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2006年5月15日 (月)

根来寺をあるく

すっかり晴れ上がり、夏の陽射しとなった日曜日
和歌山県立博物館の高木徳郎さんのご案内で、九州大学の服部英雄さんと大手前大学の小林基伸さんと和歌山大学の院生さんと根来寺をあるく
城塞都市として敏満寺遺跡を考えたときに、福井の平泉寺と共に注目した歴史遺産だったが、実はまだ行ったことが無かった

根来寺は和歌山県岩出市にある新義真言宗の総本山。大治5年(1130)に覚鑁(かくばん)が高野山上に伝法院(その2年後に大伝法院)を建立したのに始まる。高野衆徒との対立の中で、1140年、根来に移って一乗山円明寺を開山。その後弘安10年(1287)か11年に大伝法院を高野山から移して本拠とする。
南北朝~戦国時代には、紀伊・和泉・河内などの国人の子弟が入寺し、最盛時には2700ともいわれる子院が建立され、8000~1万人ともいわれる根来衆の武装化がすすみ、戦国時代には各地の傭兵ともなり、鉄砲を導入し石山合戦でも重要な役割をはたした。
しかし雑賀衆と共に豊臣秀吉に対抗した結果、1585年の秀吉による紀州攻めで根来寺を焼かれる。
高野山の根本大塔にならい明応5年(1496)に建立された大塔は、日本最大の木造多宝塔で、秀吉の紀州征伐の際に受けた弾痕が残っているという。九条政基が大木の長福寺に滞在していた時には見られたことになる。国宝

Pict2757 北が紀伊山地で南が五百仏山(いよぶさん)という丘陵に挟まれた東西にのびる谷に営まれた寺であるが、その西の口に大門があり、その西に灌漑用溜池の大門池がある
まずは断面が展示されている大門池の堤から門前町を見渡した後に大門へ向かう。
Pict2760_1 大門池は、その下に結界石が建ち、境内と町場の境界を示すと共に、その南西にひろがる扇状地に対して水利の要ともなっている
もちろんそのまわりには丹生池・住持池・中左近池・五坊池といった中世にさかのぼると思われるような谷池型の溜池もあるが、この構造は敏満寺と大門池と水沼荘の風景を思い出させた
ちなみに大門の下の道を北へ登れば紀伊山地を越えて和泉に入ることになる

Pict2762 大門はたしかに高野山を彷彿させる風貌
大門脇の井戸側で、案内板を見ながら説明を聞く
大門から東へ進んだ最初の交差点を北へすすむと蓮華谷川によってひらかれた蓮華谷地区で、発掘によって坊舎の跡がみつかっているという
三部権現から円明寺をめぐり、大塔と大伝法堂に詣る
Pict2767 記録によれば、円明寺は最初に高野山から移ってきたときの堂
その目でみまわせば、西は蓮華谷エリアから狭く短い谷で隔てられ、東は根来寺の山号である一乗川と大谷川で画された丘陵縁辺の平坦面に立地し、明らかに特別な空間であることがわかる
また円明寺の南には土塁らしい遺構を伴った区画も並んでいる
Pict2779 大塔と大伝法堂は、その大谷川の右岸を北へ登った山塊の麓に建ち、奥の院はその西の谷を入った先に置かれている
ゆえ、根来寺の主要伽藍のすべては、この大谷川の右岸に形成された丘陵先端の平坦面にのっていることになる

一方大谷川左岸は、東の谷から流れてくる菩提院川沿いのエリアとなり、この地区にも現在の広域農道かその北側の旧道に沿った形で、菩提峠までの範囲に坊舎の建ち並んでいたことが考えられており、もうひとつのPict2797 街道として推定される、神池から南の丘陵(五百仏山:いよぶさん)中腹を、菩提峠へ向かってたどる路沿いでも平坦面を造成した坊跡が発掘でみつかっている
ちなみに現在の広域農道は、菩提峠のすぐ西で、南の愛宕山からのびた尾根を分断して走っているが、旧地形を復原すれば、ここが根来寺境内の東の城戸口としてひとつの拠点がおかれていても良いような気がする
秀吉の紀州攻撃の際に、和泉の中で最も紀州よりの拠点だった貝塚市名越の千石堀城から泉佐野の大木を通って紀州へ入った場合、根来寺への侵入はこの坂本をひかえた菩提峠となる
戦国期の根来寺は70万石を有したいわば戦国大名のような存在で、行人方の根来衆を代表する杉之坊・岩室坊、泉識坊などは、さながら大名の家老クラスとも言われるから、この風景を一乗谷朝倉氏遺跡とダブらせてみるのも有効ではないかと思う

Pict2802 なお、菩提峠を東へ越えて南へ下りたところに上岩出神社があり、覚鑁上人が白山社を勧請したとの伝承をもつ
その近くに結界石と呼ばれている石碑があり「逆修」の文字が入っており、その南は東坂本の集落となっている。上岩出神社が根来寺の鎮守社としての意味をもたされていたとすれば、その地が根来寺の東の境界であることは支持できると思う

蓮華谷から大谷川右岸を中心とした宗教的な空間と、菩提川沿いの戦国大名的な空間と、根来寺がもっていたふたつの要素が見えたような気がした
それから中国陶磁器の豊富さもまた根来寺の遺跡の特徴である。これは紀淡海峡をおさえていたことを示すのだろうか

一緒に歩いたメンバーは、それぞれの道のエキスパートである。それが一緒に同じものを見て、いろいろな話しをする。生きた学際研究の貴重な時間を過ごすことができた。こんな機会をこれからも増やしていきたいと痛感

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