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2006年5月11日 (木)

現場を支える人たち

他の人からしたらどうでも良いことかもしれないが
この数日、寝ても覚めても鳥羽離宮のことばかり考えて落ち着かない
データを整理して、先行研究や平安京提要を何度も見直して
わかっていることと、わかっていないことを明らかにする
思いこんでばかりいたこともリセットする
御所と御堂がセットの水閣だというイメージは正しいのか
北殿御堂と呼ばれていた勝光明院と田中殿御堂とされている金剛心院の関係がどうにも納得できないままでいて、水曜日の竹居先生の講義を聴いていてその理由についてはなんとかクリアできるような気がしてきた
しかし、まだ全体説明のためには何かが欠ける
平泉の図面を引っ張り出して六勝寺の図面を引っ張り出して法住寺の図面を引っ張り出して、宇治の図面を探していたら、どうしても明日、平等院へいかなければならないことに気がついた
研究室が落ち着かないわけである

授業から帰ってきたら分厚い郵便物が届いていた

1991年から1999年まで鋤柄は大阪府庁の建て替えにともなう大坂城跡の発掘調査をしていた。大阪市内でおこなう発掘調査としては、面積も深さも一番の仕事だった。けっして自慢になるはなしではないが、そんな調査はそれ以前も無かったし、それ以後も無いだろう。
府庁の一角に3階建ての事務所をつくり、数十人の学生くんたちやパートさんたちと、そして数十人の作業員さんたちと一緒に、それこそ毎日遺跡と格闘していた。この格闘という表現がけっしてオーバーではないことは、当時を知る人たち以外わからないかもしれないが、そう言えば同じようなことを数年前もしていたような気がする。

その時の学生くんたちの中で、この業界関係に進んだのが3人いるが、分厚い郵便物はそのうちのひとりからのものだった。
手紙が入っていて、関西へもどって来たとのこと。
あの頃と言えば、鋤柄はまだ30代半ば、彼らは20代初め。
10年は経つのだろうか。みんな若かった。
たくさんの現場を経験し、さまざまな勉強をした彼の話をぜひ会って聞こうと思う

本日の新着図書
朴廣春2006「新たに見る伽耶考古学kaya Archaeology - Reviewed」学研文化社

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