひっかかっていた疑問や新たな発見をたぐりよせる
中国製の青磁はみごとに鎬蓮弁ばかりでいわゆる劃花文は無く白磁も無い
これは時期を特定できる大きな要素
土師器皿は、ロクロ以外にみごとに手捏ねがあった
これは鎌倉との関係を語る重要な証人で良いだろう
もちろんそれ以前の時期に園城寺末になっているので 12世紀代の土師器皿が出れば、京都的な特徴の製品も期待できるだろうが、この時期ならば鎌倉との関係で説明して良いのではないかと思う
日本海系の資料や在地系の資料や16世紀代の華麗な資料も豊富にあったが
データが広範で濃いから俄には書き尽くせない
宿野さんや森田さんたちと相談しながら整理ができればと思う

さらに今回、もうひとつの大きな調査成果を教えていただく
3月の大門町の遺跡の約100m南で道路の拡幅にともなく発掘調査が行われていて、そこでも東西軸の溝がみつかっており、多彩な遺物が出土しているとのこと
一部が博物館の展示にあったので見せていただくと、銭貨、中国製品、国産製品、大型の香炉、薄手で淡い色の土師器皿など、14世紀から15世紀代の品々が並んでいる
これは言うまでもなく室町時代の善光寺門前の繁栄を直接物語る資料である
あわせて、守護所推定地の御所遺跡の話しもうかがう
えらいこっちゃである
7月の初めに山梨で考古学と中世史のシンポジウムがあるが、ぜひ注目してもらおうと思う
名残はつきないが、現場を歩き回りたい気持ちも高まってきたので再会を期してセンターを後にする

Pict2803 18時半だがまだ明るい長野駅前で友人と待ち合わせをする
30年前にここであったある出来事が頭をよぎり一瞬胸が熱くなる

2006年5月19日 (金)

長野へ

雨の匂いひどく怯えながら西大寺に着くと、どこかの小学校の修学旅行と一緒になった
行き先は東京らしい
斜め前の乗客が「継体天皇の謎」を読んでいる
これまでに来ている案内によれば
7月初めに山梨で考古学と中世史のシンポジウム
7月終わりに福島県の郡山市で荒井猫田遺跡のシンポジウム
9月に三重で中世都市のシンポジウム
10月に東北歴史博物館で東北中世考古学研究会
11月に笠置のシンポジウム

京都駅は今日もビジネスマンでいっぱい
煙もうもうの3号車を過ぎて1号車のB席になんとか空きをみつけて座る
3分後に出る同じ東京行きののぞみがアナウンスされるのを聞きながら京都を離れる

名古屋に着くと雨が降り出していた
最初はゆっくり座れると思ったが、しなの5号は結局満員になった
そう言えば大分以前に、後輩の結婚式に行くために森先生と一緒に乗った時もそうだったことを思い出した

明日の午後は長野市内を歩き回る予定なので雨があまり強くならなければいいのだがという一方的な思いを載せながら、新幹線と張り合うような走りで名古屋を出る

2006年5月16日 (火)

新入図書のご案内

大阪府文化財センター 2006『古代土師器の年代学』
下原幸裕 2006『西日本の終末期古墳』中国書店
淡海文化財論叢刊行会 2006『淡海文化財論叢』第1輯
高橋美久二編2006『近江の考古と地理-滋賀県立大学人間文化学部高橋研究室論集』サンライズ出版社
奈良県立橿原考古学研究所2006『3次元デジタルア-カイブ  古鏡総覧』学生社
九州近世陶磁学会1006『江戸後期における庶民向け陶磁器の生産と流通(九州編)』
大分市歴史資料館編集 2004『古の響き-時代を彩った楽器』
大分市歴史資料館2005『都へのあこがれ-戦国・織豊期の大友氏と豊後』
朴廣春2006『新たに見る伽耶考古学』研文化社
キョリナ2005『高句麗古墳壁画』芸脈出版社
郭景坤主編 2005『’05古陶瓷科学技術 6 国際討論会論文集 』上海科学文献出版社
宇野隆夫2006「原始・古代編」『氷見市史』1(通史編1)
宇野隆夫ほか2006「方位からみた大津宮と崇福寺」『佛教芸術』285
木立雅朗2006『陶器製手榴弾弾体の考古学的研究』立命館大学
木立雅朗2006『京焼と登り窯』立命館大学
鹿児島県有明町教育委員会2005『牧遺跡』
鹿児島県有明町教育委員会2005『横堀遺跡』
鹿児島県有明町教育委員会2005『仕明遺跡』

2006年5月15日 (月)

根来寺をあるく

すっかり晴れ上がり、夏の陽射しとなった日曜日
和歌山県立博物館の高木徳郎さんのご案内で、九州大学の服部英雄さんと大手前大学の小林基伸さんと和歌山大学の院生さんと根来寺をあるく
城塞都市として敏満寺遺跡を考えたときに、福井の平泉寺と共に注目した歴史遺産だったが、実はまだ行ったことが無かった

根来寺は和歌山県岩出市にある新義真言宗の総本山。大治5年(1130)に覚鑁(かくばん)が高野山上に伝法院(その2年後に大伝法院)を建立したのに始まる。高野衆徒との対立の中で、1140年、根来に移って一乗山円明寺を開山。その後弘安10年(1287)か11年に大伝法院を高野山から移して本拠とする。
南北朝~戦国時代には、紀伊・和泉・河内などの国人の子弟が入寺し、最盛時には2700ともいわれる子院が建立され、8000~1万人ともいわれる根来衆の武装化がすすみ、戦国時代には各地の傭兵ともなり、鉄砲を導入し石山合戦でも重要な役割をはたした。
しかし雑賀衆と共に豊臣秀吉に対抗した結果、1585年の秀吉による紀州攻めで根来寺を焼かれる。
高野山の根本大塔にならい明応5年(1496)に建立された大塔は、日本最大の木造多宝塔で、秀吉の紀州征伐の際に受けた弾痕が残っているという。九条政基が大木の長福寺に滞在していた時には見られたことになる。国宝

Pict2757 北が紀伊山地で南が五百仏山(いよぶさん)という丘陵に挟まれた東西にのびる谷に営まれた寺であるが、その西の口に大門があり、その西に灌漑用溜池の大門池がある
まずは断面が展示されている大門池の堤から門前町を見渡した後に大門へ向かう。
Pict2760_1 大門池は、その下に結界石が建ち、境内と町場の境界を示すと共に、その南西にひろがる扇状地に対して水利の要ともなっている
もちろんそのまわりには丹生池・住持池・中左近池・五坊池といった中世にさかのぼると思われるような谷池型の溜池もあるが、この構造は敏満寺と大門池と水沼荘の風景を思い出させた
ちなみに大門の下の道を北へ登れば紀伊山地を越えて和泉に入ることになる

Pict2762 大門はたしかに高野山を彷彿させる風貌
大門脇の井戸側で、案内板を見ながら説明を聞く
大門から東へ進んだ最初の交差点を北へすすむと蓮華谷川によってひらかれた蓮華谷地区で、発掘によって坊舎の跡がみつかっているという
三部権現から円明寺をめぐり、大塔と大伝法堂に詣る
Pict2767 記録によれば、円明寺は最初に高野山から移ってきたときの堂
その目でみまわせば、西は蓮華谷エリアから狭く短い谷で隔てられ、東は根来寺の山号である一乗川と大谷川で画された丘陵縁辺の平坦面に立地し、明らかに特別な空間であることがわかる
また円明寺の南には土塁らしい遺構を伴った区画も並んでいる
Pict2779 大塔と大伝法堂は、その大谷川の右岸を北へ登った山塊の麓に建ち、奥の院はその西の谷を入った先に置かれている
ゆえ、根来寺の主要伽藍のすべては、この大谷川の右岸に形成された丘陵先端の平坦面にのっていることになる

一方大谷川左岸は、東の谷から流れてくる菩提院川沿いのエリアとなり、この地区にも現在の広域農道かその北側の旧道に沿った形で、菩提峠までの範囲に坊舎の建ち並んでいたことが考えられており、もうひとつのPict2797 街道として推定される、神池から南の丘陵(五百仏山:いよぶさん)中腹を、菩提峠へ向かってたどる路沿いでも平坦面を造成した坊跡が発掘でみつかっている
ちなみに現在の広域農道は、菩提峠のすぐ西で、南の愛宕山からのびた尾根を分断して走っているが、旧地形を復原すれば、ここが根来寺境内の東の城戸口としてひとつの拠点がおかれていても良いような気がする
秀吉の紀州攻撃の際に、和泉の中で最も紀州よりの拠点だった貝塚市名越の千石堀城から泉佐野の大木を通って紀州へ入った場合、根来寺への侵入はこの坂本をひかえた菩提峠となる
戦国期の根来寺は70万石を有したいわば戦国大名のような存在で、行人方の根来衆を代表する杉之坊・岩室坊、泉識坊などは、さながら大名の家老クラスとも言われるから、この風景を一乗谷朝倉氏遺跡とダブらせてみるのも有効ではないかと思う

Pict2802 なお、菩提峠を東へ越えて南へ下りたところに上岩出神社があり、覚鑁上人が白山社を勧請したとの伝承をもつ
その近くに結界石と呼ばれている石碑があり「逆修」の文字が入っており、その南は東坂本の集落となっている。上岩出神社が根来寺の鎮守社としての意味をもたされていたとすれば、その地が根来寺の東の境界であることは支持できると思う

蓮華谷から大谷川右岸を中心とした宗教的な空間と、菩提川沿いの戦国大名的な空間と、根来寺がもっていたふたつの要素が見えたような気がした
それから中国陶磁器の豊富さもまた根来寺の遺跡の特徴である。これは紀淡海峡をおさえていたことを示すのだろうか

一緒に歩いたメンバーは、それぞれの道のエキスパートである。それが一緒に同じものを見て、いろいろな話しをする。生きた学際研究の貴重な時間を過ごすことができた。こんな機会をこれからも増やしていきたいと痛感

2006年5月13日 (土)

小山靖憲さんを偲ぶ

小山靖憲さんは
昨年の5月14日に亡くなった
64歳だった

和歌山県立図書館でおこなわれた追悼フォーラムには会場一杯の人が集まった
テーマは理論と実践の歴史家である
東京学芸大学の木村茂光さんが、小山さんの学びをふりかえり
和歌山大学の海津一朗さんがコメントをされ
和歌山県立博物館の高木徳郎さんと歴史館いずみさのの廣田浩治さんが報告をされた

小山さんは学部3年生の時に、史学史と現代の関わりの中で石母田正氏の批判を著し、中世史研究の新たな展開をすすめる中で、卒論と修論は中世の在地領主制論と村落論として、上野国と常陸国を対象に、絵図、地形図、地籍図、地名などをおおいに活用した歴史地理的な手法による村落の景観復原研究をおこなった
和歌山大学に赴任されたのは1971年
その前後から荘園制研究へ移行されたといわれ
有名な神護寺領かせ(木偏に上下)田荘絵図(伊都郡かつらぎ町)を基に、古代荘園から中世荘園への形成過程を「形態」論的に解明
8・9世紀の初期荘園から10・11世紀前半の免田・寄人型荘園へそして11世紀後半から12世紀前半に成立する領域型荘園である
有名な言葉がいくつもある
「相互に有機的な関係にある集落・耕地・山野河海をひとつの地域(領域)として支配する荘園」
「荘園制や領主制、あるいは村落共同体を抽象的に論じるのではなく、それらが展開する場に即して、より具体的に把握したい」
「私の研究は足で稼ぐフィールドワークが不可欠」

中世に生きていた人々の姿を、要素に分解して個々に研究することと共に、それらを(荘園制という支配制度・領主制度・内部の社会構成および構造など)有機的な関係でつないで、しかもそれを現地に即して再現してみせる(実際に現場力が試されるという厳しい研究法)という、まさに鋤柄が南河内の集落遺跡研究以来おこなっている研究と重なる
基盤とするところは文献と遺跡という違いはあるが、めざす本質はまったく同じである

小山さんは、この研究法を推進する中で根来や熊野そして日根荘の研究をリードされ、近年注目されてきた「文化的景観」研究に対しての重要な基礎を築かれたと思う

和歌山大学ではこの研究が継承され、そのひとつの形として海津一朗さんのチームによる「フィールドミュージアムみなべ 散策地図」が作成されている
鋤柄のチームでは昨年度のプロジェクトとして、上京の散策マップを作成したが、交流をすすめてみたいと思う

これまで遺跡復原は、模型でもCGでもジオラマの作成というイメージが強かったが、歴史的景観復原がめざすところは、まさに小山さん続けてこられた総体としての有機的な歴史現象の説明にある
ようやく歴史系諸分野のジャンルを越えて、その意識がひろがってきたように思う。
ご縁により、本学部に小山先生の膨大な蔵書の一部をいただくことができた。その成果を活かし、小山さんの研究を継承し、それを鋤柄的な形で発展させていくことが責務だと考えている。

2006年5月12日 (金)

緑の城

13日と14日は和歌山県立図書館で、小山先生を偲んでの追悼フォーラムがおこなわれた
和歌山は前日に降り始めた雨が強くもなく弱くもなく降り続いていた
郡山から電車で1時間半ほどであるが、天王寺からの連絡があまり無く、開始時間より早く和歌山に着く

駅の地下で和歌山ラーメンを食べてから、せっかくなので和歌山城を見に行く

和歌山城は、JR和歌山駅と南海和歌山市駅のほぼ中間の虎伏山にある。
JR駅からバスに乗っていくと、和歌川をすぎて左手前方に見える丘がそこになる
東にこの丘をおおきく蛇行する和歌川をおき、西はまもなく紀の川河口で現在の和歌山港につながるが、城の西を南北にはしる国道42号線のすぐ脇の地割りがゆるやかな彎曲をしているため、元々の海岸線は、もっと城に近かったのかもしれない。
ゆえ、一般的な城郭の分類では近世的な平山城とされるが、原型は中世末にみられる海城の範疇に入るとも思う

1585年(天正13)に豊臣秀吉が紀州を統一した時に、弟の秀長に与えるために、藤堂高虎に縄張りをさせて築いた城にはじまる。
最初は若山城と呼ばれ、1586年から秀長の城代の桑山重晴本拠とし、関ヶ原の戦の後Photo_2は浅野幸長が、1619年(元和5)には徳川頼宣が城主となった。
この頼宣のときに、城郭の大改修がおこなわれ、現在見るような壮大な構えとなったという。
浅野時代に大手だった岡口門は重要文化財。

Pict2748 雨に濡れていたせいだろうか、現在の大手から入ってしばらくは気がつかなかったが、本丸へ登る石段にかかりあっと思う
緑泥片岩である
この和歌山から紀淡海峡を渡って西の四国へ、結晶片岩系の岩盤帯が続いている。和歌山や徳島の古墳の石室はその石をつかった独特の風貌をもっている
Pict2751 和歌山城の石垣もまた、この緑泥片岩を使って築かれているのである
大阪城や二条城の石垣を見慣れているものにとってみれば、石垣は花崗岩なので白いものであるが、ここの石垣は緑泥片岩なので緑が基調でそれが風雨にさらされ黒く見えるのである
和歌山の緑泥片岩は弥生時代の石器にも多く使われており、関西の業界ではいたってポピュラーな存在ではあったが、城の石垣という巨大なオブジェには想像が働かなかった

紀ノ川流域の人々の文化を構成する要素のひとつとしての景観は、弥生時代以来、この色彩の中にあったのだ
そして、それが今も生き続けている
これはすごいことだと思う
歴史遺産活用のてがかりのひとつになるような

2006年5月11日 (木)

現場を支える人たち

他の人からしたらどうでも良いことかもしれないが
この数日、寝ても覚めても鳥羽離宮のことばかり考えて落ち着かない
データを整理して、先行研究や平安京提要を何度も見直して
わかっていることと、わかっていないことを明らかにする
思いこんでばかりいたこともリセットする
御所と御堂がセットの水閣だというイメージは正しいのか
北殿御堂と呼ばれていた勝光明院と田中殿御堂とされている金剛心院の関係がどうにも納得できないままでいて、水曜日の竹居先生の講義を聴いていてその理由についてはなんとかクリアできるような気がしてきた
しかし、まだ全体説明のためには何かが欠ける
平泉の図面を引っ張り出して六勝寺の図面を引っ張り出して法住寺の図面を引っ張り出して、宇治の図面を探していたら、どうしても明日、平等院へいかなければならないことに気がついた
研究室が落ち着かないわけである

授業から帰ってきたら分厚い郵便物が届いていた

1991年から1999年まで鋤柄は大阪府庁の建て替えにともなう大坂城跡の発掘調査をしていた。大阪市内でおこなう発掘調査としては、面積も深さも一番の仕事だった。けっして自慢になるはなしではないが、そんな調査はそれ以前も無かったし、それ以後も無いだろう。
府庁の一角に3階建ての事務所をつくり、数十人の学生くんたちやパートさんたちと、そして数十人の作業員さんたちと一緒に、それこそ毎日遺跡と格闘していた。この格闘という表現がけっしてオーバーではないことは、当時を知る人たち以外わからないかもしれないが、そう言えば同じようなことを数年前もしていたような気がする。

その時の学生くんたちの中で、この業界関係に進んだのが3人いるが、分厚い郵便物はそのうちのひとりからのものだった。
手紙が入っていて、関西へもどって来たとのこと。
あの頃と言えば、鋤柄はまだ30代半ば、彼らは20代初め。
10年は経つのだろうか。みんな若かった。
たくさんの現場を経験し、さまざまな勉強をした彼の話をぜひ会って聞こうと思う

本日の新着図書
朴廣春2006「新たに見る伽耶考古学kaya Archaeology - Reviewed」学研文化社

2006年5月 5日 (金)

すべては重源だった

おだやかな初夏の陽射しがあふれるあおによし奈良の都に時代を超えたプロデューサーを訪ねた
奈良国立博物館の特別展『大勧進 重源』である
(近奈良の駅にあった重源のキャッチはなかなかのものだった)
俊乗房重源、しゅんじょうぼうちょうげんと読む。南無阿弥陀仏とも言う。一般的な知名度はあまり無いかもしれない。
(その意味で言えば、東大寺の基礎をつくった良弁(ろうべん)も一般的な知名度と言うのはそれほど高くない。ただし手塚治虫の火の鳥には重要なキーパーソンとして登場している)
保安2年(1121)から建永元年(1206)に生きた僧である
もちろん治承4年(1180)12月28日に平重衡によって焼失した東大寺の再興なしとげた人物である
歴史というものが誤解されやすいのは、こういったところにもあるが
東大寺の再興がどれほどの大事業だったか
とても一言ですませられるものではない

彼と初めてであったのは鋤柄の大阪時代だった。
平安時代おわりから鎌倉時代に活躍した河内鋳物師の本拠だった大阪府南河内郡美原町(現堺市)から松原市・堺市の発掘調査で、1985年からその河内鋳物師の遺跡の調査を担当したときに、河内鋳物師のグループのひとつが東大寺の大仏の鋳造にあたったことに接し、それに関わった人物として宋人陳和卿と重源と出会った
真福寺(1985)、丹上(1986)、観音寺(1986)、太井(1987・1990)・日置荘(1988)と8世紀から16世紀までの集落と鋳造遺跡を掘った

遺跡がよみがえる時は、なにか呼び合うものがあるのだろうか
1988年から1991年、東大寺の大仏殿西廻廊隣接地と戒壇院東築で発掘調査がおこなわれ、巨大な鋳造遺構がみつかった
1990年から1997年におこなわれた狭山池の改修工事の時には、重源が修築したことを示す碑文石が発見され、その報告書を作成する中で市川秀之さんと大山喬平先生と一緒に重源や河内鋳物師の足跡を訪ねて南河内を歩いた
京都駅の改築工事がおこなわれており、1994年の調査で鎌倉時代の鋳物師の家がみつかった
1995年から佛教大学と同志社大学で講義を持ったときに、この調査を元にして、河内鋳物師に引き続いて京都の鋳物師についても勉強しようと思った矢先に、五味文彦さんが『大仏再建』を著した
河内鋳物師と八条院女御が重源によってつながったと思った
1997年に同志社大学の歴史資料館の基幹研究として和束町の金胎寺の調査が始まったが、ご住職は醍醐寺一言寺のご住職で、山上の墓地には重源にちなむ三角五輪の墓石があった
そして2003年から2005年におこなった滋賀県敏満寺の調査は、まさに重源の姿を探し求めることがテーマとなった

だから奈良博で重源像上人坐像の前に立ったとき、長い間探していた人にようやく会えた気がした

紀季重の子で醍醐寺で出家した重源は、青年期に四国や大峰などで修行し、宋へ三回渡ったという。その重源が東大寺造営の勧進上人に抜擢され、費用調達のための勧進活動を開始したのは養和元年(1181)、重源が61歳の時だったという。
歴史上さまざまなリーダーを見てきたが、人々の記憶に残ったのは、多くが自ら汗を流した現場の出来るリーダーだった
彼もまた、政治家と同業者に知り合いをもち、一方で優秀な技術者と親交を深め、仕事を形にすることと、なによりも人と会うことと、「支度第一俊乗房」と呼ばれた段取りの好きな人間だったようである
現代を生きる私たちにとって学ぶべき事が多いと思う

重源の一般的な知名度がそれほどではないかもしれないが、彼をとりまく人物には、多くの人口に膾炙している人々がいる

後白河や頼朝や九条兼実は言うまでもない
院政期の代表的な遁世歌人である西行は、重源の3つ年上だが、重源の依頼で東国へ勧進に赴き、必要な砂金や米の支援をとりつけた
浄土宗の開祖である法然は、重源の12歳年下だが、重源の依頼で東大寺の講説をおこなった
日本臨済宗の祖である栄西は、重源の20年下だが、宋で共にまなび、東大寺大勧進の職を重源に継いだ
頼朝に挙兵を促した渡辺党出身で俗名遠藤盛遠の文覚は、重源の17歳ほど年下だが、東大寺復興支援のために、朝廷に働きかけをおこなっている
宋人の陳和卿は大仏鋳造のために、河内鋳物師を率い
宋人の伊行末は石工集団を率いて東大寺復興に参加した

重源は東大寺を復興させただけではなく、多分野の人物を融合させてその後に発展する鎌倉時代の文化をつくりあげたのである
この数日、善光寺から一遍と共に鳥羽と高野山と醍醐寺をまわってきたが、全てが重源につながっていたことに気がついた

2006年5月 3日 (水)

醍醐寺と京博と鳥羽

  昨日の夏日が嘘のような冷えた風の強い五月の曇り空の下、醍醐寺と寺町二条と京博をまわる
醍醐寺の霊宝館は、その建築中に訪れて以来
一昨日も高野山で重要文化財や国宝の仏像をたくさん見てきたが、ここでも平安時代から鎌倉時代の文化に浸る
覚えておかなければならないのは、「銅造阿弥陀如来坐像 12世紀 鋳銅製」
一昨日にもふたつの梵鐘を見たが、河内鋳物師が活躍した時代の製品である
Pict2718それから醍醐寺の西大門には短い築地がつき、あとの続きは土塁だったこと
なにかにつながるかもしれな
京博の「大絵巻展」は圧巻だった
12世紀の繊細な粉河寺縁起の描写、有名な信貴山縁起の飛倉
13世紀の精密な一遍聖絵と当麻曼荼羅縁起
14世紀の表情豊かな絵師草紙(12世紀の病草紙や鳥獣人物戯画も表情豊かななのでこれは時代の特徴とは別だろうが)
15世紀の滑稽な福富草紙
覚えておかなければならないのは、築地の屋根が、縁が板葺きで棟が丸みのある土?のようなものだったこと
Kurodaniそれから三条木屋町の東にあるはやしやさんhttp://id20.fm-p.jp/album/pub_view.php?dir=39&uid=tsukigara&target=34&pub_num=0&user=0でお昼を食べた後、窓から東を見たら
東山の手前で平安神宮の北から北にのびて吉田山につながる低い岡があり
そこに黒谷の金戒光明寺の塔と寺院が見えたこと

鳥羽離宮の報告書リストの作成を終えたので、約3000分の1にプリントアウトした地図に
すべての調査回次のトレンチを手書きで記入する
併行して、最初の調査から担当している杉山信三さんのまとめた
『増補改編 鳥羽離宮跡 1984』を読み解きながら
各調査回次の整理をはじめる
1960年から現在まで、140をこえる調査回次とさらにそれ以上の試掘・立会の記録を総合するために、デジタルマップへの埋め込みも考えたが、とにかく見通しをつけたいので、手書きでの整理から始めた
まとめてみてわかったことは、これまでの調査をまとめた例が無いということと
名神高速道路京都南インターの大阪方面出口の最初の交差点の東西道路の北から近鉄線の西の範囲は、かなり高密度で調査がおこなわれていること
そして、鳥羽の街区を復原する手がかりになりそうな遺構が、そのヒントとなる地割りと共にいくつか見えること
たとえば城南宮の軸線の理由や北向不動院の軸線の理由など
歴史コンテンツを相手にした時に必要なのはこのセンス

問題を整理してみよう
なんのために鳥羽に入ったのか→鎌倉時代の都市の原型を鳥羽をヒントに考えられないか
そのためには、鳥羽の構造を明らかにする必要がある
北殿・南殿・東殿などの現地比定と史料にみえる集落や港の位置について
さらに、それらの役割分担についても(平泉と比較するように)
任意の時代における中心はどこで、それ以外の場はどんな役割をになっていて
全体としてどんな空間だったのか

表面的な遺構の配置は、遺構図を貼り合わせればできること
しかし実態としての場の配置は、遺構図を貼り合わせただけでは見えてこない
それが明らかにならないと、中世都市研究会で議論してきた都市の構造は語れない
どうしたらいいのか
遺跡情報の数量化がひとつの方法
最初にあるのは、コンテンツに対する明確な問題意識
そのための解法はいくつもある
最初から解法を決めつけて作業に入ってはいけない
数量化をしたらなにかわかる、のではなく
○○を知りたいが、現状ではなんともならないので、ひとつの解法として数量化をしてみようというもの
まずは全ての調査回次について奈良時代以前・平安前期・平安後期・鎌倉・室町に時代区分した星取り表を作ってみようと思う
遺跡情報の数量化についての模索とGISのソフトを使うのはその先になる

一遍も蟷螂山も呼んでいるのだが・・・・

西山良平2006「『病草紙』の歴史学」杏雨9号
西山良平2005「平安京の社会=空間構造と社会集団」『年報 都市史研究』13山川出版社

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