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2006年6月

2006年6月30日 (金)

韮山

幸運にも三河を過ぎる頃から雨雲を追い越したようで、三島は、富士は見えないものの夏の陽射しと暑さの中だった
何時だったかは思い出せないのだが、以前に一度訪れたことがある
鎌倉でおこなわれた最初の中世都市研究会の帰りだったか
東北でおこなわれた研究会の帰りだったか
勝山市で頑張っている松村君は、まだ卒論の準備段階の頃だったかもっと前だったか
御所ノ内遺跡からみつかった、京都と同じ姿をした素焼きの皿を見学した記憶がある
韮山の町は、その時にも少し歩いている
けれどもあまりに関心が土器に偏っていて遺跡に対する意識が低かったので、どうしてももう一度歩かなければならないと思っていた
とくに数年前にみつかった福原の遺跡を考えていたとき、その風景の源流のひとつとしてこの韮山をあてていたので、その検証の意味もあった

駅を降りるとそこは伊豆の国市になっていた
合併による名称変更である
インターネットで検索すると韮山の歴史探訪コースの丁寧な紹介があって
この市が歴史遺産の活用に対して積極的な取り組みをおこなっていることがよくわかる
複雑な心境になりながら道を西へとり、そのマップに教えられながら成福寺を訪ねる
守山の山塊の北東にひろがる北条氏関連館群または街区の最初のモニュメントである

Sany0269 成福寺は、すぐ西に狩野(かの)川をのぞむ平坦地の一角にあたる
寺の東を南北にはしる道は旧下田街道で、東へ向かえば蛭が島、西へ向かえば狩野川を隔てて江間の北条義時の館につながるという
説明によれば、元々は北条氏の祖にあたる平時家・時方の館で、北条時政が政子と頼朝のために建てた邸宅もこのあたりとされ、境内に土塁や堀などが残ると言う。
その意味では韮山で最も由緒のある場所と言える。

寺を後にして南へ向かい最初の角を西へ曲がる
Sany0277 主要な道の角には標識や案内のイラストマップが設けられており、歴史探索に親切な対応が嬉しい
まもなく北条政子の生誕地と伝堀越御所跡に着く
道をはさんで南が政子の生誕地で北が堀越公方の館跡である
時代は全く異なるが、時代を超えて求められた場所の力を具体的に見るSany0278 ことができるという意味で面白い
北条氏の館は、政子の生誕地と堀越公方の館跡からさらに西へ行き
狩野川を臨みかつ、背後に守山をひかえた場所にある
アバウトな見方かもしれないが、やはり福原と同じで鎌倉の大倉と同じだと思う

北条氏の館を過ぎ、狩野川沿いに守山の西を廻って南へ行くと、伊豆中央高校の手前でちょうど船入に都合のよさそうな支流に出会う
韮山の津だろうかという思いが一瞬頭をよぎる
しかし、確かなことはわからないが、狩野川は暴れ川だったようで
その名残が蛭が島の中州とも言われている
(NHKの大河ドラマのお陰もあって、頼朝の流された先が絶海の孤島ではないことは、もはやあらためて説明する必要無いだろう)
そうすると、狩野川の伝説に従えば、狩野川の上流にあたるこのあたりは、最もその氾濫の著しい場所のひとつだった可能性がある

北条氏の館群は、平安時代後期以降室町時代まで、あくまで守山の山塊の北を占め続けているのだが
もし狩野川の伝説が正しいのであるならば、川の氾濫を受けにくいこの守山の北の一角が北条氏の中心地であったことは、しごく当然なことになる
そうすると韮山の津は、素直に守山の山塊に近い北条氏の館群の近くに見れば良いことになる
遺跡を見るためには学ばなければならないことや情報が無数にある

守山の山塊を西へ回り込み、北へ歩きながら
真珠院の墓地で1303年銘の石造を見て、時政の墓のある願成就院と守山八幡を見る
Sany0297 願成就院は1189年に北条義政の御願によって頼朝の東北攻撃の成功を祈ってひらかれた寺で
七堂伽藍を配し、大きな池をもった壮大な寺院だったという
また北条氏の氏寺だったとも言われている
北条氏の館群にとってみれば、守山の山陰際といったところか

道を東へとって蛭が島へ向かう
Sany0302 国道と線路を渡ってまったく人気の無いのどかな田園風景の中を横切って西をふり返ると、守山の岩山が見事にそびえて目立っている
狩野川の氾濫のせいなのだろうか、韮山の歴史遺産は、狩野川に近い守山周辺と、狩野川に最も遠い韮山東部の伊豆山地の付け根にのみ残っている
蛭が島はその麓の歴史遺産群の中で最も平地に近い位置にあたり
そこから東へ登れば、韮山城・本立寺・香山寺といったが寺院や城館が連なる

Sany0303 蛭が島は、頼朝と政子の銅像と駐車場と休憩所の整った公園で、中央の東屋でほっと一息ついていたら、休憩所のおじさんが親切に声をかけてきた
「なにか難しそうな調査かね」「いえいえ」
「ただの観光ではないでしょ」「はあ」
「国土地理院かなにかかな」「いえいえ」

確かに、中年の男が1人でタクシーも使わず、なにか資料を片手に写真を撮りながら歩いていたらあやしいかもしれないと思いながら、さて、この先どうしようかと考える
三島で乗り換えたときに駅の案内に「三島広小路」で三嶋大社のイラストが見えたのがずっと気に掛かっていた
伊豆の一宮であり、頼朝も訪れ、一遍も訪ねている
熱海の走湯山とならんで東海東部を代表する大神宮である
携帯の乗換案内で時間を確かめ、三島へもどる

三島は水の街である
三島の水は富士山の水で、それは富士山の溶岩が冷えて固まった時にできた無数の亀裂を通って、この三島で表面にでてきたものだと司馬遼太郎が書いていた
広小路で列車を降りて西へ向かって街を歩いていると、次々に小さな流れに出会う
Sany0322水量の豊かな小河川が、三島の街中に彩りと落ち着きを与えている
そんないくつもの流れを渡りながら少し上り坂になった先の左手が三嶋大社である
見れば今歩いていた路が旧東海道で鳥居の正面を南下するのか下田街道という
三嶋大社は東海道をおさえ、しかも三島の宿の中でも南北にのびる広い尾根にのる形で鎮座していることになる(と思う)
しごく納得できる立地だと思う

Sany0324 三島について記した文学者の文章の碑が並ぶ小川沿いの道を通って駅に戻る
次の列車までもうあまり時間が無い
そういえばまだ昼を食べていないことに気がついたが
太平洋の生きの良い魚の看板が目に入ってくるけれど
やむなく泣きながらコンビニへ入る

2006年6月24日 (土)

鳥羽離宮跡のMANDARAその2

すぐれたGISソフトのMANDARAで鳥羽離宮跡の調査地点マップを制作中です

http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/toba/demo2.html

一部の調査地点に10世紀のデモンストレーションデータとしてダミーの数値を入れて調査地点毎に詳細データのダミーリンクを付けています

本村充保2006「遺跡出土下駄の全国集成に基づく編年および地域性の抽出に関する基礎的研究」『考古学論攷』29橿原考古学研究所
平松良雄2001「東大寺境内の6301-6671の出土傾向について」『東大寺成立過程の研究』吉川真司科研報告書
藤田三郎ほか2005『唐古・鍵考古学ミュージアム展示図録』田原本町教育委員会
平松良雄2003「當麻寺出土の東大寺式軒瓦をめぐって」『考古学論叢』関西大学考古学研究室
平松良雄2006「史跡大峰山寺境内2005」『奈良県遺跡調査概報 2005年』奈良県立橿原考古学研究所
坂靖ほか2005「新島襄が写生した埴輪」『同志社大学歴史資料館館報』8
坂靖2004「後期古墳の副葬品とその配置」『考古資料大観』10小学館
坂靖2005「御所市南郷遺跡群と葛城」『第23回奈良県立橿原考古学研究所公開講演会』
坂靖2005「韓国の前方後円墳と埴輪」『古代学研究』170
坂靖2005「小型鉄製農工具の系譜」『考古学論攷』28橿原考古学研究所
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館2006『葛城氏の実像』
長谷川真2006「丹波焼における中核窯と周辺窯」『兵庫陶芸美術館研究紀要』1
野島稔2006『上清滝遺跡発掘調査概要報告書』四条畷市教育委員会 
塔の坊と瓦の出土、木製観音立像と木簡・土器の出土、集落と溜池木樋、瓦器窯と墓 
これはすごい遺跡です。 
生駒西麓で寺と溜池と生産地と村といったすべての要素がそろった遺跡 
最重要です 
注目しましょう
栗田茂敏2006『番町遺跡』松山市教育委員会 松山城
吉田和哉2006『東野お茶屋台遺跡6次調査地』松山市教育委員会 古墳
梅木謙一2006『大峰ケ台遺跡3』松山市教育委員会 三輪玉と古墳、集落、経塚
京都市文化市民局2006『京都市内遺跡試掘調査報告』
京都市文化市民局2006『京都市内遺跡分布調査報告』
京都市文化市民局2006『京都市内遺跡立会調査報告』上京遺跡の調査記録が載っている 
京都市文化市民局2006『京都市内遺跡発掘調査報告』
鈴木康之2005「草戸千軒をめぐる流通と交流」『中世瀬戸内の流通と交流』塙書房
鈴木康之2006「滑石製石鍋の流通と消費」『鎌倉時代の考古学』高志書院
谷口俊治2006『朽網當宮遺跡』北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室
谷口俊治2006『朽網南塚遺跡6』北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室
谷口俊治2006『京町遺跡第5地点』小倉城下町 北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室

2006年6月15日 (木)

俊寛とカムイヤキ

東京大学の村井章介さんが、山川出版の日本史ブックレットで『境界をまたぐ人びと』を出された

その中に沖縄県を中心とした南西諸島にちなむ章がある
時は治承元年(1177)、舞台は鬼界ケ島(現在の硫黄島)、主人公はあの有名な俊寛である
その日、現在の京都市左京区にあった俊寛の鹿ケ谷の別荘で、後白河院の近臣だった藤原成親と藤原師光(西光)と俊寛は、平家討伐の会議をしていた。しかし多田行綱の密告でそれが発覚し、西光は死罪、藤原成親は備前へ、俊寛は鬼界ケ島へ流されることになる

法勝寺の執行という、白河天皇のアイデンティティと権力の象徴だった六勝寺と白河街区の中でも最も重要な寺の要職にあった俊寛は、その謀議の首謀者とされ、共に鬼界ケ島に流された平康頼や藤原成経が翌年赦免によって戻されるのに対して、1人島に残され生涯を終えることになる
俊寛が遠く離れていく船に追いすがるという「平家物語」に題材をとったその有名な場面が、能の「鬼界島」や浄瑠璃の「家女護島」となり、多くの人々の記憶にとどめられ、
鋤柄も小学生くらいの時に、絵本で見たような記憶がある

村井さんはそのエピソードの中から平安時代後期から中世における日本列島の南の境界を描き出す
例えば鬼界ケ島の人々の様子から中世の日本にとっての境内と異界との境界のイメージを浮かび上がらせ
しかしその一方で鬼界ケ島には平教盛の所領だった肥前国の鹿瀬荘とつながる交易ルートがあって、硫黄をめあてにした商人が行き来していたことや、それに関連して15世紀の史料には、硫黄島から坊津を経て上松浦へいたる航路があったこと
さらにその航路の延長上に赤間関や兵庫浦、そして恵羅武まで乗ってくることも注意し
その結果
俊寛が流された鬼界ケ島というところは、絶海の孤島だったかのように印象づけられてはいるが、活発な海上交通の世界の中では、けっしてそうではなかったと見ることができることを示す

よく知られているように、北条得宗家は日本列島の沿岸交易ルートを初めて体系的におさえたという点で日本歴史上とても重要な役割を果たしている
日本列島の流通は、この環境が整備される前と後でまったく違った世界になっていったと言え、もっと注目されるべき出来事だと考えている
そしてその北の領主が安東氏で南の領主が千竈氏で、1306年に千竈氏の所領として、「口五島」「わさの島」「喜界島」「大島」「永良部島」「七島」「徳之島」「屋久島」の名前がでてくる

2001年にあった森浩一先生の春日井シンポジウムで、カムイヤキと呼ばれている南西諸島を中心に分布する中世前半のやきものについて勉強したが、その時千竈氏についても調べたことを思い出した
カムイヤキの窯は徳之島の伊仙町にあって、鹿児島県と伊仙町による調査がおこなわれている
いわゆる須恵器であるが、南は沖縄本島、北は鹿児島県の一部でもみつかっている
技術系譜は熊本の下り山窯につながり、もっと言えば東海の窯業生産とも無縁では無いと考えているが
少なくとも徳之島から南方に起源が求められるものではない
東海の窯業生産に北条氏が関係していたことは、藤澤良祐さんの古い論文で紹介されている

善光寺の大門町遺跡も同様であるが、ものの動きとひとの動きを積極的に評価してみる段階にきていると思う

2006年6月13日 (火)

淀をあるく

淀をあるく

淀と言えば、京都競馬場を思い浮かべるか、はたまた、織田信長の妹のお市の方と北近江の浅井長政の長女として生まれ、豊臣秀吉の側室となって秀頼を産んだ淀殿にちなむ淀城を思い浮かべるか
人によって場所に対する思いは様々であろう

しかしこの場合、正確に言えば、現在、京阪電鉄の淀駅(現在の淀駅は、高架工事のため、大阪方面と京都方面の場所が違っていて(大阪方面の淀駅は、元の淀駅から東へ移動した京都競馬場のすぐ北にある)、ここで言うのは元々の場所にある京都方面の駅の方)の北見える淀城は、その淀殿にちなむ淀城ではなく、元和9年(1623)に松平定綱によって造られ、永井尚政によって拡張され、寛永3年(1626)には上洛した徳川家光の居所となった城である。

それでは淀殿の淀城はどこにいったのかというと、現在の淀城から北東へ500mほど京阪国道に沿っていった先の、納所という場所にあったと考えられている。
京阪国道の「納所」の交差点から北東へ歩いていくと、納所の団地に建つ高い塔が見えてくるあたりに、草の生い茂った川が流れており、その脇に古淀城の石碑が立っている。淀殿の淀城は、南をこの川に、東をさらにその先をほぼ直角に流れている川に、そして北西を鴨川で囲まれた三角形の地区にあったとされ、現在その地区の北に「納所北城堀」、西に「淀水垂町」という地名が残っている。
なお、この地区内の北よりの高まりに天徳寺というお寺が建つ。
この淀城は、管領細川政元が築城したものを秀吉が改築したとも言われるが、詳しいことはわかっていない。

さて、それではこの淀城がなぜ今の淀城と違うのかというと、秀吉の伏見築造に際して、淀川水運の交通路を伏見に一元化するために、宇治橋ルートと共に、秀吉が破却した結果だという
これは、足利健亮先生の研究で明らかにされた有名なエピソードであるが、淀という場所の意味を知る上できわめて重要なエピソードと言える

秀吉時代という近世への扉がひらきかけた時期においても、水上交通はそれだけ重要視されたインフラストラクチャーだったのである
もちろん近世における沿岸航路の発展を軽視するものではないが
秀吉をさかのぼる古代・中世において、水上交通は一層現在の高速道路のトラック輸送や航空運輸に匹敵する流通の最大のインフラストラクチャーだったとみていい
その点で淀という場所は、とくに平安時代以降、内陸都市だった京都へ西国からさまざまな物資を運び込む際の、最大の窓口だった
当然その場所をめぐるさまざまな権益が入り交じり、淀はその度にその時代にあわせて姿を変えてきたことになるのである
さらにその地理的な環境が、木津川と桂川と鴨川と宇治川と巨椋池という南山城の全ての河川体系の終結するところだったゆえ、その自然力によっても、淀はその度にその時代にあわせて姿を変えてきたことになるのである

たとえば、淀を歩けばすぐに気のつくことではあるが
淀は今でも3次元の空間なのである
淀本町の商店街を北へ抜けた先に京阪国道の「納所」の交差点があるが、この交差点から東北へ向かって歩くと、道の両側がやけに高いことに気づく
地図をみれば、この道と交差する形でほぼ東西に軸をもった地割りのあることがわかる
この地割りがいつの時代のものなのかはわからないが、おそらくその南を西に流れていた木津川か巨椋池の出口の自然堤防が成立の原因で、「納所」の交差点を通る京阪国道は、その自然堤防を断ち割って走っていることになる
さらに、今度はその交差点から京阪電鉄の淀駅へ向かう本町の商店街の入り口にも低い高まりがあって、その先は駅へ向かって下降しているため、おそらくこの高まりが旧流路の反対側の自然堤防にあたると思われるのである
淀を歩くと、そんなこまかな地形の起伏にいたるところで出会うことになる
・京阪電車の淀駅を降りて南西にむかう淀下津町の街道は見事にその両脇が下がった盛り土の上にある。
・この街道をさらに南西に進むと、細い水路を渡ったところから急に下り坂となって、約300m平らな道が続き、その先で再び上り坂になる。この低い約300mの区間が、明治初年まで木津川だったところ、江戸時代以前の木津川の河床なのである。この体験はちょっとした感動もの

淀という場所は、そんな自然的な要因と社会的な要因が縦横無尽に入り組んだ、構造的にも物理的にも3次元の空間なのである
ゆえ、その実態は驚くほどわかっていない
数年前から石清水八幡宮の門前としての淀を考えてきていた
宝徳元年(1449)の地震では淀大橋が崩れたというが、関係するだろうか
今年、再びそれをつめてみたいと思っている

2006年6月11日 (日)

ちょっとMANDARA

これまで何度も言ってきたことだが、森浩一先生の「遺跡学」を鋤柄的に展開させる大きなキーワードが遺跡(歴史)情報の数量化についての考え方を進めることであると考えている

これまでいろいろなところで言ってきたことだが、弥生時代以降のさまざまな現象の変化を前提として、ある時期の安定した社会が次の安定して社会へ変化した時の、それを決定した諸要因の組み合わせや因果関係はなにか
そのメカニズムがどのような歴史情報のどのような作用によって生み出されたものかを、先学の研究をふまえた上で、これまでより(客観的というよりも)総合的に説明提案すること
(ちょうど、現在、文化情報の2回生のあるクラスでは、そのとてもプリミティブな課題に挑戦している)

そのために必要なことが、場所にこだわった遺跡(歴史)の見方であることは言うまでもないが、どの要素にどんな重みを付けるとその変化のメカニズムをうまく説明できるのか
(これまでの先学が目指してきたように)これは一筋縄ではいかない
Aという遺跡から青磁碗が見つかった場合とBという遺跡から同じ青磁碗がみつかった場合でも、数量化といってもこれまでおこなわれてきたように、それらに同じポイントを与えるわけにはいかない
出土状況によってそれらがもっていた意味は異なるからである

一見すると似たようには見えるが、地理情報システムの考え方による研究がいわゆる分布と最も異なる大きな点がここにある
そしてこれがこれからの遺跡・歴史研究が必ず目指さなければならないテーマであることも、今やその最も鋭敏な人たちはわかりきっている

地理情報システム(GIS)のソフトはそのために繰り返される試行錯誤を強く支援するものと、現在はみている
今年度は、その具体的な検討を鳥羽離宮跡を対象にしっかり考えていきたいと思っているが、その試みを、埼玉大学の谷謙二さんが作成した地理情報分析支援システムの「MANDARA」というすぐれたソフトに載せてみた
http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/labo/gis/isekihenka/index.html

ベースマップは国土地理院が試験公開している数値地図2500である
調査地点のポイントは合っているが、データの重みはダミーである
谷さんとは以前に日文研でお会いするチャンスがあったのだが、スケジュールが合わず会えなかった。とても残念
しばし、この優れたソフトで試行錯誤をすすめてみたい

2006年6月 6日 (火)

八幡市の月夜田遺跡に想う

その遺跡は八幡市の市街中心部を少し南へ行って国道1号線へ出る手前の男山丘陵東斜面の麓にある
市の教育委員会の大洞さんが発掘調査をおこない、奈良時代の溝状遺構がみつかり先日の日曜日に一般公開説明会がおこなわれた

奈良時代の南山城は、平城京と外の世界をむすぶメインストリートだった
木津川の東を北上して宇治橋を渡れば北陸と東国につながり
木津川の西を北上して、大住で北へむかう道を選べば山陰道へすすみ、北西へ向かう道を選べば山陽道へすすむ
京田辺キャンパスの東の田辺坂を下がったところにあるローソンの西に南北の細い道と信号機があって、そこが山陽道と山陰道に分かれる前の奈良時代の道だったということは前に書いた

この道の推定は足利健亮さんによって、地割りに基づいた歴史地理的な方法で説明されてきた
地図を載せられないのがとても残念だが、昭和30年代の地図には見事にその姿が描かれている

(話しが少し逸れるが、足利健亮さんにあたるような先学の時代は、時代をさかのぼることがリアルに可能な環境や景観がいたるところに残っていた
現在の歴史系諸分野の研究が大きな曲がり角にあるのは、その頃と今とのそんなところの違いにも原因があるのかもしれない
鋤柄が歴史的景観復原を研究の柱のひとつにしているのは、そんな現在の危機感にもよる)

しかし、実はそれを実際に検証した例はまだほとんど無いと聞く
今回の調査はその謎を解き明かす大きな手がかりとなるという
遺跡の名称は月夜田遺跡というロマンチックが名前が付けられている

八幡市街の遺跡を見るときに注意しないといけないことだが
かつての木津川との闘いを物語るように、想像を絶する盛り土がいたるところでみられる
この遺跡も例外ではなく、厚い盛り土の下から中世~近世の何枚もの水田面がみつかり
さらにその下から奈良時代の溝状遺構がみつかったのである
現地表面からは3mほどの深さになるという

遺跡の発掘とは、傍目にみればとにかく肉体労働であろうが
実は猛スピードで論理の回路を頭の中で回転させている頭脳労働である
なにしろ失われた過去の断片を、それこそ手探りで掘り返したりつなぎ合わせたりするのが発掘で
しかも土を取り去る度に、その痕跡が失われてしまうので
一瞬一瞬が見えない過去を甦らせているだろうかの自問自答をしながらの真剣勝負なのである
その意味で、遺跡はその埋まり方が、いかに論理的に合理的に説明できるかにかかっているとも言える

この遺跡などはまさにその典型で、複雑に堆積した砂と粘土とシルトの関係を
頭の中で懸命に整理しながら、それが埋まる前にみせていたいくつもの姿を推定してほりすすんでいく
残念ながら、そんな時の現場では数量的な解析はまったく無力で
頼りになるのは、自らの知識と知恵と経験力
でもこれが本当の意味での文化の解析であると思う

狭い調査区ではあるが、溝状遺構の方向は見事に足利健亮さんの推測した古山陽道の軸と合っている
この溝状遺構と古山陽道との関係はわからないが、古山陽道に比定される軸が奈良時代までさかのぼってここに標されるのは間違いないだろう

しかしそれ以上に勉強になったのは
日頃から学生君たちに「視野を広く」と言っていながら
この場所が、西車塚と東車塚と志水瓦窯と志水廃寺と東高野街道に囲まれた遺跡の大密集地だということに
ここへ来て地図を見るまで気がつかなかったこと
この遺跡の溝状遺構は、とてもじゃないが、ただの溝状遺構ではないのである

南山城は古代・中世の宮都をむすんだメインストリートだった
研究や調査は古くからおこなわれ、森先生がそのひとつのまとめを古墳時代の遺跡と記紀を総合しておこなったが、埋もれている歴史情報はまだたくさん残っている
森先生の学びを継承・発展させた南山城の総合的なハイパー歴史(遺跡)地図をつくっていくことを
この学部での鋤柄のひとつの柱にしようと思っている

『信濃考古』184号に福島永さんが「よりより写真測量の活用をめざして」という文章を寄せている。写真測量とトータルステーションを用いた礫群の出土状況図の比較についてである。今この業界に求められているのは、地味にみえるけれど、こういった確かで実践的な歴史情報の取得についての普及や共有と活用である。学生君たちのめざす道のひとつとして意識して欲しい。

2006年6月 1日 (木)

仮説の完成-鳥羽離宮について考える-

鳥羽離宮についてこだわっている
水曜日2講に今出川でおこなっている学際科目の発動する京都で、今年の鋤柄のテーマとして鳥羽離宮をとりあげた

問題の所在は
1、鎌倉時代の京都はわかりにくい
2、その原因は、首都が鎌倉に移ったため、史料で語られるエピソードの量は鎌倉が中心となる。その結果同時代の京都はわかりにくい
3、それに加えて、平安時代後期のある時期から平安京の右京から人々が移動し、左京と鴨東と一条以北に住居がひろがる
4、しかしそのメカニズムと実態がよくわからない
5、結果的に平安京とちがう景観ができあがったわけだが、それがそれ以前の平安京からの類推で推測できにくいものなので、鎌倉時代の京都がどんなものだったのかわからない
6、それならば、鎌倉時代の文献の有無とは別の次元で、右京の衰退はともかく、左京の躍進のメカニズムを説明することができれば、鎌倉時代の京都の姿を復原する手がかりを得ることができるのではないか

である

そこで、そのために、左京が躍進した時代に目立っていた鳥羽離宮に注目して、鳥羽離宮を見直すことでその手がかりを得ようと模索を続けてきた

そのための問題の所在は
1、御所と御堂の組み合わせ
2、複数の地区の存在
3、白河・鳥羽・後白河の利用
4、水上交通の結節点と西国受領の関係
である

その模索の結果をこの2週間、今出川の至誠館32で話してきたが
なんとか一定の仮説の見通しを完成することが出来たかと思っている

杉山信三さんを代表とする鳥羽離宮跡の発掘調査関係の報告書をはじめとして、学芸書林の京都の歴史と平凡社の歴史地名大系と平安京提要から鳥羽離宮に関係する諸情報を取得して
それぞれが解釈している事実関係を年代順に整理し直し
原典にあたるまでできていないが、これまで鳥羽離宮について解釈されてきたイメージからできるだけニュートラルな立場で史料と資料の情報を見直してみた
その結果、平安京提要で上村さんが書いていたことに近い世界を鳥羽離宮の姿として捉え直すことができるように思い
さらに
その背景にあった4つのキーワードについて整理をすることができたのではないかと思う

ただしここまでの作業は、あくまで従来の鳥羽離宮に対するイメージを見直したときのひとつの仮説であって、新たな提案にはなっていない
この仮説がはたして有効なものとなるかどうかの検証がこの後に続く重要な作業となる
あくまで仮説にすぎないのである
とはいえ、仮説といっても、その構築のためにはどれだけ多くの作業が必要で、その試行錯誤はどういったものなのか
仮説というものは、けっして思いつきでできることではないのだということ

そのことを学びの真っ最中にいる学生君たちに知ってもらうためには、今回の試行錯誤とその過程の叙述は、大きな意味をもっていたのではないかと思っている

さて、自らに戻ってみれば、様々な問題をはらみながら平安時代後期から鎌倉時代の京都と日本列島の都市を考えるためのテーマである鳥羽離宮の見直しの仮説はなんとか整った
これから夏に向かってその検証を考えなければならないことになる
例によってボチボチ進めてみたいと思っている

ある個人的な事情により、5月31日の14時9分に京都駅を出て松本に向かい、6月1日の0時18分に帰宅した
この数ヶ月学び続けている世界を実際に体験し、
人間の崇高さと歴史の凄さをあらためて実感した
学びは終わることが無いということをあらためて実感した

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