« 醍醐寺と京博と鳥羽 | トップページ | 現場を支える人たち »

2006年5月 5日 (金)

すべては重源だった

おだやかな初夏の陽射しがあふれるあおによし奈良の都に時代を超えたプロデューサーを訪ねた
奈良国立博物館の特別展『大勧進 重源』である
(近奈良の駅にあった重源のキャッチはなかなかのものだった)
俊乗房重源、しゅんじょうぼうちょうげんと読む。南無阿弥陀仏とも言う。一般的な知名度はあまり無いかもしれない。
(その意味で言えば、東大寺の基礎をつくった良弁(ろうべん)も一般的な知名度と言うのはそれほど高くない。ただし手塚治虫の火の鳥には重要なキーパーソンとして登場している)
保安2年(1121)から建永元年(1206)に生きた僧である
もちろん治承4年(1180)12月28日に平重衡によって焼失した東大寺の再興なしとげた人物である
歴史というものが誤解されやすいのは、こういったところにもあるが
東大寺の再興がどれほどの大事業だったか
とても一言ですませられるものではない

彼と初めてであったのは鋤柄の大阪時代だった。
平安時代おわりから鎌倉時代に活躍した河内鋳物師の本拠だった大阪府南河内郡美原町(現堺市)から松原市・堺市の発掘調査で、1985年からその河内鋳物師の遺跡の調査を担当したときに、河内鋳物師のグループのひとつが東大寺の大仏の鋳造にあたったことに接し、それに関わった人物として宋人陳和卿と重源と出会った
真福寺(1985)、丹上(1986)、観音寺(1986)、太井(1987・1990)・日置荘(1988)と8世紀から16世紀までの集落と鋳造遺跡を掘った

遺跡がよみがえる時は、なにか呼び合うものがあるのだろうか
1988年から1991年、東大寺の大仏殿西廻廊隣接地と戒壇院東築で発掘調査がおこなわれ、巨大な鋳造遺構がみつかった
1990年から1997年におこなわれた狭山池の改修工事の時には、重源が修築したことを示す碑文石が発見され、その報告書を作成する中で市川秀之さんと大山喬平先生と一緒に重源や河内鋳物師の足跡を訪ねて南河内を歩いた
京都駅の改築工事がおこなわれており、1994年の調査で鎌倉時代の鋳物師の家がみつかった
1995年から佛教大学と同志社大学で講義を持ったときに、この調査を元にして、河内鋳物師に引き続いて京都の鋳物師についても勉強しようと思った矢先に、五味文彦さんが『大仏再建』を著した
河内鋳物師と八条院女御が重源によってつながったと思った
1997年に同志社大学の歴史資料館の基幹研究として和束町の金胎寺の調査が始まったが、ご住職は醍醐寺一言寺のご住職で、山上の墓地には重源にちなむ三角五輪の墓石があった
そして2003年から2005年におこなった滋賀県敏満寺の調査は、まさに重源の姿を探し求めることがテーマとなった

だから奈良博で重源像上人坐像の前に立ったとき、長い間探していた人にようやく会えた気がした

紀季重の子で醍醐寺で出家した重源は、青年期に四国や大峰などで修行し、宋へ三回渡ったという。その重源が東大寺造営の勧進上人に抜擢され、費用調達のための勧進活動を開始したのは養和元年(1181)、重源が61歳の時だったという。
歴史上さまざまなリーダーを見てきたが、人々の記憶に残ったのは、多くが自ら汗を流した現場の出来るリーダーだった
彼もまた、政治家と同業者に知り合いをもち、一方で優秀な技術者と親交を深め、仕事を形にすることと、なによりも人と会うことと、「支度第一俊乗房」と呼ばれた段取りの好きな人間だったようである
現代を生きる私たちにとって学ぶべき事が多いと思う

重源の一般的な知名度がそれほどではないかもしれないが、彼をとりまく人物には、多くの人口に膾炙している人々がいる

後白河や頼朝や九条兼実は言うまでもない
院政期の代表的な遁世歌人である西行は、重源の3つ年上だが、重源の依頼で東国へ勧進に赴き、必要な砂金や米の支援をとりつけた
浄土宗の開祖である法然は、重源の12歳年下だが、重源の依頼で東大寺の講説をおこなった
日本臨済宗の祖である栄西は、重源の20年下だが、宋で共にまなび、東大寺大勧進の職を重源に継いだ
頼朝に挙兵を促した渡辺党出身で俗名遠藤盛遠の文覚は、重源の17歳ほど年下だが、東大寺復興支援のために、朝廷に働きかけをおこなっている
宋人の陳和卿は大仏鋳造のために、河内鋳物師を率い
宋人の伊行末は石工集団を率いて東大寺復興に参加した

重源は東大寺を復興させただけではなく、多分野の人物を融合させてその後に発展する鎌倉時代の文化をつくりあげたのである
この数日、善光寺から一遍と共に鳥羽と高野山と醍醐寺をまわってきたが、全てが重源につながっていたことに気がついた

« 醍醐寺と京博と鳥羽 | トップページ | 現場を支える人たち »

遺跡の見方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 醍醐寺と京博と鳥羽 | トップページ | 現場を支える人たち »