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2006年5月28日 (日)

遺跡探索-平城宮と佐紀古墳群-

再び大方の心配をよそに雲がとぎれ、風は強いが初夏の日射しが顔を出した土曜の午後
平城宮と佐紀古墳群のミニ遺跡見学会をおこないました
参加したのは文化情報学部の1・2回生9名
14時に近鉄の大和西大寺駅に集合して、簡単にコースの説明をした後に平城宮へ
(コンコースで集合しているときにN大学学長だったM先生に偶然再会。お元気そうでなにより)
Pict2921 ご存じ平城京は、和銅3年(710)に元明天皇が藤原京から遷都し、恭仁や紫香楽や難波などを変転するものの、延暦3年(784)に桓武天皇が長岡に都を移すまで日本の首都だったところ。中ツ道を東京極、下ツ道(平城第389次の平城宮中央区朝堂院朝廷の調査で確認されているようです)を朱雀大路として中央北端に天皇の宮殿と国家の重要施設のおかれた平城宮があります。
この下ツ道は奈良盆地を南北に走る幹線で、南は巨勢道から紀ノ川を経て紀伊へ、北は歌姫峠を越えて南山城へのびていたようです。
これは、ちょうど平安京の朱雀大路の南延長線に鳥羽作り道があるのと対比されますが、鳥羽作り道は平安京より前にあったかどうかはわかりませんから、そのまま同じようにあつかうことは出来ないでしょう。

Pict2923 平城京のおおきさは、南北約4.7キロで、東西は東へ張り出した外京(その後東大寺と興福寺の中世奈良町として発展した現在の奈良市中心部)を含めて東西は約6.3キロ。
ちなみに鋤柄の家はこの平城京の南西のすぐ外。
平城宮は、東西南北約1キロで東に張り出しをもちます。1959年以来、奈良国立文化財研究所によって発掘調査がすすめられており、
朱雀門の真北におかれた第1次大極殿とその東におかれた内裏および第2次大極殿を中心としたさまざまな施設が明らかにされています。

Pict2919 宮跡のほとんどは、広大な緑地公園として地元民の憩いの場にもなっていますが、朱雀門の復元建物や東院庭園の復元に加えて現在第1次大極殿の復元工事がすすめられており、古代の日本社会を考える上で重要な役割が期待されています。
いつも頭を悩ませてしまう、あまりに姿かたちの異なる第1次大極殿と第2次大極殿の関係を目の当たりにしながら、復元の工事現場の前施設で遠く朱雀門を見Pict2920 晴らした後に、第2次大極殿へ

こちらは大阪時代に8年間なじんだ難波宮の大極殿跡と似ているので安心
内裏の位置の移り変わりを説明してから、宮内省の脇をとおって遺構展Pict2922 示施設へ
本物の遺構展示のメンテナンスの難しさは寒梅館の展示でも体験済みだが、中国の半波もそうだし、山口の土井ケ浜もそうだったが、多くの課題はあるもののそれ以上に見る人に大きな影響を与えるもので、遺跡の活用として最も重要だと思います
内裏のくりぬき井戸枠や、平城宮最大の柱を見て、話題は東大寺の柱のくぐり抜けへ
遺構展示館を出るとその南東に造酒司の井戸があり、飛鳥池遺跡で見た井戸の話を少しだけ

Sany0261 その後、東院庭園で見た発掘現場の模型と復原された施設の関係に思いをはせながら朱雀門へ
「やっぱり現場はいいねえ」と
門の上から幅76メートルの朱雀大路を見渡してすっかり奈良時代の宮廷官人になったところで気がつくと資料館の閉館までわずか10分
第1次大極殿の前の広場を早足で横切ってなんとか平城宮跡資料館に滑り込んで展示の見学

資料館での見学を終えて後半戦は佐紀古墳群の一部の見学へ
佐紀古墳群は平城宮の北の京都府との境界にある丘陵南斜面を利用して築かれた4世紀から5世紀にかけての古墳群
勢力範囲や消長とによってワニ氏との関係が推定されている大型の前方後円墳の集中する遺跡
森先生の授業を思い出しながら、古墳時代や前方後円墳の説明を
今回はその一部だけの探索で、まずは資料館を出てすぐ北西の路を北へすすむ
突き当たりを右におれると左手に池が見えてくる
この池は北の丘陵から派生した南北方向の谷を利用した溜め池で、実はその延長に平城宮の北西の苑地がある
さらに付け加えれば、この谷の東の尾根の先端の上に平城宮の大極殿が乗っている
しごく理にかなった立地といえるでしょう
この池をはさんで東西にあるがの佐紀神社で、古墳群はこの佐紀神社を南の端におくようにそれぞれの尾根を利用して築かれています
池の東をまわって北へすすみ池の東の路をくねくねと登っていって、傾斜が平らになったPict2925 なあと思う頃に、住宅地の中に現れるのが全長77メートルの前期の前方公園墳の瓢箪山古墳。綺麗に整備されていて、当時の様子を想像する時にとても参考になる古墳です。もっと多くの人に知ってもらいたい古墳です。
次に訪れたのは佐紀陵山古墳と佐紀石塚山古墳と佐紀高塚古墳。これらの古墳はそれぞれ垂仁皇后の日葉酢媛命・成務天皇・称徳天皇陵に比定されているため、さっきの瓢箪山古墳とはちがった形だが、またとてもよく整備されています。
このうち佐紀陵山と佐紀石塚山は、尾根線に平行した南北を軸にしてつくられており、とくに佐紀陵山とその北にある五社神古墳(神功皇后)は軸がほぼ一緒なので、関係の近さが想像されます。
Pict2935 これに対して佐紀高塚古墳は、西の秋篠川の谷に前方部をおいたもので、尾根線とは直交する古墳になります。まわりの水濠が無いので形がよくわかり、なるほど秋篠川からみれば、地形を最大限に利用した形になるので、「高塚」と名付けられた理由もわかるような気がします。

Sany0259 みなさん初めての遺跡探索はどうだったでしょうか
地域という大量で多彩な情報の中で理解する遺跡の見方と考え方について少しでも体感してもらえたら幸甚です

今回の参考文献:森浩一企画 前園実知雄・中井一夫『奈良北部』(日本の古代遺跡4)保育社

福島正樹2002「古代における善光寺平の開発について」『国立歴史民俗博物館研究報告』96
小島孝修2006「研究ノート・貯蔵穴の認定」『往還する考古学』(近江貝塚研究会論集3)
小島孝修2006『蜂屋遺跡』滋賀県教育委員会
小島孝修2006『竜ケ崎A遺跡』滋賀県教育委員会

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