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2006年5月 3日 (水)

醍醐寺と京博と鳥羽

  昨日の夏日が嘘のような冷えた風の強い五月の曇り空の下、醍醐寺と寺町二条と京博をまわる
醍醐寺の霊宝館は、その建築中に訪れて以来
一昨日も高野山で重要文化財や国宝の仏像をたくさん見てきたが、ここでも平安時代から鎌倉時代の文化に浸る
覚えておかなければならないのは、「銅造阿弥陀如来坐像 12世紀 鋳銅製」
一昨日にもふたつの梵鐘を見たが、河内鋳物師が活躍した時代の製品である
Pict2718それから醍醐寺の西大門には短い築地がつき、あとの続きは土塁だったこと
なにかにつながるかもしれな
京博の「大絵巻展」は圧巻だった
12世紀の繊細な粉河寺縁起の描写、有名な信貴山縁起の飛倉
13世紀の精密な一遍聖絵と当麻曼荼羅縁起
14世紀の表情豊かな絵師草紙(12世紀の病草紙や鳥獣人物戯画も表情豊かななのでこれは時代の特徴とは別だろうが)
15世紀の滑稽な福富草紙
覚えておかなければならないのは、築地の屋根が、縁が板葺きで棟が丸みのある土?のようなものだったこと
Kurodaniそれから三条木屋町の東にあるはやしやさんhttp://id20.fm-p.jp/album/pub_view.php?dir=39&uid=tsukigara&target=34&pub_num=0&user=0でお昼を食べた後、窓から東を見たら
東山の手前で平安神宮の北から北にのびて吉田山につながる低い岡があり
そこに黒谷の金戒光明寺の塔と寺院が見えたこと

鳥羽離宮の報告書リストの作成を終えたので、約3000分の1にプリントアウトした地図に
すべての調査回次のトレンチを手書きで記入する
併行して、最初の調査から担当している杉山信三さんのまとめた
『増補改編 鳥羽離宮跡 1984』を読み解きながら
各調査回次の整理をはじめる
1960年から現在まで、140をこえる調査回次とさらにそれ以上の試掘・立会の記録を総合するために、デジタルマップへの埋め込みも考えたが、とにかく見通しをつけたいので、手書きでの整理から始めた
まとめてみてわかったことは、これまでの調査をまとめた例が無いということと
名神高速道路京都南インターの大阪方面出口の最初の交差点の東西道路の北から近鉄線の西の範囲は、かなり高密度で調査がおこなわれていること
そして、鳥羽の街区を復原する手がかりになりそうな遺構が、そのヒントとなる地割りと共にいくつか見えること
たとえば城南宮の軸線の理由や北向不動院の軸線の理由など
歴史コンテンツを相手にした時に必要なのはこのセンス

問題を整理してみよう
なんのために鳥羽に入ったのか→鎌倉時代の都市の原型を鳥羽をヒントに考えられないか
そのためには、鳥羽の構造を明らかにする必要がある
北殿・南殿・東殿などの現地比定と史料にみえる集落や港の位置について
さらに、それらの役割分担についても(平泉と比較するように)
任意の時代における中心はどこで、それ以外の場はどんな役割をになっていて
全体としてどんな空間だったのか

表面的な遺構の配置は、遺構図を貼り合わせればできること
しかし実態としての場の配置は、遺構図を貼り合わせただけでは見えてこない
それが明らかにならないと、中世都市研究会で議論してきた都市の構造は語れない
どうしたらいいのか
遺跡情報の数量化がひとつの方法
最初にあるのは、コンテンツに対する明確な問題意識
そのための解法はいくつもある
最初から解法を決めつけて作業に入ってはいけない
数量化をしたらなにかわかる、のではなく
○○を知りたいが、現状ではなんともならないので、ひとつの解法として数量化をしてみようというもの
まずは全ての調査回次について奈良時代以前・平安前期・平安後期・鎌倉・室町に時代区分した星取り表を作ってみようと思う
遺跡情報の数量化についての模索とGISのソフトを使うのはその先になる

一遍も蟷螂山も呼んでいるのだが・・・・

西山良平2006「『病草紙』の歴史学」杏雨9号
西山良平2005「平安京の社会=空間構造と社会集団」『年報 都市史研究』13山川出版社

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